
竹中半兵衛とは?秀吉を支えた軍師
「過分の良馬を買うべからず。」
- 01大御堂に生まれた名家の嫡男
- 02永禄7年の諫言劇——少人数で城を奪い、やがて返す
- 03織田家中から羽柴与力へ——前線で働く知将
- 04黒田官兵衛と並ぶ知略——中国攻めを支えた二本柱
- 05病をおして陣へ——天正7年、平井山で迎えた最期
- 06天才軍師像の成立——史実の半兵衛は国衆領主であり実務家
大御堂に生まれた名家の嫡男

過分の良馬を買うべからず。
永禄7年の諫言劇——少人数で城を奪い、やがて返す

竹中半兵衛と黒田官兵衛を並び称した後世の呼称羽柴の二兵衛
織田家中から羽柴与力へ——前線で働く知将

陣中で死にたかったまででござる。
黒田官兵衛と並ぶ知略——中国攻めを支えた二本柱

病をおして陣へ——天正7年、平井山で迎えた最期

天才軍師像の成立——史実の半兵衛は国衆領主であり実務家

参戦合戦
竹中半兵衛とは?秀吉を支えた軍師の逸話
- 01
稲葉山城を少人数で奪った諫言の挙

半兵衛最大の名声は永禄7年(1564年)の稲葉山城奪取にある。酒宴の日を選んで城内に入り、斎藤龍興を追い落としたと伝わるが、これは美濃を奪うためではなく、主君を諫めるための行動と理解される。後世の講談では「十六人取り」として英雄化されたが、地域年表では18名伝承も残る。
- 02
官兵衛の子・松寿丸を匿った友情

荒木村重の離反後、黒田官兵衛まで疑われた際、信長はその嫡子松寿丸の殺害を命じた。半兵衛はこれに従わず、松寿丸を自領岩手に匿ったと伝わる。のちの黒田長政を救ったこの行動は、「両兵衛」が単なる並称ではなく、相互の信頼を伴う関係だったことを象徴する。
- 03
病身の帰陣——平井山での最期

三木合戦のさなか、半兵衛は胸の病を抱えて京都で療養していたが、戦況を憂えて播磨へ戻った。三木市には、秀吉に「なぜ帰ってきたのだ」と問われ、「陣中で死にたかったまででござる」と答えた逸話が残る。伝承を含む話ではあるが、平井山の陣中で病没した事実とあわせ、半兵衛像を強く印象づけている。
家系図
関連人物
所縁の地
- 大御堂城跡(竹中半兵衛生誕の地)岐阜県揖斐郡大野町公郷
大野町公式が半兵衛の出生地とする史跡。古文書「過現二世牒」に、天文13年に大御堂で生まれたことが記される。
- 菩提山城跡岐阜県不破郡垂井町岩手
竹中半兵衛の居城として知られる山城。所在地は岐阜県不破郡垂井町岩手で、標高402メートルの菩提山に築かれた。
- 竹中半兵衛の墓兵庫県三木市平井
三木城攻防戦の最中、平井山の陣中で病死した半兵衛を弔う墓所。秀吉本陣跡に近い。
- 竹中氏陣屋跡岐阜県不破郡垂井町岩手
半兵衛没後、嫡子重門が慶長13年(1608年)に菩提山城を廃して構えた陣屋跡。竹中家の後継拠点として重要である。



