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戦国時代森氏15231570
森可成|宇佐山に散った織田の槍の三左衛門の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・森可成像(想像復元)
織田信長古参譜代槍の三左衛門
もり よしなり

森可成|宇佐山に散った織田の槍の三左衛門

MORI YOSHINARI · 1523 — 1570 · 享年 48

「攻めの三左」と恐れられた信長譜代の槍頭が、元亀元年九月、宇佐山城の麓に三千で三万を阻み、近江を死守して散った武将。

織田
生年
大永3年
1523年・諸説あり
没年
元亀元年
1570年9月20日/享年48
出身
美濃国
父・森可行(土岐氏家臣)
居城
美濃金山城
後に近江宇佐山城
家紋
鶴丸
TSURU-MARU

森可成は、戦国の世にあって織田信長に最も信頼された古参譜代の一人である。「攻めの三左」「槍の三左」と恐れられた十文字槍の使い手として、稲生の戦いで信長の窮地を救い、美濃攻略の先陣を切り、上洛戦の鋒となって京への道を拓いた武辺者であった。

その生涯の頂点は、元亀元年(一五七〇)九月、近江の宇佐山城に置かれた。信長が摂津で三好と対峙して留守の最中、朝倉浅井三万の連合軍と比叡山延暦寺の僧兵が南近江へ雪崩れ込んだ。可成は手勢わずか三千で下坂本に布陣し、信長の弟・織田信治、青地茂綱と共に、十倍の敵を真正面から受け止めた。

九月十六日の緒戦は奇跡的に撃退したが、九月二十日の再戦で可成はついに討死を遂げる。享年四十八。彼が命を懸けて守り抜いた数日があったからこそ、信長は天下への道を辛うじて踏みとどまることができたのである。

森家には、後に「鬼武蔵」と恐れられる次男・長可、そして信長近習として本能寺に散る三男・蘭丸、四男・坊丸、五男・力丸、津山藩祖となる末子・忠政が遺された。父・可成の悲壮なる忠死は、戦国屈指の武門・森家のすべての原点となっている。

01美濃の槍働きORIGIN

土岐と斎藤の狭間 — 槍一筋に生きた若き武辺者

美濃の若武者として十文字槍を手に育った若年期の森可成(AI生成イメージ)
美濃の若武者として十文字槍を手に育った若年期の森可成 · AI生成イメージ

森可成は、美濃の名門・土岐氏に二百年仕えてきた森家の嫡男として、大永三年(一五二三)に生まれた。父は森可行、その家は土岐氏の譜代の重みを背負っていた。

だが、可成が物心ついたころ、美濃の地はすでに静かではなかった。下剋上の渦中にあったのである。やがて美濃のマムシ・斎藤道三が主家の土岐頼芸を追い、二百年の主従の絆は無残に断ち切られた。父・可行は時流を読み、ひそかに尾張の織田氏へ接近し、織田への内応を進めていったと伝わる。

この父の決断こそが、若き可成の運命を分けた。やがて天文二十三年(一五五四)頃、可成は父とともに、織田信長に正式に仕えることとなる。三十路を前にした若武者は、新たな主君のもとで槍一筋にその身を立てていく道を選んだのである。

可成が手にしていたのは、関の刀工・関兼貞が鍛えたと伝わる長大な十文字槍であった。「攻めの三左」と呼ばれた猛勇は、この一本の十文字槍とともに、戦場で磨かれていったのである。美濃の譜代の血と、織田への新参の覚悟。この二つを背負って、森三左衛門の生涯は始まった。

信長が可成の討死に寄せたとされる言葉(一次史料未確認)

比類なき御忠節なり

—— 後世の伝承
02稲生の戦いINOU

稲生に死力を尽くす — 信長を守った一槍

稲生の戦いで信長方先鋒として十文字槍を振るう森可成(AI生成イメージ)
稲生の戦いで信長方先鋒として十文字槍を振るう森可成 · AI生成イメージ

可成が信長家臣として頭角を現したのは、弘治二年(一五五六)の稲生の戦いであった。信長の弟・信行(信勝)が柴田勝家・林秀貞らを抱き込み、家督の簒奪を企てたあの事件である。

信長方の手勢は七百にも満たなかった。対する信行方は柴田勝家千、林秀貞七百を合わせて一千七百。数の上では絶望的な劣勢である。だがその信長方の前線に、佐久間盛重・佐久間信盛前田利家丹羽長秀らとともに、可成の姿があった。

可成は織田信房と並んで前線に立ち、十文字槍を振るって信行勢へと突き進んだ。清洲衆の土田大原を返り討ちにする奮戦ぶりで、戦局を信長方の勝利に引き寄せたのである。

この一戦は、若き信長にとって生きるか死ぬかの分水嶺だった。そして可成は、その分水嶺で命を賭して主君を守った数少ない譜代の一人となった。稲生で見せた死力こそが、可成と信長を生涯結びつける起点となったのである。主君が最も危うかった瞬間に共に槍を振るった事実は、譜代の重さとして以後も信長の胸に刻まれ続けた。

攻めの三左の戦場像

槍を取って前へ。それが森三左衛門の役回りであった

—— 編集部
03美濃攻略MINO

古巣を斬る — 美濃攻略の先陣を切る

美濃攻略の先鋒として槍を振るう森可成(AI生成イメージ)
美濃攻略の先鋒として槍を振るう森可成 · AI生成イメージ

稲生で武勲を挙げた可成は、その後の信長の戦に欠かさず加わっていった。とりわけ、永禄四年(一五六一)以降に本格化した美濃攻略は、可成にとって特別な意味を持つ戦いであった。

美濃は、森家が二百年仕えた土岐氏の故地である。父祖の地に槍を向けることは、武将としての覚悟そのものを問われる選択だった。だが可成に迷いはなかった。すでに織田家中で「槍の三左」として確たる地位を築き、信長の信頼を一身に集めていたからである。

美濃の野や山を駆け、可成は信長の先鋒として斎藤義龍・龍興父子を追い詰めていった。森家が二百年にわたって築き上げた地縁・人脈は、この時期、織田方の調略にも生きたと伝わる。かつての同僚や旧主家ゆかりの土豪を、味方へと寝返らせる仕事は、外様の武将には不可能な役割だった。

永禄六年(一五六三)の新加納の戦い、永禄八年(一五六五)の堂洞合戦と、可成は東美濃の要地を次々と攻め取っていく。槍を取って先陣を切る戦場の働きと、旧縁を辿る調略の仕事を、可成は両輪で担い続けた。

美濃を斎藤氏の手から奪い取るための長い戦いは、永禄十年(一五六七)の稲葉山城陥落でついに決着を見る。かつての主家を打倒する戦いに身を投じた可成は、織田家中で美濃譜代の代表格としての地歩を確かにしていった。故郷を斬ってでも信長の天下を切り拓く。三左衛門の選択は、いつも信長と同じ方向を向いていた。

04金山城拝領KANEYAMA

東美濃の要を握る — 金山城主となる

東美濃の要・金山城を拝領し城主となった森可成(AI生成イメージ)
東美濃の要・金山城を拝領し城主となった森可成 · AI生成イメージ

永禄八年(一五六五)、信長は東美濃の要衝・烏峰城を攻め取り、その城を金山城と改めて可成に与えた。三左衛門は、ここに東美濃の押さえを任される一国の主となったのである。

金山城は、木曽川の流れを望む山上の堅城であった。武田信玄が南進してくれば、その正面に立ちはだかる位置にある。武田と織田、二つの大勢力のあいだに身を置く要害を、信長は迷うことなく可成に預けた。

この拝領は、可成の働きに対する破格の報酬であった。同時に、信長が東美濃という最も危うい辺境を、誰よりも信頼する譜代に託したという事実でもあった。可成はこの城に妻・妙向尼と長子・可隆、次男・長可ら息子たちを迎え、森家の本拠を構えた。木曽川を見下ろす城下には、やがて家臣の屋敷町が築かれ、東美濃の物流の結節点として栄えていく。

城下では、次代を担う息子たちが育っていた。とりわけ次男・長可は、父譲りの荒武者気質を見せはじめていたと伝わる。可成は息子たちに自らの十文字槍の技と、信長の天下のために身を捧げる覚悟を、日々の暮らしのなかで伝えていったのである。金山城拝領は、可成個人の栄達であると同時に、森家を織田家中の有力譜代として次代へつなぐ礎ともなった。後年、鬼武蔵・蘭丸を世に送り出す森家のすべては、この金山の地から始まったのである。

05上洛戦の先鋒KYOTO

京へ上る道を拓く — 上洛戦の先陣を切る

上洛戦の先鋒として観音寺城を攻め落とす森可成(AI生成イメージ)
上洛戦の先鋒として観音寺城を攻め落とす森可成 · AI生成イメージ

永禄十一年(一五六八)九月、信長は足利義昭を奉じて上洛の兵を起こした。行く手を阻んだのは、近江の六角承禎が籠る観音寺城である。

まず南近江の支城・箕作城が、佐久間信盛木下藤吉郎丹羽長秀・浅井新八らの強襲によって陥落した。これを見た承禎は戦わずして観音寺城を捨て、信長軍は一気に京への道を切り拓くことになる。

可成は、京へ進む信長本隊の先陣として柴田勝家・蜂屋頼隆・坂井政尚らとともに名を連ねた。九月二十八日、京周辺の制圧戦で槍を取って働き、信長の畿内入りを支えたのである。

上洛を成し遂げた信長は、足利義昭を将軍位に就け、畿内の覇者として歩み出す。可成はこの時期、京の周辺で諸将と肩を並べる織田方の重鎮として、目に見える地位を築いていた。

ところが、信長の天下は容易には固まらない。畿内には旧勢力が燻り、越前の朝倉義景、近江の浅井長政が虎視眈々と背後を窺っていた。京への扉を切り拓いた可成の槍は、すぐにまた、迫りくる包囲網に向き合うことになる。上洛戦の先陣に名を連ねた事実は、可成が織田家中の前線指揮官として揺るぎない位置にあったことを示している。

06宇佐山城主USAYAMA

近江の鍵を預かる — 宇佐山に城を築く

京と近江を結ぶ要衝・宇佐山城を預かる森可成(AI生成イメージ)
京と近江を結ぶ要衝・宇佐山城を預かる森可成 · AI生成イメージ

元亀元年(一五七〇)三月頃、信長は京と岐阜を結ぶ生命線として、近江坂本の地に新たな城を築かせる。それが宇佐山城であった。可成はこの新城の城主に任じられ、近江経略の最前線を一身に担うこととなったのである。

築城が始まって間もない四月、信長は越前の朝倉義景を討たんとして敦賀へ進軍する。だが浅井長政の突然の離反により、信長は金ヶ崎で背後を断たれかけ、命からがら京へ撤収した。世に名高い金ヶ崎の退き口である。この衝撃を境に、可成の預かる宇佐山城は、織田の畿内支配を支える最重要拠点として一気にその比重を増していった。

宇佐山城は、比叡山の麓に位置する山城であった。背後には延暦寺の僧兵を抱える比叡山、東には湖、北には朝倉浅井連合の本拠地・越前北近江が控えている。あらゆる方角から圧迫を受ける、まさに織田方最大の難所だった。

可成はこの厳しい守地に手勢を据えて備えた。京と岐阜を結ぶ生命線を守る役目を、信長はやはり最も信頼する譜代に託したのである。宇佐山城拝命は、信長が可成にかけた信任の最深部であった。近江を握れば天下に近づき、近江を失えば信長の覇業は瓦解する。その勝敗を、たった一人の譜代の双肩に預けたのである。

07下坂本に散るFALL

圧倒的劣勢に挑む — 宇佐山に散った忠死

下坂本で朝倉浅井三万を阻み討死した森可成(AI生成イメージ)
下坂本で朝倉浅井三万を阻み討死した森可成 · AI生成イメージ

元亀元年九月、信長は摂津の野田・福島で三好三人衆と対峙していた。その留守を狙うように、朝倉景鏡率いる朝倉勢と浅井長政の浅井勢、合わせて数万の大軍が、突如として南近江へ雪崩れ込んできたのである。比叡山延暦寺もまた、僧兵をもってこの連合軍に加担した。

宇佐山城の手勢は、わずか千前後とも三千ともいわれる小勢にすぎなかった。何倍もの敵を前にしても、可成は籠城を選ばなかった。九月十六日、城を出て下坂本に陣を布き、街道を封鎖して敵の南下を真正面から阻んだのである。緒戦で連合軍の鋭鋒を見事に押し返した手腕は、後世の戦記が「比類なき奮戦」と称えるところとなった。

だが、敵は退かなかった。連合軍は再び大挙して襲いかかってくる。可成は信長の弟・織田信治、近江衆の青地茂綱と肩を並べ、最後の一兵まで槍を振るって戦い抜いた。

奮戦のさなか、可成はついに討死を遂げた。享年四十八。同じ戦場で織田信治、青地茂綱もまた命を落としている。討死の日付は九月十九日とも二十日とも伝わり、史料によって揺れがある。京と岐阜を結ぶ生命線は、宇佐山に倒れた可成の屍が辛うじて支えていたのである。

訃報を聞いた信長は、摂津から急ぎ南近江へ取って返した。後世の伝承では、信長は可成の死を「比類なき御忠節」と慟哭し、家督を継いだ十三歳の長可をその場で金山城主に据え、森家を厚く遇したと語り継がれている。三左衛門が宇佐山で命を捧げた数日があったからこそ、信長は天下への道を踏みとどまれたのである。父・可成の死は、やがて鬼武蔵・蘭丸を世に送り出す森家の、揺るぎない原点となった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-27

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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