
高山右近|信仰のため領国を捨てたキリシタン大名
「領国も身分も捨て、信仰だけは手放さなかった、海を越えて福者となったキリシタン大名」
高山右近
高山右近は、大名としての領国も家臣も投げ打ちながら、信仰だけは生涯手放さず、死から四百年を経て福者にまで列せられた、戦国随一のキリシタン大名である。
天文の終わりごろ、摂津国高山に生まれた右近は、父・高山友照(洗礼名ダリオ)の影響で、少年期にジュストの霊名を受けて受洗した。元亀四年・天正元年(一五七三年)には高槻城主となり、城内に天主教会堂を擁して、高槻を近畿キリスト教布教の一大拠点に育て上げる。武勇と信仰を兼ね備えた若き城主の名は、畿内に広まった。
その信仰が最初に試されたのが、天正六年(一五七八年)の有岡城の乱だった。主筋の荒木村重が信長に背いたとき、右近は人質に取られた肉親と、教会の安全との板挟みになる。彼は髪を剃り、紙衣一枚で信長の前へ出頭したと伝えられ、結果として高槻領を安堵された。信仰を最優先するという生き方は、この時すでに鮮明だった。
本能寺の変の後は秀吉に仕え、山崎の戦いで先陣を務めたとされる。茶の湯では千利休に学んで後世の利休七哲に数えられ、天正十三年(一五八五年)には明石六万石を得て船上城を築いた。武勇・茶・築城を兼ねた文化人大名として、右近は頂にあった。
だが天正十五年(一五八七年)の伴天連追放令が、すべてを変える。右近は棄教を拒み、明石六万石も大名の身分も惜しげなく捨て、信仰だけを抱いて流浪の身となった。小西行長や前田利家に庇護され、加賀金沢で二十六年を客将として過ごす。
そして慶長十九年(一六一四年)、徳川幕府の禁教令により国外追放となり、マニラへ送られた右近は、翌慶長二十年正月六日(一六一五年二月三日)、異郷で熱病に客死する。高山右近は、領国も祖国も捨てて信仰を貫き、四百年後に福者となった、戦国きってのキリシタン大名である。 その劇的な生涯に重なる史実と伝承を、ここから読み解いていく。
摂津高山の少年 — 父ダリオと受けた洗礼

天文の終わりごろ、摂津国高山(現在の大阪府豊能町)に一人の男児が生まれた。幼名を彦五郎、のちの高山右近である。生年は天文二十一年(一五五二年)とも翌年ともいい、確かなところは分かっていない。
父は摂津の国人・高山友照。永禄六、七年(一五六三〜六四年)ごろ、友照は大和の沢城にイエズス会の宣教師を招き、その教えに深く打たれて一族そろって洗礼を受けた。父の洗礼名はダリオ、そして少年彦五郎にもジュスト(正義の人、の意)という霊名が授けられる。
まだ年端もいかぬうちに信仰を胸へ刻んだこの体験は、右近の生涯を貫く一本の芯となった。武士の子として刀を学ぶのと同じ熱量で、彼は祈りを身につけていく。
戦国の世にあって、神仏ではなく異国の神を信じる。それは決して当たり前の選択ではない。だが右近にとって信仰は、選び取ったものというより、少年のうちに暮らしへ深く根づいたものだった。のちに領国も命も懸けて守る信仰は、少年期の受洗とともに右近の人格へ深く根を下ろしていた。
武士であること。そしてキリシタンであること。高山右近の物語は、刀と十字架という二つの誇りを同時に背負った、摂津の少年の受洗から始まる。
大名の地位も領国も投げ捨て、棄教を拒んで流浪の身となった「天正十五年、伴天連追放令 — 明石六万石を捨て、右近は信仰を選ぶ」
荒木村重の与力 — 城下に十字架を掲げて

元亀四年・天正元年(一五七三年)、右近は和田惟長との激しい抗争を経て、摂津高槻城の主となった。二十歳そこそこの若さである。当時の摂津は織田信長から荒木村重が任され、右近はその村重の与力として高槻を預かる立場にあった。
城主となった右近は、領内にキリスト教を厚く保護した。天正二年(一五七四年)には、父・友照を中心とする高山父子の保護のもと、城内(現在の野見神社付近)に大きな天主教会堂が建てられ、宣教師の宿舎や、大十字架を据えた庭園まで設けられたと宣教師ルイス・フロイスは記している。
右近の熱意のもと、高槻は京都・堺と並ぶ近畿キリスト教布教の中心地となった。城下では家臣から領民まで多くが洗礼を受け、教会の鐘が町に響いたと伝わる。一国の領主が先頭に立って布教する例は、当時の日本でも際立っていた。
武勇に優れ、領民に慕われ、そして信仰に篤い。若き城主の評判は畿内に広まっていく。高槻城主・高山右近の名は、武辺の将としてよりも先に、領国ぐるみで信仰を奉じる稀有なキリシタン大名として知られていった。
だが、信仰と主従。この二つが正面からぶつかる試練は、すぐそこまで迫っていた。城下に十字架を掲げた高槻時代こそ、右近が「信仰の人」として頭角を現した日々だった。
国外追放の四十日後に客死。四百年後の2017年に福者へ列せられた「慶長二十年正月六日、マニラ — 海を越えた信仰、異郷に果てる」
信仰を選んだ選択 — 紙衣一枚で信長の前へ

天正六年(一五七八年)十月、主筋にあたる荒木村重が、突如として織田信長に反旗をひるがえした。有岡城の乱である。村重の与力だった右近は、たちまち窮地に立たされた。村重方には、誠意の証として差し出した妹と子が、人質として留め置かれていたのである。
村重に従えば信長に背くことになり、信長に従えば人質の肉親を見捨てることになる。進退きわまった右近に、信長は強烈な圧力をかけた。宣教師オルガンティノを使者に立て、降伏しなければ高槻城下で修道士を磔にし、教会を焼き払うというのだ。
信仰か、肉親か、武士の意地か。三つに引き裂かれた末、右近が選んだのは信仰だった。彼は髪を剃り、紙衣一枚の無防備な姿で、単身、信長のもとへ赴いたと伝えられる。城も兵も差し出し、ただ教会と信徒を守ろうとしたのである。
この捨て身の出頭に信長は感じ入り、右近はかえって高槻領を安堵された。のちに高槻四万石を治めることになる。一方、人質となった肉親は村重方に残されたが、村重は彼らを手にかけなかった。右近は領地も肉親も天秤にかけながら、最後に信仰を守る道を選び、その決断がかえって彼を救った。
なお、城に残った父ダリオは村重方にとどまり、乱の後は柴田勝家に預けられる身となる。一族を二分してでも信徒を守った息子の選択は、戦国の主従の常識からは大きく外れていた。有岡城の乱で見せた「信仰を最優先する」姿勢こそ、のちの右近の生き方を予告する原点だった。
天王山の先陣 — 秀吉のもとで戦う日々

天正十年(一五八二年)六月、本能寺の変で信長が斃れる。中国大返しで取って返した羽柴秀吉と明智光秀が、山城・山崎で激突した。このとき右近は、地の利を知る摂津衆として秀吉方の先陣を務めたとされる。天王山の麓で光秀勢と斬り結んだと伝わる。
山崎の勝利ののち、右近は秀吉に臣従する。信長という後ろ盾を失っても、彼はすぐに新たな天下人のもとで戦力として重んじられた。武辺の将としての確かな実力が、そこにはあった。
翌天正十一年(一五八三年)の賤ヶ岳の戦いでは、右近は岩崎山に布陣した。だが、近くの大岩山砦が佐久間盛政の急襲を受け、盟友・中川清秀が討死する。右近も支えきれずに退却を余儀なくされた。華々しい武功ばかりではなく、苦い敗走も味わっている。
それでも秀吉の信頼は揺るがなかった。右近は天下統一へ進む豊臣軍団の中で、着実に地歩を固めていく。信長から秀吉へと主を替えながらも、右近は一貫して前線で戦う将として遇され、その武勇は天下人に認められ続けた。
戦場での働きと、城下での信仰。二足の草鞋を履く右近に、やがて大きな加増の沙汰が下る。山崎の先陣から賤ヶ岳の苦杯まで、秀吉麾下の右近は武将として確かな評価を積み重ねていた。
利休七哲の南坊 — 明石六万石の名手

右近は、ただの猛将ではなかった。茶の湯の世界では千利休に学び、後世に利休七哲の一人として数えられる高弟となる。茶号は南坊。蒲生氏郷や細川忠興、古田織部らと並び、戦国武将のなかでも指折りの数寄者だった。
静謐を尊ぶ茶の心と、祈りに生きるキリシタンの精神。一見遠いこの二つは、右近のなかでは無理なく溶け合っていたらしい。簡素な茶室に身を置く時間は、彼にとって信仰の祈りとよく似た、静かな充足だったのだろう。
天正十三年(一五八五年)、右近は高槻から播磨明石へ移り、六万石を領した。明石川の河口に船上城を築き、城の西に城下町を、南には海へ通じる港を整えた。城づくりと町割りに長けたその手腕は、のちのちまで「築城の名手」として語り継がれていく。
武勇、茶、そして築城。右近は戦国武将に求められる教養と技術を、高い水準で兼ね備えていた。右近は槍働きだけの武辺者ではなく、茶の湯と築城に通じた、当代屈指の文化人大名でもあった。
順風満帆に見えた右近の人生は、しかし、ここで最大の岐路を迎える。信仰そのものが、天下人によって禁じられようとしていた。利休七哲の茶人にして築城の名手——明石六万石の右近は、武勇と文化を兼ね備えた大名の頂にあった。
すべてを捨てた信仰 — 加賀前田家への流浪

天正十五年(一五八七年)、九州を平定した豊臣秀吉は、突如として伴天連追放令を発した。キリシタン大名たちには、信仰を捨てるか、大名の地位を捨てるかの二者択一が迫られる。多くの者が表立った信仰を控えるなか、右近の答えは違った。
右近は、信仰を捨てなかった。明石六万石も、大名としての身分も、あっさりと投げ捨てたのである。一国一城の主が、神への忠誠のために、世俗のすべてを手放した。戦国の常識からすれば、正気とは思えない選択だった。
領地を失った右近を、まずキリシタン大名の小西行長が小豆島にかくまった。やがて天正十六年(一五八八年)、右近は小西とともに南肥後へ移り、その後、秀吉の命によって前田利家に預けられる。こうして加賀金沢へ移った右近は、客将として遇された。
前田家での右近は、ただの食客ではなかった。築城の知識を買われ、金沢城の修築や高岡城の縄張りに関わったと伝わる。関ヶ原の年には前田利長に従い、大聖寺城の攻略にも加わった。武将としての腕も、なお健在だったのである。右近は大名の地位を失ってなお、築城家として、また一軍の将として、前田家に重んじられ続けた。
しかし、彼を支えた前田家の庇護にも、やがて限界が訪れる。天下の主が徳川へ移り、信仰への風当たりは、いっそう強まっていった。領国も身分も捨てて信仰を貫いた右近を、加賀前田家は二十六年にわたって客将として支え続けた。
海を越えた信仰 — 四百年後の福者

慶長十八年末に発せられた禁教令を受け、慶長十九年(一六一四年)、ついに右近にも国外追放の沙汰が下る。正月、彼は二十六年を過ごした金沢を去り、長崎へ向かった。そして同年の暮れ、信徒たちとともに船でマニラへと送り出される。
当時スペイン領だったマニラは、海を越えてきた高名なキリシタン武将を、熱烈に歓迎した。総督みずから出迎え、右近は異国で英雄として遇されたという。国を追われた老将にとって、それはせめてもの慰めだったかもしれない。
だが、長い船旅と慣れない異郷の暮らしは、すでに六十を超えた身体を蝕んでいた。マニラ到着からわずか四十日ほど後の慶長二十年正月六日(西暦一六一五年二月三日)、右近は熱病のうちに息を引き取る。信仰を貫き、海を越えた果ての客死だった。
物語は、ここで終わらない。死から四百年を経た二〇一六年、ローマ教皇フランシスコは右近を殉教者として列福することを認めた。翌二〇一七年二月七日、大阪城ホールで盛大な列福式が執り行われる。領国を捨て、国を追われ、異国で没した敗者は、四百年の時を超えて「福者ユスト高山右近」として教会の祭壇に迎えられた。
血を流して斃れたのではなく、信仰ゆえに追われ、異郷で力尽きた死。それを教会は殉教と認めた。すべてを捨てて信仰を守り抜いた右近の生涯は、四百年後に福者という大きな名誉となって結実した。
史料の読み解き
高山右近を読むとき難しいのは、その評価が「信仰の聖人」という像に強く引っ張られることである。たしかに彼は信仰のために領国を捨てた。だが、その選択の動機や、武将・文化人としての実像、そして「福者」という到達点の意味を、骨格と後世の彩りを分けて読み直すと、より立体的な右近が見えてくる。
なぜ右近は領地も身分も捨てて信仰を選んだのか
右近の生涯で最大の謎は、なぜ明石六万石という大名の地位を、信仰のためにあっさり捨てられたのかという一点に尽きる。戦国武将にとって領国とは、一族と家臣の命がかかった存立基盤である。それを手放すのは、現代でいえば一切の財産と地位を投げ捨てるに等しい。
鍵は、少年期からの受洗にある。右近にとって信仰は、大人になって出会って選び取った思想ではなく、少年期の早くから、暮らしと分かちがたく身についたものだった。父ダリオから受け継いだ信仰は、彼の人格そのものと分かちがたく結びついていた。だからこそ、棄教は自分を裏切ることに等しかったのだろう。
有岡城の乱で肉親の人質よりも信仰を選んだ前例も、この一貫性を裏づける。右近の選択は、突発的な狂信ではなく、生涯を貫く筋の通った行動だった。右近が領国を捨てられたのは、信仰が彼にとって人格の核そのものであり、捨てれば自分でなくなるものだったからである。右近の棄教拒否は、損得勘定では説明できない、人格と一体化した信仰の必然だった。
「棄教拒否」は純粋な信仰か、武士の意地か
とはいえ、右近の決断を「純粋な信仰心」だけで説明するのは、やや単純に過ぎる。当時の武将の行動には、信仰だけでなく、武士としての名誉や面目、主君との距離の取り方といった要素が、複雑に絡み合っていたからである。
一度「信仰を守る」と公言した以上、それを翻すことは、武士としての一貫性と名誉を失う行為でもあった。有岡城以来、右近は「信仰の人」として畿内に知られていた。秀吉の前で棄教して見せることは、これまで築いてきた自己そのものの否定を意味する。信仰と武士の意地は、ここで分かちがたく重なっていた。
つまり右近の棄教拒否は、信仰を中心軸としながらも、武士としての名誉や、一貫した生き方への矜持が支えていたと読むべきだろう。右近の決断は純粋な信仰を芯としつつ、武士の名誉や首尾一貫した生き方への誇りが、それを後押ししていた。棄教拒否を「信仰一色」で塗りつぶさず、武士の矜持との重なりまで見ると、右近の人間像はより深くなる。
茶人・築城家としての右近をどう評価するか
右近を「キリシタン」という一語だけで語ると、その豊かな実像を取り逃がす。彼は千利休門下で後世に利休七哲の一人に数えられる茶人であり、城づくりと町割りに長けた築城家でもあった。武・信・美を一身に兼ねた、稀有な文化人大名だったのである。
ただし、その築城の事績には確度の差がある。明石の船上城は、右近自身が築いた居城として確かである。一方、加賀客将時代の金沢城修築や高岡城の縄張りについては、「右近が手がけた」という通説が広く流布するものの、同時代の直接史料は乏しい。とくに高岡城は、その特徴的な「重ね馬出」が右近の築城思想にそぐわないとして、前田利長の独自設計とみる異説も研究者から提示されている。
茶人としての評価は揺るがないが、築城家としての事績は、確実な部分と伝承の部分を分けて受け止めたい。右近は確かな茶人・築城家だったが、金沢城や高岡城への関与は通説であって、史料的には未確定の部分が残る。「築城の名手」という評価は、個別の城ごとに確度を見極めてこそ正確に受け継げる。
「敗者」が四百年後に「福者」となった意味
世俗の尺度で見れば、右近の生涯は転落の連続である。六万石の大名から無禄の流浪人となり、最後は国を追われて異郷に客死した。戦国の勝敗で測れば、まぎれもない敗者だった。だが、その敗者が四百年を経て「福者」という大きな名誉に到達したところに、右近という人物の独自性がある。
注意したいのは、列福の正確な位置づけである。右近は二〇一六年に教皇フランシスコによって殉教者として列福が認められ、二〇一七年に大阪城ホールで列福式が行われた。ただし彼は「福者」であって、その上位にあたる「聖人」への列聖は、現時点ではなされていない。また、右近の死は刀や火による直接の殉教ではなく、信仰ゆえの国外追放の果ての病死だった。それを教会が「殉教」と認めた点に、この列福の特質がある。
血を流さずとも、信仰を守り抜いて異郷に没した生き方が、殉教と認められた。世俗の敗者であった右近は、信仰を捨てなかった一事によって、四百年後に福者という霊的な勝者へと評価を逆転させた。右近の列福は、戦国の勝敗とはまったく別の物差しで、彼の生涯が後世に評価され直した出来事である。
高山右近像を確度で整理する
高山右近を読むとき危ういのは、信仰の聖人という後世の像に引きずられて、史実の骨格と伝承・後世評価を混ぜてしまうことである。どこまでが動かしにくい骨格で、どこからが宣教師史料や通説の彩りなのかを表に分けると、人物像はかなり落ち着く。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 生年(天文21年・1552年ごろ) | 通説は1552年。日本側一次史料に所見がなく推定値 | 諸説 |
| 1553年生説 | カトリック中央協議会の列福資料などは1553年を採る | 諸説 |
| 諱(重友・長房・友祥) | いずれも確証を欠き、確実な諱は不明とする研究もある | 諸説 |
| 洗礼名ジュスト・茶号南坊 | 洗礼名Justo、茶号南坊は史料・教会記録で確実 | 高 |
| 高槻城主・キリスト教保護 | 1573年に城主、城下に天主教会堂を建て布教の中心とした | 高 |
| 高槻4万石 | 高槻時代は4万石とされ、有岡城の乱後に安堵された | 高 |
| 有岡城の乱で信長方へ投降 | 村重離反時に信仰を選び信長へ帰順、高槻領を安堵された骨格 | 高 |
| 「紙衣一枚で出頭」の逸話 | 宣教師史料由来の美談で、編年史料の裏づけは弱い | 中 |
| 山崎の戦いで先陣 | 秀吉方の先鋒・先陣として戦ったとされる | 中〜高 |
| 賤ヶ岳で岩崎山に布陣・退却 | 中川清秀討死後に退却。詳細は合戦解説に依拠 | 中 |
| 利休七哲の茶人 | 後世の茶書による分類。茶号南坊で利休門下は確実 | 高 |
| 明石6万石・船上城 | 1585年に明石6万石、船上城を築城(異説に7万・12万石) | 高 |
| 伴天連追放令で棄教拒否・改易 | 1587年に信仰を守り領国・身分を放棄した骨格 | 高 |
| 小豆島→南肥後→前田家預けの順序 | 小西行長の庇護を経て、秀吉命で前田利家に預けられた | 中〜高 |
| 加賀客将の石高 | 3万石・1.5万石・2万石と諸説あり、確定しない | 諸説 |
| 金沢城修築・高岡城縄張り | 通説だが同時代の直接史料はなく、利長独自設計の異説もある | 中〜低 |
| 関ヶ原期の大聖寺城攻略 | 前田利長に従い軍事に関わったとされる | 中 |
| マニラ追放と客死 | 1614年追放、1615年正月6日(2/3)マニラで熱病に客死 | 高 |
| 没日の異説 | 旧暦表記や没日には2月5日・正月8日系の異説も流通する | 一部揺れ |
| 列福(殉教者・2017年) | 2016年承認・2017年2月7日大阪で列福式、記念日2月3日 | 高 |
| 福者であり聖人ではない | 福者ユスト高山右近殉教者。列聖(聖人化)は未了 | 高 |
結論を短く言えば、右近は信仰のために本当にすべてを捨てた。そこは薄めない。だが、その決断を「純粋な信仰心」だけで単純化せず、武士の名誉や一貫した生き方への矜持との重なりまで見ると、人物像はより深くなる。築城などの事績にも確実な部分と伝承が混ざっており、丁寧に腑分けする必要がある。
右近の実像へ近づくには、少年期の受洗、高槻での布教、有岡城での決断、棄教拒否による流浪、そしてマニラでの客死と四百年後の列福を、信仰という一本の芯で貫いて見る必要がある。要するに、高山右近は、領国も祖国も捨てて信仰を守り抜いた一貫性において戦国屈指でありながら、武将・茶人・築城家としての多面性をも備えた、稀有なキリシタン大名として立っている。
参戦合戦
高山右近|信仰のため領国を捨てたキリシタン大名の逸話
- 01
紙衣一枚の出頭 — 武士の体面より信仰を

高山右近を語るとき、最も鮮烈に伝えられるのが、有岡城の乱における信長への出頭の場面である。主筋・荒木村重に人質を取られながら、右近は髪を剃り、紙衣一枚の丸腰の姿で単身、信長の陣へ赴いたという。城も兵も差し出し、ただ教会と信徒の安全だけを願った、捨て身の振る舞いだった。
ただし、この劇的な逸話は慎重に読みたい。「紙衣一枚で出頭した」という描写は、おもにルイス・フロイス『日本史』など宣教師側の記録に由来する。信長の事績を伝える編年史料による裏づけは弱く、信仰者の美談として語り継がれてきた側面がある。フロイスの原典そのものにも史料学的な検討が必要だ、という指摘もある。
とはいえ、人質を捨ててでも信仰を守る道を選んだという大枠は、複数の記録が一致して伝える。演出の細部は割り引くとしても、信仰のために世俗の体面を投げ打った右近の姿勢そのものは、揺らがない。紙衣一枚の出頭は宣教師史料が彩った美談の面を持つが、信仰を最優先した決断の骨格は確かである。この逸話は、右近という人物の本質——信仰のためなら武士の面目すら惜しまない——を、何より雄弁に物語っている。
- 02
茶室の十字架 — 利休七哲「南坊」の静けさ

右近は、千利休門下で利休七哲の一人に数えられる茶人だった。茶号を南坊といい、戦国武将のなかでも屈指の数寄者として知られる。津田宗及の茶会記にもその名が見え、利休や堺の茶人たちとの深い交わりがうかがえる。
興味深いのは、彼のなかで茶の湯と信仰がまるで矛盾しなかったことである。一切の無駄をそぎ落とした簡素な茶室は、祈りの場とよく似ている。静寂のなかで一碗の茶に向き合う時間は、神と向き合う祈りの時間と、どこか通じ合っていたのだろう。
武辺一辺倒ではない、深い精神性。それが右近を、ただのキリシタン大名以上の存在にしている。茶を通じて結ばれた蒲生氏郷や細川忠興らとの交わりは、彼の人脈をも広げた。右近にとって茶の湯は、武将の教養であると同時に、信仰の祈りに通じる静謐な精神の営みだった。「南坊」と号した茶人・右近の姿は、武と信と美を一身に兼ねた、戦国きっての文化人の横顔である。
- 03
マニラの四十日 — 異国に迎えられた老将

慶長十九年(一六一四年)の暮れ、国を追われた右近は、信徒たちとともにマニラの地を踏んだ。当時スペイン領だったこの町は、はるばる海を越えてきた高名なキリシタン武将を、驚くほど手厚く迎えたと伝わる。総督みずからが出迎え、右近は異国で英雄として遇された。
しかし、その栄誉のなかで過ごせた時間は、あまりに短かった。長い船旅の疲労と慣れない気候は、すでに六十を超えた身体を容赦なく蝕む。到着からわずか四十日ほど後、右近は熱病に倒れ、慶長二十年正月六日(一六一五年二月三日)、異郷の地で静かに息を引き取った。
故郷の領国を捨て、国まで追われ、最後は海の彼方で世を去る。世俗の尺度で見れば、これ以上ない転落の生涯である。だが右近は、信仰だけは最後まで手放さなかった。領国も祖国も失った右近が、唯一最後まで抱き続けたものは、少年期に受けたあの信仰だった。マニラでの四十日は、すべてを失った老将が、それでも信仰のうちに安らかな最期を迎えた、生涯の結びだった。
関連人物
所縁の地
- 高槻城跡公園大阪府高槻市城内町
高山右近が約12年にわたり城主を務めた高槻城の跡。右近は城内に天主教会堂を擁し、高槻を京都・堺と並ぶ近畿キリスト教布教の中心地とした。現在は公園として整備され、甲冑姿の高山右近像が建てられ、キリシタン大名ゆかりの地として親しまれている。
- 船上城跡兵庫県明石市新明町
天正13年(1585年)に明石6万石を得た右近が、明石川河口の西岸に築いた平城(水城)の跡。城の西に城下町、南に海へ通じる港を整えた右近の町割りの手腕を伝える。船上城から移築されたと伝わる織田家長屋門が市指定文化財として現存している。
- 高岡城跡富山県高岡市古城
加賀前田家の客将時代、右近が縄張りを行ったと伝わる前田利長の隠居城跡。中央に巨大な本丸を置き三方に馬出を配する縄張りで、国の史跡に指定されている。ただし右近の関与には同時代の直接史料がなく、利長独自の設計とする異説も提示されている。
- カトリック高槻教会大阪府高槻市野見町
右近が城主時代に天主教会堂を建てた地に近く、境内に高山右近の記念聖堂と像を備えるカトリック教会。2017年に右近が福者に列せられた後、ゆかりの巡礼地として知られる。右近の信仰の足跡を今に伝える、高槻のキリシタン史の象徴的な場所である。






