キリスト教伝来キリスト教伝来
1549年、イエズス会宣教師フランシスコ・ザビエルが鹿児島に上陸。日本にキリスト教が伝えられた。
背景:イエズス会の東洋布教とザビエルの決意
十六世紀前半、カトリック教会はプロテスタント宗教改革の挑戦を受け、教勢の立て直しと新天地への布教拡大を急いでいた。この時代に創設されたイエズス会(1534年、イグナティウス・デ・ロヨラらによる)は、教皇直属の布教組織として東洋への伝道に積極的に取り組んだ。フランシスコ・ザビエルはこのイエズス会の創立メンバーの一人であり、ポルトガル王の後援を受けてインド布教に向かった。
ザビエルはゴア(現インド)を拠点として布教活動を展開していたが、マラッカで出会った日本人・弥次郎(ヤジロウ)から日本についての情報を得た。弥次郎は薩摩の出身で、殺人事件を起こして日本を逃れてきた人物であったとも伝えられる。ザビエルは弥次郎から日本人の高い知性と学習への意欲を聞かされ、日本こそ最良の布教地であると確信して日本行きを決意した。弥次郎はザビエルとともに日本に渡り、通訳として布教を支えることになる。
経緯:鹿児島上陸から約二年三ヶ月の布教活動
天文十八年(1549)八月、フランシスコ・ザビエルは弥次郎とともに鹿児島に上陸した。薩摩の島津貴久は当初ザビエルらを歓迎し布教を許可した。鹿児島では約百人の信者を獲得したとされるが、在地の仏僧たちから強い反発を受け、島津氏は翌年布教を禁じた。
ザビエルは肥前の平戸に移り、さらに周防(現山口県)の大内義隆のもとに赴いた。義隆は貿易の利益を見越してザビエルを手厚く迎え、布教を許可した。山口では約五百人の信者を得たとされる。ザビエルは正親町天皇への謁見と将軍への拝謁を求めて京都に向かったが、当時の京都はすでに荒廃しており謁見はかなわなかった。豊後(現大分県)の大友義鑑(宗麟の父、あるいは宗麟自身とも)のもとへ赴いたザビエルは歓迎を受けて布教を続けたが、天文二十年(1551)十一月に日本を離れてインドに帰還した。日本滞在期間は約二年三ヶ月、その間に獲得した信者は七百人から一千人程度とされる。ザビエル自身はその後インドで病没(1552年)し、日本に再び戻ることはなかった。
影響:キリシタン大名の誕生と南蛮文化の受容
ザビエル帰国後もイエズス会の布教活動は続き、コスメ・デ・トーレス、ルイス・フロイスなど後継者たちが日本各地で精力的に宣教した。南蛮貿易と結びついたキリスト教は九州の大名たちに急速に広まり、大友宗麟・大村純忠・有馬晴信の三人は「洗礼を受けた大名」すなわちキリシタン大名として知られるようになった。大村純忠は長崎をイエズス会に寄進するという異例の行為に及んだ。
天正十年(1582)には大村純忠らの推薦で伊東マンショら四人の少年使節(天正遣欧使節)がローマに派遣され、教皇グレゴリウス十三世に謁見した。日本人として初のヨーロッパ公式訪問であったこの使節は、日本とヨーロッパの相互認識を深める画期となった。南蛮文化を通じて日本にもたらされたものはキリスト教信仰だけでなく、西洋医学・天文学・印刷術(グーテンベルク式活版印刷がキリシタン版として伝来)・絵画技法など多岐にわたり、戦国末期から安土桃山時代の文化に広く影響を与えた。豊臣秀吉によるバテレン追放令(1587)、江戸幕府による禁教令(1612-1613)で布教は弾圧されるが、キリスト教がもたらした文化的影響は日本の思想・美術・語彙の中に今日まで痕跡を留めている。
ザビエルが上陸した鹿児島には現在も「ザビエル公園」があり、ザビエルの像や記念碑が設けられている。また山口市には「サビエル記念聖堂」があり、ザビエルが布教した地として多くの観光客が訪れる。ザビエルが日本に滞在した約二年三ヶ月という期間は短かったが、その後の日本とキリスト教の関係—繁栄と迫害、隠れキリシタンの存在、明治以降の再布教—の起点となった。禁教時代に信仰を守り続けた「隠れキリシタン」の文化は、長崎県の離島(天草・五島列島・平戸)に今も受け継がれており、2018年にはユネスコの世界文化遺産に登録された。天文十八年(1549)のザビエル来日は、日本とヨーロッパの出会いの始まりとして、その長い歴史的影響を現代まで及ぼしている。