メインコンテンツへスキップ
戦国時代〜安土桃山佐々氏(尾張)15361588
佐々成政|さらさら越えに賭けた不屈の猛将の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・佐々成政像(想像復元)
黒母衣衆府中三人衆越中支配
さっさ・なりまさ

佐々成政|さらさら越えに賭けた不屈の猛将

SASSA NARIMASA · 1536 — 1588 · 享年 53

織田信長の黒母衣衆筆頭から越中一国の主へと駆け上がりながら、本能寺の変の後は柴田勝家に与する道を選び、厳冬の北アルプスを越えてまで再起を説いた、戦国屈指の不屈の猛将

織田(のち豊臣)
生年
天文5年
1536年ごろ・尾張比良と伝わる(諸説あり)
没年
天正16年
1588年・享年53/尼崎で切腹
出身
尾張春日井郡・比良
佐々氏・父は佐々成宗
役職
越中国主・のち肥後国主
黒母衣衆筆頭・府中三人衆
家紋
隅立て四つ目結
YOTSU-MEYUI

佐々成政

佐々成政は、織田信長の黒母衣衆筆頭から越中一国の主へと駆け上がりながら、本能寺の変の後は柴田勝家に与する道を選び、厳冬の北アルプスを越えてまで再起を説いた、戦国屈指の不屈の猛将である。

成政——通称を内蔵助という——は天文五年(1536年)ごろ、尾張の比良城に生まれたと伝わる。兄たちの戦死により家督を継ぎ、信長の馬廻として頭角をあらわすと、やがて黒母衣衆の筆頭に抜擢された。赤母衣衆筆頭の前田利家とは、若き日からの好敵手であった。

北陸方面軍では柴田勝家の与力として府中三人衆に列し、越中を平定して富山城主となる。一土豪の弟から一国の主へ——まさに戦国の立身出世を体現した歩みであった。

だが、本能寺の変が運命を暗転させる。勝家方に与して秀吉と対立し、小牧・長久手では家康・信雄に通じ、前田利家方の末森城を攻めるも撃退され、ついには厳冬の立山を越えるさらさら越えに賭けた。その願いは実らず、富山の役で降伏。一度は肥後一国を得るが、国人一揆を招いて改易され、天正十六年(1588年)、尼崎の法園寺で切腹して果てた。

武勇は誰もが認めながら、越中を政治抗争で失い、肥後では統治につまずいた男。猪武者と笑うか、律儀な悲運の将と惜しむか——その評価の振れ幅にこそ、戦国を駆け抜けた一個の武人の、忘れがたい横顔が浮かび上がる。

01出立ORIGIN

比良の若武者 — 兄の死が継がせた家督

兄の死により家督を継いだ若き日の成政(AI生成イメージ)
兄の死により家督を継いだ若き日の成政 · AI生成イメージ

天文五年(1536年)ごろ、佐々成政は尾張春日井郡の比良城に生まれたと伝わる。父は佐々成宗。佐々氏は尾張の土豪のひとつで、織田家に仕える武門であった。ただし生年には諸説があり、はっきりとは定まっていない。

成政には兄たちがいた。だが、いくさの絶えぬ時代である。兄の政次・孫介らはあいついで戦場に斃れ、家督は弟である成政の肩へとまわってきた。若くして一家を背負った彼は、織田信長の馬廻——主君のそば近くに仕える親衛の武士として、その武名を立ててゆく。

信長はこのころ、尾張統一から美濃攻略へと突き進む途上にあった。桶狭間の戦い、斎藤氏との攻防——成政は若き日から、その最前線に身を置いた。槍をとっては人に後れをとらぬ剛勇。それこそが、彼の名を信長の耳に届かせる第一歩であった。

兄たちの死が、図らずも成政を当主へと押し上げた。 だが彼は、棚ぼたの家督に甘んじる男ではない。みずからの槍一本で、信長の信任を勝ち取っていく。
織田信長の親衛隊・黒母衣衆の筆頭格に抜擢され、北陸方面軍の府中三人衆として越中を平定し、富山城を本拠に一国の主へと成り上がった

「黒母衣の筆頭から越中一国の主へ — 一土豪の弟が駆け上がった栄光」

02黒母衣BLACK HORO

黒母衣衆の旗頭 — 赤の利家、黒の成政

黒母衣を背負い信長の親衛を担う成政(AI生成イメージ)
黒母衣を背負い信長の親衛を担う成政 · AI生成イメージ

織田信長は、選り抜きの武士を集めて親衛隊をつくった。背に母衣——矢を防ぐ布製の装具をなびかせたこの精鋭は、赤と黒の二隊に分かれ、それぞれ「赤母衣衆」「黒母衣衆」と呼ばれた。成政は、その黒母衣衆の筆頭格に抜擢される。

赤母衣衆の旗頭には、のちに加賀百万石を築く前田利家がいた。黒の成政、赤の利家——二人は信長の親衛を担う若き俊英として、たがいに武を競い合う好敵手であった。のちに北陸で激しく刃を交える宿縁は、すでにこのころ芽生えていたのかもしれない。

成政は鉄砲の扱いにも長け、長篠の戦いでは鉄砲隊の指揮を任されたとも伝わる。つまり武辺一辺倒ではなく、新しい兵器を使いこなす実戦の将であった。各地の合戦で着実に手柄を重ね、成政は信長軍団のなかで確かな地歩を築いていった。

黒母衣衆の筆頭——それは、信長がその武勇をもっとも頼りにした証であった。 そして赤母衣の利家との競い合いは、やがて北陸の地で、雌雄を決する死闘へと姿を変えてゆく。
末森城で前田利家に阻まれたのち、真冬の立山連峰を踏破して浜松の家康に再起を促したが、信雄はすでに秀吉と講和し、家康も戦を続けられる状況ではなかった

「厳冬の北アルプスを越えてなお、願いは届かなかった — さらさら越えの一念」

03越中ZENITH

越中一国の主 — 一土豪から大名へ

富山城を本拠に越中一国を治めた成政(AI生成イメージ)
富山城を本拠に越中一国を治めた成政 · AI生成イメージ

天正三年(1575年)、越前の一向一揆が織田軍によって平定されると、信長は北陸の経略を柴田勝家にゆだねた。成政は前田利家・不破光治とともに「府中三人衆」に任じられ、越前府中のあたりを与えられて、勝家の与力——北陸方面軍の一翼を担うことになる。

やがて戦線は越中へと延びる。かつての上杉謙信、そしてその死後は上杉景勝が立ちはだかる北の要害を、成政は一歩ずつ切り崩していった。守山城を足がかりに、ついには富山城を本拠と定め、越中のほぼ一国を治める大身へと駆け上がる。一土豪の弟から、一国の主へ。まさに戦国の立身出世を体現した武将であった。

越中の主となった成政は、治水や城普請に力を注いだとも伝わる。神通川の荒い流れと向き合い、富山の地を整える——荒ぶる武人の顔とは別に、ここには領国を育む為政者の顔があった。

比良城の若武者は、いまや越中一国を背負う大名へと成り上がった。 これが、成政の生涯における絶頂であった。だが、その栄華の足もとを、京で起きた一つの異変が崩しにかかる。
04岐路CROSSROADS

本能寺後の岐路 — 勝家に与する道

勝家方に与し秀吉と対立する道を選んだ成政(AI生成イメージ)
勝家方に与し秀吉と対立する道を選んだ成政 · AI生成イメージ

天正十年(1582年)六月、本能寺の変織田信長明智光秀に討たれたとき、成政は越中にあって上杉勢と対峙していた。魚津城をめぐる攻防の最中であり、彼はすぐには動けなかった。北の戦線に縛られたまま、主君の横死という報せを聞くほかなかったのである。

主を失った織田家は、後継をめぐって割れる。清洲会議を経て、羽柴秀吉柴田勝家の対立が深まると、成政は迷うことなく勝家方に与した。北陸でともに戦った勝家への、義理と信頼があったのだろう。

だが天正十一年(1583年)の賤ヶ岳の戦いでも、成政は越中で上杉への備えを解けず、本戦に間に合わなかった。勝家は敗れて越前北庄に散る。後ろ盾を失った成政は、やむなく秀吉に降って、ひとまず本領を安堵される。

北の戦線に縛られた成政は、二度までも、雌雄を決する場に立ち会えなかった。 勝家とともに信じた道は閉ざされ、彼はいや応なく、秀吉の世という新しい現実の前に立たされる。
05末森SUEMORI

末森城の攻防 — 黒と赤の決着

前田利家方の末森城を攻める成政(AI生成イメージ)
前田利家方の末森城を攻める成政 · AI生成イメージ

秀吉に頭を下げたものの、成政の心は鎮まらなかった。天正十二年(1584年)、織田信雄徳川家康が秀吉に対して兵を挙げる——小牧・長久手の戦いである。これを好機と見た成政は、ふたたび秀吉に背を向け、信雄・家康の側に立った。

矛先は、隣国加賀の前田利家へ向けられた。かつて黒母衣・赤母衣として競い合った好敵手は、いまや秀吉方と反秀吉方に分かれて敵対する。成政は同年九月、利家方の末森城に攻めかかった。城は落城寸前にまで追い込まれる。

だが、報せを受けた利家の動きは速かった。みずから救援に駆けつけた利家によって、成政は撃退される。あと一歩で手が届いたはずの勝利は、若き日の好敵手の手によって覆された。

黒と赤の宿縁は、末森の城下で決着を見た——勝ったのは、赤母衣の利家であった。 追いつめられた成政が、つぎに選んだのは、常人には思いもよらぬ捨て身の一手であった。
06雪嶺SARASARA

さらさら越え — 厳冬の北アルプスへ

厳冬の立山連峰を越えるさらさら越え(AI生成イメージ)
厳冬の立山連峰を越えるさらさら越え · AI生成イメージ

末森城で利家に阻まれ、北陸での反攻も行きづまる。それでも成政は、あきらめなかった。秀吉を倒すには、信雄と家康をもう一度ふるい立たせるしかない。そう信じた彼は、みずから浜松の家康のもとへおもむき、再起を説こうと決意する。

しかし、東海道も北陸路も、すでに秀吉方が固めている。残された道はただ一つ——厳冬の北アルプスを越えることであった。天正十二年の暮れ、成政はわずかな供を連れ、雪に閉ざされた立山連峰へと分け入る。世にいう「さらさら越え」である。

ザラ峠・針ノ木峠を経たともされるが、詳しい経路には諸説がある。猛吹雪のなか、凍てつく岩壁を頼りに険路を踏破する——落命する従者も出たと伝わるなか、成政は信濃へ抜け、ついに浜松へたどり着いた。だが、信雄はすでに秀吉と講和し、家康ももはや戦を続けられる状況ではなかった。決死の直訴も、ついに実らなかった。

厳冬のアルプスを越えてなお、成政の願いは届かなかった。 勝算の薄い雪中行軍に賭けたその一念こそ、後世が彼を「不屈の律儀者」と語り継ぐゆえんである。
07落日SUNSET

肥後の落日 — 一国を得て、つまずく

肥後で国人一揆を招き改易された成政(AI生成イメージ)
肥後で国人一揆を招き改易された成政 · AI生成イメージ

天正十三年(1585年)八月、秀吉はみずから大軍を率いて越中へ攻め寄せた。富山の役である。多勢に無勢、成政はもはや抗うすべもなく、剃髪して秀吉に降った。命だけは助けられたが、苦心して築いた越中の領国は、その大半を取り上げられた。

だが、成政の武才を惜しんだのか、秀吉は彼を見捨てなかった。天正十五年(1587年)の九州征伐に従軍した成政は、その戦功により、肥後一国を与えられる。一度は地に落ちた身からの、思いがけぬ再起であった。

ところが、肥後の地が彼を待ち受けていた。性急な検地が国人たちの既得権を脅かし、隈部親永らを中心とする大規模な国人一揆が燃え上がる。鎮圧は手間どり、近隣大名の助けを借りるありさまとなった。失政の責は重く問われ、天正十六年(1588年)閏五月、成政は摂津尼崎の法園寺で切腹を命じられる。享年は五十三と伝わる。

越中を失い、肥後を得て、その肥後でつまずいて果てる——成政の晩年は、栄達と転落のあわいを激しく揺れた。 武勇は誰もが認めながら、領国を治めきれなかった男。その評価の振れ幅こそが、佐々成政という武将の宿命であった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。