
森可成|宇佐山に散った織田の槍の三左衛門
「「攻めの三左」と恐れられた信長譜代の槍頭が、元亀元年九月、宇佐山城の麓に三千で三万を阻み、近江を死守して散った武将。」
森可成は、戦国の世にあって織田信長に最も信頼された古参譜代の一人である。「攻めの三左」「槍の三左」と恐れられた十文字槍の使い手として、稲生の戦いで信長の窮地を救い、美濃攻略の先陣を切り、上洛戦の鋒となって京への道を拓いた武辺者であった。
その生涯の頂点は、元亀元年(一五七〇)九月、近江の宇佐山城に置かれた。信長が摂津で三好と対峙して留守の最中、朝倉浅井三万の連合軍と比叡山延暦寺の僧兵が南近江へ雪崩れ込んだ。可成は手勢わずか三千で下坂本に布陣し、信長の弟・織田信治、青地茂綱と共に、十倍の敵を真正面から受け止めた。
九月十六日の緒戦は奇跡的に撃退したが、九月二十日の再戦で可成はついに討死を遂げる。享年四十八。彼が命を懸けて守り抜いた数日があったからこそ、信長は天下への道を辛うじて踏みとどまることができたのである。
森家には、後に「鬼武蔵」と恐れられる次男・長可、そして信長近習として本能寺に散る三男・蘭丸、四男・坊丸、五男・力丸、津山藩祖となる末子・忠政が遺された。父・可成の悲壮なる忠死は、戦国屈指の武門・森家のすべての原点となっている。
土岐と斎藤の狭間 — 槍一筋に生きた若き武辺者

森可成は、美濃の名門・土岐氏に二百年仕えてきた森家の嫡男として、大永三年(一五二三)に生まれた。父は森可行、その家は土岐氏の譜代の重みを背負っていた。
だが、可成が物心ついたころ、美濃の地はすでに静かではなかった。下剋上の渦中にあったのである。やがて美濃のマムシ・斎藤道三が主家の土岐頼芸を追い、二百年の主従の絆は無残に断ち切られた。父・可行は時流を読み、ひそかに尾張の織田氏へ接近し、織田への内応を進めていったと伝わる。
この父の決断こそが、若き可成の運命を分けた。やがて天文二十三年(一五五四)頃、可成は父とともに、織田信長に正式に仕えることとなる。三十路を前にした若武者は、新たな主君のもとで槍一筋にその身を立てていく道を選んだのである。
可成が手にしていたのは、関の刀工・関兼貞が鍛えたと伝わる長大な十文字槍であった。「攻めの三左」と呼ばれた猛勇は、この一本の十文字槍とともに、戦場で磨かれていったのである。美濃の譜代の血と、織田への新参の覚悟。この二つを背負って、森三左衛門の生涯は始まった。
信長が可成の討死に寄せたとされる言葉(一次史料未確認)比類なき御忠節なり
稲生に死力を尽くす — 信長を守った一槍

可成が信長家臣として頭角を現したのは、弘治二年(一五五六)の稲生の戦いであった。信長の弟・信行(信勝)が柴田勝家・林秀貞らを抱き込み、家督の簒奪を企てたあの事件である。
信長方の手勢は七百にも満たなかった。対する信行方は柴田勝家千、林秀貞七百を合わせて一千七百。数の上では絶望的な劣勢である。だがその信長方の前線に、佐久間盛重・佐久間信盛・前田利家・丹羽長秀らとともに、可成の姿があった。
可成は織田信房と並んで前線に立ち、十文字槍を振るって信行勢へと突き進んだ。清洲衆の土田大原を返り討ちにする奮戦ぶりで、戦局を信長方の勝利に引き寄せたのである。
この一戦は、若き信長にとって生きるか死ぬかの分水嶺だった。そして可成は、その分水嶺で命を賭して主君を守った数少ない譜代の一人となった。稲生で見せた死力こそが、可成と信長を生涯結びつける起点となったのである。主君が最も危うかった瞬間に共に槍を振るった事実は、譜代の重さとして以後も信長の胸に刻まれ続けた。
攻めの三左の戦場像槍を取って前へ。それが森三左衛門の役回りであった
古巣を斬る — 美濃攻略の先陣を切る

稲生で武勲を挙げた可成は、その後の信長の戦に欠かさず加わっていった。とりわけ、永禄四年(一五六一)以降に本格化した美濃攻略は、可成にとって特別な意味を持つ戦いであった。
美濃は、森家が二百年仕えた土岐氏の故地である。父祖の地に槍を向けることは、武将としての覚悟そのものを問われる選択だった。だが可成に迷いはなかった。すでに織田家中で「槍の三左」として確たる地位を築き、信長の信頼を一身に集めていたからである。
美濃の野や山を駆け、可成は信長の先鋒として斎藤義龍・龍興父子を追い詰めていった。森家が二百年にわたって築き上げた地縁・人脈は、この時期、織田方の調略にも生きたと伝わる。かつての同僚や旧主家ゆかりの土豪を、味方へと寝返らせる仕事は、外様の武将には不可能な役割だった。
永禄六年(一五六三)の新加納の戦い、永禄八年(一五六五)の堂洞合戦と、可成は東美濃の要地を次々と攻め取っていく。槍を取って先陣を切る戦場の働きと、旧縁を辿る調略の仕事を、可成は両輪で担い続けた。
美濃を斎藤氏の手から奪い取るための長い戦いは、永禄十年(一五六七)の稲葉山城陥落でついに決着を見る。かつての主家を打倒する戦いに身を投じた可成は、織田家中で美濃譜代の代表格としての地歩を確かにしていった。故郷を斬ってでも信長の天下を切り拓く。三左衛門の選択は、いつも信長と同じ方向を向いていた。
東美濃の要を握る — 金山城主となる

永禄八年(一五六五)、信長は東美濃の要衝・烏峰城を攻め取り、その城を金山城と改めて可成に与えた。三左衛門は、ここに東美濃の押さえを任される一国の主となったのである。
金山城は、木曽川の流れを望む山上の堅城であった。武田信玄が南進してくれば、その正面に立ちはだかる位置にある。武田と織田、二つの大勢力のあいだに身を置く要害を、信長は迷うことなく可成に預けた。
この拝領は、可成の働きに対する破格の報酬であった。同時に、信長が東美濃という最も危うい辺境を、誰よりも信頼する譜代に託したという事実でもあった。可成はこの城に妻・妙向尼と長子・可隆、次男・長可ら息子たちを迎え、森家の本拠を構えた。木曽川を見下ろす城下には、やがて家臣の屋敷町が築かれ、東美濃の物流の結節点として栄えていく。
城下では、次代を担う息子たちが育っていた。とりわけ次男・長可は、父譲りの荒武者気質を見せはじめていたと伝わる。可成は息子たちに自らの十文字槍の技と、信長の天下のために身を捧げる覚悟を、日々の暮らしのなかで伝えていったのである。金山城拝領は、可成個人の栄達であると同時に、森家を織田家中の有力譜代として次代へつなぐ礎ともなった。後年、鬼武蔵・蘭丸を世に送り出す森家のすべては、この金山の地から始まったのである。
京へ上る道を拓く — 上洛戦の先陣を切る

永禄十一年(一五六八)九月、信長は足利義昭を奉じて上洛の兵を起こした。行く手を阻んだのは、近江の六角承禎が籠る観音寺城である。
まず南近江の支城・箕作城が、佐久間信盛・木下藤吉郎・丹羽長秀・浅井新八らの強襲によって陥落した。これを見た承禎は戦わずして観音寺城を捨て、信長軍は一気に京への道を切り拓くことになる。
可成は、京へ進む信長本隊の先陣として柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚らとともに名を連ねた。九月二十八日、京周辺の制圧戦で槍を取って働き、信長の畿内入りを支えたのである。
上洛を成し遂げた信長は、足利義昭を将軍位に就け、畿内の覇者として歩み出す。可成はこの時期、京の周辺で諸将と肩を並べる織田方の重鎮として、目に見える地位を築いていた。
ところが、信長の天下は容易には固まらない。畿内には旧勢力が燻り、越前の朝倉義景、近江の浅井長政が虎視眈々と背後を窺っていた。京への扉を切り拓いた可成の槍は、すぐにまた、迫りくる包囲網に向き合うことになる。上洛戦の先陣に名を連ねた事実は、可成が織田家中の前線指揮官として揺るぎない位置にあったことを示している。
近江の鍵を預かる — 宇佐山に城を築く

元亀元年(一五七〇)三月頃、信長は京と岐阜を結ぶ生命線として、近江坂本の地に新たな城を築かせる。それが宇佐山城であった。可成はこの新城の城主に任じられ、近江経略の最前線を一身に担うこととなったのである。
築城が始まって間もない四月、信長は越前の朝倉義景を討たんとして敦賀へ進軍する。だが浅井長政の突然の離反により、信長は金ヶ崎で背後を断たれかけ、命からがら京へ撤収した。世に名高い金ヶ崎の退き口である。この衝撃を境に、可成の預かる宇佐山城は、織田の畿内支配を支える最重要拠点として一気にその比重を増していった。
宇佐山城は、比叡山の麓に位置する山城であった。背後には延暦寺の僧兵を抱える比叡山、東には湖、北には朝倉浅井連合の本拠地・越前北近江が控えている。あらゆる方角から圧迫を受ける、まさに織田方最大の難所だった。
可成はこの厳しい守地に手勢を据えて備えた。京と岐阜を結ぶ生命線を守る役目を、信長はやはり最も信頼する譜代に託したのである。宇佐山城拝命は、信長が可成にかけた信任の最深部であった。近江を握れば天下に近づき、近江を失えば信長の覇業は瓦解する。その勝敗を、たった一人の譜代の双肩に預けたのである。
圧倒的劣勢に挑む — 宇佐山に散った忠死

元亀元年九月、信長は摂津の野田・福島で三好三人衆と対峙していた。その留守を狙うように、朝倉景鏡率いる朝倉勢と浅井長政の浅井勢、合わせて数万の大軍が、突如として南近江へ雪崩れ込んできたのである。比叡山延暦寺もまた、僧兵をもってこの連合軍に加担した。
宇佐山城の手勢は、わずか千前後とも三千ともいわれる小勢にすぎなかった。何倍もの敵を前にしても、可成は籠城を選ばなかった。九月十六日、城を出て下坂本に陣を布き、街道を封鎖して敵の南下を真正面から阻んだのである。緒戦で連合軍の鋭鋒を見事に押し返した手腕は、後世の戦記が「比類なき奮戦」と称えるところとなった。
だが、敵は退かなかった。連合軍は再び大挙して襲いかかってくる。可成は信長の弟・織田信治、近江衆の青地茂綱と肩を並べ、最後の一兵まで槍を振るって戦い抜いた。
奮戦のさなか、可成はついに討死を遂げた。享年四十八。同じ戦場で織田信治、青地茂綱もまた命を落としている。討死の日付は九月十九日とも二十日とも伝わり、史料によって揺れがある。京と岐阜を結ぶ生命線は、宇佐山に倒れた可成の屍が辛うじて支えていたのである。
訃報を聞いた信長は、摂津から急ぎ南近江へ取って返した。後世の伝承では、信長は可成の死を「比類なき御忠節」と慟哭し、家督を継いだ十三歳の長可をその場で金山城主に据え、森家を厚く遇したと語り継がれている。三左衛門が宇佐山で命を捧げた数日があったからこそ、信長は天下への道を踏みとどまれたのである。父・可成の死は、やがて鬼武蔵・蘭丸を世に送り出す森家の、揺るぎない原点となった。
史料の読み解き
森可成という武将は、織田家中の譜代として、また「鬼武蔵」森長可・森蘭丸の父として、戦国史の脇役として語られることが多い。だが、その生涯を一次史料に立ち返って読み直すと、ただの「忠死した家臣」では捉えきれない複層的な姿が浮かび上がってくる。本節では、可成をめぐる三つの論点を、史料の確度勾配を意識しつつ整理する。
「攻めの三左」「槍の三左」 — 同時代の異名か、後世の物語化か
可成の代名詞である「攻めの三左」「槍の三左」という異名は、現代の戦国ファンには馴染み深い。だが、これらの異名がいつから、誰によって用いられたかを史料に当たると、答えは意外に簡単ではない。
『信長公記』をはじめとする同時代史料は、可成の武勇や宇佐山での討死を伝えるものの、「攻めの三左」という固有の異名で彼を呼ぶ箇所は、ほとんど見当たらない。これらの異名が広く定着するのは、江戸期に編纂された軍記類・家譜以降のことと考えられている。
このことから、二つの読み筋が成り立つ。第一に、生前の可成は「森三左衛門」あるいは単に「森三左」と呼ばれており、「攻めの」「槍の」という冠は、戦場での槍働きを称えた周囲からの通称が、長い時間をかけて固有の異名へと結晶していったとする見方。第二に、子・長可の「鬼武蔵」という強烈な武名が江戸期に確立した後、父・可成の武勇譚がそれに呼応するように整序され、「攻めの三左」の名が遡及的に与えられたとする見方である。
ただし、後者の遡及説に立ったとしても、可成の武勇それ自体を疑う根拠にはならない。同時代史料が伝える稲生での働き、宇佐山での三千対三万の奮戦は、いずれも「攻めの三左」と呼ぶに相応しい質量を備えている。異名の言葉が江戸期に整序されたものであっても、その言葉が指している実像は、可成の生前から変わらず存在していたのである。
いずれにしても、可成が稲生・美濃・上洛戦・宇佐山と、信長の主要な戦のすべてで前線指揮官として槍を取り続けたという事実は揺るがない。異名の成立過程はともかく、彼が「攻める槍」の役回りを担い続けた将であったことは、複数の史料が等しく証言している。
なぜ宇佐山で踏みとどまったか — 籠城ではなく出撃を選んだ理由
元亀元年九月、可成が直面した戦況は絶望的だった。手勢三千に対し、襲来した朝倉浅井連合は三万。比叡山延暦寺の僧兵まで敵に回り、信長は遠く摂津に釘付けで援軍は望めない。常識的に考えれば、宇佐山城に籠城して救援を待つ選択もありえたはずである。
だが可成は籠城を選ばなかった。九月十六日、城を出て下坂本に陣を布き、敵を真正面から迎え撃つ道を選んだのである。この決断の背景については、いくつかの読みがある。
最も有力なのは、京と岐阜を結ぶ街道を物理的に塞ぐ必要があったとする見方である。籠城すれば敵は宇佐山を素通りして京へ南進する。京には足利義昭がおり、信長の畿内支配の根幹が崩れかねなかった。可成は自らの命と引き換えに、街道封鎖という戦略的役割を選んだのだという理解である。
もう一つの読みとして、可成は信長の救援を信じ、それまでの時間を稼ぐ消耗戦に持ち込もうとしたとする見方もある。緒戦で見事に撃退した手腕は、籠城より野戦の方が攻めの三左にとって戦いやすかった証左とも読める。
いずれの読みに立つにせよ、可成の出撃が織田信長の畿内支配を守り抜くための主体的戦略判断であった点は共通する。「忠死」という言葉は、ともすれば命を粗末にした感情的な英雄譚を連想させるが、可成のそれは違う。三千で三万を阻むことができたのは、街道封鎖という戦略目標に焦点を絞り、城ではなく野で迎え撃つという冷徹な戦術を取り得たからである。
加えて、可成の決断には織田家中での自らの立ち位置への自負があったとも読める。譜代の最古参として、信長から畿内の鍵を任された自分が引けば、織田の覇業そのものが瓦解する。その重みを誰よりも理解していたからこそ、九月十六日の出撃という即断ができたのである。「忠死」という言葉だけでは捉えきれない、一人の前線指揮官の冷徹な計算が、宇佐山の決断の裏には潜んでいたと考えるべきだろう。
「鬼武蔵・蘭丸の父」という宿命 — 可成自身の評価はどこへ消えたか
森可成という武将の名は、現代では多くの場合「鬼武蔵・森長可の父」「森蘭丸の父」という冠付きで語られる。司馬遼太郎以降の戦国小説や大河ドラマでも、可成は息子たちの背景人物として登場することが多い。
だが、これは歴史的事実というよりは、後世の物語化の結果である。可成が宇佐山で討死した元亀元年(一五七〇)の時点では、長可はまだ十三歳の少年、蘭丸は数えで六歳の幼児、坊丸・力丸はさらに幼かった。彼らが「鬼武蔵」「蘭丸」として歴史の舞台に立つのは、可成の死から十年以上後のことなのである。
つまり、史実の順序を取れば、可成の武功と忠死が先にあり、その遺光のもとで息子たちが育っていったのが本当の流れである。にもかかわらず、息子たちの華々しい伝説が江戸期以降に確立すると、父・可成は逆に「鬼武蔵・蘭丸の父」として記憶される従属的地位に押し下げられてしまった。
この逆転を解きほぐして可成を読み直すと、彼は信長譜代の最古参格として、稲生・美濃・上洛・宇佐山と、織田の覇業の節目すべてに名を残した武将である。同時期に活躍した佐久間信盛・柴田勝家・丹羽長秀らと並ぶ重みを持つ前線指揮官であったことが見えてくる。
そもそも、息子たちが信長の近習として召し抱えられたこと自体、父・可成の忠死と功績への信長の報恩であったと考えるのが自然である。蘭丸らが幼少のうちから安土城に上がり、信長の側近として育てられた背景には、父を失った森家への破格の配慮があったのは間違いない。とすれば、息子たちの華々しい伝説は、父・可成の遺光のうえに成り立っていることになる。
歴史的記憶のなかで親子の評価が逆転する例は、戦国期に限らず珍しいことではない。だが、その逆転をそのまま受け取って父の存在を背景化してしまえば、信長譜代の重要な一断面が見落とされる。森可成という武将は、息子たちの父として記憶される以前に、信長譜代の最古参として記憶されるべき将なのである。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 元亀元年九月、下坂本で討死/享年48 | 高 | 信長公記・諸軍記・墓所の伝承が一致 |
| 討死の正確な日付(9月19日説/9月20日説) | 中 | 信長公記は9月19日系、コトバンク等は9月20日説で諸説あり |
| 下坂本戦の手勢の兵数 | 中 | 「わずか千」系から「三千」まで史料により振幅あり |
| 稲生の戦いで信長方先鋒として武功 | 高 | 信長公記・諸家譜が共通して伝える |
| 永禄8年に金山城を拝領 | 高 | 可児市公式・信長の東美濃経略の史実と整合 |
| 上洛戦で柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚と先陣 | 高 | 信長公記の記述に基づく(箕作城攻めは別動隊) |
| 宇佐山城築城は元亀元年三月頃から | 中 | 大津市系の解説。金ヶ崎以前から築城開始 |
| 関兼定/兼貞銘の十文字槍を愛用 | 中 | 江戸期家譜・軍記の伝。同時代史料は限定的・表記揺れあり |
| 「攻めの三左」「槍の三左」の異名 | 中 | 江戸期以降の軍記類で定着。同時代呼称は「森三左衛門」が主 |
| 宇佐山出撃は街道封鎖の戦略判断 | 中 | 戦局からの推論・諸研究の通説 |
| 信長が「比類なき御忠節」と慟哭 | 低 | 後世の伝承。信長公記の当該条には記述なし |
| 父・可行が織田家に内応 | 中 | 家譜系の記述・同時代直接史料は乏しい |
| 「鬼武蔵」の異名は可成生前に遡及できる | 低 | 後世の物語化と捉えるのが妥当 |
参戦合戦
森可成|宇佐山に散った織田の槍の三左衛門の逸話
- 01
十文字槍と「攻めの三左」 — 武辺者の異名はどこから来たか

関兼貞銘の十文字槍を構える森可成(武辺者の象徴) · AI生成イメージ 可成の代名詞となった「攻めの三左」「槍の三左」という異名は、いつ頃から定着したものか、史料を追うと意外に判然としない。
可成の愛用とされる十文字槍は、関の刀工・関兼貞が鍛えたものと伝わる。江戸期に編まれた家譜・軍記の類は、可成を「美濃の十文字槍を振るう猛勇の士」として描き、その武勇譚を繰り返し語り継いできた。
ただし、同時代史料で「三左衛門」と「攻めの」を結びつけて記した一次資料は、限られる。これらの異名がいつ定着したのかをめぐっては、可成の生前から伝わったとする説と、子・長可の「鬼武蔵」の名声が父にも遡及されて成立したとする説の双方がある。
とはいえ、稲生の戦い、美濃攻略、上洛戦、宇佐山と、可成が信長の戦のたびに前線に立ち続けたことは事実である。異名の起源はともかく、戦場で槍を取って攻め込むのが可成の役回りだったことは、多くの史料が等しく証言している。
- 02
妙向尼と六人の息子 — 鬼と蘭丸を遺した一家

妙向尼と六人の息子を遺した森家の家庭像 · AI生成イメージ 可成の妻は、林通安の娘・妙向尼と伝わる。可成との間にもうけた息子たちこそが、後の戦国史に名を残す一群となった。
長子・可隆は父より早く、元亀元年四月の越前天筒山城攻めで討死している。父と長兄を同年に失った次男・長可は、十三歳で家督を継ぎ、やがて「鬼武蔵」と恐れられる猛将に成長した。三男・成利が蘭丸、四男・長隆が坊丸、五男・長氏が力丸として信長近習となり、本能寺で三兄弟そろって討死を遂げる。
末子・忠政は本能寺の災難を免れ、後に津山藩の祖となった。一家から信長近習の三兄弟と、戦国屈指の猛将・鬼武蔵を送り出した森家の血脈は、可成と妙向尼の夫婦に始まる。
妙向尼自身も、夫の死後は熱心に法華信仰に帰依し、晩年は信仰の人として知られた。戦場の華やかさの陰で森家を支え続けた女性の存在もまた、可成の生涯を語る上で外せない一筋である。
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宇佐山城跡 — 比叡山の麓に残された忠死の地

比叡山の麓に残る宇佐山城跡の遠景 · AI生成イメージ 宇佐山城の遺構は、現在も滋賀県大津市錦織の宇佐山山頂にひっそりと残る。可成が築き、命を懸けて守った石塁の一部や曲輪の跡が、比叡山の麓を見上げる位置から今も街道を見下ろしている。
可成の死後、宇佐山城には織田家中の重鎮が次々と入った。後に明智光秀が一時期この城を預かり、坂本城を築くまでの拠点としたことは、よく知られている。可成が命を捨てて守った京と近江の生命線は、その後の信長の畿内支配を支える礎となったのである。
城の麓・坂本には、可成と織田信治、青地茂綱を弔うため、聖衆来迎寺が森家の信仰の地として今も墓所を伝えている。境内には三人の墓と伝わる五輪塔が静かに並んでいる。宇佐山と坂本を訪ねれば、四百五十年を経た今も、小勢で大敵を阻んだ三左衛門の気配が確かに残っている。
関連人物
所縁の地
所縁の地の記録は準備中です。







