あかし・てるずみ
明石全登宇喜多家を支え、大坂で戦ったキリシタン武将

- 生年
- 不詳確実な生年を伝える史料なし
- 没年
- 不詳大坂落城後の消息に諸説
- 主家
- 宇喜多家秀家の重臣・婚姻による縁者
- 洗礼名
- ジョアンキリシタンとして記録に登場
明石全登は、宇喜多秀家の重臣として関ヶ原を戦い、主家を失ったのちに大坂の豊臣方へ加わった武将である。 明石掃部の呼び名でも知られ、キリシタンとしての洗礼名はジョアンという。 大坂の陣で名を連ねる武将の一人だが、最期は明らかでなく、生没年も確定していない。
その生涯には、仕事を任される重臣の姿、信徒として記録される姿、敗戦後に人の縁を頼る姿が重なる。 戦死と逃亡のどちらかを先に選ぶよりも、残された記録のなかで何をしていた人物なのかをたどってみたい。
秀家を支えた、もう一つの仕事

明石全登は、戦場だけで主家を支えた武将ではない。 備前の宇喜多家で重きをなし、主君の宇喜多秀家とは婚姻でも結ばれていた。 家臣として命を受ける一方、主家の内側に入る縁者でもあった。 大坂の陣で名を残すはるか以前から、全登の人生は宇喜多家と深く重なっている。
宇喜多家は直家の代に備前で勢力を伸ばし、秀家の代には豊臣政権の有力大名となった。 領国の仕事だけで家が動く時代ではない。 豊臣政権の命令に応じて人を送り、工事を担い、各地への出兵を支える必要があった。 主君が大きな政治の舞台へ進むほど、その足元を支える家臣の役目も広がっていく。
全登は、宣教師の報告に大坂で普請を監督する人物として登場する。 普請とは、建物や城などを造り、修理するための工事である。 人を集めただけでは進まず、資材や仕事の順序を調整しなければならない。 その担当者として名が挙がることは、全登を見るうえで大切な手掛かりになる。 武勇だけでなく、仕事をまとめる側にも立っていたのである。
後年の合戦を知ってから生涯を振り返ると、槍を持った姿ばかりを思い浮かべやすい。 しかし、秀家のもとで全登が過ごした時間には、戦いの準備と家中の運営も含まれていた。 戦場で部隊を預かる立場と、平時に人を動かす立場は、ひとりの重臣の仕事としてつながっていた。全登の出発点は、宇喜多家を動かす側にいたことにある。
掃部とジョアン、二つの呼び名

日本の記録では明石掃部と呼ばれる武将が、宣教師の記録ではキリシタンとして姿を現す。 洗礼名はジョアン。 全登を知る手掛かりは、武家の系譜や合戦の物語だけに残っているわけではない。 海の向こうへ届けるために書かれた報告にも、その歩みが刻まれた。
キリシタンになったからといって、全登が宇喜多家での役割を捨てたわけではなかった。 主君に仕え、普請や軍事に関わりながら、信徒として宣教師と接点を持った。 そのため、宇喜多家の内部を知る人物が、別の言葉と価値観で書かれる記録にも登場することになった。 同じ人物に、武家社会と教会の双方から光が当たっている。
信仰は、全登の生涯を考えるときに欠かせない。 関ヶ原で敗れたあとの行動も、宣教師はキリスト教の教えと結びつけて伝えている。 死を目前にした人間がどう振る舞ったかという関心は、誰がどの部隊を破ったかという合戦記の関心とは異なる。 そこに、武将の経歴だけを追っていては見えにくい一面が残った。
やがて徳川政権のもとで禁教が進むと、信仰は暮らす場所にも関わる問題となる。 武士として働く先を探すことと、信徒として生きることを、いつでも別々に選べるとは限らない。 全登がのちに大坂へ向かうときにも、その背景にはこうした時代の変化があった。 ただし、彼には宇喜多家の旧臣という来歴もあった。 ジョアンという名を持つ人は、同時に、主家を失った明石掃部でもあったのである。
宇喜多軍の前に立つ

慶長5年(1600)、宇喜多家は大きな内紛を経て、天下分け目の戦いを迎えた。 家臣たちの対立は家のまとまりを揺さぶり、一部の重臣が去る事態になっていた。 その後も秀家を支えた全登は、関ヶ原で宇喜多軍の指揮を担う。 家中の混乱が収まったからといって、外の情勢が待ってくれるわけではなかった。
秀家は西軍に立ち、全登も主君とともに徳川家康の側と戦った。 関ヶ原で宇喜多勢と激しく争った相手として知られるのが、福島正則の軍勢である。 どちらも豊臣政権のもとで地位を築いた大名の軍だった。 豊臣に関わる者が一つの陣営に集まった戦いではなく、その内部にも選択の違いが走っていた。
全登は、主君のそばに控えているだけの立場ではない。 軍勢を率い、敵に向き合う側にいた。 宇喜多軍が戦場で持ちこたえるためには、前線の部隊と主君の本隊が離れずに動かなければならない。 だが、関ヶ原は一つの軍の働きだけで勝敗が決まる戦場でもなかった。 西軍の連携が崩れると、宇喜多勢も敗走へ追い込まれていく。
敗れたのは、全登の部隊だけではなかった。 秀家は領国を失い、それまで家臣たちの身分と生活を支えていた宇喜多家の仕組みも崩れた。 戦場を生き延びても、昨日までの役目に戻れるわけではない。 全登にとって関ヶ原は、指揮官としての敗戦であるとともに、仕える家を失う出来事になった。生き残ったあとに、もう一度生きる場所を探さなければならなかった。
敵方にいた長政とのつながり

関ヶ原で敵味方に分かれたことが、その後の人間関係のすべてを決めたわけではなかった。 全登の戦後をたどると、東軍に属した黒田長政との縁に行き当たる。 ふたりの関係は、宣教師が残した報告にも登場する。 敗軍の将が生き延びる道には、勝者の側にいる知人の働きかけも関わっていた。
イエズス会の年報は、敗戦後の全登が長政に助けられたと伝える。 長政は家康に取りなし、全登を保護する道を開いたという。 ここで目を引くのは、救った相手が同じ西軍の武将ではないことだ。 戦場での所属と、個人の間に積み重なった縁は、完全には重ならなかった。
その後、全登は筑前の黒田家に身を寄せ、秋月との関わりを伝えられる。 宇喜多家の重臣だった時期と比べれば、置かれた立場は大きく変わった。 自らの領国を持つ大名ではなく、旧主の家を立て直せる立場でもない。 他家の庇護を受ける暮らしには、かつての家中とは違う条件があった。
全登がどこに住み、どのように日々を過ごしたかを、連続した日記のように追うことはできない。 それでも、関ヶ原の敗北と大坂への参戦の間に、黒田家とのつながりがあることは見落とせない。 十数年を、次の決戦を待つだけの時間として扱うことはできないだろう。 戦国の合戦が終わり、新しい支配の形が固まる間を、全登も生きていた。
やがて大坂で豊臣家と徳川家が対立すると、全登は再び豊臣方の武将として現れる。 長政に救われたという話と、徳川方に敵対するという選択が、ひとつの生涯に並ぶ。 恩義だけで、その後の行動が一つに定まったわけではなかった。
旧宇喜多家臣が、豊臣方に加わる

慶長19年(1614)、全登は大坂の豊臣方に加わった。 かつての主君・宇喜多秀家が率いる軍は、もうそこにはない。 城に集まったのは、さまざまな経歴を持つ武士たちだった。 全登も、豊臣秀頼を支える軍事力の一翼を担うことになった。
大坂には真田信繁や後藤又兵衛ら、のちに合戦の物語で名を並べられる武将が集まった。 しかし、最初から一つの家中で育ち、同じ主君のもとで働いてきた集団ではない。 それぞれに旧主があり、戦歴があり、失った立場があった。 共に戦う相手がいることと、長く統一された指揮の経験を持つことは別だった。
全登を大坂へ向かわせた理由として、信仰を守れる社会への期待が語られることがある。 宇喜多秀家との旧縁に、豊臣方への参加を重ねる見方もある。 どの願いがどれほど強かったかを、本人の言葉で順位づけることはできない。 確かなのは、彼が豊臣方に身を置き、徳川家康・秀忠の軍を相手に戦う立場を選んだことである。
冬の陣で豊臣方の支えとなったのは、大坂城とその周囲の防備だった。 城を囲む堀や守りの施設は、城内の軍が徳川方の大軍に向き合う条件を作っていた。 戦いは講和に至ったものの、その後に堀が埋められる。 再び戦うことになれば、冬と同じように城を頼るわけにはいかなくなった。
全登が加わった大坂の戦いは、一度の出陣で完結しなかった。 講和を挟んで情勢が変わり、武将たちは翌年、城外の戦場へ向かう。 宇喜多家の重臣として関ヶ原に立った時から十四年。 全登は今度は、かつての主家とは異なる軍のなかで、次の戦いを迎えようとしていた。
道明寺から、最後の決戦へ

慶長20年(1615)、大坂の戦いは城の外へ広がった。 冬の講和後に防備を失った豊臣方は、進んでくる徳川勢を野外で迎え撃つ。 旧暦5月6日、河内の道明寺方面も、その戦場の一つになった。 全登はこの方面に出た豊臣方の武将に数えられている。
道明寺では後藤又兵衛らが戦い、徳川方では水野勝成や伊達政宗らの軍勢が進出した。 戦場は一つの部隊の正面だけに収まらない。 先に戦っている隊へ後続が加わり、敗れて退く兵が別の隊と交わる。 全登も、そうした複数の軍勢が入り交じる戦いに関わった。
この日の豊臣方は、道明寺だけで戦っていたのではなかった。 八尾・若江方面でも戦闘が起こり、城の外で徳川勢を食い止めようとする戦いが続いた。 一か所で踏みとどまっても、別の方面が崩れれば、軍全体の判断を変えざるを得ない。 豊臣方は各地の戦いで損害を受け、大坂へ引き返すことになった。
翌7日、戦いは天王寺・岡山方面での決戦に至る。 全登には、別働隊として徳川軍の背後を狙う役割が伝えられている。 正面で戦う部隊と、別の方向から動く部隊の働きを合わせようとする構想だった。 ただし、作戦が伝わっていることと、それが予定どおりに実行されたことは同じではない。 全登が敵の本陣へ到達して家康を追い詰めた、とまでは言えない。
豊臣軍は敗れ、大坂城も落ちた。 翌8日に秀頼と淀殿が命を絶ち、大坂の豊臣家は滅亡する。 全登が最後の戦場でたどった道は、ここからはっきり見えなくなる。 武将たちの最期が次々に語られるなかで、彼については一つの結末に定まらなかった。
落城で閉じない生涯

大坂城が落ちたあと、明石全登はどこへ行ったのか。 戦死したとも、戦場を抜けて生き延びたとも伝えられる。 没年も没地も、一つに決めることはできない。 ここが、全登の生涯をほかの大坂の武将と並べるときに立ち止まる場所になる。
戦いが終われば、すべての消息がすぐ明らかになるわけではなかった。 軍勢は散り、人々は避難し、落人の取り締まりも行われる。 誰が討たれ、誰が逃げたかという情報は、各地へ届けられた。 そのなかには誤りも交じっていた。 全登自身、参戦していない樫井の戦いで死んだという誤報が伝えられている。
一方、落城後の記録に、明石という名が途絶えたわけではない。 翌年には、全登の子についての探索が行われたことを示す文書が残った。 家族がどこへ移ったのか、誰が手助けしたのかが、権力の側から追われていた。 ただし、子を捜している文書は、父の所在を確かめた文書ではない。 家族の足跡が見つかっても、それだけで全登の生存が証明されることにはならない。
海外へ逃れたという伝承まで生まれたのは、こうした消息の空白があったためでもあるだろう。 結末が不明な生涯には、後から多くの物語を重ねることができる。 それでも、どの物語を採るかによって、確かな経歴まで変える必要はない。 宇喜多家を支え、キリシタンとして記録され、関ヶ原と大坂で戦った武将がいた。
全登を語るために、確証のない死に場所を用意する必要はない。 最後まで分からない部分を残しても、彼が生きた時代の激しさは薄れない。大坂の豊臣家は滅んだ。全登の生涯がそこで終わったかどうかは、なお分からない。
史料の読み解き
全登の人物像は、種類の異なる資料を合わせて初めて見えてくる。 宣教師の報告は信徒としての行動に目を向け、合戦を扱う記録は軍勢の動きに目を向ける。 さらに、戦後の探索文書は、本人の伝記を書くためではなく、所在や関係者を調べるために作られた。 何が書かれているかに加えて、何のために書かれたかを意識すると、同じ名前でも読み方が変わる。
重臣の仕事と石高
全登を「大坂で戦ったキリシタン武将」と紹介するだけでは、宇喜多家での仕事が見えにくい。 宣教師の報告を検討した白峰旬の論文には、普請の監督や、秀家のもとで重い役割を担う人物としての記載が示されている。 ただし、そこで使われる役職の表現を、日本の制度上の官職と直ちに一対一で対応させることはできない。 普請の範囲についても、大坂城の建設すべてを一人で取り仕切った、と広げるのは慎重であるべきだ。
白峰旬論文、61〜62頁重臣という言葉も、ただ身分が高いという意味で受け取ると具体像が薄くなる。 大名が命令を出しても、その内容を実際の仕事にする人がいなければ家は動かない。 必要な人数をそろえ、誰が何をするかを決め、終わった仕事を報告する。 全登の個々の作業手順が記録されているわけではないが、普請を担ったという記載は、武功とは別の働きを考える入口になる。
石高にも注意がいる。 同論文で紹介される報告には五千石の収入という記載があるが、収入の表現と領知の総高を、検討なしに同一視してはいけない。 異なる数字が出たとき、大きい数字を採れば有力な武将に見せられるというものではない。 どの時点の、何を数えた数字かが分からなければ、比較の前提がそろわない。 本記事では石高を人物の強さを示す固定値として掲げず、任された仕事からその立場を説明した。
関ヶ原の武勇と敗戦
宇喜多勢と福島勢の激闘は、全登を扱う紹介でもよく取り上げられる。 名古屋刀剣博物館の浮世絵解説にも、宇喜多軍の前衛を率いる全登が登場する。 一方、その絵は後世に描かれたもので、槍の向きや人物の位置を当日の実景として読むことはできない。 絵が伝える勇壮な印象と、戦況を裏付ける記録は分けて扱う必要がある。
名古屋刀剣博物館の解説とくに慎重にしたいのは、ひとりの武将の勇猛さで関ヶ原全体を説明することである。 ある部隊が勇戦したとしても、周辺の部隊が動かなければ戦線は保てない。 逆に、軍全体が崩れたことから、個々の指揮官が何もしなかったと結論づけることもできない。 指揮官の働きと、複数の大名が参加する軍のまとまりは、別々の尺度で見なければならない。
よく知られた筋書きに合わせて、戦闘開始や寝返りの時刻を細かく配置することにも問題がある。 宣教師の報告を重視する研究では、一般に知られる長時間の激戦像とは異なる読み方も示されている。 本記事は時刻を一つに確定せず、全登が宇喜多軍を率いて西軍として戦い、その敗北によって主家を失ったところに焦点を置いた。 数時間の動きを精密に描けないことと、敗戦が人生を変えたことは両立する。
信仰から動機を読みすぎない
全登がキリシタンだったことは、辞典、宣教師関係の研究、山口県文書館の紹介で確認できる。 ここは人物像の中心に置いてよい。 ただし、「キリシタンだった」という事実から、参戦の理由、戦場での心情、死に方までを一直線に説明することはできない。
山口県文書館の紹介
全登には信徒としてのつながりと、宇喜多家の旧臣としてのつながりがあった。 暮らしを支える先を必要とする立場でもあり、軍勢を率いた経験を持つ武士でもあった。 どれか一つだけが本当の全登で、ほかは表面上の姿だったとする根拠はない。 一人の人間が複数の立場を持っていたと考える方が、残る経歴を無理なく読める。
また、信仰を持つ人物が戦場に立つことを、現代の感覚だけで矛盾と決めるのも早い。 当時の教えの理解や武家の役割を確認せずに、戦争を拒むはずだったと推定すれば、史料より先に人物像を決めることになる。 逆に、戦ったのだから信仰は形だけだったという決めつけも成り立たない。 信仰を軽く扱うことと、信仰ですべてを説明することの両方を避けたい。
夏の陣で伝わる作戦
道明寺の戦いについては、全登が後続として参加したことが紹介される。 ただし、濃霧で諸隊が一斉に遅れたという有名な説明も含め、通説の細部には検討の余地がある。 本記事では全登の参加を記し、到着した分刻みの時刻や負傷箇所は固定しなかった。 天王寺での別働隊についても、背後を狙う構想として扱い、家康本陣への突入成功には置き換えていない。
戦国ヒストリーの史料紹介この違いは小さく見えて、武将の評価を大きく変える。 命じられた役割、実際に動けた範囲、動いた結果は、それぞれ別の情報だからである。 作戦図の矢印は、軍議で期待された進路を描いていることもあれば、後世の研究者が推定した動きを描いていることもある。 矢印があるだけで、その先端まで本人が到達したと読むことはできない。
大坂夏の陣を全体として見ると、道明寺の翌日には天王寺・岡山の決戦があり、その翌日に豊臣家が滅亡している。 敗れた軍が十分に立て直す間もなく、次の局面を迎える短さにも目を向けたい。 全登の最後の働きを評価するには、英雄ひとりの突撃に絞るより、この急激な戦局の推移のなかへ戻す必要がある。
富田林市史の戦役整理
戦死の誤報と消息不明
山口県文書館が紹介した当時の書状には、旧暦4月29日の樫井の戦いで、明石掃部が死んだという情報が記されている。 ところが文書館は、全登はその戦いに参加しておらず、これは誤報だと説明する。 戦いと同じ時代に書かれた文書でも、書き手が現場を見ていなければ、伝聞の誤りが入り得ることが分かる。
山口県文書館「偃武の世来たる」資料5
ここから、全登は大坂夏の陣を生き延びた、と飛躍することはできない。 四月の戦死報が誤っていることは、五月の最終決戦で死ななかったことを意味しないからだ。 否定できたのは、特定の日の特定の戦場で死んだという情報である。 その範囲を越えて結論を広げると、誤報を正すために別の推測を事実にしてしまう。
落城後に子の探索が行われたことも、同様に範囲を区切って読む必要がある。 子が生きていた可能性、子が移動したという情報、父本人が生きていた証拠は別々のものだ。 家族の記録が残ることは貴重だが、それを父の同行記録に作り替えてはいけない。 海外逃亡説についても、可能性が完全に否定されていないことと、渡航が確認されたことの間には距離がある。
不明という結論は、調査を投げ出すための言葉ではない。 史料ごとに誰の、いつの、どんな行動を示しているのかを確かめ、その先に踏み出す根拠がないときに置く区切りである。 全登の最期は、その区切りを残したまま紹介するのが妥当だろう。 後から新たな文書が確認されれば、どこを読み直せばよいかも明確になる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 宇喜多秀家の重臣で、関ヶ原に西軍として参加した | 高 | 辞典・宣教師報告を検討した研究・博物館の解説が一致する |
| キリシタンで、洗礼名をジョアンという | 高 | 辞典と宣教師関係の研究で確認できる |
| 大坂の陣では豊臣方に加わった | 高 | 辞典・文書館資料・地域史の戦役記述と整合する |
| 黒田長政が敗戦後の全登を救った | 中 | イエズス会年報が伝える。叙述の立場と伝聞の可能性を留保する |
| 天王寺で徳川軍の背後を狙う役割を担った | 中 | 作戦として紹介される。実行範囲や戦果まで確定しない |
| 樫井で全登が戦死した | 低 | 当時の書状にあるが、文書館が誤報と説明する |
| 子の探索記録が全登本人の生存を証明する | 低 | 記録の対象は子であり、父の所在を直接示さない |
| 海外へ逃れて生涯を終えた | 低 | 伝承の域を出ず、没地・没年ともに確定できない |
参戦合戦
明石全登の逸話
- 逸話 01
「全登」は、何と読むのか

複数の記録を読むことを表す帳面と筆の静物(AI生成)。実在文書の複製ではない · AI生成イメージ 明石全登の名前には、「てるずみ」のほか、「たけのり」「なりとよ」などの読みが紹介される。 さらに、全登を号とし、実名を守重とする説明もある。 本記事は一般に使われる「てるずみ」を見出しとURLの基準にしたが、本人がそのように名乗った音声が確かめられるわけではない。
現代の人名なら、振り仮名や本人の署名から読みを確かめられることが多い。 しかし、古い文書に漢字で名前が残っていても、発音まで同時に残るとは限らない。 後世の辞典や研究書が採る読みも、必ずしも一つではない。 読み方が定まらないことと、その人物の実在が疑わしいことは別の問題である。
調べる際には「明石掃部」という呼び名も役立つ。 辞典の項目や古文書の解説では、全登より掃部の名で出てくることがあるからだ。 洗礼名ジョアンも、宣教師の記録をたどるときの手掛かりになる。 一人の人物が複数の名で記されることを知っておくと、異なる資料に散った記録を結びつけやすくなる。
生年や享年にも同じ慎重さが必要だ。 活動した時期から年齢を推し量ることはできても、それは生年を記した史料とは異なる。 名前の読みを選ぶために、未確定の生没年まで埋める必要はない。 掃部、守重、全登、ジョアンという呼称を照らし合わせながら、確認できる経歴を積み上げていくことになる。
- 逸話 02
敗軍の全登を助けた黒田長政

敗戦後に軍勢が退く想像場面。黒田長政との対面そのものは描いていない(AI生成) · AI生成イメージ 関ヶ原後の全登について、イエズス会の年報は印象的な話を残している。 敗戦の混乱のなかで全登が黒田長政に出会い、長政が保護と助命に動いたというのである。 この報告は白峰旬の論文で引用・検討されており、戦後の全登を考える重要な材料になっている。
ただし、読み方には気をつけたい。 宣教師の報告は、キリシタンが厳しい状況でどう振る舞ったかを伝える文章でもある。 武将の働きを記す一方で、信仰の意味を読者に示そうとしている。 現場のすべてを中立に録画した記録のようには扱えない。
それでも、長政が東軍だったからという理由だけで、ふたりを単純な仇敵とするのは無理がある。 戦いの前からある個人の関係が、敗戦後の処遇に作用したと読める点に、この話の面白さがある。 勝者の側にも、敵軍にいた知人を救おうとする余地があった。
逆に、この一件から全登が以後ずっと徳川方へ忠誠を尽くしたはずだと考えることもできない。 人を救った関係と、十数年後の軍事的な選択は、それぞれの事情のもとにある。 長政との縁をたどると、戦場での所属だけでは測れない関係が見えてくる。 実際の会話を創作して名言にするより、敵味方の境を越えた関係そのものを押さえたい。
- 逸話 03
父の消息と、子の探索

海辺の渡し場を描いた象徴的な風景。明石家の渡航地・経路を示すものではない(AI生成) · AI生成イメージ 山口県文書館が紹介する文書には、大坂落城の翌年、全登の子をめぐる探索の情報がある。 九州への移動を助けた者がいたという話などが、毛利家に伝えられた。 ただし、文書館も情報の真偽を留保している。 問い合わせが行われた事実と、その内容がすべて事実だったことは同じではない。
さらに時代が下った寛永10年(1633)の出来事として、出水麓歴史館の館報は、全登の長子とする明石小三郎の庇護を紹介している。 こちらは禁教下での摘発に関わる話である。 大坂の敗戦を扱う記録から離れても、家族の名が信仰の取り締まりに関わる文脈に現れる。
二つの記録を続けて読むと、父子の長い逃避行を一つの物語にしたくなるかもしれない。 だが、落城翌年に捜された子と、後年の小三郎が同一人物だとは、ここで確認した資料だけでは決められない。 父の全登が一緒にいたかどうかも別の問題である。 年代と人物を一つずつ分けなければ、つながって見える話ほど取り違えやすい。
こうした文書から確かに伝わるのは、城が落ちても、関係者の問題がそこで終わらなかったことである。 戦場から離れた家族や、移動を助けたと疑われる人々も、調査の対象になり得た。 全登本人の生死を解く鍵と即断することはできなくても、敗戦後の人々が置かれた状況を考える資料として読める。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 明石掃部(世界大百科事典・日本人名大辞典)平凡社・講談社/コトバンク参照日 2026-09-21
- 白峰旬『十六・七世紀イエズス会日本報告集』における関ヶ原の戦い関連の記載についての考察(その2)、史学論叢45、2015年、特に61〜63頁別府大学史学研究会参照日 2026-09-21
- キリシタン武将・明石掃部の実像(前半)PHP研究所参照日 2026-09-21
- キリシタン武将・明石掃部の実像(後半)PHP研究所参照日 2026-09-21
- 関ヶ原の戦いと浮世絵名古屋刀剣博物館参照日 2026-09-21
- 防長の大坂陣こぼれ話、2016年(明石掃部の子が防長に!?)山口県文書館参照日 2026-09-21
- 偃武の世来たる、2015年(資料5ほか)山口県文書館参照日 2026-09-21
- 富田林市史 第2巻『大坂夏の陣と富田林地方』419〜421頁富田林市/ADEAC参照日 2026-09-21
- 出水麓歴史館だより 令和6年夏号20、4頁出水麓歴史館参照日 2026-09-21
- 大坂夏の陣(1615)豊臣vs徳川が終戦(道明寺・別働隊の作戦に関する史料紹介)戦国ヒストリー参照日 2026-09-21













