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三木城と周囲の付城を描いたAIによる想像図。建物や配置の復元図ではない(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

三木合戦|兵糧攻めの戦い方・場所・勝敗と三木の干殺し

三木合戦は1578〜1580年、現在の兵庫県三木市で起きた秀吉と別所長治の戦い。発生日と期間、兵糧攻め「三木の干殺し」の戦い方と勝敗、荒木村重の離反、竹中半兵衛の死、鳥取の飢え殺しとの違いを解説する。

1578–1580年1578年旧暦3月〜1580年旧暦1月播磨国・三木城(現・兵庫県三木市)勝 羽柴秀吉(織田方)敗 別所長治戦国ジャーナル編集部戦いを読む
開戦
1578年
旧暦3月初め
戦いの期間
約1年10か月
1580年旧暦1月まで
現在の場所
兵庫県三木市
三木城と周辺の丘陵
付城の推定総数
約40か所
全てが現存するわけではない
勝利した側
羽柴秀吉
別所長治らの自害・開城

この戦いの要点

  1. 約1年10か月の包囲戦

    1578年3月初めに始まり、1580年正月17日に開城。場所は現在の兵庫県三木市。月日は旧暦で示す。

  2. 補給路をめぐる戦い

    秀吉方は付城を増やし、食料の搬入を阻んだ。別所方の出撃や救援軍との戦闘、終盤の城への攻撃もあった。

  3. 秀吉方の勝利と長治の死

    城内の飢えと攻撃が重なるなか、別所長治らは城兵の助命を条件に自害した。長期の抵抗は終わった。

三木合戦とは――読み方・いつ・場所・勝敗

三木合戦(みきかっせん)とは、天正6年(1578年)から天正8年(1580年)にかけて、播磨の三木城をめぐって羽柴秀吉と別所長治が戦った合戦である。場所は現在の兵庫県三木市。約1年10か月に及ぶ包囲の末、秀吉方が勝利した。城への食料を断つ兵糧攻めは「三木の干殺し」と呼ばれる。

城が開いたのは、1580年正月17日だった。別所長治らが城兵の助命を条件に自害し、長い抵抗は終わる。しかし、それまで秀吉軍がただ待っていたわけではない。城を囲む砦の構築、兵糧を運び込む側との戦闘、城の一部への攻撃が重なっていた。

知りたいこと三木合戦の基本
読み方みきかっせん
発生日・開始時期天正6年(1578年)3月初め。特定の日までは断定しない
終了日天正8年(1580年)正月17日
期間約1年10か月
場所播磨国の三木城と周辺。現在の兵庫県三木市
戦った相手羽柴秀吉ら織田方と、三木城主・別所長治ら
主な戦い方付城による包囲と補給路の遮断。出撃・救援・城攻めも伴う
勝敗秀吉方の勝利。長治らが自害し、三木城が開城

年月日は三木市立みき歴史資料館の合戦解説に基づく。本記事の月日は旧暦で、西暦の年に対応させて示した。現在のカレンダーの1月17日と、そのまま同じ日付になるわけではない。前後の出来事は戦国年表の三木合戦でも確認できる。

三木城の場所――美嚢川と丘陵に守られた城

三木城は、美嚢川(みのうがわ)の南側、三木台地の北端にあった。現在の上の丸町を中心とする一帯である。本丸や二の丸に加え、新城・鷹尾山城・宮ノ上要害などが並び、城の南にも防御の拠点を置いていた。

三木市の解説では、城の規模は東西約600メートル、南北約700メートル。南側には山と谷があり、ほかの三方は崖に囲まれていた。城兵は一つの建物に閉じこもっていたのではなく、地形を利用した複数の区画で守っていたのである。

また、石垣で固めた近世の城を思い浮かべると、当時の姿を取り違える。同館は、石垣が確認できない土造りの大規模城郭と説明する。瓦葺きの建物や堀の跡は見つかっているが、現在の城跡にある「伝天守台」を根拠に、合戦当時の壮大な天守を復元できるわけではない。地形と発掘成果は三木城跡の解説に詳しい。

なぜ始まったのか――別所長治の離反

長治は、初めから秀吉の敵だったわけではない。織田方に属していた別所氏が1578年3月初めに毛利方へ転じ、秀吉の播磨攻略を阻む側に回った。秀吉は周辺へ兵を進め、三木城とその支城を攻めることになる。

離反の理由として有名なのが、加古川での評定で秀吉と別所方が対立したという話である。ただ、この口論だけで長期の軍事対立を説明するのは難しい。別所氏が保ってきた地域支配と、織田方が進める播磨の統制を考える必要がある。

近年、この問題を考える材料となったのが「羽柴家文書写」である。兵庫県立歴史博物館などが2024年に発表した文書群で、秀吉に関わる書状の写しが含まれる。三木市の2026年5月の解説は、別所家中の八つの城の破却をめぐる対立を、離反の大きな要因とみる新たな見方を紹介している。

城を壊すことは、その城に拠点を持つ領主の軍事力を削ることでもあった。個人同士の相性に加え、誰が城と土地を支配するのかが争われたのである。ただし、これも長治の動機をすべて言い尽くす説明ではない。毛利氏や本願寺との関係も含め、複数の事情が重なった離反として捉えたい。

兵糧攻めの戦い方――付城で包囲を狭める

兵糧攻めとは、敵へ届く食料を断ち、戦い続ける力を奪う方法である。三木では「付城(つけじろ)」が重要な役割を果たした。敵の城の外側に築く砦で、城から出る兵を監視し、援軍や物資の通過を阻む拠点となる。

秀吉方はまず、三木城だけを狙うのでなく、別所方の支城を攻略した。1578年4月には野口城、7月には神吉城や志方城が落ちる。城同士が支え合う範囲を狭めたうえで、7月下旬から三木城の周囲に付城を築いた。織田信忠もその構築に関わり、秀吉は平井山を本陣とした。

包囲は一度で完成していない。三木市立みき歴史資料館は、付城の構築を大きく3段階に分ける。初期の包囲、城外からの補給を防ぐ包囲、そして城の近くへ迫る包囲である。

段階時期包囲の変化
初期の付城1578年7月下旬〜8月中旬信忠らが美嚢川を挟んだ北側などに付城を築く
補給路への対処1579年4月〜6月ごろ付城を増設し、南側の外周にも砦や土塁を整える
城に迫る包囲1579年10月以降三木城の近くへ付城を進め、終盤の攻撃につなげる

付城は東西約6キロメートル、南北約5キロメートルの範囲に分布し、総数は約40か所と推定される。これは、現在そのまま40城が残っているという意味ではない。各地点の遺構を調べる考古学的な検討と、史料から見積もる全体像には違いがある。

平井山の陣所で三木城攻めにあたる羽柴秀吉の想像図。具体的な会議場面の復元ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

補給路と平田・大村合戦――包囲する側にも犠牲

三木城が長く持ちこたえた背景には、城外から兵糧を運び入れようとする動きがあった。毛利方などと結ぶ別所方にとって、包囲の外とつながる道を保つことが重要だった。

1579年5月下旬、秀吉方は丹生山や淡河城を攻略し、三木城の東方からの補給路を断った。その後、焦点となるのが南西の海側である。明石浦や魚住の港から陸揚げした物資を、三木へ運び込もうとする経路が残っていた。東側の丹生山・淡河と、南西側の魚住を、一続きの一本道として描くのは正確ではない。

秀吉方は、この搬入を防ぐためにも付城や番小屋を置き、堀・柵・土塁を組み合わせた。守備兵を置くだけでなく、それぞれの砦の間を通らせない構えが必要だったのである。それでも、救援する側は輸送を試みた。

1579年9月10日の平田・大村合戦は、その補給をめぐる戦闘だった。城外の搬入部隊に呼応して別所方が三木城から出撃し、秀吉方と衝突する。秀吉方の谷衛好(谷大膳)が討ち死にした一方、別所方も損害を受け、包囲を破るには至らなかった。

兵糧の俵を運ぶ人々と道を見張る柵を描いた想像図。平田・大村の地形や輸送隊の復元ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

城からの反撃は、これ以前にもあった。1578年10月には別所方が平井山方面へ出撃している。三木市の解説によると、迎え撃ったのは羽柴秀長の軍勢で、別所方では長治の弟・治定が戦死した。兵糧攻めを支えたのは、こうした城外の戦いでもあった。砦を造れば、その後は戦わなくてよいという戦法ではなかったのである。

荒木村重の離反と黒田官兵衛の幽閉

三木合戦の途中、秀吉方には別の難題が生じた。1578年10月、摂津の荒木村重が織田信長に背き、本願寺・毛利方と結んだ。有岡城を拠点とする村重の離反によって、播磨だけでなく、その東にある摂津でも戦いが起きた。

伊丹市の解説では、信長は秀吉や明智光秀、黒田官兵衛を村重の説得に当たらせた。しかし、官兵衛は有岡城で幽閉される。福岡市博物館が紹介する黒田家の史料にも、この時期に父を失いかねなかった松寿丸と、残された家臣たちの動きが表れている。

官兵衛が三木の包囲を終始指揮した、と説明すると、この拘束期間が抜け落ちてしまう。秀吉陣営の人物の役割は、時期ごとに変わっていた。三木城を攻める戦いと、村重を屈服させる戦いは同時に進んだが、同じ城で起きた出来事ではない。

村重は1579年9月に有岡城から尼崎へ移り、援軍を求めて抗戦を続けた。有岡城が開くのは同年11月である。城を離れた事情や家族のその後は、有岡城の戦いで詳しく扱っている。

1578年ごろ、播磨と摂津の交渉に関わった黒田官兵衛の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

竹中半兵衛は三木合戦の途中で病没した

竹中半兵衛こと竹中重治も、三木城攻めに加わった一人である。垂井町の文化財解説は、半兵衛が秀吉を補佐し、敵方の武将を味方に引き入れる調略でも働いたと伝える。

その半兵衛は、1579年6月13日に病没した。36歳とされる。療養のため京都へ移ったのちに陣へ戻り、平井山で最期を迎えたという。死去した日は、三木市立みき歴史資料館の合戦の経過とも一致する。

決着は、まだ先だった。半兵衛は9月の平田・大村合戦も、翌年正月の開城も見届けていない。そのため、長治の降伏交渉の場で半兵衛が指揮するような説明は、時系列に合わない。また、城内を襲った飢えと、包囲する側にいた半兵衛の病死も分けて考える必要がある。

半兵衛と官兵衛を一組の「両兵衛」として語ると、二人がそろって全期間の作戦を立てたように見えやすい。しかし三木合戦では、一人が病没し、もう一人は有岡城に拘束された。包囲を維持したのは、秀吉・秀長や信忠をはじめ、時期ごとに関わった諸将と兵たちであった。

三木の陣中で静養する竹中半兵衛の想像図。病状や臨終の場面を復元したものではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

勝敗と別所長治の最期――1580年正月の開城

1579年10月、秀吉方は三木城に近い場所にも付城を築き、包囲を狭めた。城内では食料が尽き、飢えが深刻になっていた。だが、最終局面にも実際の攻撃があったことを見落とせない。

1580年正月6日、秀吉方は宮ノ上要害を奪い、11日には鷹尾山城や新城を攻めた。三木市の解説は、長治が決断を下すころには、秀吉・秀長らが城内へ攻め入っていたとする。食料の不足に加え、守る範囲も失われていたのである。

正月15日には降伏交渉が進む。城兵の助命と引き換えに、長治、弟の友之、叔父の吉親(賀相)が自害することが条件となった。そして正月17日、三木城は開城した。三木合戦の勝者は秀吉方であり、別所長治の側は敗れた。

長治の最期は、命を差し出して城兵を救った城主の物語として語り継がれている。ただ、助命を条件とした交渉があったことと、籠城中の人々が被害を受けずに済んだことは別である。長い飢えと戦闘を経たうえで、開城の条件が結ばれた。勝敗だけでも、美談だけでも、この経過は捉えきれない。

三木城内の別所長治を描いた想像図。降伏交渉や最期の具体的な姿を示すものではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

三木の干殺しと鳥取の飢え殺しの違い

「三木の干殺し」は、三木合戦で行われた兵糧攻めを指す呼び名である。「三木の干し殺し」とも書かれる。一方、「鳥取の飢え殺し」は、1581年の鳥取城の戦いで知られる兵糧攻めを指す。「鳥取の渇え殺し」「鳥取の渇殺し」という表記も使われる。

どちらも羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)が城への食料を断った戦いだが、場所、相手、期間は異なる。

比較する点三木の干殺し鳥取の飢え殺し
戦い三木合戦鳥取城の戦い
場所播磨・三木城。現在の兵庫県三木市因幡・鳥取城。現在の鳥取県鳥取市
時期1578年3月〜1580年正月1581年7月〜10月
主な城将別所長治吉川経家
期間の目安約1年10か月秀吉の本格的な包囲から約3か月余
補給を断つ方法付城・土塁などで城と周辺の道を囲み、搬入を阻む陸上の包囲に加え、海上からの救援も阻む
結末長治らが自害し、正月17日に開城経家らが自害し、10月25日に開城

鳥取県の県史解説は、毛利側が軍事船で鳥取城を支えようとした経過を、書状から紹介する。船団は川口で秀吉方の水軍に阻まれ、9月には敗退した。鳥取でも、城を囲む兵だけでなく、救援する側とそれを止める側の戦いがあった。

つまり、両者に共通するのは「食料の入ってくる道を断つ」という狙いである。包囲にかかった時間や、港・川・丘陵をどう押さえたかは異なる。鳥取の期間や史料に残る飢餓の記述については、鳥取城の戦いを参照してほしい。

通説と俗説の射程――何を史料から言えるか

三木合戦を調べると、口論から離反した話、機転を利かせた軍師の話、飢えた城の悲劇などに出会う。どれも記憶に残りやすい。しかし、出来事の順序を確かめる史料と、人物像を描く後世の物語は、役割が違う。

離反の理由は、その違いがよく表れる論点である。加古川評定での対立を、確認できる唯一の原因とは扱えない。近年紹介された城の破却をめぐる見方も、文書がいつ、誰に向けて書かれ、どの形で残ったのかを確かめて読む必要がある。

「羽柴家文書写」の場合、合戦当時の書状を後世に写した史料である。兵庫県立歴史博物館の出品リストには、19世紀の序文や奥書も載る。新たに見つかった史料だからといって、秀吉の自筆原本がそのまま発見されたという意味ではない。それでも、書状の内容を既知の史料と照合することで、戦いの背景を考える材料が増える。

また、兵糧攻めを秀吉の鮮やかな作戦として語るだけでは、途中の戦闘や城内の被害が抜け落ちる。三木では付城の建設が段階的に進み、別所方は反撃し、補給部隊は包囲を破ろうとした。最初から最後まで、同じ状態で城を囲んでいたわけではない。

兵力や餓死者数も、細かな数字を並べれば正確になるとは限らない。本記事では、両軍の総人数を確定値にして比べていない。資料が支える年代と戦闘の経過を押さえることで、三木合戦が長引いた理由と、最後に抵抗を続けられなくなった過程を考えられる。

現在の三木城跡と付城跡

三木城は合戦後も利用されたが、1615年の一国一城令によって廃城となった。現在の城跡や周囲の丘陵には、合戦と城の歴史を伝える遺構が残る。「三木城跡及び付城跡・土塁」は、2013年に国史跡へ指定された。

城の中心だけでなく、攻めた側の付城や土塁も保存の対象になっている点が、この場所を理解する手掛かりになる。城へ近づく道と、それを外から押さえた砦を合わせて見ると、兵糧を運ぶこと自体が戦いだったと分かる。

位置関係は、三木市が公開する付城の配置図と三木城の縄張復元図でも確かめられる。城主の最後を伝える三木城跡と、包囲を担った周囲の遺構。その両方が、約1年10か月の戦いの跡を残している。

両軍の対比

HASHIBA

羽柴秀吉

大将:羽柴秀吉
総兵力総兵力は確定できない
出陣平井山本陣と周囲の付城
立場織田信長のもとで播磨を攻略
関係する諸将織田信忠・羽柴秀長・竹中半兵衛ら
戦い方包囲・補給路の遮断・城への攻撃
勝利・三木城を開城させる
BESSHO

別所長治

大将:別所長治
総兵力籠城人数は確定できない
出陣三木城と周辺の支城
連携先毛利氏・本願寺
城主の一族別所友之・別所吉親(賀相)ら
戦い方籠城・出撃・城外からの兵糧搬入
敗北・長治らの自害を条件に開城
vs

戦況の経過

離反
1578年 旧暦3月初め
別所長治が織田方から離れ、三木合戦が始まる
支城
旧暦4〜7月
野口城・神吉城・志方城などを織田方が攻略
付城
旧暦7月下旬〜
信忠らが付城を築く。秀吉は平井山を本陣とする
反撃
旧暦10月
別所方が平井山方面へ出撃。摂津では荒木村重も信長に背く
遮断
1579年 旧暦4〜5月
付城を増設し、丹生山・淡河方面からの補給路を断つ
陣没
旧暦6月13日
竹中半兵衛が病没。開城を見ることはなかった
補給戦
旧暦9月10日
平田・大村合戦。兵糧搬入をめぐる戦闘で秀吉方の谷衛好も討死
接近
旧暦10月
三木城に近い位置にも付城を築き、包囲を狭める
攻撃
1580年 旧暦正月6〜11日
宮ノ上要害を奪い、鷹尾山城や新城を攻める
開城
旧暦正月17日
別所長治・友之・吉親らの自害により三木城が開城

その後の世界

1580
三木城開城により、秀吉の播磨攻略が進む
1581
因幡の鳥取城でも兵糧攻めが行われ、旧暦10月25日に開城
1615
三木城は一国一城令によって廃城となる
2013
三木城跡及び付城跡・土塁が国史跡に指定される

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 三木合戦(開戦から開城までの経過)
    三木市立みき歴史資料館参照日 2026-10-11
  2. 三木城跡及び付城跡・土塁の概要(付城構築の3段階)
    三木市立みき歴史資料館参照日 2026-10-11
  3. 三木城跡(立地・構造・発掘調査)
    三木市立みき歴史資料館参照日 2026-10-11
  4. 新発見!秀吉文書を読む(2024年特別展)
    兵庫県立歴史博物館参照日 2026-10-11
  5. 村重のその後と村重の家族
    伊丹市参照日 2026-10-11
  6. 竹中半兵衛重治
    垂井町文化財参照日 2026-10-11
  7. 三木城跡及び付城跡・土塁
    文化庁・文化遺産オンライン参照日 2026-10-11

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-11

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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