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紀州征伐|1585年の豊臣秀吉と秀長、信長との違い
紀州征伐とは、1585年に豊臣秀吉が紀伊の根来衆・雑賀衆を攻めた戦い。いつ、なぜ起きたのかを、太田城の水攻めと高野山の交渉から解説する。豊臣秀長の役割、織田信長の1577年の紀州攻めとの違いもたどる。
この戦いの要点
1585年、秀吉による紀伊平定
秀吉は旧暦3月21日に出陣。根来衆・雑賀衆などを攻めた。信長の1577年の雑賀攻めとは別の戦役である。
太田城は水攻めで開城
宮井用水を利用して城を包囲。4月22日の開城後、指導者は処刑され、残る百姓らは武装解除のうえ赦免された。
秀長が戦後の支配を担う
秀吉の弟・秀長は征伐に参加し、戦後は紀伊支配と和歌山城の築城に関わった。続く四国征伐では総大将を務める。
紀州征伐とは、いつ起きた戦いか
紀州征伐とは、天正13年(1585年)3〜4月に、豊臣秀吉が紀伊の根来衆・雑賀衆などを攻めた戦役である。秀吉は3月21日に大坂を出陣し、根来寺の焼失、太田城の水攻め、高野山との交渉を経て、紀伊の支配を組み替えた。太田城が開城したのは4月22日である。本記事の月日は、当時の暦である旧暦で記す。
「豊臣秀吉の紀州征伐」として知られるが、1585年当時の秀吉は羽柴秀吉で、豊臣の姓を得るのは翌1586年である。弟の豊臣秀長は、この1585年ごろに長秀から秀長へ名を改めたとされる。本記事では広く知られる秀長の名を使い、当時の文書を扱う箇所は羽柴の名字で表記する。
また、紀州攻めという言葉は、織田信長が1577年に行った雑賀攻めにも使われる。同じ紀伊を舞台とするため混同しやすいが、出兵した年も、戦いの背景も異なる。まずこの二つを区別すると、秀吉が何を変えたのかが見えてくる。
織田信長の紀州攻めとの違い
信長の紀州攻めは天正5年(1577年)の戦いである。当時、信長は石山本願寺と争っており、本願寺を支援する雑賀衆を攻撃した。雑賀衆は、紀ノ川河口付近を拠点に、鉄砲や水運を用いて戦った人々として知られる。
ただし、雑賀衆の全員が一つの意見で動いていたわけではない。和歌山県立博物館の展示解説は、信長が雑賀の宮郷・中郷・南郷に与えた朱印状を紹介している。同じ地域のなかにも、信長に協力する側があったのである。
| 比べる点 | 信長の紀州攻め | 秀吉の紀州征伐 |
|---|---|---|
| いつ | 1577年(天正5年) | 1585年(天正13年) |
| 中心人物 | 織田信長 | 羽柴秀吉、弟の秀長ら |
| 主な背景 | 石山本願寺を支える雑賀衆との対立 | 小牧・長久手の戦いに連なる畿内周辺の対立 |
| 主な経過 | 雑賀を攻め、講和して撤兵 | 根来寺焼失、太田城水攻め、高野山との交渉 |
| 戦後 | 雑賀の諸勢力が存続 | 秀長による紀伊支配と和歌山城築城へ |
信長は雑賀側と講和して兵を引き、その後も雑賀の諸勢力は活動を続けた。協力する地域を得た一方、紀伊全域の恒久的な支配には至っていない。1585年の秀吉は、軍事的な服属に加えて、城と領主を軸とする戦後の支配を進めた。戦いの結果を比べると、領地を誰が治めるかという違いが浮かぶ。
秀吉はなぜ根来衆・雑賀衆を攻めたのか
紀伊には根来寺、高野山、雑賀の地侍など、土地や人々をまとめる複数の勢力があった。根来寺の周囲には多くの坊院が広がり、地域の有力者と結びついた僧たちが活動していた。宗教、土地の支配、軍事が重なり合う地域だったのである。
天正12年(1584年)、秀吉は小牧・長久手の戦いで徳川家康・織田信雄方と対立した。このころ、根来衆・雑賀衆の一部も秀吉方と敵対し、和泉南部では岸和田を拠点とする中村一氏らと衝突している。貝塚市の文献解説も、紀州征伐の前年から続く攻防を取り上げる。
秀吉の本拠である大坂から見れば、和泉南部と紀伊北部は近い。各地へ遠征を広げる秀吉にとって、すぐ南にある敵対勢力は軍事上の課題となった。紀州征伐は、前年までの戦争と地域の対立を引き継いだ出兵である。
その準備は文書にも残る。和歌山県立博物館所蔵の秀吉朱印状には、3月21日の紀伊出陣に先立って、大坂へ集まるよう命じる内容がある。秀吉が日程を示して軍勢を集めていたことを確かめられる史料である。
千石堀城の攻防から根来寺の焼失へ
3月21日、秀吉は大坂を出陣した。南へ進む軍の前にあったのが、和泉の千石堀城である。現在の大阪府貝塚市に位置し、近木川左岸の丘陵に築かれた城だった。紀伊へ入る前の和泉南部も、この戦役の重要な舞台となった。
貝塚市が紹介する『貝塚御座所日記』は、この日に千石堀城が攻められて焼かれ、城方だけでなく攻め手にも多くの死者が出たと伝える。城は短期間で落ちたが、無抵抗の攻略ではない。周辺の積善寺城や沢城では仲介による開城も行われており、すべての城が同じ経過で落ちたわけではなかった。
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3月23日には根来寺の伽藍の大半が焼失した。文化庁の遺跡解説は、この戦いによる焼失と、発掘で確認された焼けた痕跡を取り上げている。多くの坊院を抱えていた寺にとって、建物と活動の基盤を失う大きな打撃だった。
大きな被害のなかで、大塔や大師堂などは焼失を免れた。根来寺の公式な略年表は、これらの建物の残存と、江戸時代に進められた復興を伝える。大半の伽藍を失った1585年を境に寺の状況は変わったが、信仰の場としての歴史はその後も続いていく。
太田城の水攻めはどう行われたのか
諸城が降った後も、太田左近宗正らは太田城に籠もって抵抗を続けた。現在の和歌山市にある太田・黒田遺跡の周辺で、来迎寺付近には本丸跡の伝承がある。千石堀城の丘陵とは異なり、太田城の舞台は低地であった。
秀吉方は城の周囲に堤を築き、水をためて包囲する方法をとった。和歌山市の文化財マップは、宮井用水を利用した水攻めとして説明する。「紀ノ川の本流をそのまま城へ流した」と想像するより、既存の用水と築いた堤を組み合わせた土木工事として捉えるほうが、地形との関係を理解しやすい。
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水攻めの目的は、城と周辺との往来を妨げ、籠城を続けにくくすることにあった。建物すべてが水の底へ沈まなければ成立しない戦法ではない。城の周囲に水を保つには、流入量だけでなく、堤が水圧に耐えられるかも問題になる。
実際、和歌山市の解説には堤の決壊と修築が記されている。秀吉方は壊れた箇所を直しながら包囲を続けた。用水を扱い、土を積み、その堤を維持する。水攻めを続けるには、工事を担う人々の労働が必要だった。
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秀吉の水攻めは、1582年の備中高松城の戦いでも知られる。備中高松城、太田城、忍城は「日本三大水攻め」として紹介されるが、それぞれの川、地形、堤の配置は異なる。太田城では、宮井用水や和歌山平野の低地という、その場所の条件を利用したのである。
4月22日の開城と武装解除
太田城は4月22日に開城した。秀吉の出陣から約一か月が経過していた。戦いの結末は、城にいた全員の処刑でも、全員の無条件な助命でもなかった。
和歌山市の来迎寺・小山塚の解説は、指導者である武将約50人が処刑され、残る百姓らは武装解除のうえ赦免されたと説明する。太田城史跡顕彰保存会は、その人数を53人と伝える。細かな人数には史料や伝承の扱いが関わるが、指導者の処罰と、その他の人々を武装解除して帰す処置を区別することが大切である。
ここで行われた武器の取り上げは、1588年の全国的な刀狩より前の事例である。ただし、この開城処置だけで全国の兵農分離が完成したとはいえない。まずは、抵抗を終わらせた地域で、再び武器を持って戦う力を制限する措置として見るべきだろう。
来迎寺や小山塚には、籠城した人々と犠牲者の記憶が伝えられている。水攻めは秀吉の軍事的な成功として紹介されることが多い。その一方で、城の周辺に暮らし、戦争に巻き込まれた人々の歴史でもあった。
高野山と木食応其の交渉
高野山は、太田城とは異なる経過をたどった。秀吉から服属を求められ、木食応其(もくじきおうご)の斡旋によって交渉を進めたのである。
和歌山県立博物館所蔵の「羽柴秀吉事書写」
は、1585年4月の降伏勧告と、その後の関係を伝える資料である。交渉を経て高野山は存続したが、以前の寺領をすべてそのまま保ったわけではない。6月には寺領の処分と、秀吉による寄進が進められた。
寺領の制限と復興への支援が、ともに行われた点が重要である。秀吉は寺の軍事的・政治的な自立を抑える一方、宗教活動を支える側にもなった。応其は、この交渉と、その後の豊臣政権と高野山との関係をつなぐ人物となる。
根来寺の焼失と高野山の存続を並べるとき、単に「抵抗した寺は滅び、従った寺は無傷で残った」とまとめることはできない。根来寺は後に復興し、高野山も領地の再編を受けた。それぞれが失ったものと、残したものを分けて見る必要がある。
豊臣秀長の役割と和歌山城の築城
豊臣秀長は、紀州征伐への参戦に加え、戦後の紀伊支配を担った人物である。兄・秀吉の遠征を支え、その後は城と家臣を通じて地域を治める立場になった。紀州征伐の総指揮を執った秀吉と、続く四国征伐で総大将となる秀長の役割は、分けて押さえておきたい。
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戦後の拠点になったのが和歌山城である。和歌山城の公式解説によると、秀吉は岡山、別名虎伏山の地に城を築くよう秀長へ命じた。1585年に始まる築城には、秀長の家臣である藤堂高虎も関わった。
秀長が大和郡山へ移った後は、桑山重晴が和歌山城の城代となった。城代とは、領主に代わって城と周辺の管理を担う立場である。秀長自身が紀伊に居続けるのでなく、家臣を配置して領国を治めたことが分かる。
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ただし、現在の和歌山城の姿を、そのまま秀長が築いた城と考えることはできない。城は江戸時代にも改修され、天守は近代の焼失と再建を経ている。秀長の事績として確認したいのは、紀州征伐後の1585年に支配の拠点づくりを進めたことである。
兵力や堤の長さはどこまで分かるか
紀州征伐では「秀吉軍10万人」「太田城の籠城者5千人」「堤は全長数キロ」といった数字がよく紹介される。けれども、征伐に参加した全軍と、一つの城にいた非戦闘員を含む人数を、そのまま戦力比として比べることはできない。数字を見る際には、誰を、どの範囲で数えているかが問題になる。
堤にも、伝えられる総延長と、現地に残る遺構の寸法との違いがある。和歌山市の解説によると、出水に残る堤跡は長さ約66メートルで、調査によって水攻めに用いた堤である可能性が高いとされた。この66メートルは、当時の堤の全長を表す数字ではない。
現在の町並みから城と堤を一望するのは難しく、城の範囲にも伝承を含む部分がある。発掘で確かめられた痕跡、文書に残る出来事、地域で伝えられてきた説明は、それぞれ性質が異なる。本記事の画像も歴史情景の想像図であり、堤や城を実測に基づいて復元した図ではない。
紀州征伐から四国征伐へ
秀吉は4月26日に大坂へ戻った。翌27日付の前田利家宛書状には、雑賀方面での戦いを終え、前日に帰陣したことが記されている。後世の合戦物語だけでなく、秀吉自身が送った文書からも遠征の区切りを確認できる。
その後、秀吉は四国征伐へ進み、秀長らの軍が長宗我部元親を攻めた。豊臣秀次も、紀州と四国の戦役に参加した一門の将である。紀伊を押さえた後、秀吉方の軍事行動は海を越えて広がっていった。
紀州征伐は、根来寺の焼失と太田城の水攻めだけで終わる話ではない。秀吉が軍を送り、各地の勢力が戦い、あるいは交渉し、その後を秀長の領国支配につないだ戦役だった。豊臣秀吉の生涯や戦国時代の年表と合わせると、1585年の紀伊平定が天下統一の過程のどこに位置するのかをたどれる。
両軍の対比
羽柴秀吉
根来衆・雑賀衆など
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 豊臣秀次(日本大百科全書・山川日本史小辞典、紀州・四国への参戦)小学館・山川出版社/コトバンク参照日 2026-10-10
- 三館連携ミニ展示「絵本太閤記」と秀吉・秀長福井県文書館参照日 2026-10-10
- 羽柴秀吉朱印状(館蔵品976)和歌山県立博物館参照日 2026-10-10
- テンプス53号4ページ「文献から見た千石堀城」貝塚市参照日 2026-10-10
- 千石堀城跡貝塚市参照日 2026-10-10
- 根来寺境内文化庁・文化遺産データベース参照日 2026-10-10
- 根來寺の歴史総本山根來寺参照日 2026-10-10
- 特別展「紀州の戦国時代」展示のみどころ和歌山県立博物館参照日 2026-10-10
- 孫一と雑賀鉄砲衆ガイドブック和歌山市公開資料参照日 2026-10-10
- 羽柴秀吉書状(前田利家宛、天正13年4月27日付)高岡市立博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-10-10
- 太田・黒田遺跡周辺文化財マップ和歌山市参照日 2026-10-10
- 秀吉の紀州攻めから440年 〜太田城の戦いの舞台・来迎寺、小山塚〜和歌山市参照日 2026-10-10
- 太田城の歴史と顕彰活動太田城史跡顕彰保存会参照日 2026-10-10
- 羽柴秀吉事書写和歌山県立博物館・文化遺産オンライン参照日 2026-10-10
- 和歌山城の生い立ち史跡和歌山城参照日 2026-10-10
- 豊臣兄弟ゆかりの地を訪ねて(県民の友2026年6月号)和歌山県参照日 2026-10-10






