丹羽長重は、丹羽長秀の長男で、関ヶ原後の改易から大名へ復帰した人物である。慶長5年(1600)には小松を拠点に前田利長と戦い、戦後に領地を失った。その後、徳川秀忠の庇護を受け、古渡一万石から出直した。晩年には白河十万石余の領主となり、小峰城と城下の大改修を担っている。
長重の関ヶ原は、美濃の本戦ではなく北陸の戦いだった。その区別を出発点にすると、改易の理由、秀忠との関係、城づくりによる評価がつながる。家臣や梨をめぐる逸話、子孫の二本松丹羽家、家紋と白河の墓も、長重の生涯をたどる手がかりになる。
十五歳で継いだ、父・丹羽長秀の大きな家

丹羽長重は、元亀2年(1571)に丹羽長秀の長男として生まれた。父は織田信長の重臣であり、信長の死後も大きな勢力を保った人物である。長重が受け継ぐのは、名字と家名だけではなかった。領地、城、家臣団、そして政権の中で占める地位が、一人の後継者に託される。
天正13年(1585)、長秀が死去した。長重は数え十五歳で家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぎ、越前・若狭・南加賀にまたがる父の領国を受け継いだ。北陸から若狭へ広がる領地は、若い当主が自力で獲得したものではない。その広さを保つには、家中をまとめるだけでなく、天下の実権を握る豊臣秀吉との関係を保つ必要があった。
長重の正室は、織田信長の娘である報恩院だった。丹羽家は旧主の家と婚姻で結ばれていたが、信長はすでにこの世にいない。織田家の重臣の息子であることも、信長の娘婿であることも、領地を永久に保証するものではなかった。家督を継いだ年から、長重は秀吉の軍事動員と領地配分の中で立場を問われていく。
父の経歴と息子の経歴は、ここで分けておきたい。信長を支え、織田政権の中枢で働いたのは長秀である。そのあとを継ぎ、豊臣政権下の減封と関ヶ原後の改易を経験したのが長重だった。同じ丹羽家でも、父が領国を広げた時代と、息子がそれを維持しようとした時代では、政治の条件が変わっていた。
長重の生涯は、父の成功をそのまま引き継ぐ道にはならない。家督相続の直後から領地を削られ、のちには大名の身分そのものを失う。それでも丹羽家は途絶えず、長重の晩年には白河に新たな拠点を持つことになる。
広い遺領を失い、松任四万石の大名へ

父から継いだ領国は、ほどなく縮小した。天正13年(1585)閏八月、長重は越前の領地を失い、若狭へ移るよう命じられた。長重は秀吉のもとで減封を重ね、若狭を経て、加賀松任四万石の領主となる。越前・若狭・南加賀を受け継いだ当初と比べれば、家を支える土地は大幅に減った。家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぐことと、父と同じ規模の領国を維持することは別だったのである。
減封は、領地の数字が小さくなるだけの処分ではない。家臣を養い、兵を動かし、城を維持する基盤が狭くなる。領地を持つ当主としては、残された規模に合わせて家を存続させなければならなかった。長重の前半生で続いたのは、豊臣政権に仕えながら、その政権から厳しい処分を受けるという歩みだった。
松任は、現在の石川県白山市にあたる。この地を拠点とした長重は、豊臣政権の大名として活動を続けた。天正18年(1590)の小田原攻めにも参加している。この戦役で長重が属した豊臣方は、北条氏政・氏直父子の勢力と敵対した。ただし、長重がどの支城を攻め、父子のいずれかと直接対峙したかまでは、ここでは特定しない。旧領を失ったあとも、秀吉の全国的な軍事動員から離れたわけではない。
この時期を、父の名声に届かなかった若者の失敗だけで片づけることはできない。領地を与え、削る権限は秀吉の側にあった。一方で、丹羽家に出陣や服従が求められたことも変わらない。若い長重の置かれた条件を知るには、本人の行動と政権の処分を合わせて見る必要がある。
その後、長重には領地を増やす機会が訪れた。慶長3年(1598)、加賀能美郡が加わり、小松城を拠点とする大名になる。四万石に縮んでいた丹羽家は、十万石を超える規模へ戻った。だが、この回復からわずか二年で、北陸の大名たちは関ヶ原へつながる戦争に巻き込まれていく。
小松十二万五千石、前田利長と並び立つ

小松に移った長重は、加賀南部の有力な領主となった。『新修小松市史』は、松任の領地と合わせた石高を十二万五千石としている。長重は小松宰相と呼ばれ、ここを拠点に北陸の政治と軍事に関わった。その北には、金沢を拠点とする前田家があった。
秀吉が死去したあと、豊臣政権の大名たちの間では、徳川家康との関係が大きな問題となる。慶長4年(1599)、前田利長と家康の関係が緊張すると、長重にも北国での軍事行動に備える役割が与えられた。しかし、利長の母・芳春院が江戸へ下るなどして、前田家と家康の対立は収まる。この段階では、両家の全面的な戦争には進まなかった。
翌慶長5年(1600)、家康は会津の上杉氏へ向けて出兵する。北陸では利長が軍をまとめる立場になり、長重にも出陣を求めた。長重はこれに応じず、病気を理由に参加を断る。前年には前田家への出兵を想定していた長重が、今度は利長の指揮下に入るという配置だった。
小松と金沢は、同じ加賀の中にある。だが、領主の立場まで一つだったわけではない。利長と長重の間には、家康のもとで誰が北陸の軍を率いるのかという問題が横たわっていた。石田三成らが家康に対して挙兵すると、長重は三成側に立ち、利長との対立は戦場へ移る。
小松城の周囲には湿地が広がっていた。攻め手が容易に城へ迫れる地形ではなく、利長は南加賀へ進む際、小松の攻略に時間をかけず先へ進んだ。長重の城は持ちこたえたが、前田軍の進路そのものを完全に断ったわけではない。次の局面は、南へ進んだ利長軍が金沢へ戻る途中に訪れた。
浅井畷で前田軍を襲うも、戦後に改易される

慶長5年(1600)八月、前田利長は大聖寺城を攻略した。その軍が金沢へ引き返す途中、長重は浅井畷で攻撃を仕掛ける。現在の石川県小松市に残る、浅井畷古戦場の戦いである。関ヶ原へ至る争いは、美濃だけでなく北陸でも進んでいた。
長重方では、家老の江口三郎右衛門が率いる部隊が攻撃にあたった。前田軍の後方を守ったのは長連龍の勢である。側面から攻められた前田方は損害を受けたが、軍は金沢へ撤退した。丹羽方が攻撃を成功させたことと、前田軍の退路を完全に断ったことは同じではない。
利長は小松城への攻撃も考えた。これに対して長重は深追いを禁じ、城で備える方針をとる。一度の戦果を求めて追い続けるより、再度の攻撃に耐えることを選んだのである。長重はさらに、家康のもとへ使者を送り、利長との和睦を求めた。
両者の交渉は進み、九月十八日には人質を交換して和睦が成立した。しかし、その三日前、美濃の関ヶ原では家康方の勝利が決まっていた。長重自身は関ヶ原の本戦には参加していない。北陸で城を保ち、利長との戦いを収めても、全国の勝敗を決める局面には間に合わなかった。
戦後、長重は領地を没収された。小松の城主としての地位を失い、能美郡の旧領は利長に与えられる。戦場で一定の成果を挙げても、その結果が領地の安堵につながるとは限らなかった。丹羽家に残ったのは、城を守り抜いても、大名の座は守れなかったという結果だった。
長重の経歴を「関ヶ原で敗れた武将」とだけ書くと、この経過が見えなくなる。本戦で敗走したのではなく、北陸で戦った末に戦後処分を受けた。それが、長重にとっての関ヶ原だった。
秀忠の庇護を受け、古渡一万石から出直す

改易によって、長重は大名としての領地を失った。その後の長重を支えた人物として、徳川秀忠の名が挙げられる。家康に敵対する側に立った経歴があっても、徳川家との関係がすべて断たれたわけではなかった。長重は江戸近辺で暮らし、復帰の機会を迎える。
慶長8年(1603)、常陸古渡一万石が与えられた。現在の茨城県稲敷市にあたる地域である。小松での十二万五千石に比べれば、はるかに小さい。それでも、領地を没収された状態から、大名として家を立て直す足場を得たことは大きかった。
ここから先の長重は、徳川側の大名として働いた。慶長19年(1614)の大坂冬の陣、翌年の夏の陣にも参加する。戦役の相手は豊臣秀頼を当主とする大坂方であり、長重と秀頼本人の直接対決を意味するものではない。かつて秀吉に仕えた長重は、豊臣家と徳川家が戦う最後の局面では、徳川軍に属していた。豊臣政権の大名から徳川政権の大名へ、その立場は変わっていたのである。
元和5年(1619)には常陸江戸崎二万石へ移った。元和8年(1622)には、さらに陸奥棚倉五万石へ転封となる。古渡での復帰から約二十年をかけ、領地は段階的に増えていった。改易前の地位へ一度に戻されたのではなく、新しい政権の中で領国を得直す過程だった。
秀忠との関係は、長重の後半生を考えるうえで欠かせない。長重は秀忠、さらに家光の御談伴を務めた人物としても知られる。将軍の話し相手になる役割は、軍を率いる役目とは違う距離で徳川家に接するものだった。戦国期を生きた長重は、江戸の政治の中にも居場所を得ていた。
一万石の古渡から、二万石の江戸崎、五万石の棚倉へ。この順序を追うと、復帰が一度きりの出来事ではなかったことが分かる。丹羽家が幕府のもとで存続する基盤は、こうして長い時間をかけて形になった。
棚倉城から小峰城へ、晩年の仕事は町をつくること

棚倉へ移った長重は、新たな城の築造に取り組んだ。それまでの領主の拠点だった赤館とは別に、城と城下を整える事業である。寛永2年(1625)に工事を始めた棚倉城は、長重の在任中には完成しなかった。二年後、長重に白河への転封が命じられたためである。
棚倉のあとを継いだのは内藤信照だった。したがって、棚倉城を長重の仕事として紹介するときには、着手したことと完成まで在城したことを分けなければならない。領主が移っても、工事と城下の暮らしは続いていく。城の歴史は、一人の武将の経歴だけでは完結しない。
寛永4年(1627)、長重は白河十万石余の領主となった。古渡一万石での再出発から二十四年が過ぎていた。白河は奥州への出入りに関わる要地であり、長重はここで小峰城の大改修を担う。中世以来の城を、近世の城郭へと整える事業だった。
工事は寛永6年(1629)に始まり、寛永9年(1632)に完成した。本丸と二之丸には石垣を多用し、周囲の守りを固めた。さらに阿武隈川の流れを北へ移し、屋敷地を確保した。城内の建物を改めるだけでなく、川と土地の使い方にも及ぶ工事だった。
この事業が、現在知られる小峰城の骨格を形づくった。長重以前にも城と城下はあったが、幕府の命令を受けた大改修によって、その姿が大きく変わったのである。長重の復帰は、石高の回復にとどまらず、白河の城と町を整える仕事へ結びついた。
浅井畷で戦ったとき、長重はまだ三十歳前後だった。白河の改修を担うころには、すでに六十歳前後である。戦場で城を守った若い大名は、晩年には城の基盤を築き直す側に立っていた。
白河に眠る長重と、二本松へ続いた子孫

寛永14年(1637)、丹羽長重は江戸で死去した。数え六十七歳だった。家を継いでから半世紀余りの間に、父の広い遺領、松任と小松、改易、古渡からの復帰を経験した生涯だった。長重の墓は白河にあり、現在も丹羽長重廟として伝わっている。
後継者となったのは、三男の丹羽光重である。母は竜光院で、長重の正室・報恩院とは別人だった。正室の子である二人の男子が早くに亡くなり、光重が家を継ぐことになった。領地を取り戻しても、次の当主が定まらなければ家の存続は保証されない。長重の晩年には、継承というもう一つの課題があった。
光重は父の死後、白河の領主となった。その六年後の寛永20年(1643)、丹羽家は二本松へ移る。ここから、二本松藩の丹羽家としての歴史が続いた。二本松へ入った当主は光重であり、長重本人ではない。
丹羽家を二本松の家として知る人にとって、長重はその前史にあたる人物である。しかし、改易された家が古渡で再び領地を得ていなければ、白河を経て二本松へ続く道もなかった。長重は、父が築いた領国を保てなかった当主であると同時に、失った家の地位を取り戻した当主でもあった。
白河の小峰城と長重廟は、その二つ目の歩みを伝える場所である。城には晩年の領主としての仕事が、墓には白河との結びつきが残る。二本松の丹羽家の歴史と合わせてたどることで、一人の武将の再起が、次の世代の領国へつながったことが見えてくる。
父から受け継いだ土地と、子へ渡した土地は同じではなかった。それでも長重は、丹羽家の当主として次代へ家を渡した。戦国から江戸へ移る時代を生きた長重の到達点は、この継承にもある。
史料の読み解き
長重の評価は、どの時点を見るかで大きく変わる。父の遺領を削られた青年期だけなら、家の勢力を縮めた当主に見える。一方、改易後に大名へ戻り、白河の城と町を整えた後半生には、家を再建した実績がある。両方を同じ時間の流れに置くことが、長重を理解する出発点になる。
関ヶ原の戦いで改易されたのはなぜか
長重は西軍方として北陸で戦い、東軍方の利長と敵対した。『新修小松市史』は、戦後の領地没収を、利長の出陣命令に背いたことへの処分として説明する。単に浅井畷で負けたから改易された、という経過ではない。実際、長重方の攻撃は前田軍に損害を与え、小松城もこの戦いでは落ちていない。
ここには、局地戦の結果と政権による処分の違いがある。城を守り、相手を退かせても、勝者となった家康側から領地を認められなければ大名の地位は維持できなかった。利長との和睦が成立したのは、旧暦九月十八日。
関ヶ原の戦いの本戦が決した九月十五日よりも後だった。
ただし、これを「勝ったのに理不尽にすべて奪われた」という物語にまとめるのも慎重でありたい。前田軍は金沢への撤退を果たし、長重は戦後の政治的な立場を確保できなかった。浅井畷での攻撃、城の防衛、和睦、改易は、それぞれ異なる段階の出来事である。
古戦場の解説
を合わせると、その区別が見えてくる。
徳川秀忠は、なぜ長重を助けたのか
秀忠の庇護が復帰につながったことは、平凡社『世界大百科事典』などが記す。長重は後に秀忠・家光の御談伴も務めた。徳川家との間に、領地の授受だけではない接点があったことは確かだろう。ただし、復帰の理由を一つに絞るだけの根拠は、この経歴そのものからは得られない。
長重の正室が織田信長の娘だったことや、城づくりの実績から、縁戚関係や能力を重視する説明もある。しかし、後年の小峰城改修を見て、1603年の復帰もすべて築城能力によるものだったと逆算することはできない。古渡での復帰、江戸崎・棚倉への加増、白河での工事は、時期を分けて考える必要がある。
また、1603年の復帰を「二代将軍秀忠の時代」と書くと、時系列がずれる。秀忠が将軍になるのは1605年であり、長重の復帰はそれ以前である。秀忠の支援という人的な関係と、将軍としての在職期間を混同してはいけない。
辞典の長重項目では、庇護と御談伴の経歴を確認できる。
秀忠との関係から見えるのは、関ヶ原の敵味方が、その後の人間関係をすべて固定したわけではないということだ。長重は再び領地を与えられ、徳川方として大坂の陣にも出陣した。復帰を一度の恩情だけで語るより、その後に担った役目まで追うほうが、丹羽家が存続した道筋を理解しやすい。
小松から白河へ、石高はどう変わったか
父の死後まもなく領地を削られた理由には、史料による説明の違いがある。平凡社の辞典は軍規違反による減封を記す一方、『福井県史』は同時代の日記を引き、1585年の若狭転封には若い長重の家中の不和が関わったと読む。減封が複数回あった以上、一つの罪状だけですべてを説明するのは難しい。転封と領地縮小の経過は確認できても、長重の無能力や秀吉の悪意だけを原因とする説明には根拠が足りない。
長重の石高を一つの数字で答えることはできない。家督相続、減封、加増、改易、復帰があり、時期によって領地の規模が大きく異なるためだ。主要な節目を並べると、後半生の回復が段階的だったことが分かる。
| 時期 | 拠点・領地 | 石高の目安と変化 |
|---|---|---|
| 1585年の家督相続 | 越前・若狭・南加賀 | 父長秀の広い遺領を継承 |
| 豊臣政権下の減封後 | 加賀松任 | 4万石 |
| 1598年 | 加賀小松・松任 | 合わせて12万5000石 |
| 1600年の戦後 | 領地没収 | 改易により大名領を失う |
| 1603年 | 常陸古渡 | 1万石で復帰 |
| 1619年 | 常陸江戸崎 | 2万石 |
| 1622年 | 陸奥棚倉 | 5万石 |
| 1627年 | 陸奥白河 | 10万700石 |
小松は十二万石、白河は十万石と概数で紹介されることもある。小松は『新修小松市史』の松任を含めた数字を、白河は講談社の人名辞典などが記す数字を採った。十万石と十万七百石という表記だけを比べて、ただちに別の加増があったと判断することはできない。
石高は領地の規模を示すための指標であり、当主が毎年自由に使えた米の量や現金収入そのものではない。また、城や町の規模、動員した兵数へ機械的に換算することも避けたい。ここでの数字は、丹羽家がどの段階でどれほどの大名領を認められたかを見るためのものだ。
転封の順序は、『郡山の歴史』の二本松藩成立の項や棚倉町の解説でも追える。ただし、地域の概説には年次の異同もある。小松入封は専論である小松市史に従って1598年とし、すべての紹介文を無条件に一つへつなぎ合わせないようにした。
棚倉城と小峰城から考える長重の評価
長重の城づくりを評価する際は、城ごとの役割を区別すると分かりやすい。小松は関ヶ原の年に守った城、棚倉は新たに築き始めた城、小峰は大改修を担った城である。三つを一括して「長重が築いた城」とすると、それぞれの歴史を取り違える。
棚倉町の解説
によれば、棚倉城の着工は1625年である。長重は1627年に白河へ移り、工事を最後まで見届けたわけではなかった。 一方、文化庁の小峰城跡の解説は、1629年からの大改修と、川の流路変更を具体的に記す。
この違いを押さえても、長重の築城面での実績が小さくなるわけではない。領主が工事を始め、資材や人手を伴う事業を進めること自体が、大名としての仕事だった。ただし、それを本人一人の設計能力に置き換えたり、工事に関わった家臣や職人を見えなくしたりしないことが大切になる。
現在の小峰城を訪れる際には、建物の年代にも目を向けたい。三重櫓は1991年に復元されたもので、長重の時代から同じ建物が残っているのではない。石垣や縄張り、近世の絵図、後世の復元を分けて見ることで、城のどの部分が何を伝えているのかを確かめられる。
白河市の小峰城跡の紹介は、その変遷をたどる入口になる。
子孫はどうなったか、光重と二本松丹羽家
長重の後継者は三男の光重だった。光重は1637年に白河を継ぎ、1643年に二本松へ移った。長重を「二本松藩の初代藩主」と紹介してしまうと、父子の経歴が重なる。二本松へ入った当主として見るべき人物は光重である。
家系を確かめるときは、正室と後継者の母も分けたい。長重の正室は報恩院だが、光重の母は竜光院だった。
二本松市の光重紹介
は、幼少期の養育から家督相続、その後の領国経営までを扱っている。家庭内の話には後世の叙述として読むべき部分があるものの、父子の継承をたどるための資料になる。
長重の子は、家を継いだ男子だけではない。福岡県立図書館の調査回答は、家譜類に三人の娘が見えることを報告している。嫁ぎ先として挙がるのは、酒井忠正、大嶋義唯、浅野長直である。このうち酒井忠正の妻は光重と同母とされ、ほかの二人の母は名が特定されていない。
この点は、国立国会図書館レファレンス協同データベースの回答に基づく。回答が参照した『寛政重修諸家譜』などの巻頁は示されているが、本記事では原書を直接調査した結果とは区別した。後継者以外の子供にも目を向けると、丹羽家のつながりが婚姻を通じても広がっていたことが分かる。
家紋の直違紋と、白河の墓・丹羽長重廟
丹羽家の家紋は、二本の棒を斜めに交差させた直違紋で、違い棒とも呼ばれる。「すじかい」「すじちがい」という読みの表記が見られる。二本松市の広報や、丹羽家の菩提寺である大隣寺の由緒でも、この紋が紹介されている。
紋の由来には、戦場での目印に結びつける話などがある。ただし、由来の物語と、丹羽家がその紋を用いていたことは別の主張である。長重が考案したとする根拠にはならない。
二本松市の家紋紹介
は、名称と由来の伝承を分けて読むとよい。
長重本人の墓は、福島県白河市の丹羽長重廟にある。白河市の案内では、拝殿の奥に墓石が立ち、現在の拝殿は1836年に再建されたものとされる。長重が亡くなった1637年の建物が、そのまま残るという意味ではない。
白河市の廟の解説から、所在地と建物の来歴を確認できる。
二本松の大隣寺には、丹羽家歴代の墓所がある。寺は丹羽家の移転とともに白河から二本松へ移ったと、その由緒に記す。長重本人の白河の墓と、二本松の歴代墓所を取り違えないようにしたい。なお、没日の細部は辞典と白河市の紹介で異なるため、本記事では1637年没・数え67歳という共通する情報を採用した。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と読み方 |
|---|---|---|
| 長秀の長男で、1571年に生まれ1637年に没した | 高 | 複数の辞典・地域史で一致する |
| 1600年に北陸で利長と戦い、関ヶ原本戦には参加していない | 高 | 小松市史・辞典を照合。本戦と北陸戦役を区別する |
| 戦後に改易され、1603年に古渡1万石で復帰した | 高 | 辞典、郡山の地域史、棚倉の解説を照合 |
| 秀忠の庇護を受け、後に御談伴となった | 高 | 平凡社の辞典などに記載がある |
| 復帰の理由は築城能力や縁戚関係だけだった | 低 | 経歴からの推測を、単一の確定した理由にはできない |
| 人質の利常に梨を剥いて与えた | 中 | 小松市の編纂便りが紹介する逸話。台詞や心情は補わない |
| 小峰城の改修で川の流れを変えた | 高 | 文化庁の文化財解説に具体的な記述がある |
| 光重が長重を継ぎ、のち二本松へ移った | 高 | 二本松市の人物紹介と地域史で確認できる |
| 「家臣こそ宝」という台詞を長重本人が語った | 低 | 本記事で原典を確認できず、本人の名言として採用しない |
参戦合戦
丹羽長重の逸話
- 逸話 01
「いい話」の前に、丹羽家を支えた家臣の働きを見る

長重と家臣の対話を描いた創作情景。特定の会話を再現したものではない · AI生成イメージ 長重については、家臣との結びつきを語る「いい話」に関心が集まる。ただし、家臣を宝にたとえる台詞を、出典を示さず長重の名言として扱うことはできない。人柄を考えるなら、まず誰が何を支えたのかを確かめたい。
二本松市の丹羽光重の紹介には、幼い光重を家臣側で養育した話が載る。養育にあたった於東局や、光重が長重の正室・報恩院に初めて会う際に取り計らった樽井重継の名が挙げられている。市の叙述は家庭内の事情にも踏み込むが、当事者の心中まで確認できるわけではない。ここでは、後継者の成長を家臣や周囲の人々が支えたと伝えられる点を受け取る。
この話が向き合っているのは、改易直後の生活ではなく、次代の当主をどう育てたかという問題である。浪人中の長重を全家臣が無条件で支え続けた証拠へ、そのまま読み替えることはできない。時期と人物を確かめることで、丹羽家の再興が当主一人だけの仕事ではなかったという面が見えてくる。
長重自身の感動的な台詞を補う必要はない。光重が家を継ぎ、二本松へ移ったという経過と、その成長を支えた人の名が残る。そこに、家を存続させる働きを具体的に見ることができる。
- 逸話 02
人質の利常に梨を剥いたという、長重の小さな逸話

長重が少年に梨を渡す逸話を題材にした創作情景 · AI生成イメージ 小松市の『へんさんだより』には、長重が幼い前田利常に梨を剥いて与えたという話が紹介されている。利常が人質として小松城にいたときの出来事とされる。利常は、長重と戦った前田利長の弟であり、のちに前田家を継ぐ人物だった。
人質の交換は、大名間の合意を保証する政治的な行為である。その中で子供に食べ物を用意する姿を描くこの話は、長重を身近に感じさせる。ただし、紹介された逸話から、二人が交わした言葉や長重の気持ちまで再現することはできない。ここでは、相手方の少年を世話したという伝承として読んでおきたい。
同じ紙面には、利常が利光と名乗っていた時期の、梨の贈答に関する礼状が掲載される。注意したいのは、その書状の宛先と年代が不明とされていることだ。長重に剥いてもらった梨への礼状だと、二つを直結させてはいけない。書状の存在と、幼少時の逸話は、別々の根拠として扱う必要がある。
短い話だからこそ、余分な台詞や美談を足さずに読む。北陸で敵対した家同士にも、人質として滞在する子供と、それを迎える側の日常があった。梨の逸話は、その一場面を伝える話として残っている。
- 逸話 03
城を改めるために、川の流れも変えた

長重が川と城の計画を検討する創作情景。実在の設計図の復元ではない · AI生成イメージ 長重の築城で注目したいのは、石垣の高さだけではない。文化庁の小峰城跡の解説は、改修の際に阿武隈川の流れを北へ移し、屋敷地を確保したことを記している。城の外に広がる土地まで、工事の対象になっていたのである。
川は城を守る地形であると同時に、屋敷や道の配置を制約するものでもある。小峰城の改修は、既存の城に建物を足すだけでは済まなかった。川の流れと利用する土地を整え、城郭と城下をまとめて改める規模の事業だった。
この記録から、長重が自ら石を積んだ、すべての設計を一人で描いた、と想像を広げることはできない。実際の工事には家臣、職人、多くの働き手が関わる。長重の役割として確認できるのは、白河の領主として、幕府の命令による大改修を担ったことだ。
戦国武将の活躍は、合戦の勝ち負けに目が向きやすい。だが、城と町を整えた仕事には、その後の暮らしを長く方向づける面がある。小峰城に残る地形と石垣は、長重の晩年を考えるための、言い伝えとは異なる手がかりになる。
関連人物
- 丹羽長秀
- 丹羽光重(三男、母は竜光院)
- 娘(酒井忠正の妻)
- 娘(大嶋義唯の妻)
- 娘(浅野長直の妻)
所縁の地
- 浅井畷古戦場石川県小松市大領町
1600年、長重方が金沢へ戻る前田軍を攻撃した場所。長連龍配下の九士を供養する石塔が残る。小松市の解説では埋葬墓ではなく供養塔とされており、長重自身の墓とも区別したい。
- 棚倉城跡福島県東白川郡棚倉町
長重が1625年に築城へ着手した城。工事の途中で白河への転封が決まり、次の領主・内藤信照へ引き継がれた。長重の築城の仕事を、白河以前からたどれる場所である。
- 小峰城跡福島県白河市郭内
長重が1629年から1632年に大改修した城。中世以来の城を引き継ぎ、石垣を多用する近世城郭に整えた。現在の三重櫓は後世の復元であり、長重時代の建物がそのまま残るわけではない。
- 丹羽長重廟福島県白河市円明寺
白河にある長重の墓所。拝殿の奥に墓石があり、現在の拝殿は1836年の再建とされる。長重が白河の領主として生涯を終えたことを伝え、二本松の丹羽家歴代の墓所とは場所が異なる。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 広報白河 2014年11月1日号10頁「小峰城を大改修・初代藩主丹羽長重」白河市参照日 2026-10-26
- 福井県史 通史編3「丹羽長重の若狭転封後の越前」福井県参照日 2026-10-26
- 小田原合戦小田原市参照日 2026-10-26
- 大坂冬の陣・夏の陣国立公文書館参照日 2026-10-26
- 江戸城内の文庫造営(1605年の将軍職継承を含む)国立公文書館参照日 2026-10-26
- 新修小松市史 第10巻 図説こまつの歴史・近世3「丹羽長重と浅井畷の戦い」66–67頁(見瀬和雄)小松市参照日 2026-10-26
- 丹羽長重(西田真樹・改訂新版 世界大百科事典/デジタル版 日本人名大辞典+Plus)平凡社・講談社/コトバンク参照日 2026-10-26
- 郡山の歴史 28「二本松藩と会津藩の成立」55–56頁(柳田和久)郡山市/ADEAC参照日 2026-10-26
- 棚倉城棚倉町参照日 2026-10-26
- 国指定文化財等データベース「小峰城跡」文化庁参照日 2026-10-26
- 小峰城跡白河市参照日 2026-10-26
- 丹羽長重廟白河市参照日 2026-10-26
- 丹羽光重二本松市参照日 2026-10-26
- へんさんだより 第263号(2021年2月1日)1頁小松市参照日 2026-10-26
- 丹羽長重の娘は何人いるか、母親は誰か(福岡県立図書館の回答)国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-26
- 広報にほんまつ 2018年6月号2頁二本松市参照日 2026-10-26
- 丹羽家について菅樵山大隣寺参照日 2026-10-26
- 浅井畷古戦場小松市参照日 2026-10-26


















