
毛利元就
「一本の矢は折れやすし、されど三本束ねては折れぬ」
- 01安芸の小領主——孤独な少年期と本家継承
- 02吉田郡山城の戦い——尼子の大軍を撃退
- 03厳島の奇襲——陶晴賢を海上で討つ
- 04「三本の矢」——息子たちへの遺訓
- 05月山富田城攻略——尼子氏を滅ぼす
- 06中国地方の覇者——晩年と毛利家の基盤
安芸の小領主——孤独な少年期と本家継承

三子教訓状より「一本の矢は折れやすし、されど三本束ねては折れぬ。兄弟力を合わせ毛利家を守れ。」
吉田郡山城の戦い——尼子の大軍を撃退

元就の謀略観「謀は密なるをよし、漏るれば失敗す。」
厳島の奇襲——陶晴賢を海上で討つ

晩年の述懐「われ八十に満たずして死すとも、悔いはあるまじ。汝ら三人心を一つにせよ。」
「三本の矢」——息子たちへの遺訓

月山富田城攻略——尼子氏を滅ぼす

中国地方の覇者——晩年と毛利家の基盤

- 01
「三子教訓状」——現存する父の遺書

弘治三年(1557年)、元就は吉川元春・小早川隆景に宛て「三子教訓状」を送った。「兄弟三人、心を一つにして毛利家を盛り立てよ」との内容が今日も毛利博物館に現存する。三本の矢の逸話は後世の脚色と見られるが、この書状の存在が元就の家族への深い思いを証している。
- 02
厳島神社への信仰と戦略

厳島神社は元就が決戦の地に選んだだけでなく、生涯を通じて深く信仰した聖地でもある。元就は戦勝祈願とともに社殿の修築・寄進を行い、神域を政治的権威の象徴に利用した。厳島を「神の加護ある地」として演出することで、味方の士気を高め、敵の心理を崩す二重の効果を狙った。
- 03
嫡男・隆元の急逝と元就の悲嘆

永禄六年(1563年)、嫡男・毛利隆元が四十一歳で急逝した。元就は「我より先に逝くとは、不孝の極みなり」と嘆いたと伝わる。老齢の元就は深く悲嘆しながらも、孫・輝元の後見として政務に復帰。父を失った悲しみを抑え込み、毛利家存続のために晩年まで心血を注いだ姿は、謀将の人間的な側面を今に伝えている。
- 吉田郡山城跡広島県安芸高田市
元就の居城。標高390mの山城で、尼子大軍撃退の舞台となった。
- 厳島神社広島県廿日市市宮島町
厳島の戦いの舞台。元就が生涯を通じて信仰し、社殿修築も行った世界遺産。
- 月山富田城跡島根県安来市広瀬町
尼子氏の本拠地。元就が長期包囲戦の末に攻略し、中国制覇を完成させた要害の山城。
- 洞春寺山口県山口市
元就の菩提寺。嫡男・隆元をはじめ毛利一族ゆかりの寺。

