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戦国時代〜江戸初期本多氏15381616
本多正信|徳川家康の影に徹した知略の謀臣の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・本多正信像(想像復元)
謀臣三河一向一揆関ヶ原
ほんだ・まさのぶ

本多正信|徳川家康の影に徹した知略の謀臣

Honda Masanobu · 1538 — 1616 · 享年 79

本多正信は、主君・家康に叛いて追放された過去を持ちながら、帰参後は武功ではなく知略ひとつで徳川幕府の礎を築いた、戦国屈指の謀臣である。

徳川家
生年
天文7年
1538年
没年
元和2年
1616年・享年79
出身
三河国
本多俊正の子
役職
従五位下佐渡守
幕府老中格の側近
家紋
丸に立ち葵
Maru ni Tachi Aoi

本多正信は、主君・家康に叛いて三河を追われた過去を持ちながら、帰参後は武功ではなく知略ひとつで徳川幕府の礎を築いた謀臣である。三河武士団からは「佞臣」と蔑まれ、武功派の本多忠勝榊原康政とは水と油の関係にあった。だが家康は正信の頭脳を生涯手放さなかった。鷹匠から側近へ、側近から幕政の柱石へ。2万石の身でありながら天下の政治を動かした男の生涯は、戦国時代が求めた「もうひとつの武士像」そのものである。

刀ではなく頭脳で天下を動かす。それが嫌われ者の本多正信が選んだ生き方であった。正信の人生を追うことで、戦国時代が単なる武力の時代ではなく、知略と政略がものを言う「頭脳戦の時代」でもあったことが見えてくる。

01三河の弥八郎ORIGIN

本多俊正の子、三河の「弥八郎」

三河の若武士・本多正信(AI生成イメージ)
三河の若武士・本多正信 · AI生成イメージ

本多正信は、三河国の土豪・本多俊正の子として天文7年(1538)に生まれた。本多氏は松平家(のちの徳川家)に代々仕える三河譜代の一族である。ただし正信の家系は本多氏の傍流にあたり、本家筋にあたる本多忠勝の系統とは別の流れであった。

幼名は不明だが、通称を「弥八郎」と名乗った。若き日の正信は、主君・松平元康(のちの徳川家康)のもとで三河武士としての歩みを始める。だが正信の人生は、武功を積み上げて出世の階段を駆け上がるような順風満帆な道ではなかった。むしろ正信を待っていたのは、主君への叛逆と追放、そして長い流浪であった。

当時の三河は、今川義元の影響下から脱しつつある不安定な時期にあった。桶狭間の戦い(永禄3年・1560)で今川義元が討たれたのち、松平元康は今川から独立して織田信長と同盟を結ぶ。三河の国人領主たちは新たな秩序の中で主家への忠誠を試されることになった。

正信の前半生を決定づけたのは、武功ではなく、信仰であった。三河国には一向宗(浄土真宗本願寺派)の門徒が根強く、本多一族の中にも熱心な信者が少なくなかった。正信もその一人である。やがてこの信仰が、主君との間に深い亀裂を生むことになる。

正信の遺訓

禄は二万石にて足れり。これより多くは身の害なり

—— 藩翰譜(新井白石)
02叛旗と流浪REBELLION

一向一揆、そして追放

一向一揆で主君に叛く正信(AI生成イメージ)
一向一揆で主君に叛く正信 · AI生成イメージ

永禄6年(1563)、三河国で一向一揆が勃発した。一向宗の寺院を拠点に、門徒の武士や農民が松平家康に対して蜂起したのである。この一揆で、三河武士団は真っ二つに割れた。家康の家臣の半数近くが一揆側についたとされ、本多正信もそのひとりであった。

正信が主君に叛いた理由は、純粋な信仰心であったとも、一族内の政治的な事情であったともいわれる。いずれにせよ、正信は家康の敵として戦った。これは三河武士として致命的な汚点であり、のちの人生に長い影を落すことになる。

永禄7年(1564)、一揆は家康によって鎮圧された。正信は三河を追われ、流浪の身となる。ここから10数年にわたる放浪が始まった。

流浪時代の正信の足跡は、はっきりしない。大和国で松永久秀に仕えたとする伝承がある。松永久秀は梟雄として知られる人物であり、もし正信が本当に久秀のもとにいたとすれば、権謀術数の極意を間近で学んだことになる。また加賀の一向宗門徒のもとに身を寄せていたともいわれる。一向一揆の信仰が正信を追放し、同じ信仰が流浪先で正信を受け入れた。皮肉な巡り合わせである。

いずれも確たる史料に欠け、正信の流浪時代は謎に包まれている。10数年もの放浪の日々がどのようなものであったか、想像するしかない。ただ、三河という狭い世界を離れ、諸国の情勢や人々の暮らしを肌で知ったこの経験が、のちの正信の広い視野と冷徹な人間観察の目を養ったことは疑いないだろう。

03鷹匠の帰還RETURN

許されざる男の帰参

鷹匠として家康に帰参する正信(AI生成イメージ)
鷹匠として家康に帰参する正信 · AI生成イメージ

天正年間、正信は家康のもとへ帰参を果たす。帰参の正確な時期には諸説あるが、天正10年(1582)の本能寺の変の前後とする見方が有力である。

注目すべきは、正信が「鷹匠」として帰参したという点である。鷹匠とは、鷹狩りに使う鷹の飼育・調教を行う技術者であり、武士としての身分は決して高くない。だが鷹匠には、主君と一対一で過ごせるという特別な利点があった。

家康は鷹狩りを好んだ。正信は鷹狩りに同行しながら、家康に政策や人事について意見を述べることができた。他の家臣の目が届かない場所で、主君の耳元に直接ささやく——正信はこの立場を最大限に活用した。

一向一揆で叛いた前科を持つ正信を、なぜ家康は受け入れたのか。それは家康自身が、武功だけでなく知略に長けた側近を必要としていたからである。三河武士団は勇猛だが、外交や政略に秀でた人材は少なかった。本能寺の変後の混乱、秀吉との対峙、そして天下取りへの長い道のり——家康にはどうしても「頭脳」が必要だった。正信はまさにその頭脳として買われたのである。

帰参後の正信は、徐々に家康の信任を深めていく。鷹匠から側近へ、側近から参謀へ。正信の出世は、武功ではなく知略によって積み上げられた。三河武士団の誰もが槍働きで禄を増やそうとする中、正信だけが頭脳という武器で己の立場を築いていったのである。

04家康の懐刀STRATEGIST

武功なき参謀の台頭

関東入国期の正信(AI生成イメージ)
関東入国期の正信 · AI生成イメージ

天正12年(1584)、小牧・長久手の戦い。家康が羽柴秀吉と直接対峙したこの合戦は、軍事的には家康の勝利に終わった。だが戦いの帰結は、秀吉との和睦である。勝った側が和睦する。これは武功一辺倒の発想では到底受け入れられない判断だった。ここに正信の助言があったと見る向きは多い。秀吉の天下統一の勢いを正面から止めることはできない——であれば臣従しつつ力を温存するのが得策だ。そうした冷徹な計算は、まさに正信の持ち味であった。

天正18年(1590)、秀吉の小田原征伐に従軍した家康は、北条氏滅亡後に関東への国替えを命じられる。駿河・遠江・三河・甲斐・信濃の旧領を離れ、関東250万石の新天地を治めることになった。この大移動に際して、正信は家康の行政面を支える重要な役割を担った。

関東入国後、正信は江戸城下の整備や家臣団の知行配分に関与したとされる。武功派の家臣が前線を守る一方、正信は後方で領国経営の実務を動かした。

この時期、正信は家康の側近としての地位を確立していく。だが三河以来の武功派——本多忠勝榊原康政、大久保忠世ら——からの反感は根強かった。一向一揆で叛いた過去を持ち、武功もなく、ただ口先で主君に取り入っている。そう見る者は少なくなかった。

正信はそうした風当たりを意に介さなかった。いや、むしろ嫌われることを承知の上で、自らの役割に徹したのかもしれない。家康が天下を取るために必要なのは、武勇だけではない。正信はそれを誰よりも理解していた。

05関ヶ原の影SEKIGAHARA

天下分け目の陰の立役者

関ヶ原前夜、策を練る正信(AI生成イメージ)
関ヶ原前夜、策を練る正信 · AI生成イメージ

慶長5年(1600)、関ヶ原の戦いが迫る。この天下分け目の合戦において、正信は表舞台に立たなかった。嫡男・正純とともに下野国に留まり、上杉景勝への備えを担当したとされる。

だが関ヶ原に至る政略工作——東軍への調略、豊臣恩顧の大名たちの取り込み——に正信の知略が深く関わっていたことは疑いない。家康が会津征伐の名目で東へ兵を進め、石田三成の挙兵を誘い出すという大戦略の背後に、正信の助言があったとする見方は根強い。

小山評定で家康が諸将の前に立ち、「西に戻って三成と戦う」と宣言したあの場面。正信がこの「小山評定」の演出に関与していたとすれば、それは戦国最高峰の政治ショーであった。

関ヶ原の本戦で刀を振るうことはなかった正信だが、戦後処理においては大きな存在感を示した。西軍諸将の処断や領地の再配分は、幕府の基盤を左右する重大事であり、ここに正信の判断が反映されたとみられている。毛利輝元の所領を120万石から37万石へ大幅に削減し、西軍の中核を弱体化させる一方、加藤清正福島正則ら東軍の豊臣恩顧大名には大封を与えて懐柔する。この絶妙な匙加減は、正信的な計算がなければ成り立たなかった。

真田昌幸・信繁(幸村)父子の助命に正信が関わったという伝承もある。上田合戦で徳川軍を翻弄した真田父子を処刑すべきとの声もあったが、最終的には高野山への配流に落ち着いた。この判断に正信の進言があったかどうかは定かでないが、正信の政治的な冷静さ——敵を完全に潰さず、生かしておくことの利を計算する——にはふさわしい判断であった。

06幕閣の柱石SHOGUNATE

二万石で天下を動かす

江戸幕府の政務に携わる正信(AI生成イメージ)
江戸幕府の政務に携わる正信 · AI生成イメージ

慶長8年(1603)、徳川家康が征夷大将軍に就任し、江戸幕府が開かれた。正信は従五位下佐渡守に叙任され、幕政の中枢を担う側近となる。

驚くべきは正信の石高である。わずか2万石余り。譜代大名としては極めて低い禄高でありながら、正信の権勢は10万石の大名をはるかに凌いだ。家康の信任という「見えない石高」が、正信の真の力であった。

正信が低禄に甘んじた理由については、さまざまな解釈がある。権力を握りながら低禄でいれば、他の大名から嫉妬されにくい。目立たず、叩かれにくい——それは正信なりの処世術であったのかもしれない。

一方、幕閣内では大久保忠隣との政争が深刻化していた。大久保忠隣は大久保忠世の子で、三河以来の武功派の重鎮である。正信と忠隣の対立は、文治派と武功派の対立という構図でもあった。忠隣は正信を「主君の耳に毒を吹き込む佞臣」と見なし、正信は忠隣を「武功しか能のない時代遅れ」と見ていた。幕府の方針が武断から文治へ移行するなかで、この二人の対立は構造的に避けられないものであった。

慶長18年(1613)、金山奉行・大久保長安が死去し、不正蓄財が発覚する。翌慶長19年(1614)、この事件に連座する形で大久保忠隣が改易された。この大久保長安事件を正信が利用して政敵を葬ったとする見方は根強い。事件の背後に正信の策謀があったのか、それとも忠隣の失脚は必然だったのか。真相は藪の中である。

いずれにせよ、忠隣の改易によって正信の幕閣における影響力は頂点に達した。2万石の身でありながら天下の政を左右する——それが本多正信という男であった。

07家康の影LEGACY

主君とともに消えた謀臣

晩年の正信(AI生成イメージ)
晩年の正信 · AI生成イメージ

元和元年(1615)、大坂夏の陣で豊臣家が滅亡した。徳川の天下が名実ともに確定し、正信が長年にわたって仕えてきた家康の天下取りも、ここに完成をみた。三河の弱小領主だった松平家を、征夷大将軍の家にまで押し上げた半世紀の仕事が、ようやく結実したのである。

だが家康の体は衰えつつあった。元和2年(1616)4月17日、徳川家康が駿府城で死去する。享年75。正信にとって家康は主君であり、唯一の理解者であり、自らの存在意義そのものであった。

その約2か月後の6月7日、本多正信もまた江戸で世を去った。享年79。主君の死を追うかのように消えていった正信の最期は、まさに「家康の影」と呼ぶにふさわしい幕引きであった。

正信は死の床で、嫡男・正純にこう遺言したと伝わる。**「禄は2万石で足りる。それ以上の加増は受けるな」**と。低禄のまま権勢を保つことの利点を知り尽くした正信らしい言葉であった。

しかし正純はこの遺訓を守らなかった。宇都宮15万5千石に加増された正純は、元和8年(1622)に改易・配流される。いわゆる「宇都宮城釣天井事件」がその契機とされるが、事件自体の実在には疑問が呈されている。正信の予見は的中し、息子は父の言葉を無視した代償を支払うことになった。

本多正信。武功なき謀臣。三河武士団に嫌われながら、家康の影として天下取りを支え続けた男。その人生は、戦国という時代が求めた「もうひとつの武士像」を体現している。

戦場で槍を振るった者たちの名は、時とともに忘れられることも多い。だが正信のように、一度は叛き、流浪し、それでもなお主君のために知恵を絞り続けた男の物語は、時代を超えて人を惹きつける。正信が最後まで守り抜いた「影に徹する」という生き方は、権力の本質を知り尽くした者だけが選べる道であった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-19

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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