塙直政は、信長の畿内支配を実務と軍事の両面から支えた武将である。 原田直政とも呼ばれ、山城の槇島城と大和の多聞山城を拠点とした。 長篠では鉄砲衆の指揮を任され、天正4年、1576年には本願寺を包囲する軍の一角を担う。 その最期は、天王寺から木津方面へ進んだ軍勢が押し返された5月3日の戦いだった。
華々しい合戦の間にも、直政の仕事は続いていた。 京都の寺社に命令を伝え、宇治の商人に働きかけ、地域の武士を軍勢にまとめる。 残された記録を追うと、信長が各地で勝った後、その土地をどう動かしていたのかが見えてくる。
信長の命令を、都で動かす

塙直政は、信長の命令を都の現場へ届ける役目から、畿内の軍勢を率いる立場へ進んだ武将である。長篠で鉄砲衆を指揮し、本願寺との戦いで命を落とす。しかし、その働きは合戦場だけでは見えてこない。寺の土地を守り、商人の往来に関わり、軍勢の乱暴を止めることも、直政が担った仕事だった。
元亀年間、直政は京都を支配する織田方の実務に携わっていた。信長が上洛しても、寺院の所領争いや、兵の宿泊をめぐる負担が消えるわけではない。誰が訴えを受け取り、どこまで認め、誰に実行させるのか。命令を出す者と、現地でそれを通す者の両方が必要だった。
直政は村井貞勝や松井友閑らとともに、その仕事を引き受けた。元亀4年、1573年には東寺に関わる軍勢の宿泊や乱暴を抑える命令にも名を連ねる。信長に仕える武将の仕事には、味方の兵を相手に禁令を守らせる役目も含まれていたのである。
同じ年、信長と将軍足利義昭の対立が深まると、直政は義昭への使者も務めた。相手は都の一寺院から、室町幕府の将軍へと変わる。武力衝突のさなかにも交渉の窓口は必要であり、直政は信長側の意思を伝える位置にいた。
義昭の追放によって、織田方が都で負う責任はいっそう大きくなった。将軍との関係を調整していた直政も、山城の地域支配へ深く関わっていく。戦場での一度の大功だけでは説明できない出世だった。日々の交渉と命令の積み重ねが、その前にある。
槇島城から、宇治の町へ

天正2年、1574年、直政は山城の支配を担い、宇治の槇島城を拠点とした。都の中で訴えを処理していた武将が、今度は城を持って地域に向き合う。槇島は前年に義昭が信長と戦った場所でもあり、織田方にとって放置できない地点だった。
宇治には川の流れがあり、陸の道が通り、人と荷が集まった。城に軍勢を置くだけでは、その土地は動かない。荷を運ぶ商人、川を利用する人々、寺社や周辺の村と折り合いをつけて初めて、拠点を維持できる。直政の仕事は、城の外へ伸びていた。
宇治の上林氏に宛てた直政の書状には、商人の荷物、陸路と川の通行、宿をめぐる支配の指示が見える。信長が上林氏に任せた権限を、直政の文書が現地へ伝えていた。軍勢を動かす政治と、町で商いを続けさせる政治は、同じ土地の上で進んでいたのである。
もっとも、山城の政治がすべて槇島一城へ集まったわけではない。京都では村井貞勝らが働き、ほかの織田家臣もそれぞれの役目を持った。直政はその中で、とくに南山城に関わる重要な持ち場を受け持った。信長の畿内支配は、一人に丸ごと任せる仕組みではなかった。
槇島城は、直政の名を地域の人々が意識する拠点となった。一方で、信長の家臣である以上、城にとどまっているだけでは済まない。次の戦役では軍勢を出し、戻れば訴えや命令に対応する。直政の役目は、地域を治める時間と、そこから出陣する時間の往復で成り立っていた。
多聞山の城と、高屋の城

天正3年、1575年には、直政の担当が大和へも広がった。奈良の多聞山城を拠点とし、筒井順慶ら在地の武士を織田方の軍事体制に組み込む立場に就く。山城と大和は隣り合うが、それぞれに寺社や有力者がいた。同じ命令を一枚送れば片づく土地ではなかった。
多聞山城は、奈良の町を見下ろす丘にあった。付近には大寺院が並び、京都へ通じる街道も延びる。ここに織田方の拠点を置くことは、兵を収容するだけでなく、地域の有力者に信長の支配を意識させる意味を持った。直政は城とともに、土地に根を張る人々との関係も引き受けた。
その春、直政は河内の戦いにも動いた。信長は三好康長の高屋城を攻め、康長は降伏する。そこで直政に命じられたのが、高屋城をはじめとする河内の城の破却だった。占領した城を次々と自分のものにするのではなく、不要になった軍事拠点を壊す役目である。
城を受け取る者と、城を壊す者。その両方が直政だった。多聞山では織田方の足場を固め、河内では抵抗の足場となる城を取り除く。信長の軍事的な勝利は、こうした作業を経て地域の支配へ変わっていった。
ただし、戦勝の後にも寺社の所領や権利をめぐる仕事は続く。同年の書状には、直政が村井貞勝や松井友閑らと並んで、寺院の土地に関わる命令を出した例が残る。大和を担う地位に就いても、京都以来の実務から離れたわけではない。担当する土地が増え、戦役への動員も重なる中で、直政の名は軍事と行政の両方に現れるようになった。
鉄砲を預かる五人の一人

河内での戦いに続き、天正3年5月、信長は三河へ向かった。長篠城を攻める武田勝頼を迎え撃つためである。山城と大和に持ち場を持った直政も、この大きな戦役に加わった。
『信長公記』は、鉄砲を扱う部隊の奉行として五人の名を挙げる。佐々成政、前田利家、野々村正成、福富秀勝、そして塙九郎左衛門である。直政は、長篠で信長が用いた鉄砲衆を率いる一人に数えられていた。
奉行とは、ここではその仕事を預かり、実行を取りまとめる役目を指す。鉄砲を自分で一挺撃つことと、多くの射手を動かすことは違う。誰をどこに置き、いつ動かし、どう命令を届けるか。直政に任されたのは、兵器と兵を部隊として働かせる側の仕事だった。
相手を率いた勝頼は、織田・徳川の陣へ攻撃をかけた。織田方は馬防柵を設け、地形と鉄砲を用いてこれを迎える。戦いは武田方の敗北に終わった。直政の役割を考えるときに大事なのは、後世に名高い鉄砲戦の場面で、五人の担当者の一人として名が残っていることである。
京都の寺社と交渉した経験と、長篠の射手を動かす任務は、一見すると遠く見える。それでも、命令を人に伝え、持ち場を割り当て、実際に動かす点ではつながっていた。直政は、政務だけを担う留守役ではなかった。信長の大規模な合戦にも連れ出される指揮役であり、その後も各地への出陣が続く。
新しい名で、越前へ進む

天正3年の直政は、戦場を移るだけでなく、名乗りも変えている。この年の夏には原田備中守を称し、信長からの文書でもその名で扱われた。塙九郎左衛門と原田備中守は、別々の武将ではない。畿内の実務と各地への出陣を重ねた、同じ人物の足跡である。
長篠の勝利から間もない8月、信長は越前の一向一揆を攻めた。直政も軍勢に加わる。『信長公記』の越前攻めの記述では、すでに原田備中守の名が使われている。京都や奈良の持ち場を持ちながら、遠く北陸の戦役へも動員されたのである。
この戦いで直政に与えられた命令には、降伏を願い出た者たちの処刑もあった。勝利を語るときに、その役目を外すことはできない。信長の命令を実行する立場は、商人を保護し寺の土地を守るだけでなく、敗れた人々に死をもたらす側にも直政を置いた。
越前の制圧を進める信長にとって、抵抗する勢力を排除することと、その後の支配を整えることは続きの仕事だった。直政も、その過程に組み込まれていた。地域の有力者をまとめる働きと、敵対した者を処罰する働きは、当時の織田家臣の職務の中で切り離されていなかった。
その年の後半には、原田備中守の名が寺院に関わる連署文書にも現れる。戦役の記録から戻って書状を追うと、直政が再び行政の現場で働いていることが分かる。畿内に根を下ろしつつ、信長の軍勢とともに各地へ出る。この兼務が直政の地位を形づくり、翌年の本願寺攻めでも、その軍事的な責任を重くすることになった。
南から大坂を押さえる

天正4年、1576年、信長と本願寺の戦いが再び激しくなった。顕如を頂く本願寺は、大坂を拠点に織田方へ抵抗していた。信長はその周辺に軍勢を配置し、本願寺へ出入りする人と物を押さえようとした。
『信長公記』によると、4月14日、荒木村重は野田方面へ、明智光秀と細川藤孝は守口・守河内方面へ配された。直政が受け持ったのは、南側の天王寺である。各軍が異なる持ち場から、本願寺の動きを封じる配置だった。
直政の下には、大和と山城の軍勢が集まった。京都での実務、槇島城を拠点とする支配、大和の有力者をまとめる役目が、この軍勢の編成に結びつく。天王寺の直政は、一隊を率いて遠征してきただけではない。自分の担当する地域から集めた兵を伴って、大坂の正面へ出たのである。
ただ、陸上に陣を敷くだけで、大坂への補給を止められるわけではなかった。川や海につながる出入り口も押さえる必要がある。そこで木津方面が次の攻撃対象となった。本願寺の継戦を支える通路へ手を伸ばす作戦である。
信長にとっては、周囲から圧力をかけて包囲を狭める一手だった。しかし、包囲する側が前へ出れば、守る側もその動きに応じられる。天王寺にいた直政の軍勢は、陣地を守る段階から、本願寺方の攻撃を受ける場所へ進み出ることになった。山城と大和を動かした指揮役に、まもなく激しい戦いが迫る。
先陣の後ろで、敵を受け止める

天正4年5月3日、織田方は木津方面へ進んだ。先陣には三好笑岩と根来・和泉の勢力が立ち、直政は大和・山城の軍勢を率いてその後ろに続いた。三好笑岩は、前年に高屋城で降伏した三好康長である。かつて攻められた側の武将が、今度は織田方の先陣を務めていた。
進撃に対し、本願寺方の軍勢が楼岸方面から出撃した。鉄砲を交えた攻撃で先陣が押し崩され、後ろに控えた直政の部隊も戦闘に巻き込まれる。木津への通路を断とうとした攻勢は、前から押し返す敵を受け止める戦いへ変わった。
『信長公記』は、直政がしばらく持ちこたえた後、大軍に取り囲まれて討ち死にしたと記す。その周囲で戦う武将たちも命を落とした。包囲を狭めるために出た軍勢が、逆に囲まれたのである。信長の畿内支配で大きな役目を負った原田備中守の生涯は、この進撃の途中で終わった。
敗れた織田方は天王寺へ退き、今度はその砦が本願寺方に迫られた。信長自身が救援に入り、明智光秀らとともに本願寺方を押し返すのは5月7日のことである。直政が戦死した戦いと、信長が天王寺を救った戦いの間には、四日がある。救援の場に、直政はもういなかった。
直政の死によって、山城と大和の軍勢を束ねた指揮役が失われた。本願寺との戦いは、その後も続く。京都の訴え、宇治の商人、奈良の城、長篠の鉄砲衆をつないでいた一人の家臣は、大坂の包囲戦で欠けた。残された書状と戦役の記録をたどると、その損失は一人の城主を失ったという範囲を超えて見えてくる。
史料の読み解き
直政の名は、合戦の記録にも、寺社や町に関わる書状にも残る。 その二つを重ねると、信長の命令を土地の上で実行する家臣の姿が見えてくる。 ただし、担当範囲の呼び方や、没日の表記まで、すべての資料が一致しているわけではない。 人物の働きと、記録から判断できる限界を分けて読みたい。
山城・大和を任された、とはどういうことか
直政を「山城・大和の守護」とする説明は、人物辞典にも見られる。 この肩書きは、信長の下で二つの国に大きな責任を負ったことを伝えるには分かりやすい。 しかし、二国の土地も人も、すべて直政個人の自由になったと受け取ると行き過ぎる。 城主であること、地域の軍勢を動かすこと、寺社の所領に命令を出すことは、互いに関係しながらも同じ権限ではない。
手がかりになるのが、複数の家臣が名を連ねた書状である。 久野雅司の研究が整理する天正3年の文書には、原田備中守直政が村井貞勝、松井友閑らとともに寺社の権利を扱う例がある。 これは直政の働きを具体的に示す一方、ほかの担当者との協力も示している。 直政が山城や大和を担うようになった後も、信長の命令を実行する窓口は一つではなかった。
地方の武士との関係にも、同じ注意が要る。 筒井順慶らを直政の下に組み込むことは、織田方の作戦で指揮系統を整えることにつながる。 だからといって、順慶の土地や家中の事情まで、直政がすべて取り仕切ったとはいえない。 本記事の関連人物欄では「家臣・与力」に順慶を置いたが、これは信長の下での軍事編成を表す関係である。 代々の主従関係へ読み替えるべきではない。
城を地図に置くと、この役割はさらに分かりやすい。 槇島は宇治、多聞山は奈良にあり、京都から南へ向かう地域に直政の足場が並ぶ。 藤岡琢矢の槇島城研究が宇治の町や交通に注目するのも、城だけを見ていては地域支配を説明できないためである。 城と町、寺社、道を結んで考えると、直政が担った仕事の範囲が見える。
ただし、後世の地図から、直政がすべてを見通した交通政策を設計したとまでは断定できない。 商人の荷物や通行に関わる指示は書状で追えるが、本人の長期構想を語る言葉は別に必要である。 残る命令の内容から具体的な働きを積み上げるほうが、直政の実務家としての姿を確かに描ける。
長篠の名簿は何を語り、何を語らないか
『信長公記』に直政の名があることは、長篠への関与を考える強い手がかりである。 鉄砲の担当者五人を列挙する箇所で、塙九郎左衛門がほかの四人と並ぶ。 単に織田家臣だったから参戦したはずだと推定する場合とは、根拠のあり方が違う。 役目まで記されているため、本記事では合戦リンクにも長篠を登録した。
一方、この名簿から直政一人の作戦を取り出すことはできない。 鉄砲奉行の一人であったことと、鉄砲戦術そのものを発案したことは別である。 五人の担当区域や、その場で交わした指示、直政が見ていた敵の部隊まで、同じ箇所に書かれているわけではない。 役目を確認できる強い記録であっても、細部には空白が残る。
とくに、後世によく知られる「三段撃ち」を、そのまま直政の功績に結びつけるのは避けたい。 鉄砲の使用、柵の設置、部隊の配置、射撃の交替方法は、それぞれ別に検証する必要がある。 本記事では、史料から確かめられる担当者としての位置を中心に述べ、直政が特定の射撃方式を考案したという説明は採らなかった。
対戦相手として掲げた武田勝頼も、直政と一騎討ちをした相手という意味ではない。 勝頼は武田方を率い、直政は織田方の鉄砲衆を預かった。 同じ戦いで、それぞれがどの側の何を担ったかという関係である。 本願寺顕如についても、宗主として織田方との戦いを進めた立場と、木津方面で実際に射撃や突撃を指揮した者とを分けている。 対戦相手欄を、本人同士が刃を交えた名簿として読むことはできない。
直政が倒れた日と、天王寺が救われた日
直政の最期を扱うときは、木津へ進撃した5月3日と、信長が救援した5月7日を分けると流れがつかみやすい。 『信長公記』巻九は、木津への攻撃、先陣の後退、直政の戦死、天王寺への退却という順に出来事を記している。 最初から天王寺の砦に立てこもり、その城壁の上で討たれたという筋ではない。
攻める側が補給路へ向かったところを押し返され、後方の部隊まで崩れた。 この順序に沿えば、直政の敗北は包囲戦の途中で起きた野外の戦闘として理解できる。 辞典で用いられる三津寺の戦いという呼び方と、天王寺・木津方面の戦いという説明も、ただちに別の事件を指すとは限らない。 出発した陣地、目標、戦闘が広がった地域のどこに注目するかで、名づけ方は変わりうる。
『信長公記』の叙述には、直政が敵を受け止めて戦ったという評価が含まれる。 ただし、これは直政自身の報告ではなく、織田方の行動を記した太田牛一の記録である。 誰からどのように情報が伝わったか、戦場の全域を同じ精度で描いているかは、文章だけで保証されない。 戦死までの大筋を採っても、直政がどんな言葉を叫び、どの瞬間に何を思ったかを補ってよいわけではない。
没日の表記には、一日の違いもある。 講談社の人名辞典は5月3日とするが、ブリタニカの項目は5月4日と記す。 本記事では、『信長公記』の戦闘日と、宇治市の報告書が『多聞院日記』を根拠に掲げる年表の5月3日を採った。 後者は自治体の報告書を通じた確認であり、日記の原本を直接調べたという意味ではない。 同じ日付を載せるウェブページを数多く見つけるより、どの記録を根拠にしているかを区別する必要がある。
なお、本記事の月日は当時の暦による。 「1576年5月3日」という表記も、西暦の年と旧暦の月日を組み合わせたもので、現代の暦へ換算した日付ではない。 生年は確定できないため、戦死時の年齢も出していない。 肖像に描かれた顔の年頃から、本人の年齢を逆算することもしない。
書状に残る日付を、無理にそろえない
宇治の上林氏に宛てた直政の書状は、町と商人への働きかけを考える大切な材料である。 ただ、参照した資料の年代表示には差があった。 藤岡論文と久野論文の文書一覧は天正2年12月18日として扱う一方、宇治市の発掘調査報告書の参考年表では天正3年の欄に掲げられている。 本記事はこの差を勝手に解消せず、生涯の叙述では年を限定しない形で内容を紹介した。
こうした違いがあるからといって、直政が宇治の商人に関わったことまで、すべて不明になるわけではない。 文書の内容について言えることと、その年を一点に定められるかは分けて考えられる。 ただし、特定の合戦に備えるために通行の管理を整えた、といった因果関係を論じる場合には、年の違いが重要になる。 そこまで踏み込むには、文書そのものや編年の根拠の再確認が要る。
原田姓の使用時期も、実際の文書に当たることで説明の範囲を絞れる。 天正3年夏の文書に原田備中守の名があるなら、少なくともその時点では新しい名乗りが使われていたといえる。 一方、文書が残る日を、そのまま改姓の儀式が行われた日とすることはできない。 分かるのは使用を確認できる時点であり、名乗りが変わった瞬間とは限らないからである。
直政のように、まとまった自伝ではなく、短い文書や戦役の記録に足跡が散る人物では、この区別が大切になる。 書状の名乗り、担当した仕事、合戦で率いた軍勢を一つずつ合わせていく。 それでも埋まらない幼少期や容貌の空白は残るが、京都の実務から山城・大和の統治、本願寺攻めへ進んだ輪郭は捉えられる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 直政は京都の実務と山城・大和の支配を担った | 高 | 寺社関係文書の研究、人物辞典、槇島城研究が具体的な職務と拠点を示す。二国の全面的な私領化を意味しない。 |
| 長篠では鉄砲奉行の一人だった | 高 | 『信長公記』巻八に塙九郎左衛門の名がある。担当区画や射撃方式の発案者までは分からない。 |
| 1575年夏には原田備中守の名が使われていた | 高 | 久野論文の文書一覧と、大阪城天守閣の展示目録で確認できる。改姓した当日を示すものではない。 |
| 1576年5月3日の木津方面への攻撃で戦死した | 高 | 『信長公記』と、宇治市年表が引用する『多聞院日記』を重視する。辞典には5月4日表記もある。 |
| 宇治・槇島の統制は交通・商業の整備に関わった | 中 | 書状を扱う研究に沿う解釈。直政本人の長期的な政策構想まで示す記録ではない。 |
| 生年・享年・本人の容貌を特定できる | 低・採用せず | 今回の閲覧資料では確定できない。参考画像やAI生成画像は史実の裏付けに数えない。 |
参戦合戦
塙直政の逸話
- 逸話 01
蘭奢待を動かす側にいた

香木と収蔵箱を描いた想像イメージ。蘭奢待の実物再現ではない · AI生成イメージ 天正2年、1574年3月、信長は東大寺の名香、蘭奢待の一部を切り取った。天下人の文化的な権威を語る場面として知られるが、『信長公記』には、それを現場で取り扱う奉行たちの名も並ぶ。その一人が塙九郎左衛門だった。
直政は佐久間信盛、柴田勝家、丹羽長秀らとともに名を挙げられている。記録が示すのは、直政自身が名香を所有したことでも、自ら刃を入れたことでもない。東大寺に伝わる宝物を取り出し、多聞山で信長が扱うための段取りに関わったことである。
城攻めとは違う仕事でも、信長の意思だけで現場の作業が済むわけではない。寺側との連絡や、宝物の移動を取りまとめる人が要る。この場面を読むと、直政が任された実務の幅が見える。
ただし、複数の奉行の中で直政が具体的に何を受け持ったかまでは、ここから決められない。「信長に蘭奢待を献上した」「直政が切り取った」と物語を膨らませず、名香をめぐる大きな出来事の運営側にいたと押さえておきたい。
- 逸話 02
塙九郎左衛門と原田備中守

書状を確かめる直政の想像場面 · AI生成イメージ 直政を調べると、同じ人にいくつもの名が現れる。塙は姓、直政は実名、九郎左衛門は通称である。のちには原田姓を称し、備中守という官途名でも呼ばれた。史料の中では、その組み合わせが変わる。
注意したいのは、備中守と呼ばれるからといって、備中国を実際に治めたと考えないことである。直政の活動を具体的に追える主な土地は京都、山城、大和であり、戦役では三河や越前、大坂へも出ている。名乗りと支配領域は、それぞれの記録で確かめる必要がある。
天正3年にはすでに原田備中守の名が書状に現れる。大阪城天守閣の展示目録にも、同年7月19日付とされる信長から原田備中守への朱印状が載る。改姓を一年の終わりの出来事とだけ説明すると、夏の文書と合わなくなる。
「塙」の読みも、講談社の人名辞典では「ばん」、平凡社の世界大百科事典では「はのう」と揺れる。本記事は見出しの読みを「ばん」とし、原田直政も併記した。読みや名乗りの違いを、別人の事績として数えないことが大切である。
- 逸話 03
川の町から、城跡を探す

宇治の水辺を題材とする想像風景。槇島城の復元図ではない · AI生成イメージ 直政が拠点とした槇島城は、現在の宇治市にあった。だが、現地へ行けば戦国期の城全体がそのまま見渡せるわけではない。宇治川の流れも周辺の土地の使い方も、長い時間の中で変わっている。
宇治市の発掘調査報告書は、調査地点と出土遺構を検討し、城の位置を考えている。そこから分かることには限りがあり、一度の発掘で城域の全体が確定したという内容ではない。現在の地図の川岸に、そのまま直政の城門や船着き場を描き込むことはできないのである。
一方、直政と宇治の関係は城の跡だけに残っているのではない。上林氏に宛てた書状を扱う研究からは、荷物や通行、宿をめぐる支配への関与が見える。発掘が土地の変化を問い、文書が人の動きを伝える。二つを合わせると、槇島の城主が宇治の町にも手を伸ばしていた様子が浮かぶ。
城の形を想像する楽しさと、確かめられる範囲を分けておけば、現地の風景はむしろ豊かに見えてくる。目の前の川だけで戦国の景観を決めず、変わった流路や、書状に登場する町の人々にも目を向けたい。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 太田牛一『信長公記』巻七〜九(甫喜山景雄刊本・町田本系統)Wikisource(翻刻公開)参照日 2026-10-03
- 原田直政(世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)平凡社・講談社ほか/コトバンク参照日 2026-10-03
- 藤岡琢矢「山城国槇島城と真木嶋氏」『市大日本史』25、117–121頁大阪市立大学日本史学会/大阪公立大学学術機関リポジトリ参照日 2026-10-03
- 久野雅司「織田政権の京都支配における奉行人についての基礎的考察」いわき明星大学人文学部研究紀要/医療創生大学機関リポジトリ参照日 2026-10-03
- 『槇島城跡発掘調査報告書』本文・参考年表宇治市参照日 2026-10-03
- 『富田林市史』第二巻・中世河内の終り富田林市/ADEAC参照日 2026-10-03
- 企画展示「信長戦記」出品目録・原田備中守宛織田信長朱印状大阪城天守閣参照日 2026-10-03
- 天王寺城跡(日本歴史地名大系)平凡社/コトバンク参照日 2026-10-03
- 奈良の城・多聞城奈良県参照日 2026-10-03











