
観音寺城の戦い|1568年信長上洛と六角氏の本拠喪失
近江国観音寺城周辺
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観音寺城の戦いは、1568年に織田信長が足利義昭の上洛を支えるため六角氏を攻めた戦役。箕作城の夜の攻防、六角父子の退去、家臣たちの降参を追い、無血開城という説明の範囲と、その後も続く抵抗を史料から読む。
この戦いの要点
義昭の上洛と六角氏の拒否
信長は足利義昭の上洛に協力するよう六角氏に求めたが、交渉はまとまらず近江へ進軍した。
箕作城陥落から本城の退去へ
『信長公記』では、箕作城が夜に陥落したあと六角父子らが観音寺城を退いた。本城の退去に先立って攻城戦があった。
城の獲得と家臣の帰順
信長は観音寺城を占領し、降参者から人質を取った。六角氏は本拠を失ったが、その後も抵抗を続けた。
山上の本拠と箕作城の一夜
六角氏が近江支配の拠点とした観音寺城は、信長の軍勢を城内へ迎え撃つ前に、近くの箕作城が夜の攻防で落ちたことで、主を失うことになった。 永禄十一年(1568年)九月、織田信長は足利義昭の上洛を支えるため近江へ入り、六角氏と戦う。 一般に「観音寺城の戦い」と呼ばれる戦役である。
城の名からは、山上の本城をめぐる長い籠城戦を思い浮かべやすい。 だが、太田牛一の『信長公記』が伝える順序は、箕作城への攻撃、六角父子らの退去、観音寺城の占領だった。 本城の石垣を一つずつ破る前に、六角方は本拠を維持できなくなったのである。
信長が得たのは山城だけではない。 六角氏に従っていた者たちの降参は、京都へ向かう軍勢の背後を落ち着かせることにもつながった。 この戦役で箕作城の攻防と、その直後に起きた領主や家臣の動きを合わせて見ると、短期間の決着が上洛へ結びついた理由が分かる。
義昭を迎えた信長と六角氏
義昭には、京都へ入るための軍事的な支援が必要だった。 兄の将軍義輝が永禄八年(1565年)に殺害されたのち、義昭は奈良を脱出し、近江や越前を経て将軍就任を目指す。 永禄十一年七月には、越前を離れて美濃の信長を頼った。
この時点の信長は、前年に斎藤龍興の本拠である稲葉山城を奪い、岐阜へ拠点を移していた。 美濃を得た信長と、上洛を望む義昭が結びつくことで、近江を越えて畿内へ進む計画が動き出す。 美濃攻略の経過は「稲葉山城の戦い」に詳しい。
ただし、近江には独自の領国を持つ六角氏がいた。 義賢は出家後の名を承禎といい、子の義治とともに信長を迎える立場にあった。 『信長公記』によれば、信長は八月、義昭側の使者とともに六角氏へ上洛への協力を求めている。 はじめから交渉を抜きに攻め込んだわけではない。
六角側は、その求めに応じなかった。 『新修石部町史』は三好三人衆との結びつきも背景に挙げているが、承禎の心中を一つの理由で説明することはできない。 近江の守護として領内に権限を持つ六角氏にとって、他国の大軍の通過を受け入れることは、自らの立場に関わる判断だった。
観音寺城の石垣と暮らし
観音寺城は、現在の滋賀県近江八幡市と東近江市にまたがる繖山に築かれた、六角氏の居城である。 山上や斜面に平らな区画を設け、多くの石垣を積んでいた。 滋賀県の城郭解説は、石垣を多用する居城としての整備を、修築記録が集中する1530〜50年代と考えている。
山上には戦うための設備だけがあったのではない。 発掘で茶器や中国産の陶磁器が出土し、連歌師が訪れた記録にも、座敷や茶の道具が見える。 観音寺城は、六角氏が人を迎え、家中の者が暮らす場所でもあった。
一方、現在見える平坦地のすべてを武士の屋敷や陣地と決めることはできない。 この山には観音正寺があり、寺院の施設と城郭の遺構をどう分けるかは調査上の課題として残っている。 城の大きさをそのまま兵数へ置き換えたり、現存する石垣のすべてを1568年の姿とみなしたりするのは慎重でありたい。

愛知川から攻撃目標へ
『信長公記』は九月七日、信長が義昭に別れを告げ、近江を攻略してから迎えると伝えたことを記す。 義昭の上洛を掲げた軍であっても、義昭が信長とともに箕作城の攻撃を直接指揮したという意味ではない。 両者の動きを分けておくと、その後に信長が迎えを出す経過も理解しやすい。
信長は八日に高宮へ着き、人馬を休ませ、十一日には愛知川近辺に野営したという。 以下の月日は旧暦であり、十二日の箕作城攻撃、十三日の観音寺城占領という日付も同書に基づく。
近江には六角方の城がいくつもあった。 それでも同書は、信長が周囲の城へ一つずつ手を向けず、観音寺城と箕作城を目標にしたと記している。 箕作城は観音寺城とは別の山城で、現在の東近江市にあった。 信長はまず、この城への攻撃を命じた。
支城をすべて順番に落としてから本城へ進めば、そのたびに兵と時間を使う。 信長の選択は、六角氏の本拠に近い城へ攻撃を集中させるものだったと読める。 ただし、各隊がどの道を通り、どの城の前に何人を残したかまで、この記録だけでは描き切れない。

箕作城を攻めた四人
九月十二日、箕作城攻めを命じられた者として『信長公記』に名が出るのは、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八の四人である。 佐久間信盛、のちの豊臣秀吉、丹羽長秀が、この攻撃に関わっていた。 ここに記される浅井新八を、近江の大名である浅井長政と取り違えてはならない。
同書は攻撃を申の刻から夜にかけてのこととし、箕作城が落ちたと伝える。 午後から夜へ続く山城の攻防だった。 短期間で決着したとはいえ、城方の退去だけで終わった場面ではない。
牛一は、兵の使い方についても書き留めている。 前年に信長へ従った美濃三人衆は、自分たちが先手を任されると思っていたところ、信長が馬廻の兵で箕作城を攻めたため、意外に感じたという。 馬廻は信長の近くに仕える武士たちであり、牛一は新たに従えた美濃衆との違いに目を向けていた。
ただし、この記述から、信長が美濃衆を信用していなかったとまで断定することはできない。 自分の近くの兵を使ったことと、誰をどのように評価していたかは別の問題である。 確認できるのは、牛一が攻撃を担った四人を挙げ、兵の起用を特徴のある出来事として記したことだ。
秀吉一人の手柄へ縮めると、信盛や長秀らとともに攻めた姿が見えなくなる。 のちの天下人も、この時は木下藤吉郎として、信長の命令を受ける攻め手の一人だった。

本城を去った六角父子
箕作城が落ちた夜、信長は同地に陣を置いたと『信長公記』は記す。 翌日には承禎の館がある観音寺山へ攻め上がる考えだったという。 ところが、その前に六角父子らが城を退いていた。
同書の表現は「佐々木父子三人」であり、六角側の退去を伝える。 『新修石部町史』や八木厚之の「甲賀の中世城館」は、承禎と義治が箕作城の陥落後、甲賀方面へ退いた経過を説明している。 本拠を手放したことは一致するが、退去時の軍議や一人ひとりの判断まで残されているわけではない。
九月十三日、信長は観音寺城を占領した。 攻め手が本城へ到達したとき、当主らはすでに去っていたのである。 その意味で、観音寺城については本格的な攻防を経ずに明け渡されたと説明できる。 だが、その前夜には箕作城で戦いがあった。
続いて六角方の者たちが降参した。 『信長公記』によれば、信長は人質を取り、彼らを従来の地位に置いたという。 こうして本拠を取ることと、旧来の領主たちを従わせることが、続けて進められた。 すべての降参者を排除したのでは、占領した土地をすぐに落ち着かせるのは難しい。
この処置は、六角氏の配下だった者が、そのまま織田方の支配に組み込まれる余地を持っていたことを示す。 ただし、全員が無条件で所領を保証されたとも、近江の抵抗が完全に消えたとも読めない。 城を出た承禎たちは、その後も信長の敵として動くことになる。

通説と俗説の射程
「無血開城」という短い説明には、範囲を確かめる必要がある。 観音寺城で本格的な攻城戦が起きなかったことと、六角氏攻略で戦闘がなかったことは、同じ意味ではない。 箕作城の攻防を含めた戦役全体を無血と呼ぶと、その夜に戦った人々が抜け落ちてしまう。
兵力にも、似た取り違えが起きやすい。 「甲賀の中世城館」は信長の軍を六万と記すが、その全員が箕作城の斜面で戦ったことまで示す数字ではない。 『信長公記』の該当箇所は複数の国の軍兵を率いたと述べるものの、両軍の実戦参加者を同じ基準で数えてはいない。 そのため、上洛軍全体の伝承的な兵数と、城を攻めた人数を使って精密な兵力比を出すことはできない。
また、箕作城が落ちた直後に本城を退いた順序は確認できても、六角父子が恐怖だけで逃げ出したと決める根拠にはならない。 守り続ける見込み、家臣との関係、城外での再起など、判断に関わりうる事情は複数ある。 確かなのは、本城を失ったあとも六角氏が活動を続けたことである。
城の焼失にも留保が要る。 滋賀県の解説は発掘による火災の痕跡に触れつつ、炎上時期について記録と伝承が一致しないとする。 現存する焼け跡を見て、1568年の信長が観音寺城の全山を焼いたと結びつけることはできない。 城の退去、城内の火災、城としての役割の終わりは、それぞれ時点を確かめる必要がある。
京都への進軍と続く近江の戦い
『信長公記』は九月十四日、信長が美濃へ義昭の迎えを送ったと記す。 近江での攻略を先行させ、その後に義昭を迎えるという出陣時の方針が、ここで具体的な行動になった。
九月下旬には入京が進み、軍事行動はさらに摂津へ及ぶ。 高槻市しろあと歴史館の解説は、義昭と信長が芥川山城へ進んだことを伝えている。 観音寺城を得た時点で、畿内の戦いがすべて済んだわけではなかった。 十月、義昭は第十五代将軍に就任する。 その政治的な経過は、年表の「信長上洛」でたどれる。

一方、承禎と義治は観音寺城を失ったあとも抵抗を続けた。 元亀元年(1570年)には再び近江で軍事行動を起こし、六月には野洲川方面で柴田勝家や佐久間信盛らと戦っている。 1568年を六角氏の本拠喪失の年とすることと、一族の政治的な活動がその年に終わったとすることには、隔たりがある。
信長は箕作城を攻め落とし、翌日には六角氏の居城を得た。 その短い間に、京都へ進む道だけでなく、近江の領主たちが誰に従うかという関係も変わった。 だが、山上の城から退いた者たちは消えず、二年後には再び信長の軍と向き合う。 観音寺城の占領は、上洛を進めた勝利であると同時に、その後も続く近江の争いの始まりだった。
両軍の対比
織田信長
六角義賢(承禎)・義治
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 信長公記 巻一(三)(四)(1881年刊『我自刊我書』本の翻刻)太田牛一著、甫喜山景雄刊/Wikisource参照日 2026-09-21
- 新修石部町史 通史篇「六角軍と織田軍」(198〜201頁)湖南市デジタルアーカイブ参照日 2026-09-21
- 史跡観音寺城跡の調査と整備滋賀県文化財保護課参照日 2026-09-21
- 八木厚之「甲賀の中世城館」京都府埋蔵文化財論集 第5集(73〜78頁)京都府埋蔵文化財調査研究センター参照日 2026-09-21
- 福井県史年表(1561年〜1580年)福井県文書館参照日 2026-09-21
- 11.足利義昭の上洛と高槻高槻市しろあと歴史館参照日 2026-09-21





