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戦国時代氏家氏1571
武将列伝戦国時代織田

うじいえ・ぼくぜん

氏家卜全西美濃三人衆と長島の退却戦

? – 1571UJIIE BOKUZEN
氏家卜全の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AI生成による想像イメージ。容貌・装備・情景は史実の復元ではありません。
  • 西美濃三人衆
  • 大垣城
  • 織田信長
生年
不明享年にも伝承あり
没年
元亀二年1571年・長島攻めで戦死
拠点
大垣美濃国西部の領主
立場
三人衆稲葉一鉄・安藤守就と並ぶ

氏家卜全は、大垣を拠点にした西美濃三人衆の一人である。 1567年に斎藤龍興から織田信長へ帰属し、近江や伊勢の戦場へ出た。 最期は1571年の長島攻めで、退く軍を追う一揆勢と戦って命を落とした。

卜全を知る手がかりは、最期の奮戦だけではない。 信長へ差し出した人質の約束、上洛軍で予想した役目、大河内や志賀で任された持ち場が記録に残る。 地元に力を持つ領主が、広い地域で戦う信長の軍に加わる。 その移り変わりを追うと、西美濃三人衆という呼び名にも具体的な意味が見えてくる。

01大垣OGAKI

西美濃に拠点を持つ領主

西美濃の領主としての卜全を描いた想像イメージ(AI生成イメージ)
西美濃の領主としての卜全を描いた想像イメージ · AI生成イメージ

氏家卜全は、信長に仕える以前から大垣を拠点にした領主である。稲葉一鉄、安藤守就と並び、西美濃三人衆と呼ばれた。美濃の主が代わるとき、その去就を問われるほどの力を持っていた。

卜全の生年は分からない。直元や友国の名でも知られ、常陸介を称した。土岐氏、続いて斎藤氏に仕えたとされるが、幼少期や初陣を細かく追える記録は乏しい。確かに見えてくるのは、美濃西部に所領と家臣を持ち、三人衆の一人として行動する姿である。

斎藤氏が美濃を治めていても、国のすべてを当主一人で動かせたわけではなかった。卜全たちは土地に根を持つ武将であり、三人で協調して勢力を保っていた。主家の命令に従う立場と、自らの領地を支える立場が重なっていたのである。のちに信長が三人衆を受け入れたことも、この在地の力と切り離せない。

大垣での領主活動を伝える話もある。善念寺の由緒には、永禄六年(1563年)、卜全の入城に伴って寺地を取り上げられ、竹島町西端へ移ったと記される。寺の場所が城郭内の要地に当たったためという。これは後世に伝えられた由緒だが、城と周辺の土地を整える卜全の姿を考える手がかりになる。

ただし、入城の年は資料によって異なる。卜全がいつ大垣を手に入れたかを一つの年に決めるより、信長への帰属前から大垣との結び付きがあった点を押さえたい。卜全は、自分の拠点と軍勢を持って信長のもとへ移った武将だった。

柴田勢が退いたあとの交戦

二番氏家卜全取合及一戦

—— 太田牛一『信長公記』巻四「大田口合戦之事」
02帰属ALLEGIANCE

稲葉山城攻略と三人衆の決断

帰属の交渉を主題にした卜全と使者の想像イメージ(AI生成イメージ)
帰属の交渉を主題にした卜全と使者の想像イメージ · AI生成イメージ

永禄十年(1567年)、卜全たちは斎藤龍興のもとを離れ、織田信長に従った。稲葉山城を中心に続いていた美濃の争いで、三人衆の帰属は信長に有利な変化となった。

『信長公記』は、その経緯を具体的に記す。稲葉・氏家・安藤の三人が申し合わせ、信長の味方になるので人質を受け取ってほしいと伝えたという。信長は村井民部丞と島田所之助を西美濃へ派遣した。帰属は、口頭で支持を表すだけの話ではない。人質を差し出す約束を伴っていた。

ところが信長は、人質が届くのを待たずに軍を動かした。稲葉山に続く瑞龍寺山へ進み、城下に火をかけ、城を包囲する。あとから来た三人衆は、その素早さに驚いたと同書は伝える。卜全たちが信長と結んだことで戦況は変わったが、信長の進軍は三人衆の到着を待つ速さではなかった。

やがて龍興は城を去り、長島方面へ退いた。信長は稲葉山に本拠を移し、井口を岐阜と改める。卜全にとっては旧主が退く一方、新しい主君が美濃の中心に入る転換だった。龍興との主従を終えたのちも、卜全自身は西美濃の領主として残った。

三人衆には本領のほか、杭瀬川以西の共同の段銭徴収権などが認められたと辞典の解説は述べる。土地にかかる税を取る権利も、新しい主従関係のなかで維持されたのである。信長に従った理由を卜全自身が詳しく語る史料は確認できない。しかし、帰属後にも地域の権益が認められたことは、彼の決断を考えるうえで欠かせない。

斎藤家のもとで築いた基盤を保ちながら、信長の戦争に加わる。卜全の活動範囲は、ここから美濃の外へ広がっていく。

03上洛TO KYOTO

先鋒を予想した美濃衆

近江へ向かう軍勢と卜全の想像イメージ(AI生成イメージ)
近江へ向かう軍勢と卜全の想像イメージ · AI生成イメージ

永禄十一年(1568年)、信長は足利義昭を京都へ迎え入れるため、近江へ進んだ。行く手では六角承禎らが抵抗していた。前年に信長へ帰属した卜全たちも、この遠征に従っている。

『信長公記』には、三人衆の立場がよく表れた一場面がある。美濃衆は、自分たちが先鋒として差し向けられるだろうと考えていたという。前年まで別の主君に仕えた軍勢が、新しい主の大規模な遠征に参加する。三人衆は、そこで自分たちにどのような役が回るのかを見ていた。

だが、箕作山の城を攻めた先鋒は佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八らだった。信長が美濃衆を先に立てず、自らの配下で攻めさせたことを、稲葉・氏家・安藤は意外に思ったと記される。

この記述は、卜全が箕作山へ真っ先に登ったという武勇談ではない。新たに加わった美濃衆と、信長が直接使う軍勢との関係を伝えている。三人衆は遠征に参加していたが、すべての攻撃で先頭を任されたわけではなかった。

箕作山が落ちると、観音寺城の六角父子も退いた。信長は近江を進み、義昭の上洛を実現させる。卜全が仕える主君は、美濃と尾張を治めるだけでなく、京都の政治と軍事に深く関わる存在となった。

卜全にとって、信長への帰属は大垣の権益を保つことで完結しなかった。近江から京都へ向かう軍勢の一員となり、他国の武将と同じ作戦のなかで動く。以後の記録では、彼は各地の包囲陣や対陣の持ち場に名を連ねるようになる。

04伊勢ISE

大河内城の西側を囲む

大河内城包囲を主題にした卜全の想像イメージ(AI生成イメージ)
大河内城包囲を主題にした卜全の想像イメージ · AI生成イメージ

永禄十二年(1569年)、卜全は伊勢の大河内城を攻める軍に加わった。城には北畠具教・具房父子がいた。信長は城の四方に軍を置き、出入りする道をふさぐ包囲を進めた。

『信長公記』が記す卜全の持ち場は、西側である。同じ方面には木下藤吉郎、安藤伊賀守、飯沼勘平、佐久間右衛門らが並ぶ。卜全は美濃出身の仲間だけで固まらず、信長の他の部将とともに一つの方面を受け持っていた。

包囲には、攻め口へ兵を進める役だけでなく、城へ通じる道を押さえる役もある。信長は四方に幾重もの柵を設け、通路を閉じた。卜全の名が配陣の記録にあることから、城を取り囲む軍の一翼を担ったと分かる。ただし、そこで彼が何人を討ち取ったかまでは記されていない。

攻城戦は順調な突入で終わったわけではない。九月には稲葉一鉄、池田勝三郎、丹羽五郎左衛門の三隊が夜襲を命じられたが、雨で味方の鉄砲が使えず、死者を出した。この夜襲の指揮者に卜全の名はない。同じ包囲戦に参加していたことと、個別の攻撃を率いたことは区別する必要がある。

信長は包囲を続け、城内の兵糧を断とうとした。交渉の末、信長の子のお茶筅に北畠家の家督を譲る条件で決着し、十月には国司父子が城を退いた。大河内の戦役では、戦闘と包囲、家督をめぐる合意が一つにつながっていた。

卜全が果たした役割は、このうち西側の包囲で確認できる。華々しい一騎討ちの記録がなくても、配陣には任された場所が残る。伊勢での卜全は、大軍のなかで持ち場を引き受ける指揮官だった。

05近江OMI

姉川の合戦から志賀の対陣へ

志賀の対陣を主題に、湖畔の陣に立つ卜全を描いた想像イメージ(AI生成イメージ)
志賀の対陣を主題に、湖畔の陣に立つ卜全を描いた想像イメージ · AI生成イメージ

元亀元年(1570年)、信長は浅井・朝倉との戦いに入った。六月の姉川では、徳川家康も信長方に加わる。卜全たち美濃三人衆は、この戦場にも姿を見せる。

『信長公記』によれば、相手側には浅井長政の軍勢と、朝倉孫三郎景健が率いる軍勢があった。織田・徳川方はそれに向き合い、家康が西の三田村口、信長の馬廻が東の野村方面に当たり、美濃三人衆はさらに東に置かれた。卜全の働きは、まずこの三人衆の配置から捉えられる。

浅井方と向き合う東側に加わっていたことは分かるが、卜全が特定の将と一騎討ちをしたとは書かれていない。三人衆の奮戦だけで勝敗が決まったともいえない。合戦は織田・徳川方の勝利となり、信長は横山城を押さえたものの、浅井氏の本拠である小谷城は残った。

勝利のあとも、近江の戦いは続いた。秋には浅井・朝倉勢が坂本方面へ進み、宇佐山城を守る森可成らが討ち死にする。摂津にいた信長は引き返し、比叡山周辺で敵軍と向き合った。これが志賀の陣である。

このとき卜全は、柴田勝家、安藤守就、稲葉一鉄とともに田中に配置された。『信長公記』は、周辺の要所にどの武将を置いたかを細かく列挙している。夏の姉川でともに戦った美濃衆は、秋にも浅井・朝倉への備えに組み込まれていた。

姉川では朝倉勢の現場指揮者として景健の名が見える。一方、志賀では朝倉義景の勢力と対陣した。卜全と義景の関係を考えるとき、この二つを混同してはいけない。義景本人が姉川で卜全と戦ったとする話とは異なる。

志賀の対陣は年末の和談まで長引いた。卜全は、夏の合戦から秋冬の持久戦へと、信長が近江で抱えた軍事負担の一部を担ったのである。

06長島NAGASHIMA

川西の太田口へ向かう

山麓と河川に挟まれた進路を主題にした卜全の想像イメージ(AI生成イメージ)
山麓と河川に挟まれた進路を主題にした卜全の想像イメージ · AI生成イメージ

元亀二年(1571年)五月、信長は長島の一向一揆を攻めた。前年、尾張の小木江では信長の弟・信興が一揆勢に攻められ、命を落としている。近江での対陣が続いた時期に、尾張の西にも大きな敵対勢力があった。

『信長公記』は五月十二日、長島方面へ三つの口から軍を差し向けたと記す。信長自身は津島まで進出した。卜全が加わったのは、川西から多芸山の麓に沿って太田口へ向かう軍である。

同じ方面には柴田勝家、市橋九郎左衛門、稲葉一鉄らがいた。前年の志賀で近くに配された将たちが、今度は長島への進軍に名を連ねる。ただし、将の名が並んでいるからといって、卜全が柴田家の家臣になったわけではない。信長方の一つの作戦に参加した、別々の軍勢である。

長島攻めといっても、卜全がいた場所を長島の中心部と決めることはできない。記録は、太田口へ向かった軍と、そこから退く際の道に焦点を当てている。総大将のいる津島、攻撃目標の長島、川西の進路は区別しておく必要がある。

攻撃は一揆勢を屈服させるところまで進まなかった。軍は周辺に火を放って退き始める。相手の抵抗が残る土地で背を向ければ、後ろから追撃を受ける。卜全の最期は、この撤退の過程で起きた。

退路は、右に大河、左に山の下道がある狭い場所だったと『信長公記』は描く。一揆勢は山々へ移り、弓や鉄砲で織田軍を阻んだ。広く兵を展開できる合戦場とは違い、前へ進む列と後ろを支える部隊の動きが、道の狭さに制約される場面であった。

07退却戦REARGUARD

柴田勢に続いて戦い、倒れる

退却戦後の山麓の道を描いた無人の想像イメージ(AI生成イメージ)
退却戦後の山麓の道を描いた無人の想像イメージ · AI生成イメージ

追撃を受けた織田軍では、柴田勝家が後方を支えた。一揆勢との激しい戦いで負傷し、勝家は退いた。そのあとで敵と取り合ったのが、氏家卜全だった。

『信長公記』は、卜全を二番に戦った将として記し、彼と家臣数人が討ち死にしたと伝える。長い最期の言葉も、敵将との一騎討ちも書かれていない。負傷して退く柴田勢に続き、氏家勢も戦い、卜全は帰らなかった。それが記録から確認できる退却戦の経過である。

卜全の戦死は、元亀二年五月の長島攻めで起きた。『信長公記』では五月十六日条に当たるが、辞典や地域の解説には異なる日付も残る。海津市は、現在の南濃町に当たる安江村で戦死した人物として紹介している。

卜全の名は、しばしば撤退の最後尾を守った武将として語られる。その説明は記録の流れに沿う。ただし、信長本人のすぐ後ろを守った、全軍の生還を一人で成し遂げた、といった細部まで確かめられるわけではない。総大将は津島におり、卜全は川西の方面軍に加わっていた。

斎藤氏のもとを離れた武将が、新しい主君の戦いで命を落とした。卜全の生涯には、主従を変える判断と、帰属後に引き受けた軍役の両方がある。大垣の領主としての立場を保った一方、信長の軍勢に加わって他国へ出陣するようになっていた。

安江には、卜全を葬ったと伝わる卜全塚が残る。戦いの記録が退路と討ち死にを伝え、土地の伝承は弔いの場所を伝えてきた。卜全は長島を制圧した勝者ではない。大垣を拠点に各地へ出陣し、敗退する軍の後方で戦った領主である。

02
READING

史料の読み解き

三人衆の帰属と、残された権益

斎藤龍興を離れた卜全の行動は、しばしば裏切りという一語で説明される。 旧主との関係を断ったことは確かだが、その一語では帰属前後の変化を十分に捉えられない。 卜全は、大垣と結び付く領主として三人衆の一角を占めていた。 信長への帰属後も、その土地に関わる権利を認められている。

勝俣鎮夫による「美濃三人衆」の解説は、三人を西濃に共同の独立的勢力を持つ武将と捉える。 これは、斎藤氏に仕えていなかったという意味ではない。 主家との関係を持ちながら、自分たちで地域を支える力もあったという理解である。 帰属後の本領や徴税権の承認は、その力が信長の支配にも取り込まれたことを示す。

一方、『信長公記』が帰属の場面で強調するのは、信長の迅速な行動である。 三人衆から人質を受け取る約束をしながら、その到着前に進軍した。 合流した三人衆が驚いたという叙述も、信長の行動を際立たせるために置かれている。 卜全が何を恐れ、どんな感情で主を変えたかを直接聞き取った記録ではない。

この二つの説明は、見ている対象が異なる。 地域の権益から見れば、卜全たちは信長のもとでも領主として残った。 軍事行動から見れば、その三人衆を受け入れた信長が稲葉山攻略を押し進めた。 三人衆がすべてを決めたとも、信長に一方的に使われただけだったとも、簡単には言い切れない。

龍興を暗愚な若殿と決め付ければ、離反の理由は説明しやすくなる。 しかし、今回確認した史料には、卜全自身がそのような理由を述べた言葉はない。 人質の提供と帰属後の権益は記録できても、本人の内心まで同じ確かさで書くことはできない。 主従を変えたという行動と、なぜ変えたのかという解釈は分けておきたい。

配陣に残る卜全の役目

卜全の軍事的な働きは、討ち取った敵の数より、どこに配置されたかによく残っている。 大河内では西側、姉川では美濃三人衆として東方、志賀では柴田らと田中、長島攻めでは川西の太田口である。 こうした記録をつなぐと、一つの戦場の猛将という像から離れ、各地の作戦に参加する部将の姿が見える。

大河内の西側に名があることからは、包囲軍への参加を確認できる。 だが、それだけで夜襲を率いたことにはならない。 同じ記事は、夜襲を命じられた武将を別に列挙しているからだ。 軍勢の参加と個々の戦闘行為を分けるだけで、過度な武功の付け足しを避けられる。

姉川も同様である。 『信長公記』は美濃三人衆を一まとまりとして配置し、戦闘の経過を述べている。 この記録を卜全一人の戦術や決定的な突撃に置き換えるには、別の根拠が必要になる。 三人が同じ方面にいたという情報自体に、彼らの軍事的なまとまりを考える価値がある。

志賀の陣では、氏家・安藤・稲葉に柴田勝家が並ぶ。 長島方面への出兵でも近い顔触れが見える。 ただし、同じ持ち場にいた武将の間に、恒常的な上下関係まで読み込むことはできない。 卜全は信長の配下として動いており、柴田勢とともに戦う場面があるから柴田家臣だった、とはならない。

合戦名だけを並べると、参加した武将はみな同じ働きをしたように見えがちだ。 実際には、攻城の先鋒、包囲の持ち場、山麓での対陣、退却時の後方戦闘は異なる任務である。 卜全の記録は、その違いを一人の生涯のなかで追える点に特徴がある。

長島の退却戦で確かめられること

『信長公記』の大田口の記事には、場所、道の形、交戦の順序が続けて記されている。 五月十二日に三方面から軍を出し、信長は津島へ進む。 川西の軍は多芸山の麓を経て太田口へ向かった。 十六日には退却に転じ、その途中で一揆勢の攻撃を受けたという流れである。

退路の右には大河があり、左には山の下道がある。 一揆勢は山へ移り、弓や鉄砲で阻んだとされる。 この記述は、兵が自由に広がれない道で攻撃を受けたことを伝える。 一方で、大河の名前や卜全が倒れた地点を、現代の地図上に一点で落とせるほど詳しくはない。

先に殿を務めた柴田勝家が負傷して退き、次に卜全が交戦した。 氏家勢はそこで主将と家臣を失った。 退却を支える戦闘に加わったという説明には根拠があるが、部隊交代の命令を誰が発したかは書かれていない。 卜全が自ら志願して最後尾へ走ったという場面を足せば、記録を越えた物語になる。

「信長を救った殿軍」という紹介も、使い方には注意が要る。 信長の軍勢の退却に関わったという意味なら分かる。 しかし、信長本人が目の前で包囲され、卜全の犠牲によって脱出したという意味では、史料の位置関係に合わない。 信長は津島、卜全は川西の太田口方面という違いを残す必要がある。

また、一揆勢を単に統率のない群衆と見ることも適切ではない。 この場面では山へ移り、射撃を加え、退却する部隊に続けて損害を与えている。 ただし、その攻撃を現場で指揮した人物を牛一は名指ししていない。 本願寺や願証寺とのつながりから、特定の僧や門主が卜全と直接戦ったと推定することはできない。

没日の三つの記載と、生年の空白

卜全の最期には、年と月が一致しても日が異なる資料がある。 『信長公記』は元亀二年五月十六日条に戦死を記す。 講談社の『日本人名大辞典』は五月十二日とし、海津市の史跡解説には五月二十二日とある。 ここでは日付を新暦へ換算せず、それぞれの記載のまま区別する。

牛一の記録を軸にすれば、十二日が出兵、十六日が退却時の戦闘という順序になる。 そのため、戦闘の経過を述べる箇所では十六日条を参照した。 ただし、辞典の十二日を単なる誤植と決め付けることも、二十二日を換算の違いと片付けることもできない。 各記載がどの伝本や地域史を経たかまで確かめなければ、異同の原因は確定しない。

『美濃国諸旧記』も、長島出兵と撤退について『信長公記』とは異なる細部を伝える。 後世の編纂物は、当時の出来事だけでなく、のちに伝えられた話を含む。 詳しく書かれているから、そのぶん戦場の実情に近いとは限らない。 記述の豊かさと、出来事までの時間的な近さは、別々に考える必要がある。

年齢にも同じ問題がある。 地域の解説には五十九歳とあるが、辞典は生年を不明とする。 五十九という数字から逆算すれば生年らしい数値は作れるものの、計算結果は独立した出生記録ではない。 数え年を前提にした逆算と、生まれた年の確認とを同じ扱いにはできない。

そのため、本記事の生年は不明とした。 画像には中年から壮年の人物を描いているが、これは顔を統一するための想像上の設定であり、年齢を確定する根拠ではない。 没年・月と戦死した戦役は示し、日付と享年は資料の違いを残す。 不明な部分を空白にしても、卜全がどのような立場で何をしたかは十分にたどれる。

大垣入城と寺院由緒の読み方

卜全と大垣城の関係は広く知られるが、入城の時期には確認が要る。 『美濃国諸旧記』巻四の城の条は、永禄二年(1559年)から氏家卜全とする。 一方、善念寺の由緒を紹介する研究には、1563年の卜全入城に際する移転が記される。 同じ入城という語でも、資料の成立事情や、伝承が指す出来事を検討しなければならない。

後世の城主一覧は、一定の期間を一人の城主に対応させて整理する。 寺院由緒は、寺が移った理由を説明するなかで領主の名と年代を伝える。 前者から統治開始の厳密な日付を、後者から城全体の改築計画を、そのまま取り出せるわけではない。 現時点では、二つの年を無理に一続きの工事日程へ組み直すことを避ける。

卜全の時代を描く際に、後世の大垣城の姿を当然のように置くことにも注意したい。 城主がいたという記録と、建物の規模や外観が確定していることは別である。 城下の寺の移転という話は残っていても、そこから天守や堀を詳細に再現することはできない。 本記事の画像も、実際の城や寺を復元した図ではなく、内容を補う想像イメージである。

大垣での支配と他国での軍役は、卜全の生涯の二つの面だった。 城や寺の土地に関わる伝承を残した人物が、信長のもとでは伊勢や近江へ出た。 地元の領主としての継続と、活動範囲の変化を合わせて見ると、最後の退却戦だけでは捉えきれない生涯になる。

確度のまとめ

主張確度根拠と留保
卜全は大垣の領主で、西美濃三人衆の一人だった高『信長公記』の三人衆の記述、辞典、海津市の解説を照合
1567年に龍興を離れて信長へ帰属した高『信長公記』首巻と辞典。本人の動機や会話は確定しない
大河内・姉川・志賀の戦役に加わった高配陣に個人名または美濃三人衆が記される。個別の武功は分ける
1571年5月、長島攻めの退却中に戦死した高牛一の記録、辞典、地域史の大筋が一致
戦死した日は5月16日である中『信長公記』の当該記事を軸とする。12日・22日の記載も残る
善念寺の移転に卜全が関わった中寺院由緒を引用する研究による。移転年代を同時代文書で確認したわけではない
享年59歳で、生年も逆算して確定できる低年齢の地域伝承はあるが、辞典は生年不明。生年は断定しない
卜全塚が最期の交戦地点そのものである低埋葬伝承の地と、戦場内の厳密な位置は区別する

卜全の名は、三人衆として主を変えた場面にも、諸将と並んで持ち場を受け持つ場面にも現れる。 最期だけを取り出せば殿軍の武将であり、大垣から追えば地域に根を持つ領主である。 その二つは同じ生涯のうちにあった。 安江に残る弔いの伝承は、遠征先で帰らなかった大垣の領主を、今も土地の歴史につないでいる。

03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

氏家卜全の逸話

  1. 逸話 01

    寺院の移転に残る大垣領主の姿

    城下の寺院移転を主題にした想像イメージ。善念寺の実景ではない(AI生成イメージ)
    城下の寺院移転を主題にした想像イメージ。善念寺の実景ではない · AI生成イメージ

    卜全に関わる話は、合戦ばかりではない。岐阜県文化財保護センター掲載の櫛田尚人の研究は、善念寺の由緒を引き、1563年に卜全が寺地を取り上げ、寺が竹島町西端へ移ったという伝えを紹介している。理由は、その場所が城郭内の要地だったためとされる。

    ここから分かるのは、寺の位置と城の整備が結び付けて記憶されていることだ。卜全がどの道を開いたか、どの建物を建てたかという細かな工事記録まで示すものではない。寺院の側から語られた移転の経緯として読む必要がある。

    研究の著者も、寺院由緒の正確さを判断する難しさを冒頭で述べている。移転の伝えをそのまま、卜全の大規模な都市計画の証拠に広げることはできない。それでも、城内の土地を使う領主と、そこにあった寺院の関係を知る材料にはなる。

    卜全は最期の退却戦だけで語られやすい。しかし大垣では、戦場へ出る前の領主としての活動も伝えられてきた。寺の場所をめぐる短い由緒には、その別の顔が残っている。

  2. 逸話 02

    卜全・直元・友国という名

    卜全の呼称と記録を主題にした古い書物の想像イメージ(AI生成イメージ)
    卜全の呼称と記録を主題にした古い書物の想像イメージ · AI生成イメージ

    卜全は「ぼくぜん」と読む。実名としては直元や友国が知られ、常陸介という呼び名もある。『信長公記』は、美濃三人衆の一人を繰り返し「氏家卜全」と記す。活動をたどるうえで、まず安定して目に入る名は卜全である。

    一方、後世の『美濃国諸旧記』には、卜全と子の名を現在の辞典とは違う形で配する箇所がある。名が複数あるからといって、それらをすべて順番どおりの改名として並べればよいわけではない。父子の取り違えや、編纂時の整理が含まれていないかを確かめる必要がある。

    下野の氏家氏とのつながりも、系図や地方史の調査対象となっている。栃木県立図書館のレファレンス回答は関連資料を案内するが、それだけで卜全の父や出生地が確定するわけではない。系譜の紹介と、個人の生涯を裏付ける記録には距離がある。

    そのため、生年・父・出生地を一つの説で埋めるより、確かめられる名と活動を中心に読むほうがよい。戦場での配置を記す軍記と、祖先から子孫へ名をつなぐ系図では、記録の目的も確かめ方も異なる。名の違いは、その資料ごとの性格を考える入口になる。

  3. 逸話 03

    安江で伝えられた卜全塚

    地域に残る弔いを主題にした想像イメージ。卜全塚の実景ではない(AI生成イメージ)
    地域に残る弔いを主題にした想像イメージ。卜全塚の実景ではない · AI生成イメージ

    岐阜県海津市南濃町安江には、氏家卜全の墓として市の史跡に指定された場所がある。市の解説は、長島攻めから退く途中で卜全がこの地域で戦死したとする。卜全を葬ったと伝わる塚のほか、卜全沢の碑も紹介されている。

    塚と沢は、同じ人物に関わる異なる伝承を担ってきた。塚は埋葬の場所とされ、沢は首を洗った場所と伝わる。後者は死後の処置に関する伝えであり、合戦中に何が起きたかをそのまま証明するものではない。

    『信長公記』は山と大河の間での退却戦を記すが、卜全塚の位置を示してはいない。史跡の現在地を、卜全が倒れた一点や最後に立った場所と即断することも避けたい。戦場の記録と地域の伝承は、それぞれ違う情報を残している。

    それでも、安江で卜全が弔われ、語り継がれてきたことには意味がある。信長の戦争史では数行の出来事でも、土地には一人の武将の死として残った。卜全塚は、その記憶を今に伝える場所である。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』首巻・巻一〜四(1881年刊本に基づく新字翻刻)
    Wikisource/底本・甫喜山景雄刊参照日 2026-10-03
  2. 氏家卜全(日本人名大辞典・世界大百科事典の解説)
    講談社・平凡社/コトバンク参照日 2026-10-03
  3. 氏家卜全の墓
    海津市参照日 2026-10-03
  4. 海津市史跡(氏家ト全の墓)
    海津市参照日 2026-10-03
  5. 櫛田尚人「大名による寺院の移転とその意義について」pp.25–40
    岐阜県文化財保護センター参照日 2026-10-03
  6. 『美濃国諸旧記』巻之七「氏家氏の事」(1915年刊本の新字翻刻)
    Wikisource/底本・国史研究会参照日 2026-10-03
  7. 『美濃国諸旧記』巻之四(大垣城の条)
    Wikisource/底本・国史研究会参照日 2026-10-03
  8. 美濃の氏家友国と下野氏家氏の関係に関する資料案内
    栃木県立図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-03

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-03

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