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観音寺城の戦い|1568年の信長上洛と秀吉の役割
観音寺城の戦いは1568年、信長の上洛を阻む六角氏との戦役。いつ・どこで起きたか、城主の六角義賢・義治、秀吉の箕作城攻め、光秀との関係を史料からたどる。安土城との違いと、無血開城の範囲も整理する。
この戦いの要点
いつ、どこで起きた戦いか
1568年旧暦九月十二日〜十三日、現在の滋賀県東近江市と近江八幡市一帯。信長は足利義昭の上洛を支えるため六角氏と戦った。
秀吉は箕作城を攻めた一人
『信長公記』は木下藤吉郎を攻め手に挙げる。箕作城が落ちた後、六角父子は観音寺城を退去。戦役全体が無血だったわけではない。
観音寺城と安土城は別の城
観音寺城は繖山にあった六角氏の居城。信長が安土山で安土城を築き始めるのは1576年で、この戦いから8年後にあたる。
観音寺城の戦いはいつ、どこで起きたのか
六角氏の本拠は、本城での大きな攻防を迎える前に主を失った。観音寺城の戦いは、永禄11年(1568年)旧暦九月十二日から十三日にかけて決着した、織田信長と六角氏の戦役である。場所は近江国、現在の滋賀県東近江市と近江八幡市にまたがる一帯。城主の六角義賢(承禎)と子の義治は、近くの箕作城が陥落すると観音寺城を退いた。
攻城戦の中心となったのは箕作城で、木下藤吉郎、後の豊臣秀吉も攻め手に加わった。一方、明智光秀の攻城指揮は、今回確認した史料からは裏づけられない。信長が後に築く安土城1576年に織田信長が築いた壮麗な居城。天主を持つ初の本格的城郭として、近世城郭の出発点となった。も、このときの観音寺城とは別の城である。同じ上洛や近江の城に関わる名前でも、担った役割と年代には違いがある。
日付と攻撃の順序は、太田牛一の『信長公記』巻一に基づく。九月十二日は箕作城の攻略日、十三日は観音寺城の占領日であり、現在の暦の9月12日と13日へ換算した表記ではない。信長の目的は、足利義昭を京都へ迎えて将軍にすることだった。その進路にあった六角氏の領国で、上洛の前提となる戦いが起きたのである。
場所と城主から見る観音寺城
観音寺城は、琵琶湖の東側にある繖山(きぬがさやま)の山上から斜面に広がっていた。現在の近江八幡市と東近江市の境に位置し、近江守護の六角氏が本拠とした山城である。城跡の案内では近江八幡市安土町石寺という所在地も使われる。地名に「安土」が含まれていても、それだけで信長の安土城1576年に織田信長が築いた壮麗な居城。天主を持つ初の本格的城郭として、近世城郭の出発点となった。を指すわけではない。
1568年の戦いで城を去ったのは、六角義賢と義治らだった。義賢は出家後の名を承禎といい、史料では六角承禎とも記される。義治は義弼の名でも知られるため、資料によって親子の表記が変わる。父の名が義賢から承禎に変わっていても、別の城主が入れ替わったという意味ではない。
六角氏が失ったのは、戦の時だけ立てこもる砦ではなかった。山上には住まいや接客の場があり、発掘では茶器や中国産の陶磁器も見つかっている。石垣を多用する居城としての整備について、滋賀県は修築記録の集まる1530〜50年代を挙げる。来客を迎える暮らしと、領国を守る軍事の働きが重なっていた。
ただし、今ある平坦地をすべて武士の屋敷と決めることはできない。山中の観音正寺に関わる施設と、城郭の遺構を分ける調査が必要だからだ。現存する石垣や区画を、そのまま1568年当日の配置図へ写すことも避けたい。城の所在は辞典の「観音寺城」、遺構と生活の痕跡は滋賀県の調査解説で確認できる。

信長が六角氏を攻めた理由
義昭が求めていたのは、京都まで軍を動かせる支援者だった。兄の足利義輝が1565年に殺害された後、義昭は奈良を脱出し、近江や越前を経て上洛を目指した。 1568年七月には美濃の信長を頼り、両者の協力が具体化する。信長は前年の「稲葉山城の戦い」で美濃の本拠を得ており、次に近江を越えて京都へ進もうとしていた。
その道中に領国を持っていたのが六角氏である。『信長公記』によると、信長は八月、義昭側の使者に自分の使者を添えて六角承禎に協力を求めた。交渉を重ねたものの合意に至らず、信長は近江への軍事行動を決める。上洛への協力を取り付けられなかったことが、戦役の直接の背景となった。
『新修石部町史』は、六角氏と三好三人衆の結びつきも説明している。ただし、承禎が信長の要求を拒んだ理由を、名門の誇りだけで言い切ることはできない。他国の軍勢を領内へ通し、新しい将軍候補に協力する判断には、京都の政治と近江の支配の両方が関わっていた。双方の交渉が決裂した後、戦場になったのは六角氏の本拠に近い城々だった。
愛知川から箕作城へ進む上洛軍
九月七日、信長は義昭に別れを告げて出陣した。『信長公記』では、近江を攻略してから迎えを送ると伝えている。義昭を奉じた上洛軍という言い方は、義昭が箕作城の前で攻撃を指揮したことを意味しない。軍を先に進める信長と、その後に迎えられる義昭を分けると、行動の順序が見えてくる。
同書は、信長が八日に高宮へ着いて人馬を休め、十一日に愛知川近辺で野営したと記す。周辺には六角方の城がいくつもあったが、信長はそれぞれを順番に攻めてはいない。観音寺城と箕作城へ向かい、まず箕作城への攻撃を命じた。箕作城は現在の東近江市にあった山城で、観音寺城の城内の一区画ではない。
この進め方は、本拠を支える拠点へ兵を集中させるものだったと読める。城ごとに足を止める時間を省き、六角氏の本拠に近づく選択だった。ただし、各部隊の人数や通った道、城のどちら側を包囲したかまでは分からない。現在の登山道を当日の攻撃路とみなす根拠も、この記録にはない。

秀吉は箕作城攻めで何をしたのか
秀吉は、箕作城を攻めるよう命じられた武将の一人だった。『信長公記』が挙げるのは、佐久間右衛門、木下藤吉郎、丹羽五郎左衛門、浅井新八の四人。現在よく使われる名前では、佐久間信盛、豊臣秀吉、丹羽長秀がここに含まれる。浅井新八は、近江の大名である浅井長政とは別人である。
九月十二日、攻撃は申の刻から夜に及び、その日のうちに箕作城は落ちたという。同書から分かるのは、秀吉が仲間の武将とともに攻略を担ったことだ。秀吉だけが単独で城を落とした、あるいは観音寺城の城主だった、という説明にはならない。信長に命じられた攻め手と、六角氏が居城を退いた出来事をつなぐと、秀吉の役割を過不足なく捉えられる。
牛一は兵の起用にも目を向けている。前年に信長へ従った美濃三人衆は、自分たちが先手を任されると思っていたという。ところが信長は、身近に仕える馬廻の兵で箕作城を攻めた。三人衆がこれを意外に感じた、と同書は伝える。
この記述は、信長が誰を先に使ったかを考える手がかりになる。しかし、美濃衆を信用していなかったからだ、と動機まで決める材料には足りない。攻撃を担った人々の名と、後から説明された主君の心理は分けて読む必要がある。
秀吉の出世を追うと、この戦いは華やかな逸話に埋もれやすい。それでも、木下藤吉郎という名を攻城の命令と結びつけて読める点で、具体的な活動を知る手がかりとなる。後の天下人は、この段階では信盛や長秀らと並ぶ攻め手の一人だった。彼の生涯全体は「豊臣秀吉」の記事でたどれる。

六角父子の退去と家臣の帰順
箕作城が陥落した夜、信長は同地に陣を置いた。翌日には観音寺山の承禎の館へ攻め上がる考えだったと『信長公記』は記す。しかし、その前に六角父子らは退去していた。本城での本格的な攻城戦を経ず、九月十三日に信長は観音寺城を占領する。
『信長公記』の表現は「佐々木父子三人」である。『新修石部町史』と八木厚之の「甲賀の中世城館」は、承禎と義治が箕作城陥落後に甲賀方面へ退いたと説明する。退去に至る順序は確かめられても、城内の軍議や父子の会話まで伝わっているわけではない。恐怖に駆られた、家臣を見捨てた、といった心情を補えば、記録以上の物語になってしまう。
六角氏は本城を失ったうえ、従っていた領主たちが織田方へ降る事態に直面した。『信長公記』によれば、信長は降参者から人質を取り、従来の地位を認めたという。六角方の城と人を取り込みながら、京都へ進む足場を確保していった。
ここで六角父子が討死したわけではない。本拠を失っても城外で動く余地は残り、後に再び織田軍と戦う。義賢の退城後の活動は「六角義賢」の記事でも扱っている。

明智光秀と観音寺城の戦いの関係
光秀は義昭と信長の上洛をめぐる政治に関わる人物だが、箕作城での役割は秀吉と同じようには確かめられない。『信長公記』の攻城を命じられた四人に、光秀の名はない。そのため、この箇所だけを根拠に「光秀が城を攻略した」と書くことはできない。
光秀との接点が見えるのは、義昭を中心とする人々の動きである。
京都文化博物館の上洛展解説
は、義昭に付き従った細川藤孝や光秀が、上洛後の治政に関わったと説明する。信長配下の村井貞勝や木下藤吉郎らも、その政務を担った。六角氏を退けて京都へ進んだ後、義昭側と信長側の人々が政権を支えたのである。
光秀の名が攻城の記事にないことだけで、上洛の一連の動きに関与しなかったと断定するのも早い。記録されていないことと、実際にいなかったことは区別しなければならない。確認できる政務への関与と、確認できない攻城での働きを分けるのが、史料に沿った説明となる。その後の京都周辺での活動は「明智光秀」と、翌1569年の「本圀寺の変」へ続く。
観音寺城と安土城の違い
観音寺城と安土城は近くにあるが、築かれた山も城主も異なる。観音寺城は繖山の六角氏の居城であり、安土城は信長が安土山に築いた城である。観音寺城を改名したり、同じ山で建て直したりして安土城になったのではない。
| 比べる点 | 観音寺城 | 安土城 |
|---|---|---|
| 場所 | 繖山。現在の近江八幡市と東近江市の境 | 安土山。観音寺城とは別の山 |
| 主な城主 | 六角氏。1568年の退城時は義賢・義治ら | 織田信長 |
| 戦いとの時代関係 | 1568年に六角父子らが退去 | 1576年に信長が築城を開始 |
| 城の特徴 | 石垣を多用した山城。居住と接客の場もあった | 1579年に天主が完成し、信長が移り住む |
安土城の築城開始は、観音寺城の戦いから8年後にあたる。滋賀県の安土城の調査解説では、1576年の着工と1579年の天主完成を分けている。 1568年の戦場を思い描くときに、後の安土城の天主を置いてしまうと年代が合わない。信長は六角氏の本拠を奪った時点で、あの安土城を拠点にしていたわけではなかった。
一方、石垣の使用そのものが安土城から突然始まったわけでもない。観音寺城には、それ以前から石垣を多用した居城の姿があった。二つの城を比べると、領主と政治の変化に加え、城のつくりの共通点と違いにも目が向く。ただし、似た石垣があることだけで、直接の技術継承や建物の移築まで証明できるものではない。
通説と俗説の射程
「無血開城」は、観音寺城の本城で大きな攻防が起きなかったことを説明する言葉として使われる。その前には箕作城で戦闘があり、戦役全体を無血と呼ぶことはできない。秀吉が加わった攻撃と、本城の主が退いた場面を一つにすると、戦いの経過を取り違える。区別すべきなのは、箕作城の陥落、六角父子の退去、観音寺城の占領という三つの出来事である。
兵数にも注意が要る。八木厚之の論文は信長の軍を6万とするが、箕作城を直接攻めた人数を示す数字ではない。『信長公記』の該当箇所は複数の国の軍勢を率いたと記すだけで、両軍を同じ基準で数えてはいない。上洛軍全体の規模と一つの城の守備兵数を比べても、当日の兵力差は計算できない。
観音寺城の焼失も、占領日と結びつけて断定しない方がよい。滋賀県の解説では、発掘で火災の痕跡が見つかった一方、炎上時期の記録と伝承は一致していない。城の退去、建物の焼失、城としての役割の終わりは、それぞれ確かめる必要がある。 1568年に信長が観音寺城の全山を焼いたという場面は、これらの資料からは復元できない。
信長上洛と、その後も続く六角氏の抵抗
九月十四日、信長は美濃にいた義昭へ迎えを出したと『信長公記』は伝える。近江の攻略を先行させ、その後に義昭を迎えるという方針が、具体的な行動へ移った。九月下旬には入京が進み、織田軍の戦いは摂津にも及ぶ。
高槻市しろあと歴史館の解説は、義昭と信長が芥川山城へ進んだ経過を紹介している。
十月、義昭は室町幕府の第15代将軍に就任した。観音寺城の占領は、近江の城を手に入れる勝利から、京都で将軍を支える立場へとつながった。戦役と将軍就任の前後関係は、戦国時代の年表と「信長上洛」でたどれる。

しかし、六角氏の抵抗はそこで終わらなかった。元亀元年(1570年)には再び近江へ進出し、六月には野洲川方面で柴田勝家や佐久間信盛らと戦う。この経過は『新修石部町史』と「甲賀の中世城館」76頁でも確認できる。本拠の喪失と、一族の活動の終わりは同じ年ではない。
信長は短い攻防で六角氏の居城を得たが、城外に残る敵との戦いは続いた。上洛への道を開くことと、近江で支配を保つことは別の仕事だったのである。後に信長が安土城を築くまでの間にも、近江では勢力同士の争いが重なっていく。観音寺城の戦いは、その変化を六角氏の本拠喪失からたどれる戦役である。
両軍の対比
織田信長
六角義賢(承禎)・義治
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 信長公記 巻一(三)(四)(1881年刊『我自刊我書』本の翻刻)太田牛一著、甫喜山景雄刊/Wikisource参照日 2026-09-21
- 新修石部町史 通史篇「六角軍と織田軍」(198〜201頁)湖南市デジタルアーカイブ参照日 2026-09-21
- 史跡観音寺城跡の調査と整備滋賀県文化財保護課参照日 2026-09-21
- 八木厚之「甲賀の中世城館」京都府埋蔵文化財論集 第5集(73〜78頁)京都府埋蔵文化財調査研究センター参照日 2026-09-21
- 福井県史年表(1561年〜1580年)福井県文書館参照日 2026-09-21
- 11.足利義昭の上洛と高槻高槻市しろあと歴史館参照日 2026-09-21
- 信長上洛〜京都・織田信長入京から450年〜「信長上洛とその影響」京都府京都文化博物館参照日 2026-10-11
- 特別史跡安土城跡の調査と整備「安土城の歴史」滋賀県文化財保護課参照日 2026-10-11
- 観音寺城(百科事典マイペディアほか)平凡社ほか/コトバンク参照日 2026-10-11






