戦国時代毛利氏14971571
毛利元就の肖像
中国地方三本の矢厳島
もうり・もとなり

毛利元就

MORI MOTONARI · 1497 — 1571 · 享年 75

一本の矢は折れやすし、されど三本束ねては折れぬ

毛利
生年
明応6年
1497
没年
元亀2年
1571
出身
安芸吉田
広島県
居城
吉田郡山城
安芸
家紋
一文字三星
ICHIMONJI-MITSUBOSHI
CONTENTS · 七章
  1. 01安芸の小領主——孤独な少年期と本家継承
  2. 02吉田郡山城の戦い——尼子の大軍を撃退
  3. 03厳島の奇襲——陶晴賢を海上で討つ
  4. 04「三本の矢」——息子たちへの遺訓
  5. 05月山富田城攻略——尼子氏を滅ぼす
  6. 06中国地方の覇者——晩年と毛利家の基盤
01
小領主の子
ORIGINS

安芸の小領主——孤独な少年期と本家継承

安芸吉田・少年期の元就
安芸吉田・少年期の元就
明応六年(1497年)、安芸国吉田の国人領主・毛利弘元の次男として松寿丸は生まれた。幼くして母を亡くし、八歳で父・弘元を失い、続いて兄・興元も急逝する。一族の重臣たちに囲まれながら孤独に育った元就は、幼少期から知略と忍耐の人であった。当初は傍流の多治比氏を継ぐにすぎなかったが、享禄三年(1530年)に嫡流の毛利宗家を正式に継承。小国の当主として、東の尼子、西の大内という二大勢力の間で、巧みな外交と謀略を駆使しながら生き延びていく道を選んだ。孤独な少年期が鍛えた洞察力と粘り強さこそが、後年の大躍進の礎となった。
三子教訓状より

「一本の矢は折れやすし、されど三本束ねては折れぬ。兄弟力を合わせ毛利家を守れ。」

—— 息子たちへの遺書
02
吉田郡山城
YOSHIDA

吉田郡山城の戦い——尼子の大軍を撃退

吉田郡山城・尼子軍撃退
吉田郡山城・尼子軍撃退
天文九年(1540年)秋、出雲の大領主・尼子晴久は約三万の大軍を率いて安芸へ侵攻し、毛利の居城・吉田郡山城を包囲した。元就の手勢はわずか三千余。絶対的な兵力差にもかかわらず、元就は城に籠もって持久戦に持ち込み、援軍の到着を待った。大内義隆から派遣された援兵と連携し、夜陰に乗じた奇襲で尼子軍の補給線を断つ。天文十年(1541年)正月、兵糧攻めと寒気に苦しんだ尼子軍はついに撤退を余儀なくされた。この勝利で元就の名は中国地方に轟き、小領主が大名への道を歩み始める転換点となった。
元就の謀略観

「謀は密なるをよし、漏るれば失敗す。」

03
厳島の戦い
ITSUKUSHIMA

厳島の奇襲——陶晴賢を海上で討つ

厳島の戦い・陶晴賢撃滅
厳島の戦い・陶晴賢撃滅
天文二十四年(1555年)、元就は最大の賭けに出る。大内家の実権を握り中国地方の覇者として君臨していた陶晴賢を討つため、神の島・厳島を決戦の舞台に選んだ。元就はまず厳島に城を築いて敵を誘い込む策謀を巡らせ、陶軍をして上陸を決断させた。嵐の夜、毛利水軍が厳島の背後に回り込み、払暁の奇襲で陶晴賢の軍勢を海と山の間に挟撃した。陶晴賢は敗走の末に自刃、約二万の大軍は壊滅した。この一戦で大内勢力を吸収した元就は、中国地方全域を狙える立場へと一気に躍り出る。事前の情報収集、気象の読み、水軍の運用——謀将の名を不動にした海上奇襲であった。
晩年の述懐

「われ八十に満たずして死すとも、悔いはあるまじ。汝ら三人心を一つにせよ。」

—— 毛利家文書
04
三本の矢
THREE ARROWS

「三本の矢」——息子たちへの遺訓

三本の矢・息子たちへの教え
三本の矢・息子たちへの教え
元就晩年の逸話として最も知られるのが「三本の矢」の教えである。嫡男・隆元、次男・元春(吉川家へ養子)、三男・隆景(小早川家へ養子)の三人の息子を呼び寄せ、一本の矢は折れるが三本束ねると折れないことを示し、兄弟の結束を説いたとされる。この話は後世の創作との説が強いが、元就が生前に三子に送った遺書「三子教訓状」が現存し、兄弟の協力・連帯を強く命じていることは史実として確認される。三子をそれぞれ有力家に養子として送り込みながら連携を保つ「毛利両川体制」こそ、元就の最大の政治的遺産であった。
05
尼子滅亡
AMAGO

月山富田城攻略——尼子氏を滅ぼす

月山富田城・尼子降伏
月山富田城・尼子降伏
厳島の大勝後、元就は東の宿敵・尼子氏の本拠・月山富田城(出雲国)の攻略に着手した。尼子氏は出雲の山岳に要害の城を構え、兵糧豊富な難攻不落の拠点を持つ。元就は短期決戦を避け、長期包囲で補給を絶つ持久策を採った。永禄九年(1566年)、数年に及ぶ包囲戦の末についに尼子義久は降伏し、尼子氏は事実上滅亡した。これにより元就は安芸・周防・長門・備後・備中・出雲・石見・伯耆など中国地方のほぼ全域を支配下に収め、六十九歳にして中国の覇者となった。
06
中国の覇者
CHUGOKU

中国地方の覇者——晩年と毛利家の基盤

晩年の元就・吉田郡山城
晩年の元就・吉田郡山城
月山富田城陥落後、元就は七十歳を越えても政務を主導し続けた。嫡男・隆元が元亀元年(1563年)に急逝するという痛恨の出来事を経ながらも、孫・輝元を後継に据えて毛利家の基盤を固めた。西には豊後の大友、北には若狭・丹波方面へも勢力を伸ばし、晩年まで拡大政策を緩めなかった。元亀二年(1571年)六月、吉田郡山城において七十五歳で没。安芸の小国人から中国地方の覇者へ——七十五年の生涯をかけた元就の大事業は、毛利輝元・吉川元春・小早川隆景の三者体制に引き継がれ、豊臣政権下でも大藩として存続することになる。