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戦国時代〜江戸初期金森氏15241608
武将列伝戦国時代〜江戸初期豊臣

かなもり・ながちか

金森長近飛騨高山を築いた茶人大名の生涯

1524 – 1608享年 85KANAMORI NAGACHIKA
金森長近の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: 金森長近を題材にしたAI生成の想像図。実際の容貌を示す肖像ではない。
  • 飛騨高山
  • 越前大野
  • 上有知
生年
大永4年1524年
没年
慶長13年1608年・数え85歳
領国
飛騨高山城と城下町を整備
茶号
素玄千利休に学んだ茶人大名

飛騨高山の城下町を築いた金森長近は、織田信長のもとで戦歴を重ね、豊臣秀吉、徳川家康の時代まで生きた武将である。 長篠では酒井忠次の別働隊と行動し、越前攻略後には大野の領主となった。 本能寺の変と賤ヶ岳の敗戦を経て秀吉に仕え、天正13年(1585)の飛騨攻略を担ったことが、高山を拠点とする金森家の始まりにつながる。

長近の仕事は、高山だけに残っているのではない。 越前大野では城下町を整え、晩年の美濃上有知では長良川の港と町を結びつけた。 茶人としては千利休に学び、素玄と号した。 戦場での奉公、領内の町づくり、茶の湯という三つの側面を、長い生涯の時間順に重ねると、この武将の歩みが見えてくる。

01出仕BEGINNINGS

美濃と近江に伝わる出自、織田家への道

織田家へ向かう若き長近を描いた想像図(AI生成イメージ)
織田家へ向かう若き長近を描いた想像図 · AI生成イメージ

金森長近は、主君の死と味方の敗北を経験しながら、八十代まで生きた武将である。生まれたのは大永4年(1524)。織田信長より十歳年長で、後に飛騨高山の領主となるまでには、織田家の一武将として長く戦場に立つ日々があった。

父は大畑定近とされ、長近の通称は五郎八という。出自には美濃と近江の双方が関わり、出生地をどちらに置くかは文献によって異なる。大野市は美濃に生まれたとする伝承を紹介し、天文10年(1541)、十八歳で織田家に仕えたと伝える。若い日の足取りには不明な点もあるが、後年の長近が信長の軍事行動を担ったことは、記録から具体的に追うことができる。

元亀元年(1570)の姉川合戦にも、長近は参加したとされる。信長と徳川家康の軍勢が、浅井長政と朝倉氏の連合軍に対した戦いである。長近個人の働きの細部は見えにくくても、織田家と周囲の勢力が争う最前線に、その名が位置づけられている。

その後も信長の戦争は続いた。美濃や近江を押さえれば終わるわけではない。東からは武田氏が圧力をかけ、北陸では一向一揆や上杉氏との対立が待っていた。長近が担う仕事も、一つの土地を守る役目にとどまらず、方面を変えて出陣するものとなっていく。

そして天正3年(1575)、長近は三河の長篠へ向かった。この戦いで彼に与えられたのは、正面の陣地だけを守る仕事ではなかった。武田軍の背後へ回る酒井忠次の別働隊に加わり、夜の山道を進む。五十代に入った長近の役目が、『信長公記』の記述の中で鮮明になる場面である。

02長篠NAGASHINO

鳶ノ巣山へ向かった酒井忠次の別働隊

鳶ノ巣山へ向かう別働隊を題材にした想像図(AI生成イメージ)
鳶ノ巣山へ向かう別働隊を題材にした想像図 · AI生成イメージ

長篠合戦では、設楽原の織田・徳川軍と武田勝頼の軍勢が向かい合う一方、長篠城の周辺にも武田方の砦が置かれていた。酒井忠次が向かった鳶ノ巣山は、その一角である。長近はこの別働隊に加わり、主戦場とは別の方向から武田方を攻めた。

太田牛一の『信長公記』は、酒井忠次を大将とする軍勢に、信長が鉄砲を持つ馬廻の兵を添え、金森五郎八らを御検使として付けたと記す。検使とは、主君の側から軍の行動を見届け、報告する役目を伴う立場である。長近は酒井隊と行動を共にしながら、織田方の意向を背負う位置にもいた。

記録によれば、軍勢は五月二十日の夜に山へ入り、夜が明けるころに砦を攻めた。正面で敵と向かい合う軍とは別に、暗い山道を進み、後方の拠点を突く作戦だった。『信長公記』が記すのは、この共同作戦の中の長近である。彼一人が砦を落とした、あるいは特定の武将を討ち取ったとまで広げることはできない。

長篠は鉄砲の戦いとして語られやすい。しかし、長近の行動からたどると、山を越える別働隊や包囲下の城をめぐる攻防も見えてくる。長近の働きは、織田軍と徳川軍が協力する作戦の一部だった。後に主君となる家康の軍勢と、すでにこの時点で戦場を共にしていたのである。

同じ年、長近には別の出陣が命じられる。次の方面は越前だった。信長が越前一向一揆を攻める中、長近は原長頼とともに、美濃から郡上を経て大野へ入る。三河での戦いから北陸の攻略へ。その先で、長近は自らの城と城下町を持つ領主となっていった。

03大野ECHIZEN ONO

戦いで得た大野に、城と町を築く

大野の町づくりに臨む長近の想像図(AI生成イメージ)
大野の町づくりに臨む長近の想像図 · AI生成イメージ

天正3年(1575)の越前攻略で、長近は原長頼とともに大野方面を攻めた。『信長公記』には、美濃から郡上を通って進み、各地の砦を攻略する経過が記されている。戦後、長近が与えられたのは大野郡の三分の二である。数え五十二歳のころ、彼はまとまった領地を治める立場になった。

越前大野の町づくりは、この戦争の後に始まった。長近は亀山に城を築き、その東側に城下町を整えた。山上の城と平地の町を結び、武家地、商人や職人の住む町、寺院の場所を配置していく。城を堅くするだけでなく、人が暮らし、物が運ばれる範囲までが領主の仕事になったのである。

大野市の説明では、武家屋敷は城に近い側に、町人の住む区域はその東側に置かれ、芹川が両者を隔てた。道や水路は町の形を定めると同時に、異なる役割を持つ区域をつないだ。高山の領主として知られる長近だが、城下町を整える経験は、大野の時代から積み重ねられていた。

一方で、そこは住民のいない空き地ではなかった。寺社や在地の有力者、職人たちには、それまでの権利や営みがある。長近はそれらを認める文書も発給した。天正3年十二月の鍛冶座に対する安堵状は、その具体例である。征服後の領地を治めるには、従来の社会と関係を結び直す必要があった。

ただし、城主になっても、長近の出陣は終わらない。北陸では柴田勝家のもとで行動し、天正5年(1577)には上杉謙信と対する加賀方面の軍勢に名を連ねた。大野で領内を整えながら、織田家の戦争にも応じる。領主としての足場を得た長近は、その両方を担うようになった。

04転機CHANGING LORDS

本能寺と賤ヶ岳を越えて、秀吉のもとへ

主家の転換期にある長近を描いた想像図(AI生成イメージ)
主家の転換期にある長近を描いた想像図 · AI生成イメージ

大野を拠点としてからも、長近の姿は各地の軍事行動に現れる。天正6年(1578)、荒木村重が信長に背いた際には、高槻や茨木を攻める織田方の軍勢に加わった。高槻の高山右近、茨木の中川清秀は、この局面では敵側にいた。ただし二人はやがて信長に降り、敵味方の関係は変わっていく。

天正9年(1581)には、上杉景勝が越中の小出城を攻めたことを受け、柴田勝家らとともに救援への出動を命じられた。北陸の織田軍と上杉軍の争いは続いていた。長近も大野の城にとどまるだけでなく、寄親である勝家の軍事行動を支える立場にあった。

ところが天正10年(1582)、本能寺の変で信長が倒れる。長近はこの政変で長男の長則も失った。主君を失うことと、家の後継者を失うことが、一度に重なったのである。その後の長近は養子の可重を後継者とし、金森家を存続させていく。

織田家中の主導権争いでは、長近は柴田勝家の側に立った。天正11年(1583)の賤ヶ岳合戦で勝家が敗れると、長近は羽柴秀吉のもとへ移る。長近は、常に勝つ側を選び続けた武将ではない。北陸で行動を共にしてきた勝家の敗北を受け、新たな主従関係の中で生きることになった。

天正12年(1584)の小牧・長久手の戦役では、秀吉方として織田信雄・徳川家康の陣営に対した。以前は共に戦った徳川方と、今度は敵味方に分かれる。こうした立場の変化を経て、翌年、長近は秀吉による飛騨攻略を担う。大野での統治を経験した老将に、さらに別の土地を攻め、治める機会が巡ってきた。

05飛騨HIDA CAMPAIGN

三木自綱を破り、飛騨の領主となる

飛騨の山間にある城と谷を描いた想像図(AI生成イメージ)
飛騨の山間にある城と谷を描いた想像図 · AI生成イメージ

天正13年(1585)、秀吉は北陸の勢力を従えるため、越中の佐々成政を攻めた。飛騨では、成政と結ぶ三木自綱の勢力が攻略の対象となる。姉小路の姓でも知られる三木氏は、飛騨の在地勢力を押さえて支配を広げていた。その領地へ進んだのが、長近の軍勢である。

飛騨は山々に隔てられ、川沿いの盆地や谷に集落と城が置かれた土地だった。長近は三木氏の諸拠点を攻め、ついに広瀬城を落とした。敗れた自綱は京都へ退いたとされる。三木氏が飛騨を支配する時代は、ここで終わりを迎えた。

この戦いは、越中の佐々氏に対する秀吉の軍事行動と結びついていた。ただし、長近が飛騨で戦った相手と、秀吉の北陸全体の敵を重ねすぎてはならない。飛騨攻略の中心にいた敵将は三木自綱であり、佐々成政との関係は、その背後にある政治と軍事のつながりとして捉えられる。

翌天正14年(1586)、長近は飛騨の領主となった。新しい領地では、城をどこに置くかが大きな課題となる。三木氏の居城だった松倉城を含め、山城には戦うための利点があったが、領内を治める拠点には城下町を展開できる土地も必要だった。

高山市の説明によれば、長近は一時、鍋山城を拠点としたものの、地形が城下町をつくるのに適さず、高山に新たな城を築くことにした。山上の要害を受け継ぐだけでは、長近の仕事は完結しなかった。領主の居城と、家臣や商人が暮らす町を合わせて整える。その選択が、後の高山の中心部につながっていく。

長近が飛騨を得た時点で、高山城や現在につながる町がすべて完成していたわけではない。戦いが終わり、領主が代わり、城を築く場所が決まり、その後に長い工事が続く。飛騨攻略は、長近にとって新たな統治の始まりでもあった。

06高山TAKAYAMA

長い築城と、城下町の形成

高山城と城下の整備を題材にした想像図(AI生成イメージ)
高山城と城下の整備を題材にした想像図 · AI生成イメージ

高山城の築城は天正16年(1588)に始まった。岐阜県の文化財解説によると、本丸と二之丸の完成は慶長5年(1600)、可重による三之丸の完成は慶長8年(1603)である。着工から最後の整備まで、十数年を要した。長近一人の一度の号令で、一気に出来上がった城ではなかった。

城の西側には町が広がった。高山市は、高台に武家屋敷を、低い土地に町人町を置き、東側の山裾に寺院を集めたと説明する。山と川に囲まれた土地の中で、城を守る家臣の住まいと、商売や生活の場を組み合わせたのである。城から見れば防御と統治のための配置であり、住む人々にとっては日々の往来の道筋となった。

寺院との関係も、町の成立に関わった。天正16年、長近は照蓮寺の十三世明了に寺地を与え、寺を建立した。照蓮寺は白川郷に歴史を持つ真宗寺院である。飛騨の既存の宗教勢力と関係を結びながら、領主の拠点と町の機能を整えていった。

築城の途中にも、秀吉の命令に応じた出陣は続く。天正18年(1590)の小田原攻めでは、北条氏政・氏直の陣営と対する秀吉方の軍事行動に加わった。飛騨を得ても、全国の戦争から離れられたわけではない。領内の工事と、主君の軍役が重なる年月を過ごしていた。

こうして、高山城と城下町の形成は、長近から可重へ続く仕事だった。本丸や二之丸の完成した年には関ヶ原合戦が起こり、その後も整備が進む。父子二代にまたがる時間を見れば、築城と天下の政局が並行していたことが分かる。

今日の高山の町並みは、その後の人々の商い、建築、修理を重ねた姿である。長近が残したのは、今ある家々をそのまま建てたという意味での町ではない。城と武家地、町人町を配置し、後代の都市が育つ土台を整えたことに、長近の仕事の大きさがある。

07晩年KOZUCHI

関ヶ原の後、長良川の町へ

長良川の舟運と晩年の長近を題材にした想像図(AI生成イメージ)
長良川の舟運と晩年の長近を題材にした想像図 · AI生成イメージ

慶長5年(1600)、関ヶ原合戦が起こった。長近は徳川家康の側に立ち、石田三成らの西軍と対した。すでに数え七十七歳。長い戦歴の終盤にあっても、天下の帰趨を決める軍事行動に加わっていた。金森家では養子の可重も東軍として働き、郡上方面への出動も担った。

戦後、長近は美濃の上有知などに領地を加えられた。上有知は現在の岐阜県美濃市に当たり、長良川の舟運に関わる場所である。長近はここに小倉山城を築き、町の整備を進めた。飛騨に続く新しい仕事の舞台は、川とともに発展する町だった。

美濃市の説明では、長近は低い土地にあった町を丘陵上へ移し、上有知湊を整えて、定期的に市を開いた。人や品物が集まる場を、陸上の道だけでなく川の交通とも結びつけたのである。城下町の配置に加え、港と商業を育てる仕事が、晩年の長近の事績に加わった。

ただし、その繁栄も長近の生前に完成したものではない。上有知は後に尾張藩の領地となり、江戸時代を通して商いの町として歩む。今日見られるうだつの上がる町並みには、後世の富の蓄積や火災後の再建も刻まれている。長近の町づくりは、その長い歴史の出発点の一つに位置づけられる。

慶長13年(1608)八月十二日、長近は伏見で死去した。数え八十五歳だった。翌年、養子の可重は高山に素玄寺を開き、長近を弔った。信長のもとで戦い、大野を得て、敗戦後に秀吉に仕え、さらに家康の時代を迎える。その生涯の後には、可重をはじめとする人々の仕事が続いていく。

その生涯を振り返ると、長近が歩いた道は、戦場の名前だけではたどりきれない。大野の城下、高山の町割り、上有知の港。主君の交代を生き延びた一人の武将の履歴が、離れた三つの町の成り立ちに残っている。

02
READING

史料の読み解き

金森長近の名は、大野、高山、美濃の町を訪れると、それぞれの成り立ちを説明する中に現れる。 一人の武将が離れた土地に足跡を残したことは確かだが、三つの町が同じ方法で生まれ、現在まで同じ姿を保ったわけではない。 長近が何を始め、何を受け継ぎ、どこから先を後の世代が担ったのか。 その境目を確かめることで、町づくりに関わった領主の実像がつかみやすくなる。

大野・高山・上有知の町づくり

大野では、亀山の城とその東側の平地を組み合わせた町が整えられた。 城に近い武家地と、その東側の町人地を分ける芹川は、現在の地形を歩きながらも意識できる要素である。 寺院や職人の集まる場所を含め、城を中心に町の役割を配した点に、長近の統治の一面が表れている。

高山も城と町の配置が結びついているが、その土地の事情があった。 高山市は、鍋山城の周辺では城下町をつくりにくかったため、高山に拠点を定めたと説明する。 敵が近づきにくい山城は、必ずしも家臣や商人を集める広い町に向いていない。 飛騨を支配する拠点には、防御に加え、人の往来や居住を受け止める場所が求められたと考えられる。 この最後の点は、拠点変更と町の配置から読み取れる解釈であり、長近自身の言葉として残る計画書を引用したものではない。

上有知では、長良川との関係がさらに強く出る。 長近は町を丘陵上に移し、湊と市を整えた。 山上の城から町を見渡すだけでなく、船で荷が着き、品物が売買される場所を結ぶことが、地域の発展に関わった。 同じ「城下町づくり」という言葉でも、大野の水路、高山の山と盆地、上有知の川の交通では、考えるべき条件が違う。

町の形を領主一人の発想に還元するのも慎重でありたい。 大野の鍛冶座への安堵状は、新領主の到来以前から職人の集団と権利があったことを考える材料になる。 寺社や在地勢力との調整も必要だった。 長近の支配が始まる前から暮らしていた人々、そのもとで働く家臣、工事を担う職人、町へ移る商人が、それぞれ町の成立に関わっている。 長近の役割を評価することと、住民の営みを視野に入れることは、両立する。

敗者になった経験と、主君の交代

信長、秀吉、家康に仕えたという経歴だけを見ると、長近は常に次の勝者を見抜いた人物のようにも見える。 しかし、賤ヶ岳の前後を挟むと、その印象は変わる。 大野市の解説や『世界大百科事典』の項目は、長近が柴田勝家に属し、勝家の敗北後に秀吉に仕えたとする。 北陸の軍事行動を共にした勝家との関係が先にあり、その陣営が敗れてから次の主従関係へ移っている。

辞典類には、賤ヶ岳での所属を異なる形で説明するものもある。 本稿では、大野での在任と勝家との関係を具体的に扱う市の解説、および『世界大百科事典』の記述を採った。 ただし、降伏や転属の際のやり取りまで確認できたわけではない。 秀吉がどの能力を評価し、長近がどんな言葉で服属したかを、後の領地獲得から逆算して会話に仕立てることはできない。

同じ注意は、家康との関係にも当てはまる。 長篠では織田・徳川の共同作戦に参加し、小牧・長久手の戦役では秀吉方として徳川方と対し、関ヶ原では家康の側に立った。 一生を通して敵だった、あるいは一貫して同じ主君に仕えた、という単純な関係ではない。 相手の名とともに、どの年の、どの陣営の話なのかを添える必要がある。

長近が主家の交代を生き延びたことは、生涯の重要な特徴である。 一方、それを「茶の湯の人脈だけで助かった」「先を読む力だけで成功した」と説明すると、確認できる事実よりも動機の物語が大きくなる。 茶の湯を学んだこと、領主として実務を重ねたこと、軍事行動に参加したことは、それぞれ確かめられる。 そのどれが特定の政治判断を決めたのかは、別の根拠が必要になる。

飛騨攻略、高山築城、関ヶ原を年で分ける

飛騨をめぐる長近の経歴には、混ざりやすい年がいくつもある。 三木自綱を攻めたのは天正13年(1585)、飛騨の領主となったのは翌14年(1586)、高山城の着工は16年(1588)である。 その後、本丸と二之丸が慶長5年(1600)、三之丸が8年(1603)に完成したと岐阜県は説明する。 攻略、領有、着工、各部分の完成を一つの「高山を築いた年」にまとめると、長近と可重が費やした時間が消えてしまう。

三木氏の敗北も、言葉の選び方で意味が変わる。 飛騨を支配する勢力としての三木氏は、この戦いで地位を失った。 ただし、高山市の解説では自綱は京都へ退いたとされる。 「滅亡」という短い言い方だけから、一族全員が戦死したと受け取るのは適切ではない。 誰が領国を失い、誰が生き残ったのかを分けるほうが、戦いの結果を正確に伝えられる。

領地の石高にも、資料間で違いがある。 飛騨入国時の石高について、高山市の沿革には三万三千石、辞典類には三万八千石台の数字が現れる。 また関ヶ原後の加増は、二万三千石とする説明がある一方、二万石とする記述もある。 本稿では、こうした数字を揃えるために独自の足し算をせず、「飛騨の領主となった」「上有知などに加増された」という共通部分を中心に記した。 石高を細かく論じる場合には、対象となる領地と時点、用いた帳簿まで確かめる必要がある。

関ヶ原前後の金森家の軍事行動では、長近と可重を取り違えないことも大切である。 郡上方面で遠藤氏を助けた動きは、可重に関するものとして説明されている。 「金森軍が動いた」という記述を、そのまま長近本人の移動や戦功へ置き換えることはできない。 城の整備と同様、父子それぞれの働きを分けると、金森家全体の行動が見えてくる。

現在の町並みに、どこまで長近を見るか

高山や美濃で古い町並みを見ると、長近の時代の景色がそのまま残っているように感じることがある。 だが、道路や区画の起源と、目の前にある建物の建築年代は同じではない。 領主が定めた町の骨格を受け継ぎながら、住民は家を建て替え、商売に合わせて手を加え、火災後には再建してきた。 町並みを歩くときには、その二つの時間を重ねて考えたい。

美濃市の解説は、享保8年(1723)の大火の後に主要な通りが拡幅されたことを伝える。 現在につながる街路にも、長近の没後百年以上を経た変化が刻まれている。 上有知湊の景観についても、今日見られる川湊の灯台などを、そのまま慶長年間の姿に移すことはできない。 長近の港の整備と、その後に発達した施設は、年代を分けて捉える必要がある。

高山城そのものも、江戸時代を通して同じ姿で残った城ではない。 金森氏が飛騨を離れた後、城は元禄年間に取り壊された。 いま城跡と城下を訪ねることは、失われた建物の場所を確かめることと、後の時代にも生き続けた町を見ることの両方を含んでいる。 本記事の画像も、こうした過去の場面を想像したものであり、城郭や町並みの厳密な復元図ではない。

長近が城主として暮らした時間は、町の歴史全体から見れば一部分である。 それでも、城をどこに置き、人が集まる場所をどう結ぶかという選択は、その後の暮らしに長く関わった。 可重が工事を引き継ぎ、商人が町を育て、住民が修理を重ねた先に、現在の風景がある。 長近の足跡は、その長い連続の中に置くことで、かえって具体的に見えてくる。

確度のまとめ

主張確度根拠・読み方
1524年に生まれ、1608年に没した高複数の辞典・自治体解説が一致する。
美濃に生まれ、1541年に織田家へ出仕した中大野市は伝承として紹介する。出生地を近江とする辞典もある。
長篠で酒井忠次の別働隊と行動した高『信長公記』巻八に金森五郎八の名と役目が記される。閲覧したのは公開翻刻。
柴田勝家の敗北後に秀吉へ仕えた中〜高大野市と『世界大百科事典』による。辞典間には賤ヶ岳時の所属の異同がある。
1585年に飛騨を攻略し、1588年から高山城を築いた高高山市と岐阜県の解説。領有・着工・完成は別の年として扱う。
関ヶ原後の加増は正確に二万三千石だった中この数字を採る説明があるが、二万石とする記述もあり、内訳確認を要する。
長近は利休に学び、宗和とは別人である高岐阜県図書館が金森家三代の茶の湯を区別して説明する。
茶の湯の人脈だけで敗戦後の処遇が決まった低茶歴は確認できるが、政治的な因果関係を示す根拠は確認できない。
現在の古い町並みは長近の時代の建物そのままである低後世の建て替えや火災後の再建があり、町の起源と建築年代は別。
03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

金森長近の逸話

  1. 逸話 01

    素玄と宗和、金森家の茶の湯

    茶の湯に親しむ長近の想像図(AI生成イメージ)
    茶の湯に親しむ長近の想像図 · AI生成イメージ

    長近は茶号を素玄といい、千利休に学んだ茶人として知られる。武将として出陣し、領主として町を整える一方、茶の湯にも親しんでいた。大野市の展示資料には、大野時代の長近の茶会参加を扱う会記類も挙げられている。茶の湯は、晩年に戦場を離れてから初めて出会った趣味ではなかった。

    ここで混同しやすいのが、宗和流を開いた金森宗和である。岐阜県図書館は、長近が利休に、養子の可重が利休の子の道安に学び、可重の長男である重近、すなわち宗和が独自の茶の湯を展開したと説明する。長近と宗和は同一人物ではなく、宗和は長近の孫に当たる世代である。

    長近の茶歴を考えると、利休を介した人々との交わりにも目が向く。ただし、茶人だったから特定の戦いで助命された、茶会の席で領地を約束された、といった筋書きを裏づけなしに加えることはできない。茶の湯を学んだ事実と、その人脈が政治判断にどう作用したかは、別々に確かめる必要がある。

    金森家の茶の湯は、長近だけで閉じる話ではない。利休や道安との関係を経て、次の世代の宗和へと続く。素玄という長近自身の茶号を押さえると、飛騨の領主と京都で活躍した宗和、それぞれの仕事が見分けやすくなる。

  2. 逸話 02

    鍛冶座に残った領主の文書

    大野の鍛冶職人を題材にした想像図(AI生成イメージ)
    大野の鍛冶職人を題材にした想像図 · AI生成イメージ

    大野市の展示資料には、天正3年(1575)十二月二十六日付の金森長近による鍛冶座安堵状が掲載されている。鍛冶座とは、鍛冶職人たちの集団である。新たな領主となった長近が、職人の権利に関わる文書を出したことを示す、具体的な手がかりになる。

    安堵は、それまでの権利や所持を認める行為をいう。城下町の成立は、新しい城や道路をつくる話として想像しやすい。だが、この文書に目を向けると、長近の到来以前から続いていた仕事や集団と、どう関係を結ぶかという課題が浮かぶ。職人たちも、領主が代わる中で自らの営みを維持しようとしていた。

    大野市は、長近が寺社や在地の勢力に対しても安堵を行ったと説明する。ただし、一通の鍛冶座文書から、町のすべての職種が同じ待遇を得たとか、すべての税が免除されたと広げることはできない。ここで確認できるのは、特定の集団に対して、権利を認める文書が発給されたという点である。

    戦いに勝った側の視点だけでは、領内に暮らす人々の働きは見えにくい。鍛冶座の文書は、長近の統治を、城主と職人の具体的な接点から考える材料になる。町が動くには、領主の命令に加え、そこで仕事を続ける人々が必要だった。

  3. 逸話 03

    素玄寺に残る名と、可重の継承

    長近を弔う寺院を題材にした想像図。実在の伽藍の復元ではない(AI生成イメージ)
    長近を弔う寺院を題材にした想像図。実在の伽藍の復元ではない · AI生成イメージ

    高山の素玄寺は、長近の死去した翌年、慶長14年(1609)に養子の可重が開いた寺である。寺名には長近の茶号、素玄が残る。長近の事績を訪ねて出会う場所だが、彼自身が生前に創建した寺と説明すると、年代と創建者を取り違える。

    可重の仕事は、長近を弔うことだけではなかった。岐阜県の高山城跡の解説では、本丸と二之丸の整備に続き、可重が三之丸を築いたとされる。城の整備でも、先代を弔う寺の創建でも、長近が始めた領国の仕事を次の世代が引き継いでいる。

    長近は本能寺の変で長男の長則を失った。その後の金森家を考えるうえでは、養子の可重による継承を欠かせない。長近を一人の成功者として描くだけでは、彼の死後に領国を運営し、家の記憶を形にした人々の仕事がこぼれてしまう。

    なお、長近の葬地を説明する文献には、京都の大徳寺金龍院も現れる。高山の素玄寺と京都の葬地は、同じ場所の別名ではない。菩提を弔う寺、葬られた場所、後に伝承を守った場所は、それぞれの説明に即して区別したい。現在の寺を訪ねることは、長近本人の生涯に加え、死後に続いた金森家の歴史へ目を向けることでもある。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 『信長公記』巻八・巻十・巻十一・巻十四(公開翻刻)
    太田牛一/ウィキソース参照日 2026-10-01
  2. 大野城再発見 第2回
    大野市参照日 2026-10-01
  3. 大野城再発見 第3回
    大野市参照日 2026-10-01
  4. 大野城再発見 第7回
    大野市参照日 2026-10-01
  5. 高山城跡
    岐阜県参照日 2026-10-01
  6. 上有知湊
    美濃市参照日 2026-10-01
  7. 美濃町伝統的建造物群保存地区
    美濃市参照日 2026-10-01
  8. 関ケ原の合戦場・金森氏の布陣場所
    岐阜女子大学 デジタルアーカイブ研究所参照日 2026-10-01
  9. 金森宗和
    岐阜県図書館参照日 2026-10-01
  10. 高山の歴史
    高山市参照日 2026-10-01
  11. 徳川家康―関ヶ原の戦い
    国立公文書館参照日 2026-10-01
  12. 小牧・長久手の戦い
    長久手市参照日 2026-10-01
  13. 小田原合戦(小田原市の北条氏史解説)
    小田原市参照日 2026-10-01
  14. 史跡小谷城跡保存管理計画書(2014年3月)
    長浜市教育委員会参照日 2026-10-01
  15. 福井県史年表(1561〜1580年)
    福井県文書館参照日 2026-10-01

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-01

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