ほりお・よしはる
堀尾吉晴秀吉の古参から松江開府の祖へ

- 生年
- 天文12年1543年/尾張出身
- 没年
- 慶長16年1611年/数え69歳
- 居城
- 浜松城遠江12万石の領主
- 晩年
- 松江開府孫・忠晴の後見
堀尾吉晴は、豊臣秀吉の古参家臣から浜松12万石の領主となり、晩年には松江の城と町の建設を担った武将である。 「仏の茂助」の呼び名で知られるが、合戦への出陣と領国運営をともに重ねた人物だった。
松江を築いた経緯には、息子の忠氏、孫の忠晴も欠かせない。 関ヶ原で東軍として戦い、出雲・隠岐24万石を得たのは忠氏である。 吉晴は忠氏の死後、幼い忠晴を支える後見となり、1611年に天守が完成した年に没した。 父子三代の役割を分けると、吉晴が最後に担った仕事が見えてくる。
尾張から秀吉の家中へ

松江に城と町を残した堀尾吉晴の出発点は、出雲から遠く離れた尾張にあった。 天文12年(1543年)、現在の愛知県大口町にあたる御供所村で生まれたとされる。 父は堀尾泰晴、通称は茂助。 のちに浜松12万石の領主となるが、生まれながらに大きな領国を継いだ人物ではなかった。
尾張で織田信長が勢力を伸ばすころ、吉晴の家もその争いに巻き込まれた。 郷里に伝わる略伝では、父は岩倉の織田氏に仕え、吉晴も若くして岩倉の戦いに加わったという。 しかし岩倉方は信長に敗れ、堀尾父子は頼る主家を失う。 その後、吉晴は木下藤吉郎、のちの豊臣秀吉に仕えるようになった。 秀吉がまだ信長の家臣として働いていた時代からの関係である。
吉晴の経歴は、秀吉が任される戦場の広がりと重なっている。 元亀元年(1570年)の姉川では、織田・徳川方と浅井長政・朝倉義景の両勢力が戦った。 吉晴の参戦歴には、この姉川の戦いが挙げられる。 天正3年(1575年)の長篠では武田勝頼の軍が相手となり、石山合戦では本願寺顕如の率いる勢力と戦う側に立った。 これらは戦役としての敵味方であり、吉晴が各当主と直接刃を交えたという意味ではない。
秀吉が近江の長浜を拠点とすると、吉晴もその家中で知行を与えられた。 戦場へ出る家臣から、土地と家臣を持つ武将へと立場が変わっていく。 吉晴は後年「仏の茂助」と呼ばれるが、その生涯の前半を形づくったのは相次ぐ軍役だった。 長浜からさらに西へ。 秀吉の中国攻めは、吉晴にとっても活動の舞台を大きく広げる戦いとなった。
中国攻めから佐和山の領主へ

秀吉の中国攻めは、一つの決戦で終わる戦争ではなかった。 播磨から因幡、備中へ進み、城を取り、周辺の勢力と交渉しながら毛利方を押していった。 吉晴の参戦歴にも、別所長治の三木城、吉川経家の鳥取城、清水宗治の備中高松城が並ぶ。 毛利輝元は、この中国戦役全体で秀吉と対峙する側の当主であった。 城を守る将と、広い地域の軍事を担う当主は、立場を分けて見る必要がある。
天正10年(1582年)、本能寺の変によって戦況が一変する。 秀吉は毛利方との戦いを切り上げ、明智光秀の討伐へ向かった。 吉晴も山崎の戦いに参加した。 翌年には伊勢で滝川一益と戦う軍事行動に加わり、柴田勝家を相手とする賤ヶ岳の戦役へ進む。 信長の死後、誰が主導権を握るのかという争いのなかで、吉晴は秀吉の側に立ち続けた。
天正12年(1584年)の小牧・長久手の戦役では、徳川家康と織田信雄が敵方となった。 吉晴には竹鼻・蟹江方面での働きが伝えられる。 後年は家康の支配する秩序に加わる吉晴も、この時点では秀吉軍の一員である。 同じ人物同士の関係でも、年代が変われば敵味方は入れ替わる。
秀吉の勢力拡大とともに、吉晴の所領も増した。 若狭高浜などを経て、天正13年(1585年)には近江佐和山4万石の領主となる。 また、秀吉の甥である秀次を支える宿老の立場も担った。 古くからの家臣であることが、次の世代を支える仕事につながったのである。
このころの吉晴は、戦いだけを任される武将ではなくなっていた。 吉晴や家臣が土地の境界や用水をめぐる争いを調整した文書も残る。 領主の権限は、村の暮らしに直結する問題にまで及んでいた。 戦場での働きに、土地を治める仕事が加わった。 佐和山の時代は、のちの浜松や松江へ続く領国運営の一段階でもあった。
家康の旧城に石垣を築く

天正18年(1590年)、秀吉は北条氏政・氏直の勢力を倒すため、小田原へ大軍を進めた。 吉晴もこの遠征に加わり、箱根の西を守る山中城の攻略に参加した。 小田原へ至る道の城を落とすことは、北条領への進軍を支える働きだった。 ただし、同じ遠征のさなか、堀尾家には金助を失う出来事もあった。 金助の死と母の追悼は、熱田の裁断橋にまつわる話として残っている。
北条氏の敗北後、家康は関東へ移り、かつて治めていた東海の城には秀吉に近い大名が配置された。 吉晴が入ったのは遠江の浜松城である。 所領は12万石となり、佐和山時代から大きく加増された。 家康と戦った古参家臣が、今度はその旧城を引き継いだ。
浜松では、城の姿も変わった。 浜松市の城郭史解説によれば、家康のころの城は土造りを基本としていた。 堀尾氏の時代に、高い石垣、瓦を葺いた櫓や門、天守を備えた城へ整えられたという。 現在も見られる石垣は、浜松城を家康だけの城と考えると見落としやすい、堀尾時代の手掛かりである。 ただし、いま建っている天守は昭和33年(1958年)の復興であり、吉晴が建てた天守そのものではない。
城づくりと並んで、領内への命令も発せられた。 寺院への禁制、年貢や諸役にかかわる指示、文書の取り次ぎなど、堀尾家の支配を示す史料が残る。 城を構えるだけでなく、その周囲の土地、人、物資を動かす仕組みを運営する必要があった。
吉晴の仕事は遠江の内側にも収まらなかった。 天正19年(1591年)の九戸の乱後には、蒲生氏郷、井伊直政、浅野長吉らとともに、逃散した百姓の帰還を求める文書に名を連ねている。 秀吉政権のもとでは、領主は自分の領地を治める一方、遠くの戦後処理にも動員された。 浜松12万石への出世は、吉晴が担う仕事の規模も広げたのである。
隠居しても終わらなかった政務

秀吉の家中で長く働いた吉晴は、豊臣家の次の世代にも近い位置にいた。 秀次を支える宿老となったのも、その一例である。 しかし文禄4年(1595年)、秀次は失脚した。 吉晴には、秀次を伏見へ召し出す使者となったことが伝えられる。 かつて支えた人物に、政権の命令を届ける側へ回ったのであった。
慶長3年(1598年)には秀吉も死去する。 吉晴は中村一氏、生駒親正とともに「三中老」の一人として知られるが、この呼称だけで当時の政治の仕組みを説明しきることはできない。 残された文書からは、政権内の有力者と連絡を取り、意見を伝える吉晴の姿が見えてくる。 老臣としての働きは、主君の死とともに終わったわけではなかった。
慶長4年(1599年)、吉晴は家督を息子の忠氏に譲った。 浜松の当主は忠氏となり、吉晴は越前府中に5万石の隠居領を得たとされる。 府中は現在の福井県越前市にあたり、関東の府中ではない。 この交代によって、堀尾家の領主として命令を受け、家臣を率いる立場は忠氏へ移った。
それでも、隠居した吉晴は政治から離れていない。 慶長5年(1600年)5月7日付の連署文書には、家康の北方への出兵を延期するよう求める意見が残る。 吉晴は長束正家、増田長盛、中村一氏、生駒親正とともに名を連ねた。 凶作や兵糧、雪の季節への懸念を挙げ、家康が上方にとどまる必要を説く内容である。
忠氏への家督譲渡と、吉晴自身の政務は並行していた。 息子が当主として働き、父は長年の経験と他家との関係を持つ立場で動く。 家督を譲ったことと、影響力を失ったことは同じではない。 この父子の役割の違いは、まもなく起こる関ヶ原前後の堀尾家を読むうえで欠かせない。
父の負傷と、忠氏の東軍参加

関ヶ原の決戦が近づく慶長5年(1600年)、吉晴は三河での事件に巻き込まれた。 水野忠重が加賀井重望に殺され、吉晴もその場で負傷したと伝わる。 この傷のため、吉晴本人は関ヶ原の戦場に出ていない。 東軍に加わって戦ったのは、すでに堀尾家の当主となっていた忠氏である。
吉晴の動きは、当時の書状の写しからも追うことができる。 8月8日付の田中吉次宛書状では、岡崎で世話を受けたことや兵糧について礼を述べ、傷の具合にも触れている。 事件の細部をすべて復元できるわけではないが、負傷後も他家との連絡が続いていたことは分かる。 吉晴は戦場の外で、息子の軍事行動にかかわっていた。
8月26日付の山内一豊宛書状には、岐阜城攻略の報を受けた言葉と、忠氏への助言を頼む内容がある。 自分が軍を率いて進む代わりに、共に戦う大名へ息子のことを託していたのである。 書状を読むと、堀尾家の東軍参加を吉晴一人の判断と武功だけでまとめることの粗さが分かる。 現地で働いた忠氏と、連絡を取り続けた父の双方がいた。
関ヶ原の戦いの後、忠氏は出雲・隠岐24万石を与えられた。 浜松から山陰へ移り、月山富田城を拠点とした。 吉晴も出雲へ移るが、領主としての名義は忠氏である。 家臣への知行の宛行や寺社への寄進を行う忠氏の文書は、若い当主が実際に統治を担っていたことを示している。
浜松12万石から出雲・隠岐24万石への移動は、堀尾家にとって大きな転機だった。 ただし、数字が倍になったというだけで、同じ領地が広がったわけではない。 遠江を離れ、地理も寺社も家臣配置の条件も異なる土地で、新たな支配を始めることになった。 そしてその当主は、関ヶ原に出られなかった吉晴ではなく、戦った息子の忠氏であった。
息子を失い、幼い孫を支える

出雲へ移ってから、父子で新しい領国を治める時間は長く続かなかった。 慶長9年(1604年)、忠氏が死去した。 あとを継いだ忠晴は数え6歳である。 家督を譲っていた吉晴は、今度は幼い孫を支える後見として、堀尾家の統治を担うことになった。
忠氏が領国を得て、忠晴がそれを継ぎ、吉晴が支える。 松江の成立には、この三代の役割が重なっている。 吉晴を開府の祖と呼ぶことと、正式な当主の順序を忠氏、忠晴と捉えることは、矛盾しない。 むしろ両方を見れば、なぜ隠居した祖父が新しい城づくりの中心にいたのかを理解できる。
堀尾氏が新たな拠点として選んだのは、宍道湖に近い松江だった。 月山富田城は山城としての性格が強い。 一方、松江は湖や川の水運と結びつき、城と城下町を一体に整える場所となった。 城の守りに加え、領内から人や物資が集まる町をつくる条件が重視されたのである。 今日の松江の原型は、この拠点の移動にある。
慶長12年(1607年)、松江城の築城が始まった。 亀田山の地形を生かして城を構え、石垣と建物を築き、その周囲に家臣や町人が暮らす場所を整えていく。 これは天守を一棟建てれば済む仕事ではない。 資材を集める手配、運搬、石や木を扱う職人の仕事、城下の配置がつながる大きな事業だった。
吉晴には、すでに浜松で城を整えた経験があった。 ただし、浜松の設計をそのまま松江へ写したとまで言える史料はない。 共通するのは、軍事拠点を領国の中心として機能させる仕事に、両方の土地でかかわったことである。 息子を失った後も、堀尾家の領国づくりは止まらなかった。 その先頭に、六十代となった吉晴がいた。
天守の完成を見届けた最晩年

慶長16年(1611年)正月までに、松江城の天守は完成していたと考えられる。 その年代を支えるのが、天守に取り付けられていた祈祷札である。 後世の物語だけでなく、建物と結びついた実物が、築城の時期を伝えている。 松江の町全体がその日に完成したという意味ではないが、城の中心となる天守が立ち上がった節目であった。
同じ年の6月17日、吉晴は死去した。 日付は当時の旧暦で、享年は数え69。 天守が完成した年に、その建設を支えた祖父も生涯を閉じたのである。 尾張に生まれ、秀吉に仕え、佐和山、浜松を経て出雲へ移った長い道のりは、松江で終わった。
吉晴が残したものは、城の建物だけではない。 幼い当主のもとで領国を維持し、新しい城下へ支配の拠点を移す仕事も、松江の成り立ちに含まれる。 忠氏が得た領地を、忠晴の代へつなぐ役目だった。 一人の英雄による創業と見るより、三代の仕事を結ぶ位置に吉晴を置く方が、実際の経過に近い。
堀尾氏の松江支配は、その後ずっと続いたわけではない。 寛永10年(1633年)、忠晴が跡継ぎのないまま亡くなり、大名としての堀尾家は断絶した。 これは堀尾姓の一族がすべて絶えたという意味ではない。 松江の領主は代わっても、堀尾氏の築いた城と城下町は、次の時代へ受け継がれていった。
現在の浜松城と松江城を訪ねると、吉晴の二つの時期に触れることになる。 浜松には豊臣大名としての城づくりがあり、松江には孫を支えた後見の仕事がある。 合戦の名場面だけでは見えにくいが、土地を引き継ぎ、城を整え、次代へ渡す働きも武将の生涯を形づくった。 堀尾吉晴が「松江開府の祖」と呼ばれるのは、その最後の仕事が町のかたちとして残ったからである。
史料の読み解き
堀尾吉晴を語るとき、温和な人柄と松江城の築城がよく取り上げられる。 だが、人物評だけでは領主としての仕事が、天守だけでは忠氏や忠晴の役割が見えにくい。 家譜、発給文書、城の遺構を照らし合わせることで、その間を埋めることができる。
松江の初代藩主は吉晴か、忠氏か
「松江開府の祖」と「初代藩主」は、同じ意味ではない。 吉晴は新しい城と町の成立を主導した人物として記憶される。 一方、関ヶ原後に出雲・隠岐を与えられた堀尾家の当主は忠氏だった。 二つの呼び方を一つにすると、家督を継いだ人物と、築城を支えた人物が混ざってしまう。
福井将介の「堀尾吉晴・忠氏父子に関する基礎的考察」は、吉晴と忠氏の活動を、残された文書から分けて検討している。 吉晴が浜松を治めた時期の文書に続いて、忠氏を宛所とする文書が現れる。 出雲入国後には、忠氏が家臣に知行を与え、寺社へ寄進を行う。 これらは単に父の代わりに書状を運んだという働きではなく、領主としての権限の行使である。
ただし、忠氏を当主と確認したからといって、吉晴の役割が消えるわけでもない。 慶長9年(1604年)に忠氏が死去すると、忠晴はまだ幼かった。 吉晴はその後見となり、松江への拠点移転と築城にかかわった。 領地を得ること、家督を継ぐこと、新たな城を築くことは、それぞれ異なる仕事だったのである。
この区別は、吉晴の評価を小さくするためのものではない。 家を継ぐ立場から退いた後、もう一度領国の将来を支える位置に戻ったことが、むしろはっきりする。 松江の創業を三代の仕事として読むと、忠氏の領主としての活動も、吉晴の晩年の負担も見落とさずに済む。
「三中老」の肩書より、何をしたかを見る
人名辞典では、吉晴は中村一氏、生駒親正とともに三中老の一人に数えられる。 そのため、五大老と五奉行の間に立つ、明確な権限を持った三人組を想像しやすい。 しかし、呼称が広く使われていることと、制度の成立時期や職掌が史料で確かめられることは、別の問題である。
吉晴の政務を考えるうえで具体的なのは、慶長5年5月7日付の連署文書である。 『堀尾氏発給文書及び系譜集』の文書60には、長束正家、増田長盛、中村一氏、生駒親正、吉晴の五人が名を連ねる。 これは写本で伝わる文書で、家康が北方へ出兵することに対し、翌春までの延期を求めている。 理由として示されるのは凶作、兵糧の不足、季節の制約であり、上方で秀頼を支える必要も説かれる。
ここから確認できるのは、吉晴が複数の有力者と共同で政治的な意見を伝える位置にいたことである。 ただし、この文書の署名者は三人ではない。 これだけで固定した三人の役職を証明したり、逆にそのような制度は絶対になかったと断定したりすることはできない。 本記事で三中老という通称を紹介しつつ、具体的な働きを文書でたどるのは、そのためである。
「仏の茂助だから調停役だった」と、性格から政治上の立場を説明するのにも注意が要る。 長い奉公歴、所領、他の大名との関係は、温和という人物評とは別に存在した。 吉晴が何を心中で考えたかを創作するより、誰と連署し、何を理由に挙げたかを読む方が、当時の判断へ近づける。
関ヶ原で戦わなくても、家の進路にかかわった
吉晴が関ヶ原に参戦しなかったことは、堀尾家が戦いから距離を置いたことを意味しない。 当主の忠氏は東軍として軍事行動を担い、父はその動きに関する書状を出していた。 出陣した人物を確認するだけでなく、家としてどのように戦争へ加わったかを見る必要がある。
文書65の田中吉次宛書状と、文書66の山内一豊宛書状は、その区別に役立つ。 前者には岡崎で受けた世話への礼と傷への言及があり、後者には忠氏への配慮を頼む内容がある。 いずれも写しとして伝わるため、原本がそのまま現存する書状と同じ扱いにはしない。 それでも、後世の戦記だけに頼らず、戦いの前後に交わされた連絡を読む手掛かりとなる。
三河での負傷事件は、特に叙述が膨らみやすい。 水野忠重、加賀井重望、吉晴が登場するため、一つの剣戟場面にまとめられやすいからだ。 だが、系譜資料の説明には、吉晴が加賀井を討った後、水野側の者に誤って斬りかかられたとするものもある。 誰がどの傷を負わせたかを確定せず、本記事では事件に巻き込まれて負傷した範囲にとどめた。
同じ理由から、息子の戦功を父へ移すべきでもない。 「吉晴が関ヶ原で活躍して出雲を得た」とすれば話は短くなるが、家督交代と本人の不参という二つの事実が失われる。 その区別を保つことが、忠氏の仕事と、吉晴の後見としての仕事を正しく評価する出発点となる。
用水の争いと城の石垣に残る領主の仕事
吉晴の履歴を合戦名だけで追うと、秀吉の遠征に従った武将としてまとまる。 だが、領内の文書を読むと、出陣の間に続いていた別の仕事がある。 佐和山時代の史料には、家臣による山の境界の調停や、吉晴による用水の調整が見える。 浜松時代には寺院への禁制があり、慶長5年10月の普済寺への制札では、奉行の許可なく木を伐ることを禁じている。
境界や用水は、村の田畑と収穫にかかわる。 木を伐る権限は、寺領の保護や資源の扱いにかかわる。 こうした文書は派手な武功には見えないが、誰が土地を支配し、どこまで命令できたのかを具体的に示す。 吉晴の発給文書だけで善政の全体を証明できるわけではないものの、領主の仕事を知る材料になる。
城郭の変化も、その延長に置ける。 浜松での石垣と瓦葺建物の整備は、堀尾氏が新たな領主として城を作り替えたことを示す。 松江では、さらに新しい場所へ拠点を移し、城と町をつくった。 双方を「築城の名人」という一言で片付けるより、既存の城を引き継ぐ仕事と、新しい城下を起こす仕事の違いに注目したい。
一方、浜松の天守を見て松江城の構造をすべて説明することはできない。 現在の浜松天守は近代の復興であり、堀尾時代の天守の姿には復元上の検討が伴う。 二つの城を結ぶのは、見た目が同じだという証明ではなく、吉晴が両方の城づくりにかかわったという経歴である。
祈祷札が伝える1611年と、伝承の役割
松江城の天守には、慶長16年正月の年代を記した祈祷札がある。 松江歴史館の資料解説によれば、地階から1階を貫く二本の柱に取り付けられていたもので、2012年に再発見された。 この札は天守の完成年代を考える直接的な根拠となる。 後世の家譜に築城年が書かれていることとは、証拠の性質が違う。
ただし、札が答える問いの範囲にも限りがある。 天守の年代が分かっても、城下のすべての道や屋敷がいつ完成したかまでは分からない。 誰がどの石を運び、どの職人が何日働いたかも、札だけから読み取れるものではない。 大方様の餅の逸話を、祈祷札で裏付けられた史実として扱うこともできない。
伝承には別の役割がある。 餅の話には築城を助けた女性の記憶があり、「仏の茂助」には後世の人物評価がある。 裁断橋には、文化財として残る銘文と、それを説明してきた地域の語りが重なる。 何が実物で、何が後世の説明なのかを分けることで、どちらも一括して切り捨てずに読める。
吉晴の生涯は、天下統一の合戦史だけでも、松江の創業伝説だけでも捉えきれない。 父から子へ、子から孫へと続く当主の交代に、老臣としての仕事が重なっている。 城に残る石垣と札、紙に残る命令と依頼をたどると、温和な人物という評判の奥に、長く領国を支えた一人の武将が見えてくる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 吉晴は秀吉に仕え、浜松12万石を領した | 高 | 人名辞典、文書研究、浜松の城郭史解説が一致する |
| 浜松では堀尾期に石垣・瓦葺建物・天守が整えられた | 高 | 浜松市の考古学的知見を含む城郭史。現天守とは区別する |
| 関ヶ原に出陣した当主は忠氏で、吉晴本人は負傷で不参だった | 高 | 辞典・家譜研究と、負傷や忠氏への配慮に触れた書状の写しを照合する |
| 出雲・隠岐を得た忠氏の死後、吉晴が忠晴を後見した | 高 | 領主文書の研究と辞典、松江の歴史解説で三代を区別できる |
| 松江城天守は1611年正月までに完成していた | 高 | 天守の柱に取り付けられていた祈祷札が年代を示す |
| 吉晴は「三中老」の一人と呼ばれる | 高 | 辞典に定着した呼称。ただし正式制度の細部まで確定するものではない |
| 三中老には固定した権限があり、吉晴が常に政権を調停した | 低 | 呼称や一通の連署文書から、その制度像と全行動は導けない |
| 「仏の茂助」は本人の性格を正確に伝える | 中 | 後世の人物評として読む。具体的な言動まで証明するものではない |
| 大方様は石一個につき餅一個を必ず支給した | 低 | 餅を与えた話と売った話があり、一定の報酬制度とは確認できない |
参戦合戦









堀尾吉晴の逸話
- 逸話 01
「仏の茂助」は、戦わない武将だったのか

来訪者の話を聞く吉晴の想像場面。呼び名を表現した創作描写 · AI生成イメージ 吉晴には「仏の茂助」という呼び名がある。 温和で人当たりがよかったとする人物像を伝える一方、勇猛な働きを指す「鬼茂助」の話も残る。 二つの呼び名を並べると、ふだんの穏やかさと戦場での強さを対比する、後世の語り方が見えてくる。
ただし、呼び名だけで本人の性格を細部まで復元することはできない。 誰にでも怒らなかった、すべての争いを丸く収めた、といった描写を史実として加える根拠にはならない。 秀吉と初めて会った場面や、相手を感心させた会話も、物語として伝わる部分を含んでいる。
吉晴の仕事には、合戦への出陣と、土地や用水をめぐる調整の両方があった。 こちらは参戦の記録や発給文書からたどれる事柄である。 「仏」という一字で軍事経験を消してしまうと、長く秀吉に従い、複数の領地を任された経歴が見えなくなる。 逆に「鬼」を理由に、すべてを武勇で解決した人物とするのも行き過ぎだろう。
呼び名は、後世の人々が吉晴をどう記憶したかを知る入り口になる。 実際に何を任され、どのような命令を出したかは、別に確かめる必要がある。 温和さの伝承と領主としての権限を併せて見ると、この古参家臣の姿は一つの美称よりも広がる。
- 逸話 02
金助の母が残した裁断橋

金助の追悼を題材にした木橋の想像景。裁断橋の実測復元ではない · AI生成イメージ 名古屋の熱田には、堀尾金助とその母の話が伝わる。 名古屋市の文化財紹介によると、金助は天正18年(1590年)、18歳で小田原の戦いへ向かい、病に倒れて帰らぬ人となった。 吉晴の長男とする系譜があるが、ここで伝わるのは武功よりも、残された母の追悼である。
母は供養のため、翌年に裁断橋を架け替えたとされる。 さらに三十三回忌にも架け替えを行い、欄干の擬宝珠には亡き子への思いを記した和文の銘が残った。 擬宝珠は名古屋市の文化財となり、名古屋市博物館に所蔵されている。 戦争に出た一人の若者を、母が長い年月にわたって弔ったことを伝える資料である。
この話を読む際、金助を華々しく討ち死にさせる必要はない。 市の解説は病没とする。 小田原遠征で戦ったという経歴と、どのように亡くなったかは、分けて確かめなければならない。 吉晴が浜松12万石を得る年は、家族にとっては喪失の年でもあった。
なお、現在見られる橋と、当時の橋そのものも区別したい。 熱田の旧橋は川の埋め立てで撤去され、その後、姥堂の境内に縮小して復元された。 大口町にも橋と擬宝珠の復元がある。 それぞれの土地で受け継がれた記憶と、実物として残る銘文の役割は、同じではない。
- 逸話 03
大方様の餅は、築城の賃金だったのか

築城と餅の伝承を題材にした想像場面。実際の給付方法を復元したものではない · AI生成イメージ 松江城には、吉晴の妻である大方様が築城を助けたという話がある。 城の公式紹介では、石を運ぶ者に餅を与え、多くの人が集まったと語られる。 大きな石を積み上げる仕事を、食べ物によって励ます場面である。
ところが、堀尾氏の系譜を扱う研究で紹介された『千鳥亀田城取立古説』では、餅を売りさばいたとする記述がある。 餅を配ったのか、売ったのか。 話の形が一致しない以上、一つの運用が確実に存在したと決めることはできない。 石一個につき餅一個という制度を、現代の賃金表のように説明するのは慎重であるべきだろう。
この伝承から読み取れるのは、築城を吉晴一人の仕事としてだけ語らず、大方様の働きも記憶してきたことである。 一方で、工事の人員、食料の支給量、職人への支払いを具体的に復元するには、それぞれの記録が必要になる。 餅の話だけで城づくり全体の仕組みを説明することはできない。
大方様の名や出自にも、系譜による違いがある。 本記事では一つの実名や父の名に決めず、伝承上の呼び名を用いた。 城を築いた家の記憶を味わいながら、確認できることの範囲も見失わない。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 堀尾氏発給文書及び系譜集―慶長五年以前―(2021年)堀尾吉晴公共同研究会参照日 2026-10-04
- 福井将介「堀尾吉晴・忠氏父子に関する基礎的考察」『松江市歴史叢書2』(2010年)松江市教育委員会参照日 2026-10-04
- 堀尾吉晴(日本大百科全書・日本人名大辞典ほか)コトバンク参照日 2026-10-04
- 特別展「戦国の世を馳せた武将 堀尾吉晴」松江歴史館参照日 2026-10-04
- 浜松城の変遷浜松市参照日 2026-10-04
- 堀尾吉晴について大口町参照日 2026-10-04
- 歴史・藩主国宝 松江城参照日 2026-10-04
- 松江城天守祈祷札松江歴史館参照日 2026-10-04
- 松江城島根県参照日 2026-10-04
- 堀尾金助と裁断橋名古屋市熱田区参照日 2026-10-04
- 松江城の逸話国宝 松江城参照日 2026-10-04
- 史跡山中城跡 史跡公園の利用について三島市参照日 2026-10-04






















