信長上洛信長上洛
政治永禄十一年

信長上洛

1568年、織田信長が足利義昭を奉じて京都に入り、室町幕府の再興を果たす。天下布武の本格的開始。

9月

背景:義昭の流浪と信長との連携

永禄八年(1565)五月、室町幕府第十三代将軍・足利義輝が三好三人衆と松永久秀の軍勢に二条御所で討たれた(永禄の変)。義輝の弟で興福寺の僧であった覚慶(後の義昭)は奈良を脱出し、近江の六角氏、越前の朝倉義景らを頼りながら将軍就任への機会を模索した。しかし各地の大名は幕府再興への動きに積極的ではなく、義昭の求めに応じる者はなかなか現れなかった。義昭が流浪する三年間、将軍家の権威がいかに地に落ちていたかを物語っている。

永禄十年(1567)頃から義昭は織田信長に接触し、協力を求めた。信長はすでに美濃国を平定し、岐阜城に入城して「天下布武」の印章を使い始めていた。義昭を奉じて上洛することは、信長にとって天下統一という大義名分を得る絶好の機会であった。義昭には「将軍になること」という目的があり、信長には「上洛の大義名分」が必要であった。両者の利害は一致し、信長は義昭を奉じての上洛を決断する。

経緯:大軍を率いた上洛と京都掌握

永禄十一年(1568)九月、織田信長は足利義昭を奉じて上洛軍を起こした。兵力は約六万とも言われる大軍であった。進路上にあった近江の六角義賢(承禎)は観音寺城を放棄して逃走し、三好三人衆も阿波へと撤退した。信長の圧倒的な軍勢を前に有効な抵抗はできず、九月下旬には京都が制圧された。足利義昭は第十五代将軍に就任し、信長は将軍を支える「天下人」として名実ともに京都の実力者となった。

信長は上洛後、朝廷に対しても積極的に働きかけた。禁裏(皇居)の修繕費を献上し、朝廷儀礼の支援を通じて天皇・朝廷との友好関係を築いた。信長の目的は、将軍の権威に代わる新たな権威の源泉として皇権を活用することにあったとも解釈される。信長は「天下布武」の印章を使い続けることで、将軍の後ろ盾なしに「天下を布武(武力で治める)」という自らの使命を明確に宣言した。

影響:天下統一へのスタートと反信長勢力の結集

上洛による実績は信長の権威を大きく高め、全国の大名に対して強い影響力を持つ存在としての地位を確立させた。信長は以後、岐阜を拠点としながら京都を実効支配し、将軍義昭を傀儡として政治的権威を利用しつつ勢力圏を拡大した。

しかし上洛による急速な台頭は、周囲の大名たちに強い危機感を与えた。越前の朝倉義景・近江の浅井長政との対立(元亀元年・1570年の姉川の戦い)、石山本願寺との長期の争い、元亀三年(1572)の武田信玄の西上作戦など、上洛後の信長は各地での戦いを続けた。義昭が形成しようとした「信長包囲網」は、信長の急膨張に対する反動として生まれたものであり、永禄十一年の上洛がもたらした新たな政治的緊張の反映であった。それでも信長は包囲網を一つずつ崩していき、天正元年(1573)の義昭追放によって室町幕府を事実上廃し、天下統一への道を切り開くことになる。

永禄十一年の上洛は、信長の個人的な権力伸長という側面にとどまらず、戦国時代の政治構造を根本から変える出来事であった。それまで「天皇・将軍・管領」という三段階の権威体制で成り立っていた日本の政治秩序が、この上洛を契機として「実力者による直接支配」へと移行する道筋が開かれた。信長は上洛後も既存の権威体制を完全に否定することなく利用しながら、自らが実質的な権力の中枢となる体制を着実に構築していった。この巧みな政治的手法こそ、信長が単なる「暴力の支配者」ではなく、新しい国家秩序の設計者であったことを示している。

なお信長が上洛の拠点として利用した岐阜城は現在も岐阜市の金華山山頂に天守が復元されており、「天下布武」の出発点として観光名所となっている。永禄十一年の上洛を経て信長が整備した京都二条城(後の二条御所)の跡地は現在の京都市内に位置し、信長が京都で展開した政治的活動の舞台を今に伝えている。足利義昭を擁した上洛から約五年後の天正元年(1573)、信長は義昭を追放して室町幕府を終わらせた。わずか五年でここまでの政治的変革を遂げた信長の行動力は、後世に「革新者」としての評価を不動のものにしている。