
後藤又兵衛|黒田を出奔し大坂に散った槍の名将
「後藤又兵衛は、黒田家の遺児として育ち八虎の一に数えられながらも、主君長政と決裂して天下に居場所を失い、最後は大坂城に身を投じて道明寺の野に散った、戦国終焉の主役のひとりである。」
後藤又兵衛は、黒田家の遺児として育ち、官兵衛の慈愛と長政の確執のあいだで生きた男である。筑前大隈の城主にまで上りつめながら、主君長政との不和で出奔し、奉公構の烙印を背負って十年を流浪した。最後に身を寄せたのは、家康ではなく豊臣秀頼の大坂城であった。慶長二十年五月六日、河内道明寺の野で、又兵衛は槍を構えたまま大軍のなかへ進み、五十六歳の生涯を閉じる。戦国を生き残った武辺者の、最も誇り高い終わり方の一つである。
又兵衛の名は、後世「黒田八虎」「黒田二十四騎」「大坂城五人衆」というみっつの異なる集団のすべてに数えられている。これは戦国の家臣集団史のなかでも珍しい歩みであり、ひとりの武人が主家に随順する道、主家を離れる道、敵方に身を投じる道のすべてを通り抜けたことを意味する。
黒田家臣の遺児として播磨に育つ

後藤又兵衛基次は、永禄三年(1560年)ごろ、播磨国に生まれたと伝わる。父は後藤新左衛門基国、播磨の在地武家の出で、別所氏あるいは小寺政職の家中に仕え、晩年は黒田職隆とも親しく交わったと伝わる武士である。母の名は伝わらない。
少年時代の又兵衛は、まだ姓を「後藤」とのみ名乗る一介の少年に過ぎなかった。だが播磨の風土は、家柄よりも腕一本で身を立てる武辺者を多く生んでいる。幼い又兵衛もその気風の只中で育った。
ところが、父基国は又兵衛の幼少期に没したと伝わる。一説には、織田・毛利の狭間で揺れる小寺家の内紛に巻き込まれ、黒田家を一時離れて没したとも言われるが、確かなことは分からない。残された又兵衛は叔父の藤岡九兵衛のもとに身を寄せ、不遇の少年期を過ごすことになる。
やがて黒田孝高(官兵衛)は、亡き家臣の遺児であるこの少年を引き取り、自らの家中で育てた。父無き少年にとって、官兵衛は新たな主君であり、半ば父の代わりでもあった。後年の又兵衛が官兵衛を生涯敬慕したのは、この少年時代の恩義に源がある。
後藤又兵衛の生涯は、ここから黒田家とともに始まる。終章槍の又兵衛、ここに死す
黒田の若武者として戦場を駆ける

天正八年(1580年)、又兵衛が二十歳ほどになったころ、黒田孝高はすでに織田信長の麾下に入り(天正五年・1577年帰属)、羽柴秀吉の中国攻めの最前線にあった。播磨は三木城の別所長治、有岡城の荒木村重、上月城の尼子勝久らが入り乱れる戦場であり、官兵衛が有岡城に幽閉された苦難(天正六〜七年・1578〜1579年)は前年に終わり、主君は釈放されたばかりの身であった。又兵衛もまた播磨衆の若武者として、傷ついた主家を支える側に立った。
若き又兵衛も、この戦塵のなかで頭角を現していった。父基国とともに播磨各地の戦場に従ったとも伝わるが、又兵衛個人の確かな足跡が史料に現れるのは、天正十四年(1586年)の九州征伐・宇留津城攻めあたりからである。三木合戦や志方城攻めへの参戦は、父基国や後藤一族の動きとの混同も指摘される。播磨衆の若武者として母里太兵衛・栗山利安・井上之房ら、のちに黒田二十四騎と呼ばれる仲間たちと肩を並べた。父無き身に与えられた槍一筋を頼りに、又兵衛は黒田家中で「あの新左衛門の子」と呼ばれるようになる。
天正十年(1582年)に本能寺の変が起き、秀吉が中国大返しで山崎へ駆け戻ると、官兵衛は秀吉の軍師として一気に天下統一の中枢へと躍り出た。又兵衛もそれに従い、四国・九州の遠征に従軍した。九州平定戦では、岩石城の攻略で先陣を切り、その武名を一気に高めたと伝わる。
官兵衛が豊前中津十二万石を与えられると、又兵衛もまた黒田家の重臣として中津へ移った。**官兵衛にとって又兵衛は、ただの家来ではなく、苦楽を共にした子飼いの猛将であった。**やがて八虎・二十四騎と称される黒田家臣団の中核に名を連ねるようになる。
まだ三十路前。槍を振るう又兵衛の名は、九州一円に轟き始めていた。
朝鮮の役・碧蹄館と晋州の血戦

文禄元年(1592年)、豊臣秀吉は朝鮮への渡海を諸将に命じた。文禄・慶長の役である。黒田長政は数え二十五歳前後の壮年に達しており、三年前(天正十七年・1589年)に父孝高の所領を継いだばかりであった。その長政が三番隊として朝鮮へ渡るとき、又兵衛もまた当然のように海を渡った。
又兵衛は黒田勢の先陣を担う猛将のひとりとして、平壌の戦い、碧蹄館の戦い、第二次晋州城攻めなどに従軍したと伝わる。とくに文禄二年(1593年)正月の碧蹄館の戦いでは、明の李如松率いる大軍を相手に黒田勢が踏み止まり、又兵衛も先頭で槍を振るったという。
朝鮮の戦は、勝敗以前に飢えと寒さと疫病の戦いであった。多くの将兵が異国の野で死んでいくなか、又兵衛は何度も死線を越えて帰国した。この異郷の戦塵こそが、又兵衛をただの猛将から「修羅場を知る武人」へと鍛え上げた。
慶長の役では、長政とともに再び渡海し蔚山城の籠城戦に参加したとも伝わる。ただし蔚山籠城における又兵衛の役回りは史料に乏しく、確たることは言えない。
やがて秀吉が死に、戦は終わった。又兵衛は若き主君・長政とともに、再び九州の地を踏む。だが、その帰国の船上、ふたりの胸にあった志はすでに微妙にずれ始めていたのかもしれない。
美濃岐阜城を抜き、大隈一万六千石を得る

慶長五年(1600年)、関ヶ原の戦いが起きる。黒田長政は東軍に与し、岐阜城攻めの先鋒として池田輝政・福島正則と肩を並べた。又兵衛もまたこの陣中にあり、先陣で槍を振るったと伝わる。
岐阜城攻めでは、織田秀信率いる西軍の籠城方をわずか一日で打ち破ったとされる。**この速攻が東軍を勢いづかせ、関ヶ原本戦への流れを決定づけた。**又兵衛は岐阜城下の一番乗りを果たしたとも、城内に乗り込んで首級を挙げたとも伝わるが、後世の軍記の脚色も交じる。
九月十五日の関ヶ原本戦でも、黒田勢は石田三成の正面で激戦を展開した。又兵衛は長政の旗本として、敵陣に切り込んだと伝わる。
戦後、長政には筑前一国五十二万石余が与えられた。少年期から又兵衛を育てた官兵衛は、若き長政の背後に控えながら、戦後四年後の慶長九年(1604年)に世を去る。この瞬間、又兵衛と黒田家を繋ぐ最も太い糸が切れた。
論功行賞で又兵衛は、筑前大隈城(益富城)一万六千石を与えられた。家中第二位とも称される厚遇である。やがて又兵衛は「後藤隠岐守」を名乗り、大隈の地で大名格の城主として腰を据えることになった。
長政との決裂、黒田を去る

官兵衛亡きあと、又兵衛と黒田長政との関係はゆっくりと、しかし確実にきしんでいった。慶長十一年(1606年)ごろ、又兵衛はついに黒田家を出奔する。年齢にして四十代半ば、武辺者として脂の乗り切った時期であった。
出奔の理由については古来諸説がある。一説には長政の専制的な気性に堪えかねたと言う。一説には大隈城の支配を巡る長政との確執が決定的だったとも、又兵衛が他大名と私的に親交を深めたことを長政が咎めたとも伝わる。いずれにせよ、官兵衛という緩衝材を失った主従の溝は、もはや埋まらなかった。
しかも長政の怒りは、出奔の事実に留まらなかった。長政は又兵衛に対し「奉公構(ほうこうがまえ)」という処分を下す。これは諸大名に対して「この者を仕えさせるな」と通告する厳しい制裁で、武辺者の生命線である再仕官の道を奪う措置だった。徳川幕府が確立される直前の慶長年間において、奉公構を打たれた武士は、事実上どの大名にも公然と仕えられなくなる。家中の情報を抱えた重臣が他家へ流れることを防ぐための、戦国を引きずる慣行であった。
奉公構を打たれた又兵衛は、しばらく細川忠興のもとに身を寄せたとも伝わるが、長政の通告が及ぶと忠興もまた又兵衛を抱えることが叶わなかった。やがて又兵衛は京・大坂を転々と流浪する身となる。
かつて筑前一万六千石の城主であった男が、わずか数年で一介の浪人に堕ちた。だが又兵衛は、嘆きにも自棄にも沈まなかった。この浪人時代の沈黙こそが、のちの大坂入城の伏線となる。
奉公構の八年と京・大和の歳月

奉公構を打たれた又兵衛は、再仕官の道を断たれたまま、京・大和・摂津のあいだを流浪した。前田利長、福島正則、池田輝政らからは内々の声掛けがあったとも伝わるが、長政の奉公構が壁となり、いずれも正式な仕官には至らなかった。
この時期の又兵衛がどこに身を置き、何で糊口をしのいでいたか、確かな史料はきわめて乏しい。一時は京の妙心寺塔頭に寄寓して仏門に親しんだとも、大和の小寺で隠棲したとも伝わるが、いずれも後世の伝承の域を出ない。又兵衛の妻子や旧家臣のうち、何人がこの流浪に従ったかも判然としない。ただ、後年大坂城に入った又兵衛のもとへは、旧黒田家中の縁者を含む二千を超える兵が集まったとされ、八年に及ぶ流浪のあいだも、人と人のつながりを彼が失わずにいたことが窺える。
確かなのは、又兵衛がこの間ずっと、自らを売る相手を慎重に選び続けていたことである。仕官の口がないわけではなかった。**しかし又兵衛は、ただ食うために大名に頭を下げる男ではなかった。**槍一筋に生きてきた武辺者が、最後にどの旗の下で死ぬか――その問いだけが、流浪の八年を貫いた。
慶長十九年(1614年)秋、徳川と豊臣の関係は破綻し、大坂城に浪人衆が結集し始めた。豊臣秀頼の招きは、又兵衛のもとにも届く。
老境に差しかかった又兵衛は、迷うことなく大坂へ入城した。奉公構の八年は、ここで一気に意味を持ち始める。長政に絶縁された男が、家康に背を向け、豊臣の旗のもとに立つ。それは単なる仕官の選択ではなく、自らの武人としての終幕を選び取る決断であった。
道明寺の野に散る、五十六歳の終章

大坂城に入った又兵衛は、たちまち五人衆の一角に数えられた。真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登、そして後藤又兵衛――いずれも一国一城の主たりえた猛将である。
慶長十九年(1614年)冬の陣では、又兵衛は鴫野・今福口の戦いで奮戦した。和議が成り、大坂城の外堀・内堀が埋められたのち、又兵衛は再戦が不可避と見て、大和路口の守備を提案したと伝わる。敵を山地に誘い込み、各個撃破するという、又兵衛らしい正攻法の堅実策であった。
慶長二十年五月六日(1615年6月2日)、夏の陣の大和路。又兵衛は二千八百ほどの手勢を率いて先発し、河内国(現大阪府柏原市・玉手山周辺)の小松山に陣を布いた。小松山は大和川と石川の合流点を見下ろす標高百メートルほどの小丘で、ここを抑えれば大和路を進む徳川方の動きを牽制できる地形であった。徳川方の水野勝成・本多忠政・松平忠明・伊達政宗らの軍勢、小松山に直接迫った兵力だけで二万三千余、後続を含めれば三万五千ほどの大軍が押し寄せる。
濃霧で味方の真田信繁・毛利勝永の到着は遅れ、又兵衛は孤軍のまま敵の集中砲火を浴びた。小松山を駆け降りた又兵衛勢は、四方からの鉄砲・矢を受けて次々と倒れていく。それでも又兵衛は槍を構えたまま、敵中へと突き入り、最期まで退かなかった。
享年五十六(行年四十六説もある)。後藤又兵衛基次、討死。家臣の山田勘助が首級を抱え去り、土中に埋めて敵に渡さなかったとも伝わる。
「槍の又兵衛、ここに死す」――その一報は、その日のうちに大坂城に届いた。道明寺の野は、戦国最後の本物の猛将が、自らの選んだ旗のもとに死んだ場所として、今に記憶されている。
又兵衛が散った翌日五月七日、大坂城は落ち、豊臣秀頼と淀殿は自害した。又兵衛の死は、戦国時代という時代そのものの最後の一週間に重ねて記録される。黒田家の遺児として始まり、豊臣家の最後の主柱として終わった生涯は、戦国を貫いた一介の武辺者の歩みそのものであった。
史料の読み解き
後藤又兵衛は、英雄譚として語るにはあまりに史料が偏っている武将である。黒田家側の『黒田家譜』は出奔した又兵衛を冷たく描き、大坂方を顕彰する『難波戦記』『真田三代記』はその死を過剰に英雄化した。史実の又兵衛は、このふたつの極のあいだに立っている。 ここでは、出奔の真相・大坂城将としての軍才・「槍の又兵衛」評の射程、という三つの軸で読み解いていく。
論点1:黒田出奔の真相はどこにあるか
又兵衛が黒田家を去った直接の理由は、決定打となる一次史料が乏しい。江戸期の『黒田家譜』は、又兵衛が長政の意に反した行動を取り、主君の怒りを買って出奔したと記す。一方、大坂方寄りの伝承は、長政の専制と狭量さに堪えかねた又兵衛が義を貫いて出奔したと描く。
現実的に考えれば、両方の側面があったと見るのが自然だろう。又兵衛が父代わりと仰いだ官兵衛が亡くなった瞬間、黒田家中における又兵衛の立場は微妙に変質した。長政から見れば、父の代の武辺者は次第に煙たい存在となる。又兵衛から見れば、若き主君は父ほどの器ではない。官兵衛という緩衝材の喪失が、両者の擦れ合いを表面化させた――この構図そのものは、大名家でしばしば見られる父子代替わりの軋轢である。
ただし、出奔後の長政が打った奉公構の苛烈さは、単なる代替わりの軋轢では説明しきれない。長政は又兵衛の再仕官をほぼ全大名に向けて封じ込めた。これは、出奔の事実そのものよりも、出奔後に又兵衛が他大名と接触した動きを、長政が外交問題と捉えた可能性を示唆する。長政にとって又兵衛は、放っておけば黒田家の機密を抱えたまま政敵の家に流れる「危険な情報資産」でもあった。
さらに付け加えれば、又兵衛の出奔の前後、黒田家中では播磨以来の譜代と九州移封後の新参との間で派閥対立が水面下で進行していた。譜代筆頭格として家中の発言力を持っていた又兵衛は、長政の若い側近たちにとって扱いづらい存在であった可能性も指摘される。一次史料が乏しいなかでも、複数の動因が重なって出奔が現実化したと見るのが穏当だろう。
論点2:大坂城将としての軍才と道明寺の評価
大坂の陣における又兵衛の軍才は、率直に評価が分かれている。
冬の陣では鴫野・今福口の戦いで奮戦し、和議交渉のあいだも籠城方の戦略立案で重要な役割を果たした。夏の陣の戦略会議で又兵衛が主張した大和路口での野戦・各個撃破策は、城を出て徳川方の動員を許さないうちに叩くという、籠城寄りの大坂方では大胆な攻勢策である。結果論ではあるが、この策こそが大坂方が勝機を得る数少ない道筋であったとする評価は、現代の軍事史でも繰り返されている。
一方、道明寺当日の又兵衛の判断には批判もある。霧で後続が遅れた段階で、小松山を駆け降りずに山頂に踏み止まり後続を待つべきだった、という見方は江戸期から存在する。又兵衛がなぜ下りたのか――待っても来ない後続を諦めたのか、敵の包囲が完成する前に一撃をかけたかったのか、はたまた自らの死に場所として下りていったのか――その心情は史料に残らない。
ただし、又兵衛が下りなければ徳川方の主力は大和路を悠々と進み、後続の真田・毛利が間に合った頃にはすでに勝敗が決していた可能性も高い。又兵衛の突撃が徳川方の進軍を約六時間(午前四時頃から十時頃まで)押し止めたという事実だけは、複数の史料で確認できる。
又兵衛と大坂城五人衆の他の四人――真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登――との関係も、夏の陣の作戦立案を読み解くうえで重要である。五人衆はいずれも一国一城の主たりえた猛将でありながら、誰一人が大坂方の総指揮を執れる立場ではなかった。又兵衛の大和路案も、信繁の四天王寺案も、それぞれの将が独立に主張した戦略であり、最終的に大坂城内の政治力学が決定を歪めた側面は否めない。又兵衛が小松山で孤軍となった一因も、この指揮系統の脆さに帰する見方が現代の軍事史にはある。
論点3:「槍の又兵衛」評の射程
「槍の又兵衛」という呼び名は、又兵衛の武勇を象徴する代名詞として広く知られている。だが、この呼称が史実の又兵衛にどこまで対応するかは、注意深く見る必要がある。
戦国末期の一次史料で又兵衛の個人的武勇を具体的に記すものは、実は多くない。又兵衛が朝鮮の役・関ヶ原・大坂の陣で「先陣」「奮戦」したという記述は複数あるが、敵将の首級を何人挙げたか、どの一騎打ちで誰を倒したか、といった具体描写は江戸期の軍記物に多く由来する。「槍の又兵衛」像は、史実の核に江戸期の英雄譚が厚く塗り重なって完成した複合像である。
これは「真田十勇士」の真田信繁像と同じ構造を持つ。史実の又兵衛は確かに猛将であったが、講談の又兵衛はそれを十倍に増幅した「物語の英雄」である。両者を切り分けたうえで、なお史実の又兵衛が戦国終焉の主役のひとりであった事実は揺るがない。
「槍の又兵衛」像が江戸期に独り歩きした背景には、徳川幕藩体制が固まった後の社会で、もはや実戦で名を上げる場を失った武士たちが、戦国末期の猛将に自らの理想像を投影したという文化史的事情がある。又兵衛の物語が歌舞伎や講談で繰り返し演じられたのは、彼の生き方がまさに「主家に随順しきれない武士の自由」を体現したからでもあった。史実の輪郭をぼかしてしまったのは事実だが、その伝承の厚みもまた、又兵衛という人物の射程の広さを示す証左である。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 後藤又兵衛基次(隠岐守)が黒田家に仕えた | 高 | 『黒田家譜』ほか黒田側史料に明記。実在・系譜は確実 |
| 慶長五年関ヶ原後、筑前大隈城一万六千石を領した | 高 | 『黒田家譜』・嘉麻市史跡解説で一致 |
| 慶長十一年ごろ黒田家を出奔し奉公構を打たれた | 高 | 黒田家側史料・他大名側の仕官拒否記録で裏付け |
| 慶長二十年五月六日、道明寺合戦で討死 | 高 | 諸記録で確定。享年は数え五十六が主流だが、行年四十六説もある |
| 父基国が黒田職隆に仕えた | 中 | 『黒田家譜』に記載があるが、出自系譜には異伝あり |
| 出奔の理由は長政との性格不一致 | 中 | 黒田側史料はそう描くが、又兵衛側の一次証言はほぼない |
| 朝鮮の役で碧蹄館の戦いに従軍した | 中 | 黒田勢の編成に名は見えるが、個人の武功描写は軍記由来 |
| 大和路野戦策が又兵衛の主張だった | 中 | 『難波戦記』など軍記物の記述。一次史料は乏しい |
| 道明寺で家臣山田勘助が首級を持ち去り埋めた | 低 | 江戸期伝承の域。複数の異説あり |
| 「槍の又兵衛」の個別武勇譚(具体的な一騎打ち等) | 低 | 大半が江戸期軍記・講談・浮世絵の脚色 |
| 又兵衛が出家して妙心寺塔頭に寄寓した | 低 | 後世の伝承。一次史料による裏付けは無い |
参戦合戦
後藤又兵衛|黒田を出奔し大坂に散った槍の名将の逸話
- 01
黒田八虎と二十四騎

黒田家中の重臣たち · AI生成イメージ 又兵衛の名は、黒田家を代表する家臣集団「黒田八虎」と「黒田二十四騎」のいずれにも数えられている。八虎は官兵衛・長政父子を支えた中核中の中核を指し、又兵衛は母里太兵衛・栗山利安・井上之房らと並んでその一に挙げられる。
黒田家の家臣団は、播磨以来の譜代と九州移封後の新参が織り混じった独特の編成だった。又兵衛は譜代中の譜代でありながら、家中で派閥に与せず、長政との直接の言上もはばからない気骨で知られた。この気骨が後年の出奔と表裏一体であったことは、想像に難くない。
なお黒田家の編纂史料『黒田家譜』には、又兵衛の出奔について長政側からの記述が残るが、又兵衛側の言い分を伝える一次史料はほぼ存在しない。出奔の真相を語る声の多くが、片方の側からしか出ていないことには注意が要る。
- 02
槍の又兵衛と十文字槍

十文字槍と又兵衛 · AI生成イメージ 又兵衛の愛槍は「十文字槍」と伝わる。穂先に左右の枝刃が交わる十文字の鎌槍で、突きと払いを一本の槍で兼ねる業物である。又兵衛はこの槍を縦横に使いこなし、「槍の又兵衛」と称されたという。
朝鮮の役の碧蹄館で明軍の重装騎兵を槍で叩き伏せたとも、関ヶ原で西軍の旗本を一突きで貫いたとも語られるが、いずれも後世の軍記物の脚色が混じっている。確かなのは、又兵衛が「武勇の代名詞」として戦国末期から江戸初期にかけて語り継がれた、その事実そのものである。
江戸期に入ると「真田十勇士」と並んで「又兵衛物語」が講談・浮世絵・歌舞伎の題材となり、史実の又兵衛と虚像の又兵衛が混じり合っていった。とくに『難波戦記』『真田三代記』の類は、又兵衛を真田信繁と双璧の英雄として描き、その人気を不動のものにする。
- 03
道明寺の朝霧と小松山

道明寺の朝霧と小松山 · AI生成イメージ 慶長二十年五月六日の道明寺は、夜明け前から濃い霧に包まれていた。前夜の取り決めでは、真田信繁・毛利勝永らも続いて到着するはずだった。だが霧と道に迷った後続は大幅に遅れ、又兵衛勢のみが先に小松山へ到達した。
眼下に大軍の旗指物がにじむのを見たとき、又兵衛は退却の進言を退け、小松山を駆け降りる選択をしたと伝わる。もはや退路を断たれた状況での突撃ではない――選んでなお、自ら下りていった戦いであった。
小松山の麓には、後年「後藤又兵衛討死之地」の石碑が建てられた。道明寺・玉手山一帯は、近鉄南大阪線と西名阪自動車道に分断された街並みとなった今も、なだらかな丘陵の影に、かつての激戦の記憶を残している。
関連人物
所縁の地
所縁の地の記録は準備中です。




