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天王寺の砦と救援に向かう軍勢の想像図。地形・建物・人物は復元ではない。(AI生成イメージ)
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合戦KASSEN

天王寺砦の戦い|1576年、信長と本願寺の攻防をわかりやすく解説

天王寺砦の戦いは1576年、木津攻めで塙直政が戦死し、包囲された明智光秀らを織田信長が救援した戦い。砦の場所、参戦武将、雑賀衆との関係をたどり、兵力差や信長の負傷を『信長公記』の記述から読み解く。

1576年1576年5月3日〜7日(旧暦)摂津国・木津〜天王寺(現大阪市)勝 織田方(5月7日の砦救援)敗 本願寺方(天王寺の包囲を突破される)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
天正4年
1576年
石山合戦の一局面
木津攻めの敗戦
5月3日
旧暦・塙直政が戦死
天王寺砦の救援
5月7日
旧暦・本願寺攻めは継続

この戦いの要点

  1. 攻め手から籠城へ

    木津攻めに敗れた織田方は、明智光秀らの守る天王寺砦を包囲される。

  2. 信長自身が救援

    5月7日、信長は救援軍を率いて砦に入り、籠城していた味方と合流した。

  3. 陸と海の包囲は続く

    砦の危機は去ったが本願寺は落ちず、同年7月には木津川口の海戦が起こった。

天王寺砦の戦いとは

本願寺を攻めるための砦が逆に包囲された。天王寺砦の戦いは天正4年(1576)5月、摂津国の大坂本願寺周辺で起きた織田方と本願寺方の戦いである。 5月3日の木津攻めで塙直政が戦死し、天王寺砦を守る明智光秀らも危機に陥った。 5月7日、織田信長が救援軍を率いて包囲を破る。

勝敗を一言でいえば、5月7日の救援は織田方の成功だった。ただし、石山本願寺がこの日に落ちたわけではない。救われたのは織田方の砦であり、本願寺との戦争はその後も続いた。

この記事の月日はすべて旧暦で表す。「天王寺の戦い」とも呼ばれるが、1615年の大坂夏の陣における天王寺・岡山の戦いとは別の戦いだ。十年間にわたる戦争の全体像は、石山合戦でたどれる。

天王寺砦はどこにあったのか

戦場を理解するには、本願寺、天王寺砦、木津を分けて見るとよい。本願寺は上町台地の北部にあり、天王寺はその南に広がる地域だった。台地の西側には、水路を通じて海へ出る道があった。

拠点おおよその位置この戦いでの役割
大坂本願寺(石山本願寺)現在の大阪城周辺。正確な伽藍の位置は未確定本願寺方の本拠
天王寺砦本願寺の南、上町台地西縁の天王寺地域織田方の包囲拠点。木津攻めの敗戦後は救援対象となる
木津天王寺の西側にあたる水路・海への出口に近い地域本願寺への海上輸送を断つために織田方が攻めた方面

では、天王寺砦の跡を現在の地図で一点に示せるのだろうか。大阪歴史博物館の『大阪市の中世城館』は、主に二つの候補地を検討している。

候補地推定の根拠注意する点
月江寺付近近世の地誌や城址の考証、周囲の谷地形後世の記録を、1576年当時の城域図とは扱えない
伶人町付近「北ノ丸」「中ノ丸」「南ノ丸」などの小字と台地西縁の地形地名や発見された遺構のすべてが、信長の砦に結び付くとは限らない

同じ天王寺地域には、異なる時代に複数の城や陣地が置かれた。そのため、四天王寺や茶臼山の名が史料に出るだけで、信長の砦の位置を確定することはできない。ここでは候補地の違いを示すにとどめ、正確な城域や部隊の配置図は描かない。

戦いの背景にあった石山本願寺と信長包囲網

本願寺顕如が率いる大坂本願寺と信長は、1570年から交戦していた。本願寺の力は寺の中にいる僧侶だけで成り立っていたわけではない。各地の門徒や地域の武士らによる一向一揆浄土真宗本願寺派の門徒(一向宗徒)による武装蜂起。戦国大名の脅威となり、織田信長との十年戦争で知られる。、周辺の戦国大名との関係が、戦争を支えていた。

「信長包囲網」という言葉は、こうした各地の対立をまとめて説明するときに使われる。ただし、参加した勢力がいつも一つの命令で動いていたわけではない。 1576年の大坂の戦場も、陸の砦、海からの補給、各地の政治的な働きかけが重なっていた。

足利義昭もその背景に関わる人物である。京都を追われた義昭は、1576年に備後の鞆へ移り、毛利氏を頼って反信長の活動を続けた。ここで確認できるのは政治的な関与であり、義昭本人が天王寺で軍を率いたという話ではない。

『信長公記』巻九によれば、同年4月、織田方は本願寺の周囲に兵を配置した。荒木村重は野田、明智光秀や細川藤孝は森口方面、塙直政は天王寺を担当する。狙いは、本願寺に通じる道をふさぐことだった。だが、海につながる木津方面には、まだ本願寺方の拠点が残っていた。

5月3日の木津攻めと塙直政の戦死

木津攻めを担ったのが、塙直政である。原田姓を用いており、『信長公記』には「原田備中」として登場する。塙直政と原田直政を、別々の指揮官として数えてはいけない。

木津攻め前の陣地に立つ塙直政の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

同書では、5月3日の早朝、三好康長(笑岩)や根来・和泉の衆が先に進み、直政と大和・山城の軍勢が続いたとされる。本願寺方は大坂や楼の岸から兵を出し、鉄砲を用いて反撃した。先に進んだ部隊が崩れると、直政の軍勢も敵を受け止めきれず、直政は戦死した。

この敗死は、『多聞院日記』を典拠とする宇治市の『槇島城跡発掘調査報告書』の年表にも見える。織田方の記録だけに現れる出来事ではない。ただし、部隊の順序や細かな戦闘の描写は、主に『信長公記』に沿っている。

木津方面の水辺で鉄砲を構える兵たちの想像図。正確な戦場の復元ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

木津を攻める軍が敗れたことで、天王寺砦も孤立する。本願寺への道を断とうとした織田方が、今度は味方の砦への道を開く必要に迫られた。

明智光秀らの籠城と、5月7日の信長救援

天王寺砦には、明智光秀や佐久間甚九郎らが残されていた。甚九郎は佐久間信盛の子・信栄(正勝)である。救援軍に加わる父の信盛とは別人で、賤ヶ岳の戦いで知られる佐久間盛政とも異なる。

天王寺砦の柵のそばに立つ明智光秀の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

『信長公記』は、籠城する側から信長へ、長くは持ちこたえられないとの知らせが届いたと伝える。信長は5月5日に出発し、河内の若江へ入った。翌日も軍勢を集めたが、十分にそろうまで待つ余裕はないと判断したという。

木柵の内側で警戒と鉄砲の準備を続ける守備兵の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

5月7日、織田信長は軍を三段に分け、住吉口から天王寺へ進んだ。同書が描くのは、信長自身も足軽に交じって進む救援である。途中で足に鉄砲傷を負ったとされるが、そのまま砦へ入り、味方との合流を果たした。

救援後の天王寺砦の門前に立つ織田信長の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

戦いは砦へ入ったところでは終わらなかった。本願寺方の軍勢がなお退かなかったため、織田方はさらに攻めかかる。『信長公記』は本願寺側の城戸口まで追い詰めたと記す。砦の孤立を解いたうえで、周囲の敵を押し返した。それが、この日の救援の成果だった。

救援に加わった武将と雑賀衆

信長の突進だけで戦いを描くと、救援を支えた諸将の役割が見えにくくなる。『信長公記』巻九は、5月7日の陣立を次のように記している。これは同書が伝える配置であり、各人の細かな武功まで分かる名簿ではない。

武将同書に見える役割
佐久間信盛救援軍の先陣。戦後は天王寺の在番にも名がある
松永久秀信盛らとともに先陣に列し、その後の在番にも加わる
細川藤孝「永岡兵部太輔」として先陣に記される
羽柴秀吉第二陣に加わる。当時は豊臣姓ではない
丹羽長秀「惟住五郎左衛門」として第二陣に記される
滝川一益「滝川左近」として第二陣に加わる
稲葉一鉄「稲葉伊予」として第二陣に加わる
荒木村重先陣を命じられたが受けず、木津口の押さえを申し出る

本願寺を支えた勢力としては、紀伊の雑賀衆も欠かせない。雑賀衆は現在の和歌山市周辺を拠点とし、鉄砲を用いた戦いで知られる人々だった。石山合戦後半の本願寺を支え、同じ1576年の木津川口の海戦でも本願寺方に加わった。

ただし、集団としての活動から、一人の人物の武功を決めることはできない。和歌山市の紹介にある孫一の海戦での活動も、5月7日の天王寺にそのまま移せる話ではない。信長を撃ったのが雑賀孫一だったと、ここで用いた史料から特定することはできない。

通説と俗説の射程:兵力差と信長の負傷

「三千で一万五千を破った」という説明は、何を数えた数字なのだろうか。『信長公記』は5月7日の信長側を約三千、相手を約一万五千と記している。救援時の不利な兵力差を強調する記述だが、双方の兵を同じ方法で数えた名簿ではない。木津攻めに参加した兵や周辺の砦の兵を含む、全戦線の総動員数とも区別する必要がある。

数字をそのまま割れば五対一になる。しかし、それだけで一人の兵が五人を倒したことにも、全兵力が一斉に正面衝突したことにもならない。「少数で救援した」と伝える史料の特徴を読み取りつつ、正確な兵力比が確定したとは考えない。

信長の負傷も、同書の記述が根拠である。足に鉄砲傷を負い、傷は軽かったとされる。そこから、左右どちらの足だったか、誰がどこから狙ったか、弾がどのように当たったかまでは分からない。負傷の記録と、後から付けられた狙撃の物語を分けておきたい。

信長に近い立場の太田牛一が記した史料だからこそ、行動の具体像を知ることができる。同時に、信長の決断や武勇を際立たせる叙述として読む必要もある。兵力差や負傷を外しても、木津での敗戦後に信長が出陣し、天王寺の危機を切り抜けたという経過は残る。

戦後の包囲と佐久間信盛:木津川口の戦いへ

信長は天王寺を手放さず、佐久間信盛らを置いて本願寺攻めを続けた。『信長公記』は本願寺の周りに十か所の付城を置いたと記す。付城とは相手の城を監視し、攻めるために設ける拠点のことだ。

大阪歴史博物館の報告書は、信長が平野の住民へ、天王寺の城の門や堀などの工事を命じた文書も紹介している。救援の後も、砦を維持し、兵を置く仕事が続いたことが分かる。

本願寺包囲のため木柵や土塁を整える人々の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

それでも、陸の拠点を守るだけでは本願寺への物資は止まらない。同年7月、第一次木津川口の戦いで織田方の水軍が敗れ、毛利方などが本願寺へ物資を運び込んだ。 5月に天王寺で押し返された本願寺方は、海から支援を受けて持ちこたえたのである。

本願寺勢が大坂を退去するのは、講和を経た1580年だった。

石山合戦の全経過と戦国時代の年表を合わせて見ると、天王寺の救援は、長い戦争の途中で織田方が取り戻した一つの拠点だったことが分かる。

両軍の対比

織田方

織田信長

大将:織田信長
総兵力約3,000(『信長公記』の5月7日救援軍)
出陣若江から天王寺の救援へ
籠城明智光秀・佐久間信栄ら
木津攻め塙直政ら(5月3日に敗戦)
兵力の注意全戦線の総数ではない
砦への合流・救援に成功
本願寺方

大坂本願寺の軍勢

大将:大坂本願寺の軍勢
総兵力約15,000(『信長公記』の5月7日包囲勢)
出陣大坂本願寺・周辺の出城
木津方面5月3日に織田方を撃退
兵力の注意織田方史料の数字。実数の確定はできない
天王寺の包囲は破られるが、本願寺は持ちこたえる
vs

戦況の経過

本願寺を包囲する配置
1576年4月(旧暦)
荒木村重は野田、明智光秀・細川藤孝らは森口方面、塙直政は天王寺を担当する。『信長公記』巻九による。
木津攻めが敗戦に転じる
5月3日(旧暦)
塙直政らが木津方面を攻めたが反撃を受け、直政は戦死。光秀らの天王寺砦も包囲された。
信長が救援へ出発
5月5日(旧暦)
信長は若江へ向かう。『信長公記』は、兵が十分集まる前に出撃を決めたと記す。
天王寺砦へ合流
5月7日(旧暦)
信長の軍勢は住吉口から進み、包囲を突破して砦の味方と合流。さらに本願寺側へ攻めかかった。

その後の世界

1576年5月以降
信長は佐久間信盛らを天王寺に置き、本願寺周辺の付城による包囲を続ける。
1576年7月
第一次木津川口の戦いで織田方の水軍が敗れ、本願寺へ海上から物資が運び込まれた。
1580年
朝廷の仲介による講和を経て、本願寺勢が大坂を退去する。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』巻九(天正4年4月〜7月条)
    Wikisource(明治14年刊本の翻刻)参照日 2026-10-31
  2. 「天王寺城跡」『日本歴史地名大系』(公開部分)
    平凡社/コトバンク参照日 2026-10-31
  3. 金龍静「石山戦争」『日本大百科全書』
    小学館/コトバンク参照日 2026-10-31
  4. 鞆の浦の歴史
    福山市参照日 2026-10-31
  5. 佐久間正勝筆書状(信栄の人物解説)
    慶應義塾センチュリー赤尾コレクション参照日 2026-10-31
  6. 「佐久間盛政」辞典各項
    コトバンク参照日 2026-10-31
  7. 石山本願寺推定地
    大阪市中央区オフィシャル地域情報ポータル参照日 2026-10-31

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-31

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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