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戦国時代〜江戸初期後藤氏1615
武将列伝戦国時代〜江戸初期黒田

ごとう・またべえ

後藤又兵衛(基次)黒田長政との出奔理由と大坂の陣

Goto Matabee
生没年
?–1615
出身
播磨国(現在の兵庫県)
家
黒田
主な合戦
3
後藤又兵衛(基次)の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 人物・衣装を創作した視覚補助。伝来の肖像や所用甲冑の再現ではない
  • 黒田二十四騎
  • 出奔
  • 奉公構
生年
永禄三年説1560年とされるが異説あり
没年
慶長二十年五月六日1615年・旧暦/小松山・道明寺で戦死
出身
播磨国加西・姫路に生誕地の伝承
知行
一万六千石筑前大隈城主から浪人、大坂方へ
家紋
下り藤(伝承)

後藤又兵衛(基次)は、黒田家で一万六千石の城主となりながら主家を去り、大坂の陣では豊臣方の一軍を率いた武将である。黒田官兵衛・長政父子に仕え、関ヶ原の戦いにも参加したが、慶長十一年(1606年)に出奔した。理由を考える手がかりは、長政側が問題にした他家との交信にある。慶長二十年(1615年)旧暦五月六日、小松山・道明寺の戦いで戦死した。

「槍の又兵衛」と呼ばれる武勇に加え、出奔の理由、真田幸村との関係、子孫の行方には多くの関心が集まる。一方、又兵衛桜や生存説、徳川家康を討ったという話には、後世の伝説が重なる。ここでは生涯を追いながら、書状でわかることと、伝えられてきた物語を分けて見ていく。

01出自ORIGIN

播磨から黒田家へ――官兵衛との関わり

出陣の支度をする若い又兵衛の創作場面(AI生成イメージ)
出陣の支度をする若い又兵衛の創作場面 · AI生成イメージ

後藤又兵衛は、播磨の武家に生まれ、黒田家の重臣となった。通称が又兵衛、実名として広く知られるのが基次である。生年は永禄三年(1560年)とされるが、確定していない。最期の年齢にも五十六と四十六の異説があり、幼少期の年齢を細かく割り出すことは難しい。

生まれた場所にも伝承が分かれる。現在の兵庫県加西市山下町と、姫路市山田町には、それぞれ又兵衛の生誕にまつわる話が残る。父は後藤新左衛門とされ、別所氏との関係が語られる。後の名声に比べ、少年期の足取りははっきりしない。

又兵衛が仕えた黒田官兵衛は、孝高、出家後には如水とも呼ばれる人物である。播磨を足場に豊臣秀吉を支え、やがて豊前へ移った。その家中で、又兵衛は官兵衛と息子の黒田長政に仕えることになる。

ただし、幼い又兵衛を官兵衛が引き取り、一度家中を離れた後に呼び戻したという話には、経緯や年次の異なる伝え方がある。仙石秀久に仕えた時期を挟む説明もある。こうした伝承から、官兵衛への恩義を想像することはできても、本人が抱いた感情まではわからない。

官兵衛の家臣であったことと、官兵衛を父のように慕っていたことは、同じ確かさでは語れない。 又兵衛の生涯を追うには、まずこの違いを押さえておきたい。後に長政と対立したという結末からさかのぼって、父子への好き嫌いを決めることもできない。

確かな足場になるのは、黒田家の軍事行動に加わり、やがて重い知行と城を任された事実である。播磨の若者は、九州、朝鮮、美濃へと戦場を移しながら、主家のなかで地位を築いていった。

02軍功CAMPAIGNS

九州と朝鮮の戦いで黒田父子を支える

朝鮮出兵期の陣中で書状を読む又兵衛の創作場面(AI生成イメージ)
朝鮮出兵期の陣中で書状を読む又兵衛の創作場面 · AI生成イメージ

又兵衛は黒田官兵衛・長政父子のもとで、秀吉の九州平定や朝鮮出兵に従軍した。『日本大百科全書』などの人物解説は、この時期の戦功を経て又兵衛が重臣へ進んだことを記している。大坂の陣だけで名を得た武将ではなく、その前に黒田家で長い実戦経験を積んでいた。

九州では、官兵衛が豊前に領地を得たことで、主従の生活の場も変わった。又兵衛ゆかりの伝承が福岡県東部に残るのは、晩年にたまたま立ち寄ったからだけではない。黒田家がこの地に本拠を置いた時代からのつながりがあった。

文禄・慶長の役では、長政の軍勢に加わって朝鮮へ渡った。秀吉が朝鮮を侵攻し、明も加わったこの戦争は、各地の城や河川をめぐる戦いを長期化させた。又兵衛はそのなかで軍功を挙げたとされるが、黒田軍の参戦した戦場すべてで、又兵衛個人の働きが同じように確認できるわけではない。

後の武勇談には、城への一番乗りや、槍一本で窮地を救う場面が多い。又兵衛と母里太兵衛を結びつける虎退治の話も、朝鮮を舞台にしている。ただ、講釈で育った逸話をそのまま従軍記録に重ねると、軍全体の動きと一人の戦績が混ざってしまう。個別の話は、逸話として読み分ける必要がある。

官兵衛だけを又兵衛の理解者とし、長政を最初から敵役に置く見方も、この時期の経歴には合わない。又兵衛は長政のもとで戦い、長政からも厚遇された。後に長政が本多正信へ説明した書状では、又兵衛を家老同様に扱い、知行を増やしてきたという認識が示されている。

長政の説明には、出奔した家臣を責める立場が含まれる。それでも、又兵衛が長政の家中で高い地位にあった点は、のちの大隈城主という立場とも重なる。二人の関係は、戦場での協働を経てから決裂へ向かったのである。

03関ヶ原SEKIGAHARA

関ヶ原の戦いから大隈城一万六千石へ

美濃の渡河戦を題材にした又兵衛と軍勢の創作場面(AI生成イメージ)
美濃の渡河戦を題材にした又兵衛と軍勢の創作場面 · AI生成イメージ

慶長五年(1600年)の関ヶ原の戦いでは、又兵衛は黒田長政に従って東軍に属した。長政は徳川家康を支え、美濃で西軍と戦う。十四年後には豊臣方として家康に敵対する又兵衛も、この時点では黒田家の一員として東軍の勝利に貢献した。

関ヶ原本戦に先立つ働きとして、『日本大百科全書』は美濃の合渡川での渡河戦を挙げる。岐阜城攻略を含む東軍の美濃進攻と、九月十五日の関ヶ原本戦は、前後につながる別の局面である。又兵衛の名が関ヶ原の戦いに結びつくからといって、伝えられる武功のすべてを本戦当日の出来事に集めてはいけない。

戦後、長政は筑前に移り、又兵衛は大隈城を任され、一万六千石を領した。大隈城は益富城とも呼ばれ、現在の福岡県嘉麻市に跡が残る。黒田家が領国の要所に置いた筑前六端城の一つであり、又兵衛の役目は槍を振るうことだけではなかった。

城と領地を預かる重臣には、部下をまとめ、周辺との関係を保つ立場も伴う。一万六千石という知行は、その責任の大きさを示す。ただし、城主だったことをもって、独立した大名になったという意味には取れない。又兵衛はあくまで長政の家臣であった。

大隈城は、豊前に接する側の備えでもあった。後に長政が又兵衛を非難したのは、まさに他家、とくに豊前との書状のやり取りである。城を任された重臣が、主君の意向を越えて隣国と結びつけば、家中だけでは収まらない問題になりうる。

嘉麻市の解説によれば、大隈城には又兵衛の後に母里太兵衛も入った。現在の城跡には、曲輪や堀、石垣などが残る。又兵衛の生涯をこの城から見ると、後年の浪人生活が、どれほど大きな立場の変化だったかがわかる。

04出奔DEPARTURE

黒田長政との決裂――出奔理由を示す書状

門を出て旅立つ又兵衛の創作場面(AI生成イメージ)
門を出て旅立つ又兵衛の創作場面 · AI生成イメージ

又兵衛は慶長十一年(1606年)、黒田家を出奔した。官兵衛が亡くなった慶長九年(1604年)の二年後である。ただし、二つの出来事が続いたというだけで、官兵衛の死が対立の唯一の原因だったとはいえない。

出奔理由を考える手がかりに、長政が本多正信へ出した「後藤又兵衛儀ニ付、申上条々之事」がある。松下志朗の研究論文に引用されたこの書状で、長政は又兵衛の他家との交信を問題にしている。とくに豊前へ連絡していたため、今後はやめるよう命じ、誓紙も取ったという説明である。

ところが、その後も豊前との交信があると聞いた、と長政は続ける。又兵衛が池田輝政との関係を頼みにしていたのではないかとも述べ、何の申し開きもなく立ち去ったと訴えた。ここには、単なる性格の不一致ではなく、重臣が他家と結ぶ関係を、主君がどこまで管理できるかという争点が見える。

この書状は長政側の申立である。又兵衛が実際に何を意図し、誰とどのような約束をしていたのかを、同じ詳しさで説明するものではない。長政にとって都合のよい説明が含まれる可能性を考えつつ、少なくとも当人が何を問題にしていたかを読む資料となる。

出奔後、長政は又兵衛の他家への仕官を妨げる「奉公構」を行ったとされる。旧主から雇用を断るよう働きかけられれば、受け入れる大名も主家間の関係を無視できない。武名があれば自由に主君を選べる、という状況ではなかった。

又兵衛は細川忠興や池田輝政らを頼った。行橋市には、細川領の今井で身を寄せた話が残る。かつて隣国に向けた書状のやり取りが問題となった重臣は、そのつながりを頼って黒田領の外で暮らすことになった。出奔の理由と、その後の生活は、他家との関係という点でつながっている。

05帰参交渉NEGOTIATION

徳川家康も関わった、黒田家への帰参

京都での帰参交渉期を題材にした創作場面(AI生成イメージ)
京都での帰参交渉期を題材にした創作場面 · AI生成イメージ

黒田家を去った又兵衛が、大坂入城までの八年間を毎日どこで過ごしたかはわからない。細川家や池田家との関係、京都での暮らしなど、経歴の一部はたどれる。しかし、この期間すべてを「死に場所を探す旅」と説明する根拠はない。

大坂の陣が始まる慶長十九年(1614年)にも、又兵衛には黒田家へ戻る交渉があった。柏原市の天野忠幸による解説は、『芥田家文書』をもとに、徳川家康が旧主長政との間を取り持ったことを紹介している。大坂入城は、長年温めていた計画がそのまま実現した、と言い切れる経過ではなかった。

交渉では、又兵衛自身は京都に住んでもよいが、母と嫡男を福岡へ下すという条件が示された。奉公先の問題に、家族の居場所も組み込まれていたのである。家康が仲介したからといって、又兵衛が何の条件もなく黒田家へ戻れるわけではなかった。

帰参交渉は七月ごろにまとまらなくなり、又兵衛は十月に大坂城へ入ったとされる。なぜ条件を受け入れなかったのか、その本人の説明まで明らかではない。名誉を重んじたから、長政を憎んだから、と一つの動機にまとめれば読みやすくなるが、それでは史料の示す範囲を越えてしまう。

家康が又兵衛の動向を気にかけていたことは、この交渉から読み取れる。一方、「家康が最も恐れた武将だった」「播磨一国を約束して誘った」といった評判や話は、そのまま同じ確度で扱えない。実際の仲介と、後世に大きく語られた評価は分けておきたい。

帰参が実現しないまま、豊臣秀頼の大坂城は浪人を集め始めた。又兵衛はその一人として入城し、軍勢を率いる役目を担った。黒田家への復帰が話し合われていた年に、長政が従う徳川方と戦う側へ移った。 晩年の転機は、ここにある。

06大坂冬の陣OSAKA WINTER

大坂に入城し、真田信繁らと豊臣方に立つ

冬の陣の堤防で軍勢を指揮する又兵衛の創作場面(AI生成イメージ)
冬の陣の堤防で軍勢を指揮する又兵衛の創作場面 · AI生成イメージ

慶長十九年(1614年)、又兵衛は豊臣秀頼の大坂城に入った。真田信繁、毛利勝永、長宗我部盛親、明石全登らとともに、大坂方を代表する武将として語られる。後に「大坂城五人衆」とまとめられる顔ぶれである。

真田信繁は、真田幸村の名でよく知られる。又兵衛と信繁は同じ豊臣方の指揮官だったが、又兵衛が信繁の家臣だったわけではない。それぞれに部隊を率い、別の場所で戦い、必要に応じて連携する関係だった。二人をいつも並んで行動した親友として描く物語とは、いったん距離を置く必要がある。

冬の陣で又兵衛が戦ったのは、城の東側にあたる今福方面である。木村重成らとともに援軍として動き、佐竹義宣らの徳川方と交戦した。大阪市城東区の鴫野古戦場碑の解説は、川の支流、湿地、水田の多い土地で、銃撃や堤防上の戦いが行われたことを伝えている。

ここで又兵衛の働きを考えるなら、一人の槍の腕だけに注目するより、足場の限られた土地で兵を動かした指揮官として見るほうが、戦場の姿に近づく。大軍同士の戦いでも、どの道や堤防を通れるかによって、一度に戦える人数は変わる。

信繁の真田丸での戦いも冬の陣の一場面だが、今福とは場所が異なる。又兵衛まで真田丸の守将に加えてしまうと、別々の戦線が一つになってしまう。大坂方の武将たちは、広い城の周囲でそれぞれの戦場を受け持っていた。

冬の陣はいったん和議に至る。しかし、翌年には再び戦闘が始まった。又兵衛が最期を迎えるのは、大坂城のすぐ下ではなく、大和方面から大阪平野へ入る道筋である。冬の湿地帯から、夏の河川と丘陵へ。又兵衛の最後の戦いは、城外の地形と深く関わっていた。

07小松山FINAL BATTLE

道明寺の戦いと死去――旧暦五月六日の最期

小松山の戦いを題材に、丘陵で指揮を執る又兵衛の創作場面(AI生成イメージ)
小松山の戦いを題材に、丘陵で指揮を執る又兵衛の創作場面 · AI生成イメージ

慶長二十年(1615年)五月六日、又兵衛は小松山・道明寺の戦いで戦死した。日付は旧暦である。夏の陣の終盤、豊臣方は大和方面から進む徳川方を、大阪平野に入りきる前に迎え撃とうとした。

先行した又兵衛は、玉手山丘陵の片山付近に陣を取った。現在はこの戦いを小松山の戦いと呼ぶことが多いが、柏原市の調査解説によれば、当時の記録には「片山」とするものが多い。小松山での戦闘と、その後の道明寺・誉田方面の戦闘を合わせて、道明寺の戦いと呼んでいる。

又兵衛の兵は約二千八百、徳川方は約二万三千と紹介される。兵数は史料の数え方に左右されるものの、先行隊が大きな軍勢を相手にした構図は動かない。水野勝成、松平忠明、伊達政宗らの部隊が進み、後続との合流を果たせない又兵衛勢は包囲されていった。

真田信繁や毛利勝永らの到着が遅れた理由として、濃霧の話が知られる。ただ、霧の一言だけで全軍の移動や判断を説明することはできない。又兵衛が先に接敵し、味方がまとまって戦う前に追い詰められた、という経過と、後世に語られた情景は分ける必要がある。

又兵衛は山を下り、道明寺方面での戦闘中に命を落とした。銃撃による負傷や介錯など、最期の細部には異伝がある。死去そのものについては、同月十二日付で後藤助右衛門が姫路の芥田五郎右衛門へ送った書状にも、六日の戦死が伝えられている。生存説を考えるとき、まず向き合うべきなのは、この戦いに近い時期の知らせである。

遅れて到着した真田・毛利らは道明寺から誉田方面で戦い、その日のうちに大坂へ退いた。翌七日には天王寺方面で最後の決戦があり、八日に秀頼と淀殿が自害した。又兵衛の死は豊臣家滅亡の二日前にあたる。槍の名将の最期は、大坂方が兵力をまとめきれず、次々と戦力を失っていく過程のなかにあった。

02
READING

史料の読み解き

出奔理由は「黒田長政との不仲」だけではわからない

後藤又兵衛が黒田家を出た理由として、まず挙がるのは長政との不仲である。しかし、不仲という言葉は関係の悪化を説明するだけで、何が争点だったかまでは教えてくれない。

長政から本多正信への書状では、家老同様に重用した又兵衛が他家と書状を交わし、とくに豊前と連絡していたことが問題にされる。停止を命じ、誓紙を取った後も交信が続いたというのが、長政の主張だった。城と領地を預けた家臣が隣国と独自に関係を持つことは、主君にとって家臣統制の問題だったと考えられる。松下志朗の研究も、この出奔を福岡藩の家臣団統制という文脈で扱っている。

ただし、この説明を又兵衛の自白のように読んではいけない。長政は、自分が十分に引き立てた家臣から背かれた、と本多正信に説明している。又兵衛の側にどのような事情があったのか、書状の相手との関係をどう理解していたのかは、別の証拠が必要になる。

官兵衛の死、長政との対立、出奔という順番は確認できる。そこから「父のような官兵衛を失い、長政への不満を抑えられなくなった」と心情を補えば、話はつながる。だが、時系列がつながることと、動機が証明されることは違う。出奔理由は、他家との関係をめぐる対立を軸に説明しつつ、又兵衛本人の内面には踏み込みすぎないのが妥当だろう。

奉公構についても、現代の解雇や全国一律の就業禁止と同じ制度として考えるとずれる。旧主が他の大名に働きかけ、再仕官を難しくする措置であった。又兵衛を抱えたい大名がいても、長政との関係を悪くする負担が生じる。その後に家康まで帰参交渉に関わったことは、又兵衛の処遇が一対一の主従問題を越えていたことを示している。

真田幸村との関係――同じ豊臣方の指揮官

後藤又兵衛と真田幸村は、大坂の陣で同じ豊臣方に立った。ただし、信繁が又兵衛を雇ったわけでも、又兵衛が真田十勇士の一員だったわけでもない。「大坂城五人衆」という呼び名も、それぞれの部隊を率いた武将たちを理解する手がかりであり、一人が全員の直属上司だったことを示すものではない。

冬の陣では、又兵衛の今福方面と信繁の真田丸を分けて見る必要がある。夏の陣では、大和方面から進む徳川軍を迎え撃つため、同じ方面での連携が求められた。ところが、又兵衛の先行隊と後続が合流する前に戦闘が進み、又兵衛は戦死した。信繁や毛利勝永らは、その後に道明寺・誉田方面で戦っている。

「信繁がもっと早く来ていれば」という問いは自然に浮かぶ。それでも、遅れをすべて濃霧のせいと決めたり、反対に故意の見殺しだったと決めたりする材料は足りない。結果として連携が間に合わなかったことと、各人が何を考えていたかは分けたい。

戦場の名前にも注意が要る。小松山の戦いは、道明寺の戦い全体のうち、玉手山丘陵で行われた前半の戦闘を指す。又兵衛の最期、後続の戦闘、翌日の天王寺方面での決戦を一つにしてしまうと、誰がいつどこで戦ったかが見えなくなる。両者の生涯を比べるなら、(「真田幸村」)の記事と、(「大坂夏の陣」)の全体像も合わせて追うとわかりやすい。

関連人物欄の徳川秀忠は、家康とともに大坂へ攻め寄せた徳川方の指導者として挙げている。又兵衛と秀忠が一騎打ちをしたという意味ではない。冬の鴫野・今福方面での上杉景勝との敵対と、夏の小松山で交戦した水野勝成・伊達政宗との関係も、戦場を分けて読む必要がある。

死去・死因・生存説は、同じ問いではない

又兵衛がいつ死去したかについては、慶長二十年旧暦五月六日の戦死を示す、時期の近い書状がある。『芥田家文書』の後藤助右衛門書状は、六日後の十二日に又兵衛の最期と働きを伝えた。この記録は、後の生存伝説よりも、戦死の判断で重く見るべき資料である。

一方、どの弾が致命傷となったのか、負傷後に誰が介錯したのか、首をどこへ運んだのかという細部は、同じ確かさでは決められない。伊予市の長泉寺にまつわる説明では、従者の吉村武右衛門が首を持ち帰ったという話を、『伊予古跡誌』に基づく伝承として紹介している。それは供養の場の由来を知る資料にはなるが、戦場の一瞬を直接記録したものではない。

生存説も、場所ごとに何が語られているかを確かめる必要がある。宇陀の又兵衛桜のように、落人の暮らしと屋敷跡を結びつけるものがある一方、墓や供養塔のある場所が、すべて生存後の移住先を意味するわけではない。遺髪を納めた墓、首を葬ったと伝わる場所、子孫が建てた供養塔は、由来が異なる。

「墓が各地にあるから生き延びた」という読み方では、その違いが消えてしまう。まず戦死の記録を押さえ、次に各地の供養と伝説を読む。この順序なら、史料上の結論を曖昧にせずに、又兵衛が各地で記憶された広がりも知ることができる。

子供と子孫――左門、三浦家、各地の後藤家

又兵衛には子供がおり、戦後も家族や子孫に関する記録・伝承が残る。ただし、子の人数や出生順は資料によって異なる。名前を一覧に並べるだけでは、別名や異なる系譜を誤って一つにまとめるおそれがある。

山口県文書館の展示解説は、長男とされる左門の行方を紹介している。左門は堺で黒田長政に捕らえられ、幕府を経て毛利家に預けられたという。同解説が紹介する文書では、幕府は冬の陣に先立ち、左門を通じて又兵衛を大坂方から引き離そうとし、父子を家康・秀忠に会わせるための護送を指示している。左門は護送にあたった者たちの監視下で逃亡を試み、自害したとされ、監視を担当していた三上元友も責任を問われた。息子の身柄が、父の去就をめぐる交渉に組み込まれていたのである。

一方、柏原市の解説に登場するのは、六男と伝えられる三浦為勝の系統である。母方の三浦家を継いだとされ、鳥取の景福寺に残る又兵衛の遺髪墓にもつながる。同じ解説には、佐太郎の系統と、子の正利が西教寺に墓を建てた話も載る。これらは左門の経歴と別に読むべきもので、すべての子が父とともに大坂で亡くなった、とはいえない。

行橋の守田家に託された娘・久の話も、別の土地に家族の記憶が伝わった例である。槍を残したという伝承が、娘を預けたという話とともに伝えられている点が目を引く。武器だけが一人歩きした来歴ではない。

現在の子孫については、姫路の福田寺住職への取材で、後藤家に連なる人々が法要に参列していることが紹介されている。寺に伝わる系図や供養の継続を知る情報となるが、同姓であるという理由だけで、特定の人物を又兵衛の子孫と認定することはできない。子孫を調べるときは、家の伝承、系図の記載、同時代の記録を一つずつつなぐ作業が必要になる。

「基次」と「正親」――書状に残るもう一つの名

又兵衛の名は「基次」で定着しているが、柏原市の解説は、加賀前田家に伝わる正月十四日付の書状に「後又兵へ正親」という署名があることを紹介している。書状には年の記載がなく、解説では慶長二十年のものと推定される。基次から正親へいつ改名したかまで確定したものではない。肖像や系図に添えられた名前を読む際にも、この署名が手がかりとなる。

家紋「下り藤」と、甲冑・肖像の見方

又兵衛の家紋として紹介されるのは「下り藤」である。福田寺住職への取材でも、後藤家の家紋としてこの名が挙げられ、又兵衛が縁起をかついで上り藤も使ったという伝承が紹介されている。ただし、後者の話を本人の言葉として確認したものではないため、本記事では家紋の伝承として扱う。

藤の紋や「後藤」という名字から、直ちに藤原氏の特定の系統へさかのぼれるわけではない。寺に残る系図が何を伝えるかと、各世代の血縁がどこまで確かめられるかも、分ける必要がある。家紋は家の由緒を知る入口になるが、それだけで系譜のすべてを証明するものではない。

甲冑を見るときにも、同様に伝来を確かめたい。又兵衛所用と伝わる具足が紹介されていることは、画像から自由に装備を想像してよいという意味ではない。品物の名称、所蔵先、誰の所用と伝わるか、いつの姿を描いた肖像に似ているかは、それぞれ異なる情報である。

福岡市博物館が解説する江戸後期の肖像調査では、又兵衛の姿を描く材料が不足していた。現在見慣れた勇ましい顔も、生前の姿をそのまま残したとは限らない。本記事の創作画像はその不足を埋める史料ではなく、生涯の場面を読みやすくするための補助として見てほしい。

徳川家康を討った伝説と「水戸」の接点

堺の南宗寺には、徳川家康が後藤又兵衛に倒され、寺に葬られたという伝説がある。堺観光コンベンション協会も、これを伝説として紹介している。又兵衛の槍の名声が、徳川方の頂点にいる家康を討つ物語へと結びついた例である。

ただし、又兵衛の戦死を伝える旧暦五月六日の記録と、翌日の戦いで家康を倒したという筋書きは、そのままでは両立しない。南宗寺に伝説や碑があることは、家康討死を確認したことにはならない。又兵衛の実際の武功と、後世の英雄像を読み分ける必要がある。

この南宗寺の紹介に「水戸」が出てくる。トラベルjpの取材記事は、境内の東照宮跡碑を建立した三木啓次郎を、水戸徳川家の家老の末裔と紹介している。ここでの水戸との接点は、後世の顕彰に関わった人物を通じたものである。

少なくとも本記事で確認した資料から、又兵衛本人が水戸に仕えた、あるいは大坂の陣を生き延びて水戸へ移ったとはいえない。水戸、家康、南宗寺という言葉を結びつける際には、又兵衛が生きた時代の出来事と、後の碑の建立を混ぜないことが大切だ。

確度のまとめ

主張確度根拠と留意点
黒田官兵衛・長政父子に仕え、関ヶ原後に大隈一万六千石を領した高人物辞典、長政書状を引用する研究、城跡の解説を照合
慶長十一年(1606年)に黒田家を出奔した高長政側の書状と人物辞典が一致
他家との交信が出奔問題の争点だった高/立場に注意長政側がそう説明していることは確認できる。又兵衛の動機全体とは別
官兵衛の死や長政の嫉妬だけが出奔の原因だった未確認前後関係や後世の物語から心理を補うことはできない
慶長十九年(1614年)、家康が帰参交渉に関わった高『芥田家文書』を紹介する専門家の解説、人物辞典
旧暦五月六日、小松山・道明寺の戦いで戦死した高六日後の書状と複数の歴史解説
享年は必ず五十六だった留保生年不詳の扱いや四十六説もある
娘・久と槍が守田家に託された伝来行橋市歴史資料館が紹介する家の伝承
家紋は下り藤と伝えられる伝承福田寺住職の説明。系譜の証明とは別
宇陀の又兵衛桜が本人の生存を証明する裏付けなし落人伝説のある場所だが、戦死記録を覆す資料ではない
家康を討った、または水戸に仕えた裏付けなし南宗寺の伝説や後世の碑の来歴と、本人の経歴を分ける
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

後藤又兵衛(基次)の逸話

  1. 逸話 01

    槍の又兵衛――日本号の逸話と守田家の槍

    槍を手入れする又兵衛の創作場面。伝来品の形状再現ではない(AI生成イメージ)
    槍を手入れする又兵衛の創作場面。伝来品の形状再現ではない · AI生成イメージ

    「槍の又兵衛」の名には、母里太兵衛を虎から救い、礼に名槍・日本号を譲られたという話が重なる。ただし、コトバンク所収の伝承解説は、こうした物語を講釈による脚色の強い逸話として扱っている。槍の伝来を調べることと、虎退治が実際に起きたと認めることは別である。

    一方、行橋市歴史資料館が紹介するのは、今井の守田家から寄贈された、又兵衛に伝わる槍である。又兵衛は黒田家出奔後、細川領の西福寺に身を寄せ、世話を受けた守田家に娘の久を託したという。槍などは、その礼として残されたと説明されている。

    武器の名だけを追っていたはずが、娘を預かった家の話に行き着く。この槍の来歴から見えるのは、浪人となった又兵衛を支えた人々との関係である。ただし、伝来の説明から、その槍をどの戦場で使ったかまで決めることはできない。

    日本号の逸話、守田家の伝来品、後世の創作で描かれる槍は、それぞれ別に確認したい。又兵衛の愛槍を一律に十文字槍とする裏付けは、今回確認した資料では得られなかった。

  2. 逸話 02

    甲冑は残るのか――伝来の具足と後世の肖像

    本記事の創作衣装の素材を示す静物。伝来甲冑とは異なる(AI生成イメージ)
    本記事の創作衣装の素材を示す静物。伝来甲冑とは異なる · AI生成イメージ

    又兵衛の甲冑として知られるものに、大阪城天守閣所蔵の「野郎形獅噛前立兜・日月竜文蒔絵仏胴具足」がある。福岡市博物館の黒田二十四騎展でも紹介された。兜や胴に特徴のある具足だが、所用と伝えられる品の存在と、特定の合戦で実際に着たことは、分けて考えたい。

    顔の復元には、さらに難しさがある。福岡市博物館の解説によれば、文化七年(1810年)に黒田二十四騎の姿を調べた際、又兵衛については十分な資料がなく、従来の絵や人相の記述をもとに想像して描く部分があった。

    つまり、江戸時代の肖像だからといって、生前に本人を見て写した絵とは限らない。甲冑を身につけた堂々とした姿には、後世の人々が受け継いだ武将像も重なっている。

    本記事の画像も、物語を読み進めるために制作した創作である。人物の顔や衣装を統一しているが、伝来甲冑の復元図でも、本人の容貌を証明する画像でもない。所蔵品を調べるときは、作品名と伝来の説明を手がかりにしたい。

  3. 逸話 03

    又兵衛桜――奈良・宇陀に残る生存伝説

    又兵衛桜の伝説を題材にした枝垂れ桜の創作風景。現地写真ではない(AI生成イメージ)
    又兵衛桜の伝説を題材にした枝垂れ桜の創作風景。現地写真ではない · AI生成イメージ

    奈良県宇陀市の本郷には、大きな枝垂れ桜「又兵衛桜」がある。本郷の瀧桜とも呼ばれ、後藤家の屋敷跡と伝わる場所に立つ。名の背景にあるのは、又兵衛が大坂の陣を生き延び、この地で僧となったという伝説である。

    奈良県の観光案内は、この落人伝説と桜の呼び名を結びつけて紹介している。ただし、それは伝説が土地に残っているという説明であり、本人の生存を確認したという意味ではない。樹齢も三百年といわれる木で、又兵衛本人の手植えと断定する根拠にはならない。

    桜は、武将の足跡を直接証明する史料とは違う形で、名前を今に伝えている。春にその木を見上げる人は、同じ場所で戦いの話や落人の話を聞く。歴史上の人物が、土地の記憶として生き続ける一例といえる。

    史料では旧暦五月六日の戦死が確認できる。桜の伝説を楽しむときにも、その結論を取り替える必要はない。戦死の記録と、土地で語り継がれた物語を、それぞれの来歴に沿って読めばよい。

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参考文献・出典

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  1. 後藤基次(世界大百科事典・日本大百科全書ほか)
    コトバンク/平凡社・小学館ほか参照日 2026-10-18
  2. 福岡藩における財政経済政策の展開(Ⅱ)――長政〜継高時代における藩政の展開と改革
    松下志朗/九州大学経済学会『經濟學研究』41巻3号、1976年参照日 2026-10-18
  3. 源平合戦以来の又兵衛の手柄
    柏原市/天野忠幸参照日 2026-10-18
  4. 新春特別展示「後藤又兵衛の槍」
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    福岡市博物館参照日 2026-10-18
  10. 又兵衛桜(本郷の瀧桜)
    奈良県観光公式サイト参照日 2026-10-18
  11. 後藤又兵衛基次公菩提所
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執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-18

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