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安土桃山時代竹中氏15441579
竹中半兵衛|秀吉を支えた軍師の肖像
軍師稲葉山城菩提山城
たけなか・はんべえ

竹中半兵衛|秀吉を支えた軍師

TAKENAKA HANBEI · 1544 — 1579 · 享年 36

過分の良馬を買うべからず。

豊臣
生年
天文13年
1544
没年
天正7年
1579
出身
美濃大御堂
岐阜県大野町
居城
菩提山城
岐阜県垂井町
家紋
九枚笹
KUMAI-ZASA
CONTENTS · 七章
  1. 01大御堂に生まれた名家の嫡男
  2. 02永禄7年の諫言劇——少人数で城を奪い、やがて返す
  3. 03織田家中から羽柴与力へ——前線で働く知将
  4. 04黒田官兵衛と並ぶ知略——中国攻めを支えた二本柱
  5. 05病をおして陣へ——天正7年、平井山で迎えた最期
  6. 06天才軍師像の成立——史実の半兵衛は国衆領主であり実務家
01
美濃の俊才
RISING IN MINO

大御堂に生まれた名家の嫡男

大御堂と若き竹中半兵衛
大御堂と若き竹中半兵衛
天文13年(1544年)、竹中重治は美濃国大野郡大御堂に竹中重元の長子として生まれた。父は西美濃で勢力を持つ武将で、のちに不破郡岩手を制して菩提山城を再構築する。重治は若くして家督を継ぎ、19歳前後で菩提山城主として立った。後世に「軍師」として語られるが、その出発点は西美濃の国衆領主であった。

過分の良馬を買うべからず。

—— 講談社デジタル版 日本人名大辞典+Plusに見える半兵衛の語録
02
稲葉山城奪取
INABAYAMA RAID

永禄7年の諫言劇——少人数で城を奪い、やがて返す

稲葉山城奪取のイメージ
稲葉山城奪取のイメージ
永禄7年(1564年)2月8日、半兵衛は義父・安藤守就と謀り、弟久作ら少人数で稲葉山城を急襲した。後世には「十六人での城取り」として広く知られるが、垂井町年表では主従18名とも伝わる。目的は酒色に溺れた斎藤龍興への諫言とされ、下剋上のために長く占拠したのではなく、同年8月には城を返して斎藤家を去った。
竹中半兵衛と黒田官兵衛を並び称した後世の呼称

羽柴の二兵衛

03
秀吉の参謀
WITH HIDEYOSHI

織田家中から羽柴与力へ——前線で働く知将

羽柴秀吉を支える竹中半兵衛
羽柴秀吉を支える竹中半兵衛
永禄10年(1567年)の信長による美濃平定後、半兵衛は織田方に属し、やがて羽柴秀吉の与力となった。元亀元年(1570年)には金ヶ崎退き口や姉川合戦の時期に秀吉を補佐し、横山城守備や調略でも働く。半兵衛は机上の策士ではなく、前線で築城・守備・交渉を担う実務型の参謀だった。

陣中で死にたかったまででござる。

—— 三木市に伝わる最期の逸話
04
両兵衛
THE TWO BEI

黒田官兵衛と並ぶ知略——中国攻めを支えた二本柱

黒田官兵衛と並ぶ半兵衛
黒田官兵衛と並ぶ半兵衛
天正5年(1577年)以後、半兵衛は秀吉の中国攻めに従い、黒田官兵衛と並んで作戦面を支えた。後世、この二人は「両兵衛」「羽柴の二兵衛」と称される。半兵衛は上月城・福原城攻めなどで官兵衛と連携し、翌天正6年(1578年)には信長が官兵衛離反を疑って松寿丸の殺害を命じた際、その子を自領岩手に匿ったと伝わる。
05
三木の陣
MARCH TO MIKI

病をおして陣へ——天正7年、平井山で迎えた最期

平井山本陣と三木合戦
平井山本陣と三木合戦
天正6年(1578年)から半兵衛は三木城包囲戦で秀吉を補佐したが、この頃には病が重く、京都で療養していた。だが戦況を案じて戦場へ戻り、天正7年(1579年)3月には播磨平井山の包囲陣に復帰する。そして同年6月13日、三木城包囲の陣中で病死した。死因は戦傷ではなく、病を悪化させた末の陣中病没である。
06
実像と後世
LEGACY AND MYTH

天才軍師像の成立——史実の半兵衛は国衆領主であり実務家

菩提山城に残る半兵衛の遺産
菩提山城に残る半兵衛の遺産
半兵衛は36年の短い生涯のため、一次史料の記述は決して多くない。それでも稲葉山城奪取、秀吉与力としての調略・守備、官兵衛との連携、三木の陣での病死といった核となる史実は確認できる。講談や軍記は彼を「今孔明」と理想化したが、その本質は西美濃の国衆として現場で働き、秀吉の台頭を下支えした精密な実務家にあった。