室町幕府滅亡室町幕府滅亡
1573年、織田信長が将軍足利義昭を京都から追放し、約240年続いた室町幕府が事実上滅亡した。
背景:信長と義昭の協力関係から決裂へ
永禄十一年(1568)、織田信長は足利義昭を奉じて京都に上洛し、義昭を第十五代将軍に就任させた。しかし信長は将軍を傀儡とする意図を当初から持っており、義昭の公家・大名への書状発給などを事実上制限する「殿中御掟」を課した。信長は名目上は幕府再興の功臣として振る舞いながらも、実権はすべて自らに集中させた。義昭はこの従属的な立場に強い不満を抱いていた。
元亀元年(1570)頃から義昭は反信長の動きを活発化させた。武田信玄・上杉謙信・朝倉義景・浅井長政・石山本願寺など信長と対立する勢力と密かに連絡を取り、「信長包囲網」を形成しようとした。義昭は諸大名に信長打倒を促す御内書(将軍の書状)を送り、元亀四年(1573)には武田信玄の西上作戦と呼応して公然と反信長の姿勢を示した。しかし天正元年四月に武田信玄が信濃で病没すると、義昭の最大の後ろ盾が消えた。
経緯:槙島城の戦いと義昭の追放
武田信玄の死後まもなく、天正元年(1573)七月、義昭は信長打倒を掲げて槙島城(現京都府宇治市)で挙兵した。しかし信玄という最大の後ろ盾を失った義昭の挙兵は孤立無援であり、信長は即座に大軍を率いて上洛した。義昭が籠もる槙島城は小城であり、兵力の差は歴然としていた。包囲された義昭は数日で降伏を余儀なくされた。
信長は義昭を殺さず、河内に所預として渡したのち、備後の鞆(現広島県福山市鞆の浦)へ退去させた。信長は義昭の息子を手元に置き、表向きは幕府を「空席」のまま放置する形を取った。義昭は生涯将軍の地位を保ち続けたが(天正十六年・1588年に将軍職を辞するまで)、京都から追放された時点で室町幕府は実質的に機能を停止した。また信長はこの年に元号を天正へと改元することを推進し、新しい時代の到来を印象づけた。
影響:240年の幕府終焉と信長の自立
室町幕府の滅亡は、足利尊氏が建武三年(1336)に幕府を開いて以来、約二百四十年に及ぶ支配の終わりを意味した。応仁の乱以来、実質的な権威を失いながらも形式的に続いてきた将軍家の統治が、ここで完全に停止したのである。
鞆の浦に逃れた義昭は毛利氏の庇護の下で再起の機会を探り続けた。天正六年(1578)には信長打倒のため上杉謙信に期待をかけたが、謙信はこの年に急死している。結局義昭は一度も京都に戻ることなく、天正十六年(1588)に将軍職を辞して出家した。室町幕府は名実ともに歴史の舞台から退場した。
信長にとって義昭の追放は、将軍の名義を使わずに「天下人」として自立する宣言でもあった。以後の信長統治は信長個人の権威に基づく新たな政治体制への移行を示すものであり、「天下布武」が将軍の権威を借りることなく実現される道が開かれた。この転換こそ、戦国時代の政治的意味での本質的な画期であったといえる。
室町幕府の約二百四十年間を振り返ると、足利尊氏が開いた将軍家の権威は、三代義満の頃に最高潮に達し、以後は徐々に弱体化した。六代義教の頃から守護大名への統制が緩み、応仁の乱を経て将軍は形式的な存在に成り下がった。義昭の追放は室町幕府の「公式の終焉」であるが、実態としての幕府機能はすでに十数年前から失われていた。この点で室町幕府の滅亡は一日で起きた出来事ではなく、長期的な権威失墜の過程の帰結として理解する必要がある。天正元年(1573)の義昭追放はその最終確認であり、信長の時代という新章の始まりを告げるものであった。
室町幕府が滅んだ場所である槙島城(現京都府宇治市)は現在ほとんど遺構が残っていないが、宇治市には槙島城跡の石碑が建てられている。足利義昭が晩年を過ごした備後の鞆の浦(現広島県福山市)は、後に坂本龍馬の「いろは丸事件」の舞台ともなる歴史的な港町として現在も残っている。幕府が消えた後、信長・秀吉・家康へと続く天下人の系譜が始まり、日本は近世国家への移行を本格的に歩み出した。足利義昭という人物の数奇な運命と室町幕府の長い歴史は、戦国時代という激動期を理解する重要な視点を提供してくれる。