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鳥取城の山城と包囲陣を描いたAIによる想像図。建物や配置の復元図ではない(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

鳥取城の戦い|兵糧攻めの期間と「鳥取の渇殺し」の実像

鳥取城の戦いは1581年。豊臣秀吉(当時は羽柴秀吉)の兵糧攻めはいつからいつまで続いたのか。約100日の包囲、鳥取の渇殺し、人肉・脳みそに関する史料の記述、吉川経家の最期を出典とともに解説する。

1581年旧暦7月12日〜10月25日因幡国・鳥取城勝 羽柴秀吉(織田方)敗 吉川経家ら(毛利方)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
戦いの年
1581年
天正9年
包囲の期間
約100日
旧暦7月12日〜10月25日
戦場
鳥取城
因幡国・久松山
攻撃側
羽柴秀吉
のちの豊臣秀吉
城の守将
吉川経家
旧暦10月25日に切腹

この戦いの要点

  1. 兵糧攻めは約100日

    秀吉の本陣到着から開城までは旧暦7月12日〜10月25日。経家の在城約200日とは起点が違う。

  2. 飢餓の記録を読み分ける

    『信長公記』には人肉を食べたとの記述がある。「脳みそ」という現代の表現を原文と混同しない。

  3. 経家の死と開城

    経家は籠城した人々の助命を求めて切腹した。開城後にも食事を与えられた人々の死亡が記録される。

鳥取城の戦いはいつ?兵糧攻めの期間は約100日

鳥取城の戦いは、1581年(天正9年)、因幡国の鳥取城を羽柴秀吉が包囲した戦いである。秀吉はのちの豊臣秀吉。本陣に到着した旧暦7月12日から、城将・吉川経家が切腹して開城した10月25日まで、包囲は約100日、3か月余り続いた。食料の搬入を断って降伏に追い込んだことから、「鳥取の渇え殺し(かつえごろし)」として知られる。「鳥取の渇殺し」「鳥取の飢え殺し」とも表記される。「渇」の字があっても、水だけを断った戦法という意味ではない。

「兵糧攻めの期間は4か月」とする説明も見かける。7月から10月という月の並びと、実際に経過した日数を区別すると理解しやすい。さらに、経家が城へ入ったのは包囲が始まる前の3月である。入城からの在城期間と、秀吉が本陣に着いてからの包囲期間は同じではない。以下の月日は旧暦で示す。

いつ出来事期間を数える際の意味
1581年3月18日吉川経家が鳥取城に入る経家の在城の起点
6月25日秀吉軍が姫路から進軍を始める遠征の開始。鳥取城への到着日ではない
7月12日秀吉が本陣山に到着する本記事で包囲期間を数える起点
10月25日経家の切腹と鳥取城の開城包囲の終わり

経家の子ども宛ての書状には「二百日」とある。これは3月の入城から耐えてきた日々を述べたもので、秀吉の兵糧攻めが200日続いたという意味ではない。到着日・入城日・開城日を混ぜると、同じ戦いでも期間が倍近く違って見えてしまう。日付は鳥取市歴史博物館の進軍解説と経家の書状を掲載した解説を照合した。

なぜ豊臣秀吉は鳥取城を攻めたのか

この時点の秀吉は天下人ではなく、織田信長のもとで中国地方の攻略を進める武将だった。鳥取城を支援していたのは、西の毛利氏である。因幡の拠点を押さえる戦いは、織田と毛利の勢力争いの一部だった。「豊臣秀吉の鳥取城攻め」という呼び方は人物を特定するには便利だが、当時の名は羽柴秀吉である。

秀吉が鳥取城を攻めるのは初めてではない。前年の1580年にも攻撃し、城主の山名豊国はいったん秀吉と和睦していた。その後、豊国と城内の家臣たちの方針が分かれ、豊国は城を離れる。鳥取城の側は毛利方の支援を求め、石見吉川氏の吉川経家が守将として迎えられた。1580年の攻撃と、翌年の「渇え殺し」は区別しておきたい。

経家は1581年3月18日に入城した。鳥取市歴史博物館は、経家が率いた人数を400人、城兵をおよそ2,000人と説明する。一方、籠城人数には避難してきた人々も関わり、後世の記録には別の数字がある。兵の数と城内にいた人の総数を、そのまま同じ数字として扱うことはできない。このため、軍勢の規模だけを比較して勝敗を説明するのは難しい。城の防御力に加え、何人分の食料をどれだけ確保できたかが問題となった。(同館の入城・籠城解説)

周辺の村々も、一様に城へ逃げ込んだわけではない。博物館が紹介する北村家文書には、前年の段階で秀吉方に敵対せず、保護を受けた村の記録がある。抵抗する村もあれば、侵攻する軍と関係を結ぶ村もあった。すべての村が焼かれ、全住民が一斉に城へ追い込まれたという筋書きにはまとめられない。(同館の村々の動向に関する解説)

鳥取城の包囲陣で情勢を見る羽柴秀吉。顔は本サイトの武将記事を参照したAIによる想像図

兵糧攻めの仕組み――城の補給路を断ち、自軍の食料を運ぶ

鳥取城は久松山の山上に築かれた城だった。山城を正面から攻めれば、攻撃側にも損害が出る。秀吉は周辺に陣を構え、堀や柵などで城を囲み、外から食料が届く経路を断った。本陣を置いた山は、現在、太閤ヶ平(たいこうがなる)と呼ばれる。包囲には宮部継潤や黒田官兵衛らが加わった。

陸の包囲だけでは足りなかった。鳥取城の北側には毛利方の支城があり、城外と連絡する経路が残っていたからである。宮部継潤は、鳥取城と丸山城の間にある雁金尾城(雁金山城)を奪い、鳥取城を孤立させた。ここで重要なのは、中間の拠点を押さえて連絡を断った点である。丸山城まで同時に奪った、とまとめると戦況が違ってしまう。丸山城にいた塩冶高清は、終盤の降伏交渉にも関わっている。(鳥取市歴史博物館の雁金尾城解説)

海上でも、細川藤孝の家臣・松井康之が、鳥取城の支援に使われる船などを攻撃した。毛利方の救援を、城のすぐ外だけでなく、より広い範囲で妨げていたのである。吉川元春らを後ろ盾とした城方も、包囲を破って十分な補給を受けることはできなかった。

その一方で、囲む側も食べ続けなければならない。『信長公記』は、秀吉方が丹後・但馬から海路で兵糧を運んだことを記している。城内へ届く食料は断ち、自軍へ届く食料は保つ。その差が、長い包囲を可能にした。兵糧攻めは、兵を置いて待つだけの戦いではなかった。補給の拠点を押さえる戦闘と、船や人足による日々の輸送が必要だった。

海路で届いた米俵を陸揚げする秀吉方の輸送を描いたAIによる想像図。特定の港の復元図ではない

米の買い占めは本当か――黒田官兵衛の発案説

鳥取城の兵糧攻めには、秀吉が米を高値で買い集め、城方まで蓄えを売ってしまったという有名な話がある。ただし、話の広まりと、史料で確認できる範囲は別である。少なくとも本記事で確認した『信長公記』の出陣・落城記事は、包囲と輸送、城内の飢餓を記すもので、米買い占めの具体的な手順を裏づける記述ではない。

さらに「米の買い占めを黒田官兵衛が進言した」とする説には注意が要る。鳥取県の県史解説は、この逸話を裏づける史料はないと指摘している。官兵衛が包囲に関わったことは、毛利方の人物による後年の覚書や、戦功を申し立てる文書から検討できる。しかし、出陣していたことから、作戦全体の発案者だったとはいえない。(鳥取県「秀吉の鳥取城攻めと黒田官兵衛」)

買い占めが一切なかったと断定するのも、確認した史料の範囲を越える。ここでは、買い占めの逸話を留保したうえで、陸海の補給を断つ包囲が城内を飢餓へ追い込んだ、という経過を押さえたい。誰か一人の巧妙な策として語るより、複数の部隊が何を押さえたかを見るほうが、戦いの実態に近づける。

鳥取の渇殺しで人肉を食べたという記録はあるのか

人肉を食べたという記録はある。太田牛一の『信長公記』巻14には、鳥取城内で食料が尽き、草木や牛馬を食べる段階を経て、人の肉まで食べたとする記述が残る。城には兵だけでなく、周辺から逃げ込んだ人々もいた。戦闘を続けるための兵糧不足が、避難した人々の生命にも及んだことを伝える記事である。

ただし、この記述を城内の全員の行動とみなすことはできない。人数や頻度が調査されているわけでもない。牛一は信長の時代を生きた記録者だが、それだけで城内の個々の場面を直接目撃したことにはならない。「当時を伝える史料に人肉食の記述がある」と、「その細部や規模まで確定している」は分けて読む必要がある。

『信長公記』の該当部分は、鳥取県医師会報第851号の論考(本文42頁)に掲載された原文引用で確認した。原本そのものを閲覧したわけではない。また、鳥取市歴史博物館の史料解説は、後世の『太閤記』や『因幡民談記』にも飢餓の記述があることを紹介する。後の本が先の記録を引いている場合、同じ話が複数の本にあることを、独立した目撃証言の数に置き換えることはできない。

「鳥取の渇殺し」という言葉からは、凄惨な場面だけが連想されやすい。だが、史料が伝えるのは、食料を失った人々が城外へ出ることも難しい状況だった。刺激的な細部を増やすより、食べるものと逃れる道を同時に失った包囲の結果として読むべき記録である。

食料の乏しくなった城内を、空の籠と椀で表したAIによる想像図。実在の蔵や人物の復元ではない

「脳みそ」の話は『信長公記』にどう書かれているか

「鳥取城の戦いで脳みそを食べた」という説明は、人肉食の記述のうち、頭を奪い合ったとする箇所に結びついている。ただし、確認した原文に「脳みそ」という語はない。書かれているのは「頭」である。

該当箇所には「取分け頭能きあぢはひありと相見へて」とある。頭を特に好んだように見えた、という趣旨で、続いてそれを奪い合った様子を記す。ここには書き手の解釈も含まれる。現代の文章でこれを「脳みそが一番おいしかった」と言い切れば、部位を限定し、推量まで確定した評価へ変えてしまう。

本記事では、頭に関する記述があることを示しつつ、その内容を「脳みその味」が実証されたかのようには扱わない。原文の語、現代語への言い換え、出来事がどこまで確かなのかは、それぞれ別の問題だからである。人肉食の有無を考える根拠として重い記録であっても、一文から体験者の発言や感覚まで復元できるわけではない。(前掲『信長公記』巻14の引用、本文42頁)

吉川経家の最期――城内の人々を助けるための交渉

兵糧が尽きた経家は、籠城していた人々を助けるため、自分の切腹を申し出た。鳥取市歴史博物館が「石見吉川家文書」に基づいて説明するところでは、秀吉は当初、責任は因幡の武将たちにあり、経家にはないとして、その死を認めなかった。しかし交渉の末、経家らの切腹を条件に開城することになる。経家一人だけの死で決着したと単純化せず、城方の責任者をめぐる交渉だった点も見ておきたい。

10月24日と25日、経家は父や子どもたちに書状を残した。子ども宛ての書状では、兵糧が尽き、自分が人々を助けて一門の名を上げることを伝えている。そこにある「しあわせ」を、現代の「幸福」と読み替えるのは適切ではない。同館は、鳥取城へ出陣してからの一部始終を指すと解説している。家族に、自分の身に起きたことを聞き伝えてほしいという言葉だった。

交渉を経て、1581年10月25日に経家は切腹し、鳥取城は開城した。経家の決断は、命を助けるための交渉と、残される家の将来の両方に関わっていた。死を美談として結ぶだけでは、なぜ助命の交渉が必要になるまで追い込まれたのかが見えなくなる。秀吉が包囲を続けたことと、城内で人々が飢えたことは、この結末から切り離せない。(鳥取市歴史博物館の開城・書状解説、鳥取県立博物館の展示資料解説)

城内で書状を前にする吉川経家。顔と鎧兜は本サイトの武将記事を参照したAIによる想像図

開城後にも死者が出た――リフィーディング症候群の可能性

開城すれば、飢えによる被害もすぐ終わるとは限らなかった。『信長公記』には、城から助け出された人々に食物が与えられ、その後に多くが亡くなったという記述がある。救出と給食が行われたことと、人々が無事に回復したことは同じではない。

2023年の医学論文は、この記録をリフィーディング症候群の可能性から検討した。長く栄養が不足した状態から急に栄養を摂ると、体液や電解質の変化によって重い障害が起こることがある。著者らは、鳥取城の開城後の死亡記事が、その古い記録に当たる可能性を論じている。(Kanoほか、The American Journal of the Medical Sciences、2023年)

ただし、当時の診療記録や検査結果に基づく診断ではない。全員の死因や、史料に書かれた死亡の割合まで確定できるわけではなく、秀吉が意図的に食事で殺したという証拠にもならない。後世の医学から説明できる可能性と、16世紀に何がどれだけ起きたかの確定は分けて考える必要がある。

鳥取城の戦いの結果と、城跡に残るもの

鳥取城の開城によって、秀吉は因幡の重要拠点を押さえた。戦後、城を任されたのは宮部継潤である。雁金尾城を奪って補給を断った武将が、その後の守備と支配も担った。ただし、戦直後に城番を命じられたことと、後に正式な所領を与えられたことは区別したい。

現在の鳥取城跡で見られる石垣や山麓の城郭を、そのまま1581年の姿と思い浮かべることもできない。城には宮部氏や江戸時代の池田氏による整備が重なっている。鳥取市の城跡パンフレットは、山城から近世城郭への変化を紹介している。久松山の城跡と、攻める側が使った太閤ヶ平の遺構をあわせて見ると、守る場所と包囲する場所の両方が残る戦場だと分かる。

戦後に鳥取城を任された宮部継潤を描いたAIによる想像図。顔は本サイトの武将記事を参照し、背景の門は創作

秀吉の中国攻めを続けて読むなら、三木合戦と備中高松城の戦いが関連する。時系列は戦国年表でも確認できる。鳥取城の約100日は、秀吉の勝利だけでなく、補給を断たれた兵と住民に何が起きたかを伝える期間でもある。

両軍の対比

HASHIBA

羽柴秀吉

大将:羽柴秀吉
総兵力二万余騎(『信長公記』の出陣記事)
出陣太閤ヶ平などの包囲陣
立場織田信長のもとで中国攻めを担当
包囲の諸将宮部継潤・黒田官兵衛ら
鳥取城を開城させる
KIKKAWA

吉川経家

大将:吉川経家
総兵力城兵約2千の説明あり(避難民の人数とは別)
出陣鳥取城と周辺の支城
城将石見吉川氏から派遣された経家
後援毛利氏・吉川元春
経家らの切腹を条件に開城
vs

戦況の経過

前年
1580年
最初の鳥取城攻め。山名豊国は秀吉と和睦するが、その後城を離れる
入城
1581年 旧暦3月18日
毛利方から派遣された吉川経家が鳥取城に入る
進軍
旧暦6月25日
秀吉軍が姫路から進軍を開始する
包囲
旧暦7月12日
秀吉が本陣山に到着。陸と海から鳥取城の補給を断つ
遮断
包囲戦の過程
宮部継潤が雁金尾城を奪い、鳥取城と丸山城の連絡を断つ
遺書
旧暦10月24〜25日
経家が父や子どもたちへ書状を残す
開城
旧暦10月25日
経家が切腹し、鳥取城は開城する

その後の世界

1581
宮部継潤が鳥取城を任され、秀吉のもとで因幡支配の再編が進む
1582
秀吉は備中高松城を攻め、その最中に本能寺の変が起こる
現在
鳥取城跡と太閤ヶ平の遺構が、城と包囲陣の歴史を伝える

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(1)
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  2. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(2)経家の入城
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  3. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(3)秀吉の進軍と包囲
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  4. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(4)雁金尾城と宮部継潤
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  5. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(5)飢餓を伝える史料
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  6. 切り絵で見る「天正9年鳥取城をめぐる攻防」(6)経家の書状と開城
    鳥取市歴史博物館 やまびこ館参照日 2026-10-11
  7. 鳥取の渇え殺しとリフィーディング症候群(補遺)/『信長公記』巻14の引用は本文42頁
    鳥取県医師会報 第851号(2026年5月)、竹内玄隨参照日 2026-10-11
  8. Hyoro-zeme in the Battle for Tottori Castle: The first description of refeeding syndrome in Japan
    The American Journal of the Medical Sciences(2023年、366巻6号、397–403頁)参照日 2026-10-11
  9. 館蔵品からみる秀吉の鳥取城攻め
    鳥取県立博物館参照日 2026-10-11
  10. 鳥取城跡に関するパンフレット
    鳥取市参照日 2026-10-11

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-11

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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