あんどう・もりなり
安藤守就西美濃三人衆から信長追放、旧領奪回に賭けた最期

- 本拠
- 北方城美濃国・現在の岐阜県北方町
- 帰属
- 永禄10年1567年、三人衆で信長方へ
- 追放
- 天正8年1580年8月17日、父子で処分
- 没年
- 天正10年1582年6月、旧領回復を図って敗死
安藤守就は、西美濃三人衆の一人として織田信長に仕えた武将である。 美濃の北方を本拠とし、娘婿の竹中半兵衛と稲葉山城を占拠した後、1567年には稲葉一鉄・氏家卜全とともに信長方へ移った。 姉川、越前、天王寺、伊丹と各地へ出陣したが、1580年に父子で追放される。 本能寺の変後に旧領の奪回を図り、かつての同僚である一鉄と戦って敗死した。
信長に追われた理由として、武田氏との内通がよく挙げられる。 しかし、その説明と『信長公記』の記述は同じではない。 生涯を追うとともに、追放の理由や最期の伝承を「読み解き」で確かめる。 本文の月日は、特記のない限り当時の旧暦による。 肖像・挿絵はAIによる創作であり、容貌や装備、城郭の史実復元ではない。
若き信長の留守を守った、美濃の将

安藤守就が信長と関わったのは、美濃を奪われるより前だった。 斎藤道三の家臣として軍勢を率い、尾張の那古野城を守る役目を担っている。 後年の主君となる相手に、初めは援軍の将として接したのである。
守就の本拠は、美濃国本巣郡の北方城だった。 現在の岐阜県北方町にあたり、山頂にそびえる城ではない。 町に伝わる城の記録では、土の囲いの内側に屋敷や馬場が置かれていた。 安藤家は北方と河渡を含む一帯に足場を持ち、斎藤氏のもとで兵を動かす領主だった。
天文23年(1554)の村木砦攻めに際し、信長は道三に留守の警備を求めた。 尾張国内にも敵を抱えており、自ら出陣した隙に那古野を襲われるおそれがあった。 道三が送った援軍の大将が守就である。 『信長公記』はその兵を約千と記し、信長が出陣前と帰還後に守就の陣所を訪れたと伝える。
守就の仕事は、村木の砦へ攻め込むことではなかった。 信長が外へ戦いに出られるよう、その背後を押さえることだった。 軍勢を預けられ、同盟先の拠点を任されるだけの立場にあったことが、この記録からわかる。
美濃へ戻った守就は、信長の戦いぶりや礼の述べ方を道三に報告したという。 当時の守就は、信長を支える斎藤方の武将だった。 その後に斎藤家と織田家の関係が変わると、同じ美濃と尾張の間で、今度は自家の進む先を選ぶことになる。
半兵衛の岳父として、主君の城を取る

永禄7年(1564)2月、守就は竹中半兵衛とともに稲葉山城を占拠した。 城主は斎藤龍興である。 家臣が主君の本拠を押さえるという、美濃の支配を揺るがす事件だった。
半兵衛こと竹中重治は、守就の娘を妻に迎えていた。 二人の結びつきは、同じ主君に仕える者同士というだけではない。 守就は半兵衛の岳父であり、北方を本拠とする領主として、この行動に加わった。 半兵衛一人の知略として語られやすい事件にも、安藤家との協力という一面がある。
占拠した側の動きは、城の中だけにとどまらなかった。 この時期には、守就が「伊賀守無用」と名乗った禁制も知られている。 禁制とは、乱暴や略奪などの禁止を掲げる文書である。 武力で拠点を押さえた側が、周囲に命令を出す立場を示したものとして読める。 守就は、城を取る相談に加わった人物であると同時に、占拠後の秩序にも関わっていた。
ただし、稲葉山城を得た二人が、新しい美濃の国主として定着したわけではない。 同じ年の10月までには、龍興が城へ戻っていたことが確認される。 城の占拠から龍興の復帰までには数か月がある。 その間に何を要求し、どのような条件で城を手放したのかは、はっきりしない。
この事件によって、斎藤家の家中に亀裂があることは表に出た。 それでも龍興の支配は、なお続いた。 守就が織田方へ移るのは、それから三年後である。 1564年の占拠と1567年の美濃攻略は、同じ稲葉山城をめぐる出来事でも、区別して追う必要がある。
三人で信長に応じ、美濃の情勢を変える

永禄10年(1567)、守就は稲葉一鉄、氏家卜全とともに信長方へ移った。 西美濃三人衆と呼ばれる領主たちの帰属である。 美濃を攻める信長にとって、城を一つ落とすこととは違う意味を持つ動きだった。
三人は、それぞれ土地と軍勢を持っていた。 守就は北方、一鉄は曽根、卜全は大垣を基盤とした。 斎藤家に属しながらも、西美濃の地域支配を担う存在だったのである。 その三人がまとまって信長を選べば、龍興は有力な軍事力と土地の支えを同時に失う。
『信長公記』は、8月1日に三人衆が信長へ味方すると申し出たと記す。 人質を差し出す話になり、信長は村井民部と島田所之助を受け取りに向かわせた。 ところが人質が到着する前に、信長自身が軍勢を進めた。 稲葉山につながる瑞龍寺山へ入り、城下を攻め、稲葉山城を包囲したという。
三人衆が信長のもとへ着いた時には、すでに攻撃が進んでいた。 牛一は、三人がその速さに驚いた様子を描いている。 守就たちの決断を待つだけでなく、信長はすぐに軍事行動へ結びつけた。 同書によれば8月15日、龍興は城を去り、長島へ逃れた。
守就はこれによって本拠を捨て、尾張へ移ったのではない。 西美濃に根を持つ領主のまま、信長の支配に組み込まれた。 三人衆には本領に加え、共同で行使する段銭の徴収権も認められたとされる。 土地から税を取る権利の保障は、新しい主君に従う現実的な条件だった。
かつて那古野を守った援軍の将は、ここで信長の家臣となった。 以後、守就の軍勢が向かう先は、美濃の外へ広がっていく。
美濃の軍勢が、近江と伊勢へ進む

信長に従った翌年、守就は美濃の外へ動いた。 永禄11年(1568)、足利義昭を京都へ迎えるための上洛軍に加わったのである。 美濃の領主としての役割に、信長の遠征を支える役割が重なった。
近江では六角氏の拠点が進路に立ちはだかった。 『信長公記』は、美濃衆が自分たちを先に使うだろうと考えていたと伝える。 しかし信長は、自身の馬廻衆に箕作城を攻めさせた。 守就ら三人衆は、この采配を意外に受け止めたという。 降ったばかりの領主を戦場でどう使うかは、信長と美濃衆の関係にも関わる問題だった。
翌永禄12年(1569)の伊勢侵攻では、役割が具体的に記録されている。 北畠具教らの大河内城を包囲した際、守就は西側に置かれた。 同じ方面には木下藤吉郎、氏家卜全、佐久間信盛らがいた。 大軍の一部として持ち場を受け持ち、城への出入りを封じる戦いだった。
元亀元年(1570)6月には、姉川の戦いに加わった。 相手は浅井・朝倉の連合軍である。 牛一は、野村方面に信長の馬廻衆、その東に美濃三人衆が備えたと記す。 守就一人の武勇を描く記事ではないが、三人衆の軍勢が戦列を担ったことは確認できる。
同年秋、浅井・朝倉勢が比叡山方面に進むと、守就も志賀の戦線へ向かった。 柴田勝家、氏家卜全、稲葉一鉄らとともに、田中に陣を置いたと記録される。 城や陣所を維持しながら相手を封じる戦いが、その後も続いた。
翌年の長島攻めにも安藤勢は出陣した。 この戦いでは氏家卜全が命を落とす。 西美濃三人衆として信長に応じた三家は、各地の戦場に組み込まれ、その過程で同じ顔ぶれではなくなっていった。
槇島、越前、天王寺、そして伊丹

守就の名は、1570年代の『信長公記』に繰り返し現れる。 単独で大軍を指揮する場面より、複数の将とともに前線の持ち場を担う場面が多い。 北方の領主は、信長が各地で続ける戦争の中にいた。
元亀3年(1572)には、小谷城を圧迫する軍勢の先手に加わった。 翌年、信長と将軍足利義昭が敵対すると、今度は宇治川を渡って槇島へ向かった。 稲葉氏、氏家氏、不破氏らとともに平等院側から進む組に、守就も数えられている。 かつて上洛を支えた将軍が、この時には攻める相手になっていた。
さらに同年の越前侵攻では、朝倉義景を追う軍に加わった。 牛一は、義景が一乗谷を離れた後、柴田勝家、稲葉一鉄らとともに、守就が平泉寺方面へ差し向けられたと記している。 朝倉家が崩れる過程でも、美濃衆は追撃を担った。
天正2年(1574)には再び長島へ向かい、守就は篠橋を攻める側に名を連ねる。 翌年は越前一向一揆への攻撃、天正4年(1576)は本願寺勢と戦う天王寺の救援に参加した。 天王寺では滝川一益、丹羽長秀、羽柴秀吉らと同じ二番手の部隊に置かれた。 守就の軍勢は、畿内とその周辺を転戦していた。
天正5年(1577)には、柴田勝家が率いる北国方面の軍に加わった。 上杉謙信が能登へ進出する中、織田方の軍勢は加賀へ入った。 続く天正6年(1578)は播磨へ進み、神吉城攻めに参加する。 同じ年の秋に荒木村重が信長に背くと、守就も摂津へ向かった。 11月には、伊丹へ進む先陣の将の一人として記されている。
こうして出陣を重ねた守就が、ほどなく家中から追われる。 長く姿を見せなかった家臣の突然の失脚ではない。 追放のわずか二年前にも、信長の命じる戦場で軍勢を動かしていた。
天正8年、家臣の列から外される

天正8年(1580)8月17日、守就は息子とともに信長から追放された。 『信長公記』は、林秀貞、安藤父子、丹羽氏勝が遠国へ追われたと記す。 守就が信長方へ移ってから、十三年後の処分だった。
この時期には、佐久間信盛父子も追放されている。 大坂本願寺との長い戦いが終わる年に、有力な家臣への処分が相次いだ。 ただし、佐久間氏に示された長い叱責の条文を、そのまま守就への罪状とすることはできない。 牛一は安藤父子らについて、信長が以前に苦境にあった時、野心を抱いたためだと記している。
守就は主君を失っただけでなく、領地も失った。 北方町や岐阜県の解説では、安藤家の旧領は稲葉一鉄へ与えられたとされる。 西美濃三人衆として同じ日に信長へ応じた相手が、今度は自家の土地を領することになった。
守就父子は、谷口へ退いたと伝わる。 現在の関市武芸川町谷口にあたり、北方を離れた地での生活となった。 それまでのように、北方や河渡を基盤として信長の軍に加わる立場は失われたのである。 退去の後にどれだけの家臣が従い、どれだけの兵を残せたのかは、具体的にはわかっていない。
この処分には、息子の尚就が武田氏と通じたという説明が広く知られている。 ただ、その説を伝える史料と、牛一の記した追放記事には隔たりがある。 追放という出来事は確かでも、信長が何をつかみ、何を決め手にしたのかは別に考える必要がある。
守就の旧領は、すでに他家の領地になった。 再び取り戻そうとすれば、かつての同僚である稲葉家と向き合わねばならない。 天正10年、その機会が信長の死によって生まれる。
最後の相手は、かつての三人衆だった

天正10年(1582)6月2日、信長が本能寺の変で死去した。 守就を追放し、土地の配分を決めた主君がいなくなった。 守就はこの変動に乗じ、旧領を取り戻すために動いた。
目指したのは、かつて安藤家が支配した北方・河渡の一帯だった。 そこを領していた稲葉一鉄が、守就の前に立ちはだかった。 二人は1567年には、ともに龍興を離れて信長へ応じている。 1582年には、同じ土地をめぐって戦う側と守る側に分かれた。
北方町の伝承では、戦いは6月7日から8日にかけて続いた。 守就は本田方面から北方へ押し戻され、城の北にある千歳ヶ淵付近で敗れたとされる。 現在、この地は「安東伊賀守守就戦死の地」として伝えられている。 辞典類も6月8日の敗死を記す。
本能寺の変から、わずか数日の出来事だった。 信長の死によって土地の支配が白紙になったわけではない。 守就が取り戻そうとした土地には、すでに稲葉家の支配があった。 旧領主としての立場だけでは、その現実を覆せなかった。
守就はこの戦いで命を落とし、安藤家が北方の領主として復帰する望みは絶たれた。 ただし、親族まで一人残らず滅んだわけではない。 宿毛に伝わる系譜には、この混乱を逃れた一族の歩みが残っている。 領主としての安藤家の敗北と、血縁のすべてが断たれたことは同じではない。
守就の生涯は、信長への帰属だけでも、追放された家臣という肩書だけでも収まらない。 北方を基盤に斎藤氏に仕え、信長の遠征を支え、最後はその土地へ戻ろうとした領主だった。 信長の支配が美濃へ広がる時にも、信長が死んだ後にも、守就の選択は故郷の領地と結びついていた。
史料の読み解き
守就の経歴には、記録から追える出陣と、後世の説明で輪郭が作られた事件が混在する。 その境目が大きくなるのが、稲葉山城占拠の目的、追放の理由、そして晩年の年齢である。 同じ出来事でも、起きたことと、その理由について残る情報の厚さは違う。
西美濃三人衆は、三人一組の役職だったのか
西美濃三人衆という呼び方だけを見ると、信長が任命した三人の家老のようにも見える。 だが、三人は信長に仕える前から美濃に足場を持っていた。 北方、曽根、大垣を基盤とする領主が、情勢に応じて共同で動いたのである。 『信長公記』の帰属記事でも、まず三人が申し合わせて信長に連絡する順序になっている。
勝俣鎮夫の「美濃三人衆」の解説は、三人の独立性と、共同で持つ権利に目を向ける。 信長への帰属に際しては本領のほか、杭瀬川以西に関わる段銭の徴収権が認められたという。 段銭は、土地に課す税の一種である。 軍勢を動かす領主には、その軍勢や家臣を支える収入も必要だった。 この権利の保障は、三人の帰属を単なる個人的な忠誠の変化として読まないための手がかりになる。
一方、信長のもとで三人が常に同じ場所、同じ役目で使われたわけではない。 大河内城攻めでは、一鉄と守就・卜全の配置された方面が違う。 長島で卜全が死んだ後も、氏家家の軍勢は出陣の記録に現れる。 三人衆は結束を示す呼び名であり、個々の家の軍事行動まで一つにまとめる名前ではない。
後に一鉄が守就の旧領を受け取り、旧領へ戻った守就と戦ったことも、この点から理解できる。 三家には協力する局面があったが、それぞれが領地と家を維持していた。 長く同僚だったという関係だけで、土地をめぐる利害を乗り越えられるわけではなかった。
稲葉山城を取った理由は、主君への諫言だったのか
半兵衛の稲葉山城占拠は、少人数で主君の城を取り、反省を促して返した話として知られる。 この筋書きでは、龍興の不行跡と半兵衛の清廉さが鮮やかに対比される。 守就は、それを助けた年長の協力者として脇に置かれがちである。
まず押さえたいのは、1564年の占拠そのものと、その目的の説明を分けることだ。 遠藤珠紀の整理では、2月に半兵衛と守就が城を押さえ、10月までには龍興が戻っていたことが確認できる。 一方、返還までの経緯を一続きに示す記録は十分ではない。 返還したという結末から、最初から返す予定だったと逆算することはできない。
また、守就の禁制は、二人の行動が一夜の奇策だけでは終わらなかったことを考える材料になる。 周辺へ命令を出す行為には、支配を行う側の役割が伴う。 もちろん禁制が一通あるだけで、美濃全体を恒久的に奪う計画があったとまで言うこともできない。 諫言と政権奪取の二択にして、どちらか一方を確定するのは早い。
婚姻関係も見落とせない。 守就の娘婿は竹中重治であり、その父の重元ではない。 守就と重治という二人の領主を結ぶ関係として見れば、占拠を半兵衛一人の天才性に還元せずに済む。 父子の名前や1564年と1567年の事件を混ぜないことが、まず必要になる。
追放を記した牛一は、何を理由に挙げたか
追放の事実について、重要なのは『信長公記』巻十三の記事である。 天正8年8月17日、京都で林秀貞、安藤父子、丹羽氏勝が遠国へ追われたとする。 理由は、以前に信長が苦境にあった時、野心を抱いたためと説明される。 ここに、武田氏の名や密書の本文は書かれていない。
これに対して、守就または息子尚就が武田信玄に通じたとする説明は、後世の叙述に現れる。 遠藤珠紀は、林羅山の『織田信長譜』、小瀬甫庵の『信長記』、『当代記』などの説明を紹介している。 同じ「信長記」という名でも、太田牛一の記録と、小瀬甫庵が著した書物を取り違えないよう注意が必要だ。
信玄は1573年に死去している。 したがって、1580年の追放直前に、存命の信玄と新たな内通を始めたという話にはできない。 過去の交渉が後に問題視された、という筋なら年代上は成り立つ。 しかし、それは内通の証拠が確認されたという意味ではない。 後世史料がどの時期の何を指したのかを、さらに問わねばならない。
自治体の文化財解説や辞典に内通説が載っていても、それぞれが別々の密書を根拠にしているとは限らない。 同じ説が繰り返し紹介されることと、独立した証拠が増えることは区別したい。 本稿では、追放と失領は経歴の事実として扱い、武田氏との内通は伝えられる説明の一つにとどめた。
反対に、証拠の不足から守就の無実を確定することもできない。 牛一の説明は信長側の見方であり、守就父子が何を主張したかはここには残らない。 有罪か無罪かを決める材料が、双方そろっているわけではないのである。
戦功があれば、領地は守られたのか
守就の出陣歴を並べると、追放前から役割を失っていた人物には見えない。 1576年の天王寺、1577年の北国、1578年の播磨・伊丹と、軍勢の一覧に名が続く。 少なくとも、何年も出陣せずにいたから追われた、と単純に説明することは難しい。 ただし、名が記録されたことだけで、信長がその働きを十分だと評価していたかまではわからない。
1580年には大坂本願寺との戦争が終結へ向かい、家臣への処分が相次いだ。 これを、軍事的な情勢変化に伴う家中の再編として考える見方もある。 領地や軍勢の指揮を誰に任せるかという問題が、処分の背景にあった可能性はある。 それでも、再編という一般的な説明から、守就を追放した個別の理由まで証明できるわけではない。
佐久間信盛への処分との違いもある。 佐久間氏には、長い期間の働きや家臣の扱いを責める条文が記される。 安藤父子については、それと同じ密度の説明が残っていない。 同時期に処罰されたからといって、両者に同じ落ち度があったと決めることはできない。
処分の結果としては、安藤家の領地が稲葉家へ移ったことが重い。 守就が軍功を重ねた過去も、かつて信長への帰属を決断した事実も、その土地を保持する保証にはならなかった。 一方、元家臣の松野平介は信長に召し抱えられたと伝わる。 領主の排除と、配下の武士の採用が同時に起こりうるところに、この処分の具体的な姿がある。
「八十四歳の挙兵」と「一族滅亡」をどう読むか
守就の最期には、高齢の武将が再起を賭けて戦ったという強い印象がある。 北方町の説明は没年齢を84歳とする。 その年齢を数え年として逆算すると1499年生まれになるが、計算ができることと、生年が確定することは別である。
遠藤珠紀が紹介する『稲葉家譜』には、追放時の1580年に78歳とする記述がある。 こちらから逆算すれば1503年となり、84歳説から求めた生年と一致しない。 岐阜県の解説は「80余歳」とし、『日本人名大辞典+Plus』は生年を未詳としている。 どれか一つの数字だけを人物の基本データに入れると、異説が見えなくなる。 本稿では生年と享年を確定値として登録していない。
最期の場所にも、説明の焦点の違いがある。 辞典は河渡城の奪回を図ったとし、北方町は本田から北方へ押し戻された戦闘を伝える。 北方と河渡を含む旧領の回復、その過程での稲葉氏との戦いという大枠は共通する。 一方、戦闘の全行程を同時代記録だけで細かく復元できるわけではない。 千歳ヶ淵という地名は、地元が守就の死を記憶してきた場所として扱う。
一族の行方については、宿毛市史が別の側面を伝える。 守就の弟・郷氏に嫁いだ通は、山内一豊の姉だった。 市史は、その子の可氏らが混乱を逃れ、竹中家を頼った経緯を記している。 逃亡を助けた人物などには異伝があるため、細部を一つに決めることは避けたい。 それでも、安藤氏につながる人々が生き延び、後に宿毛の歴史へ続いた点は、全員が討ち死にしたという描写と両立しない。
守就自身が敗死したこと、北方の領主として復帰できなかったこと、一族の系譜が続いたこと。 この三つを分ければ、最期の戦いを小さく見せることなく、その後の歴史も失わずに描ける。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み方 |
|---|---|---|
| 西美濃三人衆として1567年に信長へ帰属した | 高 | 『信長公記』の帰属記事を、研究者の年代整理・自治体史跡解説と照合 |
| 1564年に半兵衛と稲葉山城を占拠した | 高 | 当時の文書を踏まえた研究者の解説。動機や兵数は別問題 |
| 半兵衛の岳父である | 高 | 研究者の解説と宿毛市史の系譜が一致 |
| 1580年8月17日に父子で追放された | 高 | 『信長公記』巻十三に日付と父子の処分を記載 |
| 武田氏との内通が追放の決め手だった | 中以下 | 後世の史料にある説明。牛一の記事には相手や具体的行為がない |
| 1582年に旧領奪回を図り、一鉄に敗れた | 高 | 辞典・岐阜県・北方町の説明が大筋で一致。戦闘の細部は伝承を含む |
| 千歳ヶ淵で84歳で死んだ | 中 | 地元の伝承として尊重するが、年齢には異説がある |
| 諫言だけを目的に稲葉山城を取り、予定どおり返した | 低 | 占拠と返還から、当初の目的まで確定することはできない |
| 一族が一人残らず滅んだ | 採らない | 宿毛市史が伝える親族の存続と矛盾する |
参戦合戦
安藤守就の逸話
- 逸話 01
「無用」と署名した領主

禁制をイメージした紙と筆。実在文書の複製ではない · AI生成イメージ 守就には「無用」という号が知られている。 日常の言葉では役に立たないという意味に見えるが、本人がどのような意図で選んだのかはわからない。 自虐的な冗談だった、龍興への皮肉だった、といった読み方には根拠の確認が必要になる。
遠藤珠紀の解説によれば、稲葉山城を占拠した時期の禁制に「伊賀守無用」という名が見える。 城を取った者が、寺院などに向けて禁止事項を示す文書に用いた名である。 印象的な号だけを切り離すより、命令を発する当人の名として読んだほうが、その立場がわかる。
また、史料や自治体の説明では「安藤」「安東」「伊賀」という表記が並ぶ。 『信長公記』でも、軍勢の一覧に伊賀守と記されることがある。 名前の形が変わるため、同じ人物の出陣を見落としやすい。 一方、伊賀を称する別の武将もいるので、文字が一致するだけで守就と決めることもできない。 時期、同行する美濃衆、官途の表記を合わせて読む必要がある。
「無用」という一語は人柄を語る材料にしたくなる。 しかし、確かに読み取れるのは、守就がその名で政治的な行動を取っていたことだ。 号の意味と、文書が果たした役割は分けて考えたい。
- 逸話 02
山城ではない、北方の城

美濃の河辺をイメージした情景。河渡の史実復元ではない · AI生成イメージ 守就の城を思い浮かべる時、稲葉山城の姿を重ねると場所を取り違える。 彼が本拠とした北方城は、美濃の平地にあった。 北方町は、地下村庄屋文書に基づき、土居に囲まれた城内に侍屋敷や馬場があり、天守閣はなかったと説明している。
城域を考える手がかりも、そびえる石垣ばかりではない。 町の解説では、残る地割や水路などから範囲を推定している。 今日見える城跡は、当時の支配拠点の一部である。 小さな遺構しか見えないことと、領主としての勢力が小さかったことを、直接結びつけることはできない。
安藤家の拠点としては、河渡も記録される。 資料によって守就を北方城主と呼ぶ場合と、河渡城主と呼ぶ場合があり、北方町は息子尚就を河渡城主と説明する。 一つの城名だけで経歴を整理しようとすると、父子と領地の関係を取りこぼす。 北方と河渡を含む地域の支配として読むと、最後に奪回を目指した範囲も理解しやすい。
ここで使う河辺の画像は、地域の環境を思い描くための創作である。 当時の城と川の位置を確定した復元図ではない。 現地を訪ねる際は、町が示す城跡と戦死伝承地を別々の場所として確認できる。
- 逸話 03
守就を離れ、信長に仕えた松野平介

戦乱後の静けさをイメージした水辺 · AI生成イメージ 『信長公記』は、本能寺の変の後を記す中で、守就の元家臣に触れている。 松野平介という人物である。 牛一によれば、守就の追放に際し、松野は力量を認められて信長に召し抱えられ、知行を与えられた。
その松野は、信長が死んだ後、知人の斎藤利三から明智方へ出仕するよう誘われたという。 しかし、信長に取り立てられながら働きを返せていないとして誘いを断り、後を追って命を絶ったと記される。 牛一は、これを義を重んじた振る舞いとして評価している。
この記録から、守就の家臣団が全員そろって追放先へ移ったとは考えにくい。 主人への処分の後、信長に直接仕える道を得た者もいた。 領主の失脚は、その家に属する人々の所属を組み替える出来事でもあった。
ただし、松野の選択を使って、守就まで信長への忠節を貫いたと語ることはできない。 元の主君と元の家臣は、それぞれ別の立場にいた。 1582年に旧領へ戻ろうとした守就と、信長の死に殉じたと記された松野。 同じ家中から出た二人の歩みが分かれるところに、追放という処分の広がりが見える。
関連人物
所縁の地
- 北方城跡岐阜県本巣郡北方町
守就が本拠とした城の跡。北方町は、土居で囲まれた城内に侍屋敷や馬場があったと説明する。現存する城跡は当時の城域の一部で、地割や水路も範囲を考える手がかりとなっている。
- 安東伊賀守守就戦死の地岐阜県本巣郡北方町
旧領回復を図った守就が、天正10年(1582)に稲葉一鉄と戦って敗死したと伝わる場所。北方城の北にあった千歳ヶ淵付近とされ、城跡とは別の史跡として岐阜県が紹介している。
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 太田牛一『信長公記』首巻・巻一〜十一・巻十三・巻十五(明治14年刊本の翻刻)Wikisource(原著・太田牛一、刊行・甫喜山景雄)参照日 2026-10-03
- 安東伊賀守守就戦死の地岐阜県参照日 2026-10-03
- 北方城跡北方町参照日 2026-10-03
- 安東伊賀守守就戦死の地北方町参照日 2026-10-03
- 文化財観光マップ 北方城跡北方町参照日 2026-10-03
- 安藤守就/美濃三人衆(日本人名大辞典+Plus・世界大百科事典旧版)講談社・平凡社/コトバンク参照日 2026-10-03
- 遠藤珠紀・時代考証の「歴史ノート」#13(安藤守就と竹中半兵衛)NHK財団 ステラnet参照日 2026-10-03
- 遠藤珠紀・時代考証の「歴史ノート」#09(稲葉山城の占拠と美濃攻略)NHK財団 ステラnet参照日 2026-10-03
- 遠藤珠紀・時代考証の「歴史ノート」#25(佐久間信盛・安藤守就らの追放)NHK財団 ステラnet参照日 2026-10-03
- 宿毛市史 伊賀家の先祖宿毛市参照日 2026-10-03
- 宿毛市史 可氏と岩手城宿毛市参照日 2026-10-03





















