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戦国時代〜江戸時代初期明石氏
武将列伝戦国時代〜江戸時代初期宇喜多

あかし・てるずみ

明石全登最期と死因、生存説・強さ・家系図をたどる

AKASHI TERUZUMI
生没年
生没年不詳
出身
備前・大坂
家
宇喜多
主な合戦
3
明石全登の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AI生成の想像肖像。容貌・装備・場面は史実の復元ではない。
  • 宇喜多家
  • キリシタン
  • 関ヶ原の戦い
生没年
不詳死因・享年とも確定しない
通称
明石掃部あかし・かもん
主家
宇喜多家秀家に仕え、婚姻でも結ばれた
洗礼名
ジョアンキリシタン武将

明石全登(あかし・てるずみ)の最期と死因は、確定していない。 1615年の大坂夏の陣で戦死したという説と、生き延びたという説があり、没年・没地・享年も一つに決められない。明石掃部(かもん)の名でも知られ、洗礼名はジョアン。宇喜多秀家に仕えて関ヶ原を戦い、後に大坂の豊臣方へ加わったキリシタン武将である。

全登の強さは、単独で何人を倒したかという数字より、宇喜多軍の指揮や大坂で任された役割から見えてくる。その経歴をたどったうえで、生存説と墓の伝承、家系図、家紋、大河ドラマ『真田丸』での姿を読み解いていこう。

01宇喜多家と家族UKITA

秀家のそばで、人と仕事を動かす

宇喜多家の普請に関わる全登の想像場面。建物・会話の復元ではない(AI生成イメージ)
宇喜多家の普請に関わる全登の想像場面。建物・会話の復元ではない · AI生成イメージ

明石全登が大坂の陣に姿を現すまでには、宇喜多家で働いた長い前歴がある。出身をたどると備前の明石氏に行き着き、父は明石行雄とされる。ただし、生年は分かっていない。何歳で家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継ぎ、何歳で初陣を迎えたかという年表を、確かな数字だけで埋めることは難しい。

全登は宇喜多秀家に仕え、その姉妹を妻に迎えた。主君と家臣であると同時に、婚姻で結ばれた間柄でもあった。宇喜多家の家系図では秀家の兄弟姉妹に目を向けると、全登とのつながりが見える。大坂に集まった牢人の一人という後年の姿からは、この近さを見落としやすい。

秀家は豊臣政権を支える有力大名だった。その家に求められる仕事は備前の領国経営にとどまらず、出兵や普請にも及ぶ。普請とは建物や城などを造り、修理する工事のことだ。全登についても、伏見や大坂で普請に関わった経歴が紹介されている。 PHP研究所の人物解説は、伏見の普請に続き、大坂でも工事を監督したと紹介している。

そこから浮かぶのは、戦場に出る日だけ働く武人の姿ではない。武将が大勢の人を動かすには、命令を伝え、必要な物をそろえる役目も欠かせなかった。全登がどの資材を発注し、職人にどんな言葉をかけたかまでは記録から分からない。それでも、普請を任されたという事実は、武勇以外の能力を考える手掛かりになる。

家の内側では縁者として主君に近く、外では仕事を任される立場にあった。後に関ヶ原で軍勢を率いる全登は、こうした宇喜多家での経歴を持っていたのである。強さの根拠を探すなら、敵を倒した話だけでなく、何を任されていたかにも目を向けたい。

02キリシタンFAITH

明石掃部に、ジョアンという名が加わる

ジョアンとして祈る全登の想像場面。特定の祈りや礼拝所の復元ではない(AI生成イメージ)
ジョアンとして祈る全登の想像場面。特定の祈りや礼拝所の復元ではない · AI生成イメージ

明石掃部という武将は、キリシタンのジョアンでもあった。掃部は「かもん」と読み、ジョアンは洗礼名である。日本の武家社会で使われる呼び名と、キリスト教徒としての名が、一人の人物に重なっていた。全登がキリシタンだったことは、辞典や宣教師関係の史料研究から確かめられる。

キリシタンという呼び方は、当時の日本でキリスト教を信じた人々を指す。全登については、宇喜多家に連なる人物との関係のなかで入信した経緯が語られる。だが、本人が信仰を選んだ瞬間の気持ちを、そのまま伝える自筆の告白があるわけではない。確かに押さえられるのは、信徒となった全登が、教会側の記録にも名を残したことである。

全登の信仰をたどると、関ヶ原後に身を寄せた黒田家とのつながりも見えてくる。黒田官兵衛と弟の直之もキリシタンだった。 PHP研究所の解説では、長政のもとで立場が悪くなった全登を官兵衛が助け、直之へ預けたと紹介される。主家を失った武将の暮らしを考えるうえで、同じ信仰を持つ人との縁も見落とせない。

宇喜多家での仕事と信仰は、全登の生活のなかで並んでいた。ジョアンと呼ばれていても、主君の命を受け、普請に関わり、合戦では兵を率いる。十字架だけを見ていると、こうした家臣としての姿が遠のく。逆に、戦歴だけを追えば、なぜ教会の報告に彼の名が繰り返し現れるのかが分からなくなる。

徳川政権のもとで禁教が進むと、信徒であることは身の置き場所にも関わった。全登が大坂へ入る背景を考える際にも、この変化は外せない。ただし、信仰を守る願いだけで、すべての行動を説明することはできない。彼には宇喜多家の旧臣としての縁も、軍を率いて生きる武士としての経歴もあった。

03関ヶ原の戦いSEKIGAHARA

宇喜多軍の指揮を担い、主家を失う

関ヶ原で部隊を指揮する全登の想像図。兵数・布陣・武器の動作は復元ではない(AI生成イメージ)
関ヶ原で部隊を指揮する全登の想像図。兵数・布陣・武器の動作は復元ではない · AI生成イメージ

慶長5年(1600)の関ヶ原で、全登は宇喜多秀家とともに西軍に立った。その前に宇喜多家では、重臣たちの対立によって家臣が離れる騒動が起きていた。天下を分ける戦いを、家中が何の問題もなくまとまった状態で迎えたわけではなかった。全登は秀家のもとに残り、軍を率いる立場で戦場に出る。

宇喜多勢と激しく争った相手として知られるのが、東軍の福島正則の軍勢である。全登は宇喜多軍の前衛を率いた人物として紹介される。名古屋刀剣博物館の浮世絵解説にも、その働きが取り上げられている。ただし、後世の絵に描かれた一騎討ちの構図を、そのまま当日の出来事とすることはできない。

全登が前衛を任されたことは、軍事能力を考えるうえで重要だ。正面の敵に向かう部隊には、兵をまとめ、主力とのつながりを保つ指揮官が要る。 PHP研究所の人物解説も、全登を宇喜多勢の最前線で指揮を執った武将として描く。強さを考える出発点は、この具体的な役目にある。

それでも西軍は敗れ、宇喜多勢も崩れた。一隊がどれほど働いたとしても、他の部隊との連携や周囲の情勢から離れて戦うことはできない。全登個人の能力と、関ヶ原全体の勝敗は分けて考える必要がある。敗戦したことだけで力量がなかったとは言えず、勇戦したことだけで勝てたはずだとも言えない。

この敗北によって秀家は領国を失った。全登にとっても、以前と同じ役目や暮らしに戻る道は閉ざされる。主君に仕える家臣は、主家が存続してこそ、その仕事を続けられた。戦場を生き延びたあとには、身を寄せる先を探すという別の難題が待っていた。

関ヶ原を全登の生涯の転機とする理由は、合戦の規模だけではない。宇喜多家の重臣として働いた時代が終わり、他家との縁を頼る時代へ移ったからである。生き残ることと、失った立場を取り戻すことは、同じではなかった。

04黒田家との縁REFUGE

敗軍の将に残った、長政とのつながり

筑前に身を寄せた時期を表す全登の想像場面。実際の住居や旅程は示さない(AI生成イメージ)
筑前に身を寄せた時期を表す全登の想像場面。実際の住居や旅程は示さない · AI生成イメージ

関ヶ原で西軍にいた全登と、東軍の黒田長政。戦場では敵方に分かれた二人だが、敗戦後の全登は黒田家に身を寄せた。東軍か西軍かという区分だけでは、その後の人間関係まで説明できない。主家を失った家臣にとって、勝者の側にも暮らす道が開かれる場合があった。

もっとも、黒田家に入れば、以後の暮らしがすべて安定したというわけではない。 PHP研究所の解説は、長政のもとで俸禄を失った全登を、隠居した官兵衛が救い、弟の直之へ預けた経緯を紹介する。当主と、庇護する一族の人物とでは、全登との関わり方が違っていた。「黒田家に保護された」という短い説明の内側にも、立場の変化があったのである。

筑前時代の全登には、秋月との関わりが伝えられる。備前の宇喜多家で人を動かしていた頃とは、暮らす土地も立場も変わった。他家の保護を受けることは、生きる場所を得る一方、その家の方針に影響されることでもある。自らの判断だけで周囲の条件を変えられる大名ではなかった。

この時期の全登の生活を、年ごとに途切れなく描けるほど史料がそろっているわけではない。筑前にいたという経歴から、住まいの様子や毎日の祈りまで復元することはできない。各地を移ったとする話も、年代と根拠を確かめる必要がある。九州の地名が一つ出てくるたびに、確定した旅程の線で結ぶことは避けたい。

だが、この空白を「ずっと再戦の機会を待った」と一言で埋めるのも早い。関ヶ原と大坂の陣の間には十数年がある。新しい政権の支配が固まるなかで、主家を失った武士も暮らしを続けていた。全登にとって黒田家との縁は、その期間を生きるための支えだった。

やがて全登は大坂の豊臣方に加わる。黒田家を頼った経歴と、後に徳川勢へ立ち向かった経歴は、同じ人物の生涯に並んでいる。戦後の庇護関係も、時代の変化のなかで続くとは限らなかった。

05大坂冬の陣WINTER SIEGE

秀家のいない大坂で、豊臣方に立つ

大坂の城門付近に立つ全登の想像図。城郭の形状は創作(AI生成イメージ)
大坂の城門付近に立つ全登の想像図。城郭の形状は創作 · AI生成イメージ

慶長19年(1614)、豊臣家と徳川家の対立が大坂冬の陣に至る。全登は豊臣方に加わり、再び軍事の表舞台に現れた。そこに、かつての主君・宇喜多秀家が率いる軍はない。全登は旧宇喜多家臣としての経歴を持ちながら、今度は豊臣秀頼を支える側に立った。

大坂には真田信繁、後藤又兵衛ら、さまざまな経歴の武将が集まった。ともに名を挙げられることの多い人々だが、以前から同じ家中で働いていたわけではない。それぞれに旧主や過去の戦歴があり、失った立場も異なっていた。宇喜多軍を率いた経験を持つ全登も、その一人として加わったのである。

全登が入城した理由には、宇喜多家と豊臣家との縁や、信仰を守る期待が挙げられる。禁教が進んだ時代に、キリシタン武将が豊臣方へ向かったという重なりは確かにある。しかし、本人の動機を一つに絞れる証言が残っているわけではない。宗教の自由を約束されたから参戦した、と条件の細部まで断定することはできない。

冬の陣では、大坂城の堀や防御施設が豊臣方を支えた。徳川家康・秀忠の率いる大軍に対し、城を利用して戦う余地があった。真田信繁が守った出城の真田丸は、その戦いを象徴する場所である。全登も同じ豊臣方だったが、真田丸の指揮官まで全登に置き換えてはいけない。

冬の戦いは講和に至ったものの、その後、城の堀は埋められた。次に徳川勢と向き合うとき、冬と同じ守り方を続けることは難しくなる。大坂冬の陣と夏の陣は一続きの争いだが、戦う条件には大きな違いがあった。全登たちが翌年、城外の戦場に出ていく背景にも、この変化がある。

宇喜多家での重臣時代から、黒田家を頼った時期を経て、大坂へ。全登の経歴には、戦う場所と身を置く家の変化が重なっていた。冬の講和は、その歩みの終点にはならなかった。

06大坂夏の陣SUMMER CAMPAIGN

道明寺から、敵の背後を狙う決戦へ

道明寺方面で兵に合図する全登の想像場面。負傷や戦果の再現ではない(AI生成イメージ)
道明寺方面で兵に合図する全登の想像場面。負傷や戦果の再現ではない · AI生成イメージ

慶長20年(1615)旧暦5月6日、全登は道明寺方面に出た豊臣方の武将に数えられる。徳川方では水野勝成や伊達政宗らの軍勢が進出していた。この方面では後藤又兵衛が戦死し、豊臣方は大きな損害を受ける。城の外で敵を食い止める作戦は、苦しい戦いになった。

全登の隊についても、後藤勢の後詰として戦い、本人が負傷して退いたという伝えがある。ただし、各隊の到着順や時刻、霧の影響など、道明寺合戦の細部には検討の余地が残る。全登の行動を分刻みで確定し、誰と一騎討ちしたかまで描くことはできない。水野勝成や伊達政宗は、この戦域で向き合った徳川方の指揮官として押さえたい。

同じ日には八尾・若江でも戦いが起こり、豊臣方は複数の方面で追い込まれた。一つの隊だけが持ちこたえても、周囲の敗北と無関係に進むことはできない。諸隊は大坂へ退き、翌7日の天王寺・岡山の決戦を迎える。冬のように堀の内側で守る余地は、すでに狭まっていた。

最後の決戦で全登に伝わる役割は、徳川軍の背後を狙う別働隊である。正面の軍が敵を引きつけ、その間に別方向から回り込む。その構想では、正面で戦う真田信繁や毛利勝永らと、全登側の動きが合うことが重要だった。全登も豊臣方の作戦の一部を担う指揮官だったと分かる。

もっとも、これは家康本陣への到達や、攻撃の成功を証明する話ではない。作戦を任されたことと、狙いどおりに敵を破ったことは別である。全登が一人で家康を追い詰めたとまとめれば、他の諸隊の戦いまで混ざってしまう。武勇を語るときほど、計画と戦果を分けなければならない。

豊臣軍は敗れ、翌8日には秀頼と淀殿が命を絶った。大坂の豊臣家は滅亡する。ところが全登の生涯については、ここから先の結末が一つに定まらない。戦場にいたことが分かる人物の、最期だけが見えなくなるのである。

07最期と生存説UNCERTAIN END

戦死か、離脱か。決まらない最期

最後の決戦を前に待機する全登の想像図。戦死や逃亡の瞬間を示すものではない(AI生成イメージ)
最後の決戦を前に待機する全登の想像図。戦死や逃亡の瞬間を示すものではない · AI生成イメージ

明石全登の死因は、現在までに確定していない。大坂夏の陣で戦死したという説がある一方、戦場を離れ、その後まで生きたという説もある。生没年不詳とする辞典もあり、享年を一つの数字で示すことはできない。豊臣家の滅亡を、そのまま全登の死亡日とすることには無理がある。

戦中には、全登が樫井の戦いで死んだという報告まで流れた。山口県文書館は、全登がこの戦いに参加しておらず、報告は誤りだったと説明している。戦場の知らせは、当時の文書だから必ず正確とは限らなかった。ただし、この誤報を退けても、後の天王寺・岡山で生き残ったことまで証明できるわけではない。

大坂落城の翌年、元和2年(1616)には、全登の子をめぐる照会が毛利家に届いていた。九州へ渡るのを助けた者がいるという話や、親族のもとへ立ち寄ったという情報が扱われている。しかし、探されているのは子であって、父の全登の所在が確かめられたのではない。文書館も、寄せられた情報の真偽を留保している。

この先には、病死説や各地への潜伏説、海外へ渡ったとする伝承もある。高知県には全登の墓とされる場所も伝わった。それらは、全登がどう記憶されてきたかを知る材料になる。一方、すべてをつなぎ合わせて一人の逃亡経路とするには、年代と人物を確かめる根拠が足りない。

生き延びたと信じたくなるのは、関ヶ原の敗戦から再び大坂で戦った経歴があるためかもしれない。だが、前の敗戦を生き抜いたことは、次の敗戦でも生還した証拠にはならない。戦死説も生存説も、それぞれ何を根拠にしているかを見る必要がある。結末を急いで決めるより、確実な足跡と後世の伝承を分けておきたい。

宇喜多家で働き、ジョアンとして記録され、二つの大きな戦争に立った全登。その生涯は、最期が分からなくてもたどることができる。大坂で豊臣家は滅んだ。全登がそこで死んだかどうかは、なお決着していない。

02
READING

史料の読み解き

明石全登の死因と最期は、なぜ確定しないのか

明石全登を大坂夏の陣の戦死者に数える説明はある。一方、『世界大百科事典』の明石掃部項は生没年不詳とし、戦後の所在にも確定した結末を置いていない。同じコトバンクに収録された『日本人名大辞典』には、戦死説と、逃れたのち元和4年(1618)に病死したとする説が並ぶ。 1618年は有力な史料で一義的に決まった没年としてではなく、異説の一つとして扱う必要がある。

ここで区別したいのは「死亡の報告があること」と「その死亡が確かめられること」だ。山口県文書館の展示解説には、樫井の戦いで全登が討たれたという知らせを含む文書が紹介される。ところが、全登は樫井には参加していなかった。この報告は、戦中にも誤った情報が伝わった具体例になる。

だからといって、戦死の知らせはすべて誤報だったと逆向きに決めることもできない。樫井は旧暦4月29日の戦いで、天王寺・岡山の決戦は5月7日である。前の戦いで死んでいなかったことと、後の戦いでも生き残ったことの間には、なお証明すべき隔たりがある。全登について、確実な死亡日を示すつもりで「1615年5月7日」と記すのは避けたい。

死因を尋ねられたときの答えは「不明」である。戦死説を採れば戦闘による死、病死説を採れば戦後の死になるが、説を選ばない段階で死因だけを確定できない。生年も分からないため、最期の年齢や享年も計算できない。

生存説の根拠と、子の探索記録

全登が戦場から離れたとする説を考える際、落城後の探索記録が持ち出される。しかし、山口県文書館が紹介する1616年の照会で対象になっているのは、全登の子に関する情報だ。九州へ渡るのを助けた者、婚姻先、毛利領内の親族などが話題になっている。それらの情報自体にも、真偽が分からない部分がある。

この文書は、敗戦後にも明石家の関係者が問題になっていたことを示す。だが「子を捜しているのだから父も生きていた」「父子で同じ場所へ逃げた」という説明は、書かれている範囲を越える。父の消息、子の消息、手助けしたとされる人の存在は、それぞれ確認する必要がある。

生存説には魅力的な物語が多い。主家を二度失った武将が、なお生き延びたという結末は記憶に残りやすい。ただ、伝承がよく知られていることと、その人物の足取りが確かめられることは別である。全登の場合は、逃亡や潜伏の話を紹介しながらも、最後に確認できた場所と没地を安易につながないことが肝心になる。

家系図と宇喜多秀家との関係、妻と子供

全登は宇喜多秀家の家臣であるとともに、秀家の姉妹を妻にした縁者でもあった。家系図では、秀家の兄弟姉妹から婚姻の線をたどると、全登との関係が分かる。 PHP研究所の人物解説と辞典で、この婚姻関係が紹介されている。

関係記録・解説から押さえられること残る留保
父明石行雄とされる系譜の説明には異説があり、同名・別名の扱いも慎重さが必要
本人明石全登。掃部・守重・ジョアンなどの呼称がある生年と没年、全登の読み方は確定しない
妻宇喜多秀家の姉妹個人名や婚姻年をここで確定する材料はない
子落城翌年、子に関する探索情報が毛利家へ伝えられた照会された子の名、人数、父との同行は確定しない

全登の家族を詳しく紹介する資料では、子の名前が複数挙げられることもある。しかし、別々の資料に出てくる人名を同じ系図に入れるには、父子関係と年代の照合が要る。落城翌年の文書に名がないなら、後年の人物をその子に当てはめる段階で、もう一つ根拠が必要になる。

この記事の関連人物欄にある家系図も、分かる範囲だけを示している。母や全子女の欄を埋めなかったのは、家族がいなかったとするためではない。確定していない親族を図に入れると、本文の留保よりも線のつながりの方が強く伝わってしまうからである。

明石全登は強い武将だったのか

全登を有能な指揮官と評価する根拠はある。宇喜多家で前衛を率い、大坂夏の陣でも一隊を任されたことが、その根拠になる。一兵卒として戦ったというだけでなく、兵を動かす役割を繰り返し与えられている。ただし、任された役目から分かるのは指揮官としての位置づけであり、剣術や個人の武勇を数値に換算できるわけではない。

名古屋刀剣博物館の関ヶ原解説では、宇喜多勢の前衛を率い、福島勢と争う全登が取り上げられる。一方、大坂夏の陣では、敵の背後を狙う別働隊の役割が伝わる。どちらも「強い」という評価を、具体的な仕事に置き換える手掛かりになる。いずれの戦いでも、全登は兵を動かす側にいた。

ここで、一騎討ちの勝敗や討ち取った人数を付け足す必要はない。前衛の指揮には、前に出る判断だけでなく、他隊との連携や後退の判断も関わる。別働隊にも、勇敢さだけでは足りず、敵味方の動きを見て進む力が求められる。ただし、個別の判断のすべてが記録されているわけではないので、任務から能力の細目まで断定することは控えたい。

全登の強さを「戦国最強」と順位づけする根拠はない。反対に、関ヶ原と大坂で敗れたから弱かったという評価も粗い。主家や陣営全体の敗北と、そこで役目を与えられた指揮官の力量は、同じ物差しでは測れない。任された役割を根拠に、有力な軍事指揮官の一人だったと読むのが妥当だろう。

大坂の陣で何をしたのか、真田勢との違い

全登の大坂での働きを知るには、冬の籠城と夏の野戦を分けると分かりやすい。冬は城の防備が大きな意味を持ったが、講和後の堀の埋め立てによって、夏には同じ条件で戦えなくなった。『富田林市史』の大坂夏の陣の解説は、その変化と城外へ広がった戦いを説明している。

戦い全登の位置づけ混同しない点
大坂冬の陣・1614年豊臣方に参加した武将真田丸を守った指揮官は真田信繁
道明寺方面・1615年旧暦5月6日豊臣方の一隊を率い、水野・伊達らの進出した戦域で戦う各将との直接の一騎討ちを意味しない
天王寺・岡山・旧暦5月7日徳川軍の背後を狙う別働隊の役割が伝わる作戦の存在と、本陣攻撃の成功は別

戦国ヒストリーが紹介する『大阪御陣覚書』の作戦では、正面に敵を引きつけ、その背後へ明石隊を回す構想が示される。全登の役割は、真田勢と同じ場所で同じ動きをすることではなかった。別方向から動くからこそ、正面の戦いとの連携が必要になる。

この作戦を知ってから戦いを読むと、「真田が家康本陣に迫った」という話と「明石が背後を狙った」という話の違いが見えてくる。両者を一つにまとめれば、全登が実際にどこまで進んだかという問題が消えてしまう。家康・秀忠は戦役全体の指揮者、水野勝成・伊達政宗は道明寺方面の指揮官として、関係の範囲を分けて考えたい。

キリシタンとしての信仰と、参戦の理由

ジョアンという洗礼名は、全登を読むための重要な手掛かりである。日本側の系譜や合戦記だけでなく、宣教師の報告にも人物を探せるからだ。そこには、普請を担う立場や、関ヶ原での行動も伝えられている。信仰を持つ人物だったことが、異なる種類の記録に名を残すことにもつながった。

全登の信仰は、筑前時代の人間関係にも関わっていた。 PHP研究所の解説は、黒田官兵衛と直之による庇護を、同じキリシタンであることと結びつけている。信徒としての縁が暮らしを支えたという経歴からは、合戦の経過だけでは見えない全登の姿が浮かぶ。

大坂への参戦にも、信仰との関係がよく語られる。しかし「宗教の自由のためだけに戦った」とするには、動機を絞りすぎている。宇喜多家と豊臣家の関係、主家を失った武士としての境遇、軍事経験を生かせる場など、同じ経歴のなかに複数の事情がある。どれが最も重かったかを本人の言葉で順位づけできない以上、一つの理由にまとめない方がよい。

また、全登の部隊すべてをキリシタンだったとする説明にも、別の根拠が必要になる。指揮官の信仰が分かっても、兵一人ひとりの信仰まで自動的に分かるわけではない。キリシタン武将という呼び名を大切にしながら、その言葉で部隊構成や戦争目的まで決めないことが、人物像を狭めない読み方になる。

家紋は何か、「竹丸に桐」と十字架

明石全登の家紋としては、現在の歴史商品などで「竹丸に桐」や「花久留子」が使われている。例えば小川新聞店の武将別商品一覧には、全登の名でこの二つの意匠が掲載される。ただし、商品一覧は現代にどう表現されているかを確かめる資料であって、全登本人がその紋を使った証明にはならない。

家紋を確定するには、伝来の分かる所用品や旗、同時代の記録などとの照合が必要になる。今回確認した資料の範囲では、本人の使用紋を一つに断定できなかった。竹丸に桐や花久留子を目にしたときには、本人の所用品に由来する紹介なのか、後世の表現なのかを確かめたい。

十字架についても、信仰を示す意匠と、家の紋として継承されたものを区別したい。全登がキリシタンだったことだけで、すべての十字形を本人の家紋と認めることはできない。また、通称の「掃部」と「家紋」は、どちらも「かもん」と読めるが別の言葉である。明石掃部という名前が出てきても、それは紋章の説明ではない。

墓はどこにあるのか、高知に残る伝承

全登本人の埋葬地として確定した墓は、今回の資料からは示せない。一方、高知県には全登や明石家に結びつく墓の伝承が残る。『広報香美』2018年6月号の「明石掃部頭、韮生隠棲説」は、香美市香北町府内の墓伝承と、高知市五台山小倉山にある明石の墓とされる二基を紹介している。

この紹介は、土佐で明石家の来歴がどう伝えられてきたかを知る資料になる。ただし「明石の墓がある」という情報だけでは、埋葬されたのが全登本人なのか、一族なのかまで決まらない。墓の伝承、土地に残る家の伝承、全登の生存を証明する記録は、分けて検討する必要がある。

同記事にも、全登の戦死が確認されないため諸説が生じたことが記される。生存説を読むために墓を訪ねるとしても、確定した最期の地と考えるのではなく、地域に残った記憶に触れる場所として理解したい。個人宅の敷地に関わる伝承もあるため、ここでは私有地への訪問経路を案内していない。

『真田丸』の明石全登を演じた小林顕作と、史実との違い

2016年のNHK大河ドラマ『真田丸』では、明石全登を小林顕作が演じた。共同通信社のインタビューには、役の表現や演出について本人が語った内容が残っている。印象的な話し方や祈りの場面は、俳優と制作側が作り上げたドラマの人物像として見る必要がある。

史実として押さえられるのは、全登がキリシタンであり、大坂で真田信繁らと同じ豊臣方に立ったことである。それだけで、劇中の会話、信繁への働きかけ、二人の親密さまで同じように確かめられるわけではない。ドラマをきっかけに興味を持った場合は、登場人物の魅力と、史料に記された経歴を往復して読むと楽しみが増す。

また「真田丸」はドラマの題名であると同時に、冬の陣で信繁が守った出城の名でもある。全登が『真田丸』に登場することと、出城の真田丸を指揮したことを混同してはいけない。全登自身の役割をたどるなら、宇喜多家での仕事、関ヶ原、大坂夏の陣の別働隊という順に見る方が、その経歴がよく分かる。

史実・異説・伝承の確度

論点確度根拠と留保
宇喜多秀家に仕え、婚姻でも結ばれた高辞典と人物解説で確認できる
キリシタンで洗礼名がジョアン高辞典、文書館解説、宣教師関係の研究が対応する
関ヶ原で宇喜多方として指揮を担った高博物館解説とPHP研究所の人物解説に記述がある
黒田家に身を寄せ、官兵衛・直之の庇護を受けた中筑前滞在は辞典、庇護の経緯はPHP研究所の紹介による
夏の陣で背後を狙う役割を担った中作戦を伝える記録の紹介による。成功した戦果とは区別する
1616年に子の所在に関する照会があった高毛利家文書を山口県文書館が紹介。情報の真偽と父の生死は別
1615年戦死、または1618年病死未確定説が分かれ、死因・享年も決められない
土佐の墓が全登本人の埋葬地である未確定地域の伝承は確認できるが、本人の墓とは確定しない
家紋は竹丸に桐・花久留子である未確定現代の表現例はあるが、本人使用の確証とはしない
『真田丸』で全登を演じたのは小林顕作高2016年の本人インタビューで確認できる
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

明石全登の逸話

  1. 逸話 01

    読み方は「てるずみ」だけではない

    記録に目を向ける全登の想像場面。実在する署名や文書は描いていない(AI生成イメージ)
    記録に目を向ける全登の想像場面。実在する署名や文書は描いていない · AI生成イメージ

    明石全登は、一般に「あかし・てるずみ」と読まれる。ただし、全登には「たけのり」「なりとよ」などの読みも紹介され、全登を号、守重を名とする説明もある。本人の読みを一つに確定できるという意味で、現在よく使う表記を採っているわけではない。

    資料を探すときには「明石掃部」も手掛かりになる。掃部は「かもん」と読み、官途に由来する呼び名である。「家紋」と音が同じでも意味は異なる。明石家の紋章を調べたい場合と、明石掃部という人名を調べたい場合を分けると、検索結果も整理しやすい。

    洗礼名ジョアンも別人の名ではない。武家の系譜では掃部や守重、宣教師関係の資料ではジョアンという形で、同じ人物の記録が見つかる。漢字の名前、通称、洗礼名を照らし合わせると、合戦記だけでは見えない経歴に届く。

    一方、同じ姓の人物や、似た洗礼名の人物を自動的に全登と結びつけるのは危うい。いつ、どこで、誰との関係を記した資料なのかを確かめたい。読み方の異説は、残された文字から呼び名をどう復元するかという問題である。

  2. 逸話 02

    黒田家の庇護と、同じ信仰を持つ人々

    筑前時代の全登を旅の姿で表した想像図。実際の旅程や馬の授受を再現したものではない(AI生成イメージ)
    筑前時代の全登を旅の姿で表した想像図。実際の旅程や馬の授受を再現したものではない · AI生成イメージ

    関ヶ原で敗れたあと、全登が頼ったのは筑前の黒田家だった。長政は関ヶ原の東軍で働いた武将である。元西軍の全登がその家に身を置いた経歴は、戦場の敵味方が、その後も固定された人間関係ではなかったことを教える。

    ただし、全登を支えた人物を長政一人で代表させると、黒田家での暮らしは見えにくくなる。 PHP研究所の人物解説では、長政のもとで俸禄を失った全登に、父の官兵衛が手を差し伸べたとされる。官兵衛は全登を弟の直之へ預けた。官兵衛も直之もキリシタンであり、ここには信仰を同じくする者同士のつながりがあった。

    官兵衛が亡くなり、直之も亡くなると、庇護の条件は変わった。個々の人物との縁に支えられた暮らしは、その人がいなくなれば同じ形で続けられるとは限らない。全登の筑前時代を、ひたすら大坂への再起を待った年月として読むと、この変化を見落としてしまう。

    武士としての所属と、信徒としての縁。その二つが交わるところに、宇喜多家を失った全登の生活があった。

  3. 逸話 03

    落城の翌年、毛利家に届いた子の情報

    子の探索文書を考えるための帳面と筆の想像静物。実在史料の複製ではない(AI生成イメージ)
    子の探索文書を考えるための帳面と筆の想像静物。実在史料の複製ではない · AI生成イメージ

    元和2年(1616)、大坂の戦いが終わっても、関係者を探す動きは続いていた。山口県文書館が紹介する毛利家の文書には、明石掃部の子に関する照会が残る。子の九州への移動を助けた者がいたという情報などが、問い合わせの対象になった。

    内容には、田中氏の家臣との婚姻や、毛利領内にいた親族への立ち寄りが含まれる。だが、それらは伝えられた情報であり、すべてが確認された事実とは限らない。とくに文書中の地名を現在の特定地点へ当てはめる際には注意がいる。同じ名前の土地があるだけでは、移動先まで確定できないからだ。

    この文書から、父の全登も一緒に九州へ逃げたと結論づけることはできない。誰を探しているかと、誰が実際に見つかったかは別の問題である。子に関する照会を、全登本人の生存確認に置き換えないことが大切になる。

    子供の名前や人数を並べた系図は分かりやすい。ただ、名の分からない子を、別の資料に出る特定の人物と同一視すると、確かでない線までつながってしまう。ここでは「全登の子について戦後に照会があった」ところまでを押さえ、家族の足跡と父の消息を分けている。

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関連人物

家系図FAMILY TREE
親
  • 明石行雄(父とされる)
本人明石全登
配偶者宇喜多秀家の姉妹
子
  • 子(1616年の探索文書に登場・名前未確認)

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 明石掃部(世界大百科事典・日本人名大辞典)
    平凡社・講談社/コトバンク参照日 2026-10-15
  2. 関ヶ原の戦いと浮世絵
    名古屋刀剣博物館参照日 2026-10-15
  3. 玉手山と大坂夏の陣
    柏原市参照日 2026-10-15
  4. 小林顕作(明石全登)『真田丸』インタビュー、2016年10月8日
    共同通信社・エンタメOVO参照日 2026-10-15

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-29

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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