前田利常は、父・前田利家と兄・前田利長が築いた大領を受け継ぎ、加賀藩の政治を整えた大名である。大坂の陣では徳川方として戦い、晩年は孫の綱紀を後見して、農村と年貢徴収の仕組みを変える改作法を進めた。「鼻毛を伸ばした殿様」という逸話は有名だが、その生涯の中心には、家を次代へ渡すための長い仕事があった。
妻は徳川秀忠の娘・珠姫、母は利家の側室・寿福院。兄の利長は養父でもある。この家族関係を押さえると、徳川家との距離を慎重に保ちながら、百万石の家を守った利常の立場が見えてくる。生涯の七章では歩みをたどり、読み解きでは家系図、側室、死因、逸話の根拠を確かめていく。
守山で育った少年が、小松城の人質になる

前田利常の生涯は、当主の跡取りとしてではなく、利家の四男として始まった。生まれたのは文禄2年、幼名は猿千代。母は利家の側室・千世で、のちに寿福院と呼ばれる女性である。父にはすでに成人した長男の前田利長がおり、猿千代と家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。の間には大きな隔たりがあった。
幼い猿千代は、越中の守山で育つ。養育にあたったのは、姉の幸と、その夫である前田長種の夫妻だった。金沢の前田家に生まれながら、幼少期を過ごした場所は現在の富山県高岡市にあたる。のちに加賀・能登・越中を治める人物にとって、越中は幼いころから縁のある土地だった。
慶長4年(1599)、父利家が死去する。前田家を率いる利長は、徳川家康との緊張に向き合うことになった。翌年には利長の母・まつが人質として江戸へ下る。芳春院と号したまつは利家の正室であり、猿千代の生母とは別の女性である。
慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いに連なる争いが北陸にも広がった。利長は東軍につき、小松城の丹羽長重らと対峙する。その和議の際、幼い猿千代が小松へ人質に出された。ここで彼が担ったのは、軍を率いる役ではなく、約束を保証する前田家の子としての役割だった。
関ヶ原後、利長の領地は大きく広がる。前田家は大領を手にした一方、その家を誰に渡すのかという問題を抱えていた。子供だった猿千代の立場は、ここから変わっていく。守山で育ち、人質として小松へ入った少年が、兄の家を継ぐ候補となったのである。
異母兄・利長の養子となり、十三歳で家督を継ぐ

慶長6年(1601)、猿千代は利長の後継者となり、徳川家との婚姻も決まった。相手は徳川秀忠の娘・珠姫である。前田家の家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。と徳川家の娘婿という二つの立場が、幼い少年のもとに集まった。
慶長10年(1605)、利長が隠居すると、利常は数え十三歳で家督を継いだ。当時の名は利光。その名を利常に改めるのは、寛永6年(1629)のことである。史料で「利光」と出てくる人物も、別人ではなく若いころの利常を指す。
この継承は、兄から弟へ家を渡すと同時に、養父から養子へ渡す手続きでもあった。利長と利常は父を同じくし、母が異なる兄弟である。家系図で利長の下に利常が描かれるのは、実の父子だったからではない。幼い当主を立てても、前田家の政治をすぐに全て任せられるわけではなかった。
隠居した利長は、引き続き大きな役割を担った。利常は家臣たちの助けを受け、兄と連絡を取りながら当主としての仕事を重ねていく。家督を譲った年と、実際の政治の主導権が移る時期は、必ずしも一致しない。利常の初期の治世には、先代が支える期間があった。
慶長19年(1614)、利長が高岡で没する。父利家、兄利長という二人の先代を失い、利常は前田家の中心に立った。その年、長く江戸にいた芳春院が帰国し、今度は利常の生母・寿福院が江戸へ向かう。当主の交代は、国元の城だけでなく、江戸で暮らす母たちの役割も変えた。
そして同じ年の冬、大坂で戦争が始まる。利常には、受け継いだ大軍を自分の代で動かす時が来ていた。
将軍家の娘を妻に迎え、三男五女の父となる

珠姫は、徳川秀忠と江の間に生まれた娘だった。徳川家康の孫でもあり、利常との婚姻は、前田家と徳川家を結ぶ大切な縁となった。ただし、金沢へ迎えられた慶長6年(1601)、珠姫はまだ数え三歳である。幼いころの輿入れと、成長して夫婦として暮らす時期には隔たりがあった。
天徳院の由緒は、珠姫が十四歳のときに結婚したと伝える。同じ由緒によれば、二人の間には三男五女が生まれた。そのうち男子は光高、利次、利治である。後年、この三人が加賀本藩、富山藩、大聖寺藩をそれぞれ継ぎ、前田家の分かれた家を支えることになる。
徳川家との関係は、婚礼で完結したものではなかった。珠姫の父秀忠は二代将軍となり、弟の家光も将軍職を継ぐ。利常の子供たちは、母を通じて徳川将軍家につながっていた。大領を持つ外様大名の家が、将軍家の親族でもある。利常の政治を考えるうえで、この二つの立場は切り離せない。
しかし、珠姫との生活は長くは続かなかった。元和8年(1622)、珠姫は夏姫を出産したあとに体調を崩し、旧暦七月三日に亡くなる。数え二十四歳という若さだった。利常と子供たちには、妻と母を失ったあとの日々が残された。
翌元和9年(1623)、利常は珠姫の菩提を弔うため、金沢の小立野に天徳院を建てた。寺の名は、珠姫の院号に由来する。この寺は、夫婦の話を美しく語るためだけの場所ではない。亡くなった正室の供養を、前田家が長く続けていく拠点でもあった。珠姫を失ったあとも、彼女を通じて結ばれた家族と将軍家との関係は続いていく。
冬は真田丸に苦戦し、夏は岡山口で戦う

慶長19年(1614)、利常は徳川方として大坂冬の陣に出陣した。大坂城には豊臣秀頼がいる。父利家が支えた豊臣家と、妻の実家である徳川家が、ここでは敵味方に分かれていた。利常が率いた前田勢は、大坂城を囲む徳川方の大軍の一翼を担った。
前田勢が苦戦した場所が、城の南に築かれた真田丸である。守るのは、後世に幸村の名で知られる真田信繁だった。城外に張り出した防御拠点を攻めた前田勢は、守備側の反撃を受けて損害を出した。大領を持つ大名であっても、兵の数だけで敵の備えを崩せるわけではなかった。
冬の戦いはいったん和議となったが、翌慶長20年(1615)に再び戦闘が始まる。大坂夏の陣では、利常は岡山口方面で豊臣方の大野治房勢と戦った。真田丸の攻防と岡山口の戦いは、時期も場所も相手も異なる。大野治房は大野治長の弟であり、兄弟の名前も区別する必要がある。
最後に大坂城は落ち、秀頼と淀殿が亡くなる。豊臣家を中心とする大名の連合が、徳川家と並び立つ可能性は失われた。利常にとっても、前田家の将来を徳川の政権の中で築いていく時代が、いっそう明確になった。
利常は、関ヶ原と大坂の陣の両方に名前が出る人物である。だが、前者では幼い人質、後者では軍を率いる当主だった。二つの戦争を同じ「参戦歴」に並べると、この成長と立場の変化が消えてしまう。戦後の利常には、出陣で果たした奉公に加え、領国を治め、幕府の普請を支える仕事が待っていた。
城のなくなった高岡を支え、農村の仕組みを整える

大坂の陣が終わっても、大名の仕事は減らなかった。利常は幕府の城普請などを負担しながら、加賀・能登・越中の広い領内を治めた。兵を動かす力を保つには、城下町や農村が立ちゆく必要がある。戦の終わりは、年貢、商業、家臣の暮らしを長く維持する政治の始まりでもあった。
兄利長が開いた高岡は、その課題がよく見える町である。一国一城令のもとで高岡城は廃され、城下町は存続の道を探すことになった。利常は高岡を商工業の町として支える政策を進めた。城を失ったあとも、人と商いが集まる場所として残していこうとしたのである。
高岡市立博物館には、利常が町奉行の伊藤内膳・長屋七郎右衛門に宛てた書状がある。町の人々から届いた祝儀に対し、その心がけを伝えるよう求めたものだ。年代は両奉行の在任期間から、十七世紀半ばごろと考えられている。大名と町の関係は、城の建立や大きな命令だけで成り立っていたわけではない。町奉行を介した贈答と応答も、その一部だった。
農村では、土地や年貢の把握、役人の配置、米や銀の貸し付けなどが課題となった。藩は年貢を必要とし、家臣もその収入によって暮らしている。一方、耕作する百姓が困窮すれば、取り立てるだけでは収入は続かない。この問題は利常の後半生まで持ち越され、のちの改作法へとつながっていく。
寛永6年(1629)、利光は利常と名を改めた。少年期に家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継いだ当主は、すでに大坂での戦争を経験し、妻を失い、成長する子供たちを持つ立場になっていた。前田家の政治も、一代の戦功だけでなく、次の代へ何を渡すかを考える段階へ進んでいた。
三つの家に領地を分け、隠居先で文化を育てる

寛永16年(1639)、利常は長男の光高へ家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を譲った。同時に、次男利次には富山十万石、三男利治には大聖寺七万石が分けられる。加賀の本藩を中心に、富山と大聖寺の前田家が成立した。珠姫との間に生まれた三人の男子が、それぞれの領主となったのである。
利常自身も隠居領を持ち、小松を拠点とした。幼いころ、人質として入った土地に、今度は隠居した大名として住むことになる。ただし、隠居は政治との完全な別れを意味しなかった。利常には領地と家臣があり、前田一族の年長者としての役割が残っていた。
小松での利常は、茶の湯にも力を注いだ。利常は小堀遠州に茶を学び、金森宗和とも交流した。慶安2年(1649)には宗和を小松城へ招いている。さらに慶安4年(1651)、千仙叟を召し抱えた。仙叟は千利休の家につながる茶人で、利常の死後も前田家に仕え、加賀の茶の湯に関わり続ける。
能楽にも保護が及んだ。利常の時代に重んじられたのは金春流であり、今日知られる加賀宝生の展開とは時期が異なる。加賀の文化は、ひとりの藩主が一度に完成させたものではない。利常が招いた人、次代が受け継いだ技、その後の藩主が選んだ流派が重なって形づくられた。
寺社の造営も、この時代の利常を知る手がかりになる。珠姫のための天徳院に加え、妙立寺や那谷寺などに利常の名が残る。城だけでなく、供養、信仰、芸能を支える場所にも大名の力が使われた。小松で過ごした年月は、余生という言葉だけでは収まりきらない。家を分け、文化を支え、再び政治の中心へ戻るまでの時間でもあった。
幼い孫を支え、年貢と農村の改革を進める

正保2年(1645)、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を譲った光高が急死した。跡を継いだ孫は、のちの前田綱紀である。当時は数え三歳にすぎず、利常はその後見として再び藩政を担うことになった。若いころ兄に支えられた当主が、今度は幼い孫を支える側へ回った。
領内には、飢饉のあとも立ち直れない農村と、収入に困る家臣の問題があった。慶安4年(1651)から進められた改作法は、この双方に関わる改革だった。百姓の経営を支えるために米や銀を貸し、年貢を集める仕組みも組み替えていく。苦しい村に納付を迫るだけでは、翌年の耕作まで続かなくなるからである。
家臣が知行地の百姓から直接年貢を集める方式には、取り立ての違いが生じた。改作法は、十村などの役人や年貢米を扱う蔵宿を通じ、藩が徴収をまとめる方向へ進めた。村ごとに負担を示す村御印も、その仕組みを具体化する文書となった。これは、農民の救済と藩の財政の立て直しを同時に図る政策である。
利常の仕事は、小松の領内だけで終わらない。晩年には、明暦の大火後の江戸城天守台の再建にも関わった。将軍家への奉公を続けつつ、孫が継いだ家の基盤を固めていったのである。
万治元年(1658)、利常は小松で亡くなった。没日は旧暦十月十二日、数え六十六歳とされる。後世の記録には急に体調を崩した様子が残るが、具体的な死因の病名は定まらない。
利常は、利家が築き、利長が広げた家を受け継いだ。その後は自分の子へ、さらに孫へと家を渡すために働いた。大坂の戦場で終わらず、村の収入や城下の商いにまで及んだ治世。前田利常の長い生涯を支えているのは、この継承と統治の仕事である。
史料の読み解き
前田利常は何をした人か:継承・戦争・改作法
利常の仕事は、大きく三つに分けられる。第一に、利長から大領を受け継ぎ、徳川政権のもとで維持したこと。第二に、大坂の陣で前田勢を率いたこと。第三に、光高の死後、幼い孫を支えながら領国の仕組みを立て直したことだ。「百万石を築いた」とだけいうと、父や兄の仕事と混ざってしまう。利常の特徴は、受け継いだ規模の大きい家を、平時に運営する仕事にある。
- 文禄2年(1593年表記)
- 利家の四男として生まれる。母は千世、のちの寿福院
- 1600年
- 利長と丹羽長重の和議に伴い、小松へ人質に出る
- 1601年
- 利長の後継者となり、珠姫が金沢へ輿入れする
- 1605年
- 利長から家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐ。当時の名は利光
- 1622・1623年
- 珠姫が没し、翌年に天徳院を創建
- 1629年
- 利常と改名
- 1639年
- 光高へ家督を譲り、富山・大聖寺を分封
- 1645年
- 光高が死去。孫の綱紀を後見する
- 1651年以降
- 改作法を進める
- 1658年
- 小松で死去
| 年 | 利常と前田家の動き |
|---|---|
| 文禄2年(1593年表記) | 利家の四男として生まれる。母は千世、のちの寿福院 |
| 1600年 | 利長と丹羽長重の和議に伴い、小松へ人質に出る |
| 1601年 | 利長の後継者となり、珠姫が金沢へ輿入れする |
| 1605年 | 利長から家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐ。当時の名は利光 |
| 1614・1615年 | 大坂冬の陣・夏の陣に徳川方として出陣 |
| 1622・1623年 | 珠姫が没し、翌年に天徳院を創建 |
| 1629年 | 利常と改名 |
| 1639年 | 光高へ家督を譲り、富山・大聖寺を分封 |
| 1645年 | 光高が死去。孫の綱紀を後見する |
| 1651年以降 | 改作法を進める |
| 1658年 | 小松で死去 |
当主の代数にも注意したい。利家から数える加賀前田家では、利家、利長、利常と続く三代当主である。「加賀藩主」をいつから数えるかによって、資料に二代藩主という表記も見られる。この記事では、家の継承順序が明確になる「加賀前田家三代当主」を基本とした。
生年は文禄二年の西暦年に合わせ、一般的な一五九三年表記を採った。一方、旧暦十一月二十五日を西暦の日付に換算すると、一五九四年に入る。一五九三年と一五九四年の表記を見かけても、直ちに別の出生説があるとは限らない。没年の数え六十六歳も、現在の満年齢とは数え方が異なる。
家系図で見る父・母・兄・妻・子供
利常の家族で最も混同しやすいのは、生母と、父の正室である。利家の正室まつは、利長の母だった。利常を産んだのは側室の千世、のちの寿福院であり、同じ母から生まれた兄弟ではない。芳春院と寿福院は、ともに江戸で前田家を支えた女性だが、同一人物でもない。
| 人物 | 利常から見た関係 | 家系を読む際の注意 |
|---|---|---|
| 前田利家 | 実父 | 前田家の初代当主。利常は四男 |
| 千世・寿福院 | 生母 | 利家の側室。まつとは別人 |
| まつ・芳春院 | 父の正室 | 利長の生母で、利常の生母ではない |
| 前田利長 | 異母兄・養父 | 兄弟関係と養子縁組が重なっている |
| 珠姫・天徳院 | 正室 | 秀忠と江の娘、家康の孫 |
| 前田光高 | 珠姫との長男 | 加賀本藩を継ぐ。綱紀の父 |
| 前田利次 | 珠姫との次男 | 富山藩の初代藩主 |
| 前田利治 | 珠姫との三男 | 大聖寺藩の初代藩主 |
| 前田綱紀 | 孫 | 光高の子。幼少時は利常の後見を受ける |
家系図に挙げた三男と五女は、珠姫との間の子供を指す。これをそのまま利常の子供の総数とすることはできない。側室やその子に関する記述も残っているためだ。誰の子を数えているかを明示すれば、「珠姫との子供は何人か」と「利常の全ての子供は何人か」という別々の問いを混ぜずに済む。
側室はいたのか:珠姫への思いと家族の記録
利常には側室に関する記録がある。珠姫を大切にしたという人物像から、生涯にわたり珠姫以外の女性はいなかったと断定することはできない。
『三壺聞書』巻十八の「於竹様の事」には、珠姫に仕えていた「おこわの方」と、その娘についての記述がある。巻二十の「京極殿帰洛の事」には、京極殿が産んだ鶴松の早世と、彼女の京都への帰還が記される。
ただし、『三壺聞書』は利常没後に編まれた記録である。そこに記された細かな会話や心情まで、出来事のその場で書き留められた事実として扱うわけにはいかない。側室の存在を考える手がかりにはなるが、異名を照合せずに名前を数えれば、同じ女性を重複して数えるおそれもある。
正室の菩提寺を建てたことと、別の女性との間に子がいたことは、同時に成り立つ。大名家の家族を、現代の恋愛物語の型だけに当てはめると、記録の一部を消してしまう。珠姫の供養と、子供たちの系譜は、それぞれの根拠に沿って読んだ方が利常の暮らしに近づける。
前田慶次とはどんな関係か
前田慶次は、利家の兄・利久の養子として知られる。利常は利家の実子なので、前田家の系譜では、慶次は父の兄の養子にあたる。同じ前田姓でも、利常の兄や息子ではない。
慶次と利常には、ともに型破りな振る舞いをめぐる逸話がある。その印象から、二人が同じ立場の武将だったように感じられることもあるだろう。しかし、慶次をめぐる人物像と、百万石の当主として長く政治を担った利常の経歴は別々である。共闘や師弟関係を、姓や逸話の似通いだけから補うことはできない。
鼻毛の逸話は史実なのか
鼻毛の話には、確認できる伝承元がある。図書館の典拠調査が挙げるのは『明良洪範』巻二で、利常が外見を整えず、幕府の警戒を避けたとする筋立てである。従って、出所の全くわからない現代の作り話として片づけるのも適切ではない。
一方で、「そういう話が記された」という確認と、「利常がその目的で行い、幕府がだまされた」という確認は異なる。後者には、行動の動機と相手への効果まで含まれている。鼻毛という目立つ一場面だけから、数十年にわたる徳川家との関係の全体を説明することは難しい。
石川県立図書館が紹介する見瀬和雄の見解
は、利常が周囲に無能と思われていたとは見ない。常識に収まらない振る舞いとして捉える読み方を示している。同じ伝承でも、知恵で幕府を欺いた物語として読むか、独特な振る舞いを伝える話として読むかで、評価は変わる。
前田家の存続を考えるなら、婚姻、軍役、普請、後継者の確保という具体的な行動を先に見る必要がある。鼻毛の話は、それらを済ませたあとで読むと、人物像の面白さを損なわずに受け取れる。
改作法は、農民のためだけの政策だったのか
改作法は、困窮した農村の再建と、年貢を安定して収めさせることを結びつけた改革である。耕作に必要な米や銀を貸す一方、藩が年貢徴収をまとめる仕組みを整えた。家臣がそれぞれの知行地から取り立てる方式では、家臣の事情によって村の負担が左右されやすかった。
小松市史の解説は、百姓だけでなく、収入に困る給人の問題も挙げる。 給人とは、知行を与えられている家臣のことだ。百姓が納められず、家臣も困り、さらに取り立てが厳しくなる。その悪循環に、藩の資金と徴収制度の変更によって手を入れたと考えると、政策の目的がわかりやすい。
また、十村は広い範囲の村を取りまとめる役を担い、蔵宿は年貢米の収納や扱いに関わった。利常が一人で村々を回って農業を教える、という種類の改革ではない。役人、村の有力者、米を扱う人々を通じて、領内の仕組みそのものを変えたのである。
だからといって、農民の負担がなくなったわけではない。年貢の完納は、改革の大切な目標であり続けた。村御印の内容にも地域差があり、一律に同じ条件が全領内へ適用されたと単純化できない。「名君の慈悲」と「支配の強化」のどちらか一方で説明するより、農村を立て直すことが藩の収入を支える構造を見たい。
忍者寺、天徳院、小松城に残る利常の仕事
利常ゆかりの場所は、目的を分けると理解しやすい。金沢城は藩の本拠、小松城は隠居後の拠点、天徳院は珠姫の菩提寺である。妙立寺は利常の移築建立と結びつけて伝えられ、複雑な構造から忍者寺の通称で親しまれてきた。
妙立寺については、建物の仕掛けが存在することと、その全てが利常の対幕府戦争の計画を示すことを分けたい。寺が防御に役立つ可能性と、実際にそこで戦争を準備したという歴史的な事実も同じではない。忍者寺という名前だけで、利常を忍者の指揮者とする説明には飛躍がある。
天徳院にも、現在目の前にある建物と創建時の姿の間に時間がある。珠姫の遺骨は、寛文十一年(1671)に野田山へ改葬されたと寺の由緒に記される。利常自身が亡くなったあとも、家の供養の形は変わり続けた。一つの寺や城を一人の生涯だけに閉じ込めず、子孫による継承まで見渡すと、史跡の見え方が変わる。
「梨」の話から見える、書状を残した利常
利常には、小松城の丹羽長重と梨を結びつける逸話が語られる。それとは別に、小松市立博物館には、利常自身の梨への礼状が残る。資料名は「前田利光(利常)書状『梨の礼状』」で、まだ利光と名乗っていた時期のものだ。
この書状は七月二十一日付だが、年は記されていない。博物館は花押の形から、元和年間の一六一六〜一六二一年ごろと推定している。年未詳の文書に、別の逸話の年を当てはめてはいけない。同じ「梨」という言葉が出てきても、同じ出来事を証明する資料とは限らないからである。
短い礼状にも、贈り物が届き、それに返事をする大名の日常がある。鼻毛のような強い印象を残す話だけでは見えない姿だ。高岡の町人からの祝儀に関する書状と合わせて読むと、利常の政治の周囲に、物と手紙が行き交う関係があったことがわかる。
死因は何か:急変の記録と病名を分ける
利常は万治元年(1658)、小松で亡くなった。池田仁子の研究は、利常の病気と治療について、日記や前田家に関わる記録を照合している。そこには、隠居期に病を得たこと、瘧と記された病気、眼病などが挙げられている。ただし、過去に患った病気が、そのまま最期の直接原因になるとは限らない。
同研究が引く『三壺聞書』には、廊下で急に具合を悪くし、医療に関わる人々が駆けつけた様子が記される。急変の場面を伝える記録ではあるが、現在の検査によって診断された病名はない。脳卒中などの具体的な病名を断定するには、記録から読み取れる範囲を越えてしまう。
そのため、この記事では没年、場所、年齢を示したうえで、死因の病名は未確定とした。医師の派遣に関する記録も、日付を含めて検討する必要がある。病気の話をまとめるときは、前田利家や利長の病状を利常へ移していないかにも注意したい。同じ前田家の父子・兄弟であっても、亡くなった年も、残る医療の記録も異なる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み方 |
|---|---|---|
| 利家の四男で、母は寿福院 | 高 | 人物辞典・地域史研究で一致。芳春院とは区別する |
| 利長の養子となり1605年に家督を継いだ | 高 | 継承と政治活動を扱う研究・辞典で確認できる |
| 珠姫との間に三男五女が生まれた | 高 | 天徳院の由緒。利常の全ての子の総数とは区別する |
| 大坂の陣に出陣し、晩年に改作法を進めた | 高 | 戦歴と藩政史の研究で確認できる |
| 鼻毛を伸ばしたという逸話がある | 高 | 図書館の調査が『明良洪範』巻二を典拠として示す |
| 鼻毛で幕府を欺き、それによって家を守った | 低 | 後世の逸話の動機と効果を、そのまま実証はできない |
| 側室についての記録がある | 中 | 『三壺聞書』に記載。細かな会話や人物像には留保が必要 |
| 妙立寺は利常ゆかりの寺である | 高 | 金沢市の文化財解説。忍者の存在を証明するものではない |
| 最期に急変したとの記録がある | 中 | 医療史研究が後世の記録を検討。具体的病名は未確定 |
利常の仕事は、父や兄から受け取った家を、自分の代だけで終わらせないことだった。妻を失い、家督を譲った息子にも先立たれながら、幼い孫の治世を支えた。鼻毛の逸話から一歩進んで見ると、そこには戦争の時代と、その後の長い統治の時代をつなぐ当主の姿がある。
参戦合戦
前田利常の逸話
- 逸話 01
鼻毛を伸ばして「ばか殿」を演じたのか

鼻毛の逸話を題材にした創作情景。実際の容貌を示すものではない · AI生成イメージ 利常といえば、鼻毛を伸ばして愚かに見せ、幕府の警戒を避けたという話がよく知られている。石川県立図書館と金沢市立図書館の調査は、その典拠として『明良洪範』巻二を挙げる。利常の時代から後にまとめられた逸話集に残る話で、本人の書状に書かれた作戦ではない。
この話が面白いのは、周囲に笑われる姿を、実は家を守るための行動だったと読み替えるところにある。ただし、幕府の人々が本当に利常を無能だと信じたことまで確認できるわけではない。石川県立図書館が紹介する見瀬和雄の見解も、鼻毛の話から「皆をだませた」とは考えていない。
逸話として読む価値はある。一方、前田家が存続した理由を鼻毛だけに求めると、徳川家との婚姻、出陣、普請、領国支配が見えなくなる。利常の人物像を伝える話と、政治上の成果の証明は分けて受け取りたい。
- 逸話 02
珠姫のために建てた天徳院

珠姫をしのぶ利常を描いた創作情景。天徳院の当初建築の復元ではない · AI生成イメージ 珠姫の死の翌年、利常は菩提寺となる天徳院を建てた。妻を弔う寺が実際に営まれたことは、夫婦をめぐる話の中でも確認しやすい事績である。寺の由緒は、元和九年の創建と、その翌年に巨山泉滴を開山として迎えたことを伝えている。
珠姫の周囲には、乳母が夫婦の間を裂いたなど、悲しい最期を説明しようとする物語もある。しかし、病状の記録と、悪役を置いて語る物語を同じように扱うことはできない。珠姫が若くして亡くなり、利常が寺を建てたという事実だけでも、夫婦と家の歴史をたどることはできる。
また、現在の建物の全てが利常の建てた当初の姿というわけではない。天徳院は後代の造営や火災、再建を経ている。利常の供養を出発点に、その子孫が守り続けた場所として見ると、寺に残る時間の長さがわかる。
- 逸話 03
忍者寺・妙立寺と利常の関係

妙立寺を題材にした利常の創作情景。訪問場面や仕掛けを再現したものではない · AI生成イメージ 金沢の「忍者寺」として知られる妙立寺は、利常ゆかりの寺である。金沢市の文化財解説は、寛永二十年(1643)に利常が移築建立したとする。階段や部屋が複雑に組み合わさる建物は、忍者寺という呼び名の印象を強めている。
ただし、その名前は利常が忍者を住まわせた証拠にはならない。建物に工夫があること、その仕掛けの用途が語られていること、実際に敵を迎え撃ったことは、それぞれ別の話である。金沢城へ続く秘密の通路や、忍者の軍団を利常の確実な事績として数えることもできない。
妙立寺から見えてくるのは、城の外にも寺院を整えた大名の姿だ。珠姫の菩提寺である天徳院とともに見ると、同じ利常ゆかりの寺でも成り立ちが異なることがわかる。呼び名の面白さを入口にしながら、誰が、いつ、何を整えたのかへ目を向けたい。
関連人物
- 前田利家(実父)
- 千世・寿福院(生母)
- 前田利長(異母兄・養父)
- 前田光高(加賀本藩)
- 前田利次(富山藩)
- 前田利治(大聖寺藩)
- 珠姫との娘5人
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 見瀬和雄『一番大名』前田利常の軌跡(2020年小松市史講座)小松市参照日 2026-10-26
- 前田利常(改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)コトバンク参照日 2026-10-26
- 年未詳2月21日付前田利常書状(伊藤内膳・長屋七郎右衛門宛)高岡市立博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-10-26
- 珠姫さま天徳院参照日 2026-10-26
- 天徳院の歴史天徳院参照日 2026-10-26
- 池田仁子『近世初期加賀藩藩主前田家の病と治療・医家』金沢城研究14(2016)石川県金沢城調査研究所参照日 2026-10-26
- 前田利常が鼻毛を伸ばしたことの典拠(2017玉川000468)金沢市図書館・レファレンス協同データベース参照日 2026-10-26
- 快刀乱麻、回答乱麻! No.2(2009年9月15日)石川県立図書館参照日 2026-10-26
- 妙立寺金沢市参照日 2026-10-26
- 改作法と銀成の村々小松市参照日 2026-10-26
- 百万石文化まんだら石川県立図書館参照日 2026-10-26
- 前田利光(利常)書状『梨の礼状』(15-01-001)小松市立博物館参照日 2026-10-26
- 山田四郎右衛門『三壺聞書』巻之十八(1931年校訂本の翻刻)石川県図書館協会刊・Wikisource公開参照日 2026-10-26
- へんさんだより第263号(2021年2月1日)・前田利光書状と梨の逸話小松市史編纂担当参照日 2026-10-26
- 山田四郎右衛門『三壺聞書』巻之二十(1931年校訂本の翻刻)石川県図書館協会刊・Wikisource公開参照日 2026-10-26
- 前田慶次道中日記(著者紹介)市立米沢図書館参照日 2026-10-26















