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安土桃山時代藤堂氏15561630
藤堂高虎|築城名人の生涯と功績の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
築城今治城津城
とうどう・たかとら

藤堂高虎|築城名人の生涯と功績

TOUDOU TAKATORA · 1556 — 1630 · 享年 75

上下疑いこれあるときは心離れ申候

藤堂
生年
弘治2年
1556
没年
寛永7年
1630
出身
近江犬上郡
滋賀県
居城
津城・伊賀上野城
三重県
家紋
藤堂蔦
TODO_IVY

藤堂高虎

藤堂高虎は、七度も主君を替えた変節漢と侮られかねない名を背負いながら、今治城・津城・伊賀上野城を築き、伊勢津藩三十二万石の礎を起こし、徳川三代に近侍した、築城の名人にして乱世を読み抜いた実務型大名である。

近江国犬上郡藤堂村に生まれた高虎は、浅井長政、磯野員昌、阿閉貞征、豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康へと仕え先を移した。後世の名札は強い。「七度の主君替え」「転び者」「築城名人」「忠義の外様」。だが、そのどれか一つだけでは、高虎という人物はつかみ切れない。

彼の最期は、寛永七年(1630年)十月、江戸での病没である。享年は七十五、数え年。戦死でも自害でもなく、戦国の実戦期から豊臣政権、徳川政権までをくぐり抜けた長寿の終幕だった。高虎の生涯でまず見るべきなのは、主君を替えた回数そのものより、替えざるを得ない時代を読み、実務で地位を築いたしぶとさである。

七度の主君替えは、単純な裏切り者の物語ではない。主家の滅亡、後継者の死、豊臣から徳川への政権交代が続く中で、高虎は生き残る場所を選び、選んだ場所で武功と普請と政務を積み上げた。藤堂高虎は、忠義か裏切りかの二択ではなく、乱世の構造を読んで城と藩を残した武将である。 その人物像に重なった評語と逸話は、この先で読み解く。

01七度の主替えSEVEN MASTERS

近江から乱世へ——七度の主君替えと生存の哲学

若き日の藤堂高虎・近江の地(AI生成イメージ)
若き日の藤堂高虎・近江の地 · AI生成イメージ

弘治二年(1556年)、近江国犬上郡藤堂村、現在の滋賀県甲良町在士に、藤堂高虎は生まれた。父は下級武士・藤堂虎高。幼名は与吉、後に与右衛門を名乗る。家中の記憶に残る高虎は、身長六尺二寸に届く偉丈夫であり、戦場に立てば一目でそれと分かる若武者だった。

十五歳の元亀元年(1570年)、高虎は姉川の戦いで初陣を迎える。当初仕えたのは浅井長政である。だが戦国の地面は安定しない。浅井家が滅びると、磯野員昌、阿閉貞征へと身を移し、やがて豊臣秀長のもとへ進んでいく。

ここから高虎の名に、後世までつきまとう言葉が重なる。七度の主君替えである。浅井、磯野、阿閉、豊臣秀長、秀保、秀吉、徳川家康へ。主を替えるたびに、高虎は戦場と政権の風向きを読み、次の居場所を自分の手でつかみ直した。

その足取りは軽い変節ではない。乱世の高虎は、一つの家に沈むより、時代の流れを読んで前へ出る武将だった。 主家の滅亡と政権交代が続く世界で、生き残る判断を武器に変えたのである。近江の下級武士から出た高虎は、七度の主君替えを背負いながら、乱世の中心へ踏み込んでいく。

高虎が七度の主君替えを問われた際に語ったと伝わる言葉

「侍は主君を七度替えてこそ一人前」

02秀長への奉仕UNDER HIDENAGA

豊臣秀長への出仕——才能が開花した転機

豊臣秀長のもとで活躍する高虎(AI生成イメージ)
豊臣秀長のもとで活躍する高虎 · AI生成イメージ

天正年間後半、1580年代の高虎は、豊臣秀長のもとで大きく伸びる。ここで彼は、ただ槍を振るう武者ではなく、戦い、城を築き、文書を動かす実務の人として頭角を現した。

紀州攻めや四国攻めでは武功を重ねた。さらに但馬竹田城、粉河城などの普請奉行を任され、城をどう置き、石垣をどう積み、土地をどう押さえるかを学んでいく。築城名人と呼ばれる高虎の骨格は、この秀長配下の現場で鍛えられた。

天正十五年(1587年)の九州征伐でも先陣を切り、戦功を上げた。しかも高虎の仕事は戦場だけで止まらない。朱印状の発給業務にも携わり、行政官としての資質を示す。戦って勝つ力と、勝った後に秩序を通す力が同じ人物の中で結びついていった。

秀長の死後、高虎は跡を継いだ豊臣秀保に仕える。だが文禄四年(1595年)、秀保が没すると、高虎は高野山に登って出家を望む。そこへ豊臣秀吉が自ら召し出し、伊予板島、宇和島七万石を与えた。秀長の家臣だった高虎は、ここで豊臣政権に必要な実務者として再び表舞台へ引き戻された。

この時期、高虎の築城センスは本格的に開き始める。豊臣秀長のもとで、高虎は武功と普請と政務をまとめて身に刻み、後の築城王へ変わっていった。

秀長が高虎を高く評価したと伝わる逸話——一次資料は未確認

「高虎は千人力の家臣」

03今治城の革新IMABARI CASTLE

今治城の築城——近世城郭の革命

今治城・海城の革新的設計(AI生成イメージ)
今治城・海城の革新的設計 · AI生成イメージ

慶長七年(1602年)、高虎は伊予今治に新たな城を築き始めた。瀬戸内海に面した今治城である。海水を堀へ引き込み、三重の堀にめぐらせる構えは、陸の城とは発想が違う。海と港と城下を一つに結ぶ、近世城郭の新しい姿だった。

とりわけ目を引くのが、階を積み上げる層塔型天守の本格採用である。天守を大きく見せるだけでなく、構造をすっきり組み上げる発想が、以後の天下普請へも広がっていく。高虎の城は、見せる城であり、守る城であり、政権の力を地形に刻む装置でもあった。

高虎が手掛けた城として、今治城のほか、宇和島城、大洲城、津城、伊賀上野城、丹波篠山城、膳所城などが並ぶ。関ヶ原後に家康の命で最初に築かれた天下普請として語られる膳所城も、その名を大きくした。全国二十数棟に及ぶという城の列は、築城の名人という呼び名にふさわしい迫力を持つ。

石垣の傾斜、広い堀、防御と美観の両立。高虎の普請は、ただ高く積むだけではない。敵を止め、城下を整え、見る者に政権の重さを知らせる。今治城で高虎は、海を味方につけた城づくりを近世の舞台へ押し出した。今治城は、高虎が武将から築城王へ変わったことを示す代表作である。

「上下疑いこれあるときは心離れ申候」

—— 高虎が家臣に残したとされる教訓——上下の信頼こそ組織の要
04関ヶ原の決断SEKIGAHARA

関ヶ原の戦い——東軍を選んだ政治的判断

関ヶ原合戦・東軍として参戦(AI生成イメージ)
関ヶ原合戦・東軍として参戦 · AI生成イメージ

慶長五年(1600年)、天下分け目の関ヶ原で、高虎は早くから徳川家康の東軍に与した。豊臣政権で地位を得た武将が、次の政権の中心へ身を寄せる。ここでも高虎は、戦場の前から勝負の流れを読んでいた。

本戦では京極高知らとともに東軍左翼縦隊の第二陣に布陣する。大谷吉継隊所属の平塚為広隊と激しくぶつかり、午後には小早川秀秋隊の東軍寝返りと連動して大谷隊本陣を撃破した。関ヶ原の実戦でも、高虎は東軍の勝利へ確かな働きを刻んだ。

同時に、高虎は毛利秀元・吉川広家ら南宮山勢の動向を諜報・調略で抑える密命にも携わった。正面で戦うだけではなく、動かない敵を動かさないまま封じる。この二重の仕事が、高虎の政治的な鋭さを際立たせる。

「家康こそ次の天下人」という読みは、戦後すぐ形になる。高虎は伊予今治二十万石余に加増され、家康の信頼を得て、江戸城、駿府城、名古屋城、丹波篠山城などの天下普請へ深く関わっていく。関ヶ原は、高虎にとって武功の戦場であると同時に、徳川政権へ入る大きな門だった。東軍を選んだ高虎は、合戦の勝者で終わらず、幕府の城づくりを任される実務の大名へ進んだ。

05津藩の創設TSU DOMAIN

伊勢津藩三十二万石——幕藩体制の礎を築く

伊勢津城・藩政の拠点(AI生成イメージ)
伊勢津城・藩政の拠点 · AI生成イメージ

慶長十三年(1608年)、高虎は伊勢・伊賀へ転封され、伊勢津藩の藩祖となった。当初の石高は二十二万三千九百五十石余。元和三年(1617年)以降には加増を重ね、三十二万石余へ伸びていく。近江の下級武士から出た男は、ついに大藩の始祖に立った。

高虎は津城を大規模に改修し、城下町を整備して商業・産業の振興を図る。城は戦うための拠点であると同時に、人と物を動かす都市の中心でもある。津城と城下町を組み直す仕事に、高虎の実務家としての顔がよく出ている。

伊賀上野城の大改修も進められた。大坂方への押さえとして、伊賀の地を軍事的に固めるためである。慶長十九年(1614年)の大坂冬の陣、元和元年(1615年)の大坂夏の陣にも出陣し、高虎は豊臣氏滅亡の場面に立ち会った。

外様でありながら、高虎は家康の側近として遇され、家康・秀忠・家光の三代に近侍した。津藩の創設は、単なる転封ではなく、高虎が徳川の時代に自分の居場所を築き切った到達点である。 現在の津市へ続く城下町の骨格も、この治世の上に重なっている。伊勢津藩三十二万石は、高虎の戦場・普請・政務が一つに結んだ大きな成果である。

06晩年と遺産LEGACY

三代将軍に仕えた晩年——築城王の遺産

晩年の藤堂高虎・伊賀上野城(AI生成イメージ)
晩年の藤堂高虎・伊賀上野城 · AI生成イメージ

寛永七年(1630年)十月、藤堂高虎は江戸で病没した。享年七十五、数え年である。戦死でも自害でもない。姉川の初陣から豊臣政権、関ヶ原、大坂の陣、徳川三代の時代までをくぐり抜け、長い生涯を全うした。

晩年の高虎の名を支えたのは、全国各地に残した城郭群だった。今治城、津城、伊賀上野城をはじめ、高虎が設計・築城に関わった城は二十棟以上と語られる。城を築く力は、もはや一大名の趣味や得意技ではない。幕府の軍事と都市づくりを支える国家的な実務だった。

高虎の後には、伊勢津藩三十二万石の基礎が残る。津城下には町の骨格が残り、伊賀上野城には高石垣の迫力が残り、今治城には海城の発想が残った。城は石でできている。だが高虎の城は、乱世から近世へ移る時代そのものを形にした。

近江の与吉は、三代将軍に近侍する外様大名となり、幕藩体制の足場へ自分の名を刻んだ。築城王の生涯は、戦場で華々しく散るのではなく、江戸で静かに長寿を閉じたところに重みがある。藤堂高虎の晩年は、乱世を読み抜いた武将が、城と藩を遺して近世へ着地したコーダである。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-05-06

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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