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宇治の水辺と低い城構えを描いたAIによる想像図。槇島城の正確な復元ではない。(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

槇島城の戦い|1573年、足利義昭追放と室町幕府

槇島城の戦いは1573年、現在の京都府宇治市で織田信長が足利義昭を降伏させた戦い。いつ、どの場所で起きたのかを確かめ、宇治川の渡河、京都追放と室町幕府滅亡、毛利輝元を頼ったその後を史料からたどる。

1573年元亀四年七月十六〜十八日(旧暦)山城国槇島城(京都府宇治市)勝 織田信長敗 足利義昭戦国ジャーナル編集部戦いを読む
戦いの年
1573年
元亀4年・同年に天正へ改元
戦いの場所
宇治
現在の京都府宇治市槙島町周辺
渡河と降伏
7月18日
日付は旧暦

この戦いの要点

  1. 将軍と信長が武力で対立

    春に一度和議を結んだ足利義昭と織田信長は、7月に再び衝突。義昭は槇島城へ移った。

  2. 宇治川を越えた攻撃で降伏

    信長は7月16日に宇治へ進出。18日に軍勢が渡河し、攻められた義昭は子を人質に降伏した。

  3. 京都追放と将軍辞任は別

    義昭の京都追放は室町幕府滅亡の区切りとされる。一方、将軍職は1588年に辞するまで保持した。

槇島城の戦い(まきしまじょうのたたかい)は、1573年の旧暦7月、山城国の槇島城で織田信長が足利義昭を降伏させた戦いである。場所は現在の京都府宇治市槙島町周辺。信長は7月16日に宇治へ進み、18日の渡河と攻城を経て義昭を降伏に追い込んだ。

京都を追われた義昭は室町幕府15代、最後の将軍だった。この追放をもって室町幕府の滅亡とするのが一般的な区切りである。ただし、京都追放は1573年、将軍職を辞したのは1588年。小城での敗北の後にも、義昭の政治活動は続いていた。

槇島城の戦いはいつ、どこで起きたのか

戦いの年は元亀4年(1573年)である。同じ年の7月28日に天正へ改元されたため、年表では「天正元年の戦い」と書かれることもある。7月18日の降伏は改元より前であり、本記事では当時の元号に合わせて元亀4年とする。月日は旧暦で、現在のカレンダーの7月18日とは異なる。改元日は「天正」の辞典項目でも確認できる。

槇島城は宇治川に近い平地の城だった。槇島は「槙島」「真木島」とも書き、別々の城や合戦を指すわけではない。現在の地名は宇治市槙島町で、城跡を伝える石碑もある。京都から南の宇治へ移った将軍を、信長の軍が追ってきたのである。

もっとも、石碑の地点をそのまま本丸の中心とすることはできない。宇治市の発掘調査報告『槇島城跡』は、調査区周辺に中世の安定した地盤が認められなかったことから、従来の推定地より北に城があった可能性を挙げている。宇治川の流れや土地の高さは洪水と堆積によって変わってきた。

「場所は宇治の槙島町周辺」と答えることはできる。しかし、当日の城の輪郭や渡河地点を現代の地図に細かく落とすには、まだ留保がいる。記事中の画像も史料に残る水辺の戦いをもとにしたAIによる想像図であり、城や川筋の正確な復元ではない。

足利義昭と織田信長は、なぜ戦ったのか

足利義昭と織田信長は、初めから敵同士だったわけではない。1568年、信長は義昭を奉じて上洛し、義昭は将軍に就任した。将軍として諸大名との関係を保とうとする義昭と、畿内で軍事力を行使する信長は、協力しながらも政務や周辺勢力への対応をめぐって対立を深めた。

1573年春には、その対立が武力衝突となっていた。義昭方は近江の石山や今堅田に拠点を設け、信長方は柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆らを派遣して攻めた。ここでいう石山は近江の拠点であり、大坂の石山本願寺と取り違えないようにしたい。

信長は3月に上洛し、4月には京都の市街を焼いて義昭に圧力をかけた。それでも春の衝突はすぐに追放へ結びついたわけではなかった。『信長公記』巻六は4月6日の和議を記している。同書には、信長が人質や誓紙によって関係の修復を図ったという説明もある。

この叙述は信長側の立場を強く反映するため、そのまま信長の内心とは受け取れない。ただ、衝突と交渉が重なった経過は読み取れる。「信長は上洛の最初から義昭を追い出すつもりだった」と結論だけを先に置くと、途中にあった和議の意味を見落としてしまう。

宇治方面の川辺で軍の動きを見守る織田信長のAIによる想像図

武田信玄、朝倉義景、六角義賢はどう関わったか

義昭と信長の対立は、周辺の戦局と切り離せない。1572年から武田信玄が徳川領へ軍を進め、浅井長政と朝倉義景も信長と戦っていた。信長に複数の方面へ兵を向けさせる状況は、義昭が対抗するうえでも重要だった。

だが、これらの勢力が槇島城に集結したわけではない。信玄は1573年4月12日に亡くなっており、7月の戦いには参加していない。また、義昭と信長の春の衝突や和議は、信玄の死より前に起きている。「信玄が死んだので義昭が初めて挙兵した」という順番にはならない。義昭が訃報をいつ知り、何を判断したかまでを、この前後関係だけから決めることもできない。

近江では六角義賢(六角承禎)ら六角氏の抵抗が続いていた。東近江市の鯰江城の解説は、信長の侵攻後に六角氏が同城へ入り、1573年に落城したとする。六角氏の動きは近江の戦線を考える材料になるが、義賢本人が槇島城の守備を指揮したという根拠にはならない。

朝倉義景の最期はこの戦いより後の8月だった。一乗谷朝倉氏遺跡博物館の解説が示すように、義景は浅井氏を支えて信長と戦い、最後には越前で敗れる。槇島での義昭の敗北と、浅井、朝倉両氏の滅亡は同じ1573年に続いた別の局面である。

「信長包囲網」という呼び方は、この広い対立を理解する助けになる。一方、それぞれの大名には自分の領国と戦線があった。全員が義昭の一つの命令で同時に動く軍だった、とまで考えると実際の距離や時期が見えなくなる。

7月16日、信長は宇治へ進んだ

春の和議は長続きしなかった。『信長公記』によれば、義昭は7月3日に槇島へ移り、京都の御所には日野輝資や三淵藤英らを残した。信長は再び上洛し、京都側を制圧したうえで宇治へ向かった。義昭が京都に残す拠点と、本人が籠もる槇島城の両方が攻撃の対象となったのである。

7月16日、信長は五ケ庄の柳山へ進み、宇治川を越えるよう諸将に命じた。同書は部隊を川上と川下に分けて記す。川上の平等院方面には稲葉一鉄ら、川下には佐久間信盛、丹羽長秀、柴田勝家、羽柴秀吉、蜂屋頼隆、明智光秀らの名が見える。

義昭と縁のあった光秀も、ここでは信長方にいる。名前の並びは、かつての将軍の支持者がそのまま城内にそろっていたわけではないことを示している。ただし、名簿に見える全員について、個々の戦闘や城門を破った順序まで分かるわけではない。

川を越える局面では、城の守りだけを見ても経過は追えない。攻める側は対岸へ兵を渡し、足場を得てから槇島へ向かう必要があった。現在の川幅を使って当日の所要時間を計算するより、史料に残る「渡河してから城へ進む」という順序を押さえたい。

宇治川を渡る織田方の兵を表したAIによる想像図。川幅や渡河地点の復元ではない

7月18日の攻撃と足利義昭の降伏

決着は18日についた。『信長公記』は巳の刻ごろ、川上と川下の部隊が渡河したとする。軍勢は中島へ渡って人馬を休ませ、その後、南の槇島へ進んだ。水を渡った直後の軍がそのまま一息に城へ飛び込んだという描写ではない。

槇島から出た兵と交戦した部隊として、佐久間信盛と蜂屋頼隆の名が挙げられている。攻撃軍は城の外郭へ押し寄せ、火をかけた。城を守りきれなくなった義昭は、幼い子を人質に差し出して降伏する。宇治市の報告書に付載された史料年表では、この子を義尋としている。

信長は義昭を殺害しなかった。羽柴秀吉(のちの豊臣秀吉)に警護を命じ、義昭を河内の若江へ送ったと『信長公記』は伝える。一方、宇治市の史料年表は日記類などから途中の退去先も挙げている。槇島から若江までの全行程が一文で尽くされるわけではない。

降伏後の義昭は生きて城を出た。しかし、京都で将軍として政務を続ける場所を失った。この軍事的敗北と京都からの退去が、通常「足利義昭の追放」と呼ばれる出来事である。

槇島の居所で外を見つめる足利義昭のAIによる想像図

追放によって室町幕府はどうなったか

1573年を室町幕府の滅亡年とする説明は、京都を拠点とした将軍の政務体制が続かなくなったことを区切りにしている。槇島城の降伏が合戦史だけでなく政治史の転換点とされる理由もここにある。詳しい時代の位置づけは、室町幕府滅亡の記事につながる。

ところが、追放された日をもって義昭が将軍でなくなった、とすると、その後の行動を説明できない。義昭は京都を離れてからも大名へ働きかけ、復帰を求めた。水野嶺の京都芸術大学講座概要も、足利氏が義昭の1588年の辞任まで将軍職を保ったことを明示している。

京都で政務を行う仕組みと、将軍の官職や権威は、同じ日にすべて消えたわけではなかった。義昭の権威を認め、文書を受け取り、復帰を支えようとする相手がいたからこそ、追放後にも政治活動が成り立ったのである。

一方で、義昭が将軍職を保持していたことを理由に、京都を失った影響を小さく見ることもできない。将軍が京都を拠点に命令を実行させる条件は、大きく変わった。槇島で失ったのは、京都で将軍として政務を続ける足場だった。

降伏後の退去を想起させる無人の居所。建物や調度を復元したものではないAIによる想像図

毛利輝元を頼った義昭は、1576年に鞆へ移った

義昭は槇島からすぐに毛利領へ送られたわけではない。河内や紀伊を経て、1576年に備後の鞆へ入った。現在の広島県福山市の鞆の浦にあたる港町である。槇島で敗れてから、約3年がたっていた。

広島県史年表

は、1576年2月8日に義昭が鞆へ下向し、同年5月13日より前に毛利輝元が義昭の入洛援助の要請に応じたことを載せる。輝元は、敗れた将軍が京都への復帰を求めるうえで重要な支援者となった。

毛利輝元の名が槇島城の戦いと一緒に語られるのは、とくにこの追放後の展開による。輝元が槇島城へ援軍を率いて来た、あるいは宇治川で信長と戦ったという意味ではない。戦いの参加者と、敗れた後の受け入れ先を分けると、義昭の移動が追いやすくなる。

備後の港近くの居所にいる若い毛利輝元のAIによる想像図

鞆を拠点とした義昭と幕臣の活動は「鞆幕府」と呼ばれる。京都を離れた将軍と幕臣が、なお政治活動を続けたことに目を向ける呼称である。義昭はその後、秀吉との関係を調整して帰京し、1588年に将軍職を辞した。

16世紀後半の鞆の港を思い描いたAIによる想像図。現在の港や当時の建物の実景ではない

通説と俗説の射程

この戦いを詳しく語る史料の一つが『信長公記』である。軍の移動や諸将の名、降伏の経緯を追える一方、牛一は義昭の行動を非難し、信長が命を助けたことを強調する。そこから「義昭は愚かで、信長は一方的に寛大だった」という人物評まで引き出すと、史料の語り口を繰り返すことになってしまう。

宇治市の報告書は『兼見卿記』や『二条宴乗記』などの記述も史料年表に整理している。城の所在を論じる発掘成果と、行動の日付を記す文献を合わせて見ることで、軍記の一続きの物語だけでは捉えきれない部分が残る。史料が増えれば、必ず一つの細密な復元図が完成するわけでもない。

兵力の数字にも注意がいる。今回確認した史料からは両軍の総数を同じ時点で確定できない。『信長公記』に見える戦果の数字も、城から出た兵との交戦に関する記述で、戦い全体の死者数ではない。そのため、ここでは「何万対何千」という固定した比率で勝敗を説明しない。

確かに追えるのは、春の和議、7月の再対立、宇治川の渡河、義昭の降伏と京都退去という順序である。同じ年の一乗谷の戦い、小谷城の戦いへ進むと、信長を取り巻いた戦局がさらに変わっていく。戦国時代の年表では槇島での決着をその流れの中に置いて確かめられる。

両軍の対比

織田方

織田信長

大将:織田信長
総兵力総兵力は確定できない
出陣京都から宇治へ進軍
川上の部隊稲葉一鉄ら
川下の部隊佐久間信盛・蜂屋頼隆・丹羽長秀ら
攻撃の経過渡河後に槇島へ進み城外の兵と交戦
城を攻め、義昭を降伏させる
義昭方

足利義昭

大将:足利義昭
総兵力総兵力は確定できない
出陣槇島城
立場室町幕府15代将軍
降伏条件子を人質に出す
降伏後京都を離れて河内へ
義昭が降伏し、京都での政務体制を失う
vs

戦況の経過

1573年2月
信長方が義昭方の近江石山・今堅田を攻撃する。以下の月日は旧暦。
4月6日
春の対立はいったん和議に至る。武田信玄の死去より前の出来事。
7月3日
義昭が槇島城へ移る。『信長公記』による日付。
7月16日
信長が五ケ庄の柳山へ進み、宇治川を越える攻撃を命じる。
7月18日
巳の刻ごろ
川上と川下の部隊が渡河。槇島城への攻撃を受け、義昭は子を人質に降伏する。
降伏後
義昭は羽柴秀吉の警護で河内へ退き、若江へ送られる。

その後の世界

1573年
京都を拠点とした室町幕府の政務体制が失われる。同年8月には朝倉氏が滅び、浅井氏も小谷城で敗れる。
1576年
義昭が備後の鞆へ入り、毛利輝元らの支援で京都への復帰を求める。
1588年
義昭が将軍職を辞する。京都追放からは約15年後のこと。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』巻六(春の対立、真木島への移動、渡河と降伏)
    Wikisource(1881年甫喜山景雄刊本の翻刻)参照日 2026-10-29
  2. 水野嶺「戦国期足利将軍と大名」講座概要(2022年)
    京都芸術大学 藝術学舎参照日 2026-10-29
  3. 天正(精選版日本国語大辞典ほか)
    小学館/コトバンク参照日 2026-10-29
  4. 朝倉氏の歴史
    福井県立一乗谷朝倉氏遺跡博物館参照日 2026-10-29
  5. 武田神社(由緒沿革、武田信玄の没年と没日)
    山梨県神社庁参照日 2026-10-29

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-31

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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