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山城と麓の町を望む軍勢の想像図(実際の地形・城郭の復元ではない)(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

稲葉山城の戦い|1567年の美濃攻略と半兵衛・秀吉

稲葉山城の戦いを、いつ・どこで・誰が戦ったかからわかりやすく整理。1567年に信長が斎藤龍興を破った理由と期間、竹中半兵衛の城取りとの違い、秀吉の抜け道・墨俣一夜城の逸話を史料に照らしてたどる。

1567年旧暦八月一日〜十五日(『信長公記』による)美濃国稲葉山城勝 織田信長敗 斎藤龍興戦国ジャーナル編集部戦いを読む
攻略年
1567
永禄十年
斎藤方から離反
三人衆
稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就
信長の新拠点
岐阜
小牧山から本拠を移す

この戦いの要点

  1. 1567年、信長が龍興の本拠を攻略

    舞台は現在の岐阜市、金華山の稲葉山城。西美濃三人衆の離反を受けた信長が攻め、龍興は城を退いた。

  2. 約2週間の決着と、数年の美濃攻略

    『信長公記』は旧暦8月1日の帰順申し入れと15日の降参を記す。約2週間はこの最終局面を指し、美濃侵攻全体の期間ではない。

  3. 半兵衛の城取りと秀吉の逸話を区別

    半兵衛による一時占拠は1564年の別事件。秀吉の抜け道や一夜城は伝承として読み、包囲の記録と分ける。

稲葉山城の戦いをわかりやすく

山の険しさだけでは、主君から離れていく家臣を引き止められなかった。稲葉山城の戦いは、永禄10年(1567年)に織田信長が斎藤龍興の本拠を奪った戦いである。読み方は「いなばやまじょうのたたかい」。場所は現在の岐阜県岐阜市、金華山にあった山城で、のちの岐阜城に当たる。

勝ったのは信長、城を退いたのは龍興である。信長は岐阜へ本拠を移し、翌1568年には足利義昭を奉じて京都へ向かった。尾張の領主が畿内へ勢力を広げるうえで、美濃の本拠獲得は大きな転機になった。

この戦いには、竹中半兵衛の城取りや秀吉の奇襲も重ねて語られる。ただし、半兵衛が城を一時占拠したのは1564年で、信長の攻略より3年前の別事件だ。秀吉の抜け道や墨俣一夜城も、史料に記された包囲戦と区別すると経過がつかみやすい。

知りたいこと答え
いつ起きたか1567年。月日は『信長公記』が旧暦8月1日と15日を記す
どこで戦ったか美濃国の稲葉山城と城下。現在の岐阜市、金華山一帯
誰と誰が戦ったか攻める織田信長と、守る斎藤龍興
なぜ落城したか有力家臣の離反に、信長の城下攻撃と包囲が重なった
期間はどれくらいか同書の帰順申し入れから降参まで約2週間。美濃攻略全体は数年にわたる
半兵衛の城取りとの違いは1564年の家中の事件と、1567年の織田軍による攻略の違い

稲葉山城はどこにあったのか

稲葉山は現在の金華山であり、稲葉山城はその山を利用した城だった。山頂の建物だけを思い浮かべると、攻防の範囲を狭く見てしまう。岐阜市の文化財解説では、山上の城郭、山麓の居館、それらを結ぶ道や山中の砦を含め、山全体が城として機能したと説明されている。

城下は井口、井ノ口とも表記される。斎藤氏は城と町を拠点として美濃を治めた。攻め手にとっては山頂へ登ることだけでなく、麓を押さえ、城と外部の行き来を妨げることも意味を持った。『信長公記』が城下への攻撃と柵による包囲を記すのは、この地形の中での戦いである。

また、現在の岐阜城の姿を1567年の城にそのまま重ねることはできない。城は領主の交代とともに改修され、今日の山頂の天守は戦国時代の建物そのものではない。当記事の画像も、城と人物を思い描くためのAI生成イメージであり、遺構や当時の景観の復元図ではない。

なぜ信長は美濃の斎藤氏と戦ったのか

信長にとって美濃は、尾張に隣接する斎藤氏の領国だった。その本拠を手に入れることは領地の拡大に直結する。結果として岐阜は翌年の上洛の拠点にもなったが、後の展開をすべて最初から決まっていた計画として読むことはできない。

織田家と斎藤家には婚姻関係があった。斎藤道三は織田信秀と和睦し、娘を信秀の子の信長へ嫁がせた。ところが1556年、道三は子の義龍と争い、長良川の戦いで敗死する。道三との縁があっても、義龍やその子の龍興との関係まで安定したわけではなかった(「長良川の戦い」)。

1561年に義龍が病没すると、龍興が家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を継いだ。岐阜市の城主解説は、信長がこの継承後に美濃への侵攻を強めたとする。龍興は外からの攻撃に対応しながら、自分の家臣や領内の武将をまとめる立場にあった。

信長も戦いの拠点を動かす。 1563年には清須から小牧山へ移り、城と城下町を整備した。小牧市の調査では、山麓の武家屋敷を区切る堀なども確認されている。 1567年の決着までには、こうした拠点づくりと美濃への出兵が積み重なっていた。

美濃の山を望む平服姿の織田信長の想像肖像(AI生成、特定の行動や居館の復元ではない)

竹中半兵衛の城取りは1564年の別事件

竹中半兵衛は、実名を重治という。 1564年、半兵衛と安藤守就らは主君の龍興がいた稲葉山城を一時占拠した。岐阜市の『史跡岐阜城跡保存活用計画』も、両者による城の奪取を龍興の代の混乱として挙げている。

有名な「少人数で城を奪った」という話は、この事件を指す。ただし、人数や侵入の手順を一つに決めるには留保が必要だ。垂井町の学習資料は主従18人と紹介しているが、同時代の独立した複数の記録で人数を確認できたわけではない。少人数の知略だけで城の全機能を制圧した、と細部まで確定した話として扱うのは慎重でありたい。

半兵衛がなぜ城を奪い、なぜ返したのか。主君を諫めるためだったという話が伝わるものの、その説明だけで本人の動機を確定できない。垂井町の資料では同年2月に奪取し、8月に返還したとされる。この約半年という占拠期間は、1567年の攻城戦の約2週間とは別の長さである。

1564年の事件のあと、龍興は再び稲葉山城を本拠とした。 3年後にその城へ攻め寄せたのが信長だった。半兵衛が秀吉を助けた後年の姿を知っていると、この二つを一続きの作戦と見たくなるが、当時の所属と時期を分けて読む必要がある。半兵衛の生涯と城取りの伝承は「竹中半兵衛」で詳しくたどれる。

1564年頃の竹中半兵衛を描いた平服の想像肖像(AI生成、城取りの場面を再現したものではない)

西美濃三人衆の離反と信長の進軍

1567年の攻略で斎藤方の支えを弱めたのは、西美濃三人衆の離反だった。稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就という、美濃西部の有力な家臣たちである。『信長公記』首巻「いなは山御取候事」は、8月1日に三人衆が信長へ味方すると申し入れたと記す。

彼らは人質を受け取りに来るよう求めた。信長は村井民部丞と嶋田所之助を西美濃へ向かわせる。帰順を口約束で終わらせず、人質を差し出して保証する段階だった。

しかし、信長は人質の到着を待たず出陣したと同書は続ける。進んだ先は、井口の山続きにある瑞龍寺山。城側が敵か味方かと判断している間に、信長は城下へ火を放ったという。

三人衆の申し入れと、実際に三人が信長のもとへ参上する場面には順序がある。同書では参上は包囲の普請が進んだあとだ。「三人衆が味方になった」という一言の中でも、交渉と進軍は同時に完了していない。

重臣たちが織田方へ転じれば、龍興は城外の協力者を失う。その時点で信長が城下へ進出したため、龍興の本拠は軍事的にも圧迫された。家臣の離反と城下の包囲が重なったことが、稲葉山城を失う経過の中心にある。

いつ落城したのか、戦いの期間はどれくらいか

『信長公記』によると、城下に火を放った翌日、信長は普請の分担を決めた。兵たちは四方に柵を巡らせ、城を囲んだという。一度の突撃だけで山頂を奪ったという筋立てではなく、包囲のために人手を割り振る場面が記されている。

同書は8月15日、龍興が降参し、舟で長島へ退いたと記す。 8月1日の帰順申し入れから15日の降参までは、日付の差で14日、約2週間となる。ただし、これは同書の記述に基づく最終局面の期間である。毎日どの部隊がどこで戦ったかまで分かる日誌ではない。

美濃攻略全体の期間を尋ねるなら、答えは変わる。信長が龍興の代に侵攻を強めた1561年から数えれば、1567年の決着まで約6年に及ぶ。この間ずっと同じ城を包囲していたという意味でもない。数年の侵攻、半兵衛による一時占拠、最後の約2週間を分けると、時間の流れを取り違えずに済む。

山城の麓で木柵を組む兵たちの包囲普請イメージ(AI生成、柵の位置や形を確定する復元図ではない)

月日には、なお注意が必要だ。ここでいう8月は旧暦であり、現在のカレンダーの8月1日〜15日を指さない。また『信長公記』の当該節は年を直接記しておらず、1567年という年次は岐阜の歴史や信長の本拠移転を扱う資料と照らしている。

岐阜市の観光案内「天下第一の門」には、攻略を1567年9月とする表記もある。その短い解説だけでは暦の基準や論拠まで分からないため、単に新旧暦の違いと決めつけることも避けたい。本記事では『信長公記』の旧暦8月の経過を採用し、複数の独立記録で落城日を確定できたとは扱わない。

秀吉は抜け道から城へ入ったのか

秀吉の稲葉山城攻めでは、少人数で裏道や崖を登り、城内へ入ったという話が知られる。木下藤吉郎は、のちの豊臣秀吉である。堀尾吉晴が道を案内したという筋立てもあり、後世の浮世絵に描かれた。

刀剣ワールド財団所蔵の「太平記因幡山之図」の解説は、堀尾吉晴による裏道の案内を題材として紹介する。月岡芳年の「月百姿 稲葉山の月」も、秀吉の一行が城へ潜入する物語を描く。これらは、抜け道の逸話が後世に親しまれたことを示す資料である。

一方、今回確認した『信長公記』の攻略の節には、秀吉の少人数部隊が侵入して門を開いたという経過はない。記されるのは三人衆の帰順、信長の進軍、城下への攻撃、柵による包囲、龍興の降参だ。同書に名前がないことだけで秀吉の不参加を証明することはできないが、抜け道の奇襲を落城の決め手と断定することもできない。

「抜け道はどこか」という問いにも、今回の資料から具体的な一本の道は示せない。現在の登山道や、後世の絵に描かれた崖をそのまま1567年の侵入経路に置き換える根拠は不足している。山城の険しさは分かっても、誰がどの道を通ったかは別に確かめる必要がある。秀吉の出世をめぐる他の逸話と史実の違いは「豊臣秀吉」でも扱っている。

木下藤吉郎時代の秀吉を描いた想像肖像(AI生成、抜け道への侵入を史実として再現したものではない)

墨俣一夜城と稲葉山城は同じ城か

墨俣一夜城と稲葉山城は、別の場所にある城である。墨俣一夜城の読み方は「すのまたいちやじょう」。現在の大垣市墨俣に伝わる築城の話で、岐阜市の金華山にあった稲葉山城とは位置も役割も異なる。

大垣市の解説は、1566年に木下藤吉郎が一夜で砦を築いたと伝えられる、と紹介している。美濃へ進むための拠点を素早く築いたという物語であり、翌1567年の稲葉山城攻略そのものを指す話ではない。「一夜城」の一夜を、稲葉山城の戦いの全期間と読み替えることもできない。

同市は、現在の墨俣一夜城が当時とは異なる天守の形をした歴史資料館だと説明する。白壁の大きな天守が一晩で完成したという光景を、史実として思い浮かべるのは避けたい。築城伝承の面白さと、現在の建物が伝える見た目は分けて考えられる。

出来事年代主な人物と内容
半兵衛らの城取り1564年竹中半兵衛と安藤守就らが稲葉山城を一時占拠
墨俣一夜城の伝承1566年と伝わる秀吉が一夜で砦を築いたという物語
稲葉山城の戦い1567年信長が龍興の本拠を奪い、岐阜へ移る

なぜ斎藤龍興は敗れ、どこへ退いたのか

龍興が失ったのは、山頂の建物だけではなかった。西美濃三人衆が信長へ転じ、城下への攻撃と包囲も進んだ。斎藤氏の領国を支える有力者の協力と、本拠の周囲の自由をともに失っていったのである。

『信長公記』は、龍興が降参して舟で長島へ退いたと記す。岐阜市の歴代城主の解説でも、1567年に城を脱出し、伊勢長島へ移ったことが確認できる。ここでいう長島は、現在の三重県側に当たる。ただし、城から舟に乗るまでの細かな道筋を、この二つの解説だけで描き直すことはできない。

龍興は稲葉山城で戦死していない。本拠を失ったあとも各地を移り、やがて越前の朝倉義景を頼った。 1573年に命を落とすまでの経過は「斎藤龍興」でたどれる。

若い斎藤龍興の想像肖像(AI生成、降参時の表情や姿勢を復元したものではない)

敗因を龍興個人の「無能」の一語で片づけると、家臣たちの選択も信長の行動も見えにくくなる。確認できる経過では、家中の対立、重臣の離反、織田軍の進軍と包囲が重なっていた。龍興の性格や城中の心理を創作しなくても、孤立が深まる過程は追うことができる。

通説と俗説の射程

この戦いでは、城が信長の手に渡ったことと、その過程のすべてが判明していることを分けたい。 1567年の攻略と岐阜への移転は自治体の歴史資料などでも確認できる。一方、日付ごとの動きは主に『信長公記』に依存し、秀吉や半兵衛の活躍の細部には後世の物語が重なる。

『信長公記』も、出来事を透明に映しただけの記録ではない。人質が来る前に出陣した場面で、牛一は信長の行動の速さを評価している。記された行動と、書き手による評価を分けて読めば、信長の才覚を示す話がどう組み立てられているかも分かる。

論点確認できる範囲留保する部分
勝敗と帰結龍興が本拠を失い、信長が岐阜へ移る落城がそのまま龍興の死を意味するという理解
半兵衛の城取り1564年に安藤守就らと一時占拠人数、具体的手順、本人の動機の断定
秀吉の抜け道後世の物語や浮世絵に描かれる現在の道との同定、奇襲が勝因だったとの断定
墨俣一夜城一夜で砦を築いたと伝わる現在の天守を一晩で建てたという像
兵力と損害城下攻撃と包囲の経過を追える出所の確かでない兵数、戦死者数、兵力比

今回確認した資料では、両軍の総兵数や戦死者の人数を確定できない。そのため、兵力差を精密な数字の比較で示すことは控えた。抜け道の経路や部隊配置についても、根拠のない線を地図に引くと、伝承を確定した戦況のように見せてしまう。分からない部分を残しても、信長が本拠を奪うまでの順序は説明できる。

岐阜への移転から翌年の上洛へ

稲葉山城を得た信長は、小牧山から本拠を移した。『信長公記』は井口を岐阜と改めたことを記し、岐阜市の保存活用計画は新領地への知行宛行状に「天下布武」の朱印が用いられたことを示す。ただし、この四文字だけで後の政策がすべて決まっていたとは読めない。

新しい領主には、戦いで荒れた町や暮らしを立て直す仕事もあった。円徳寺に伝わる1567年9月の制札は、北加納の百姓に帰住を求めている。同年10月には加納の楽市場に従来の特権を保証する制札も出された。岐阜県の文化財解説が区別するとおり、営業税の免除を加えた制札は翌1568年のものである。

信長は市場を無から生み出したのではなく、すでにあった商いを引き継ぎ、その条件を整えた。山上の城を得たあと、麓の町で人々が暮らし、取引を続ける仕組みを維持しようとしたのである。

山麓の町で商いを営む人々の想像図(AI生成、岐阜の街路や市場の復元ではない)

1568年、信長は足利義昭を奉じて京都へ進む。美濃の本拠獲得から、畿内政治への進出へ。この翌年の動きは「信長上洛」で、前後の戦いは戦国時代の年表で確かめられる。

両軍の対比

ODA

織田信長

大将:織田信長
総兵力総兵数は確定できない
出陣小牧山から美濃へ
帰順した重臣稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就
戦況城下へ進出し稲葉山城を包囲
稲葉山城を獲得し岐阜へ移転
SAITO

斎藤龍興

大将:斎藤龍興
総兵力籠城兵数は確定できない
出陣稲葉山城
本拠美濃国井口
情勢有力な家臣が織田方へ離反
本拠を失い伊勢長島へ退く
vs

戦況の経過

小牧山への移転
1563年
信長が小牧山城を築き、清須から本拠を移す。城下町も整備する。
稲葉山城の一時占拠
1564年
竹中重治と安藤守就が稲葉山城を奪う。1567年の信長による攻略とは別の事件。
三人衆からの申し入れ
八月一日と記す
『信長公記』によれば、西美濃三人衆が信長への帰順を申し入れ、人質の受け取りを求めた。以下の八月の日付は同書に基づく。
人質到着前の進軍
同書の記す初動
信長は人質が来る前に出陣し、瑞龍寺山へ進んで城下に火を放ったと記される。
柵を設けて包囲
その翌日と記す
『信長公記』は、信長が普請を割り当て、四方に柵を巡らせたのち、三人衆が参上したと記す。
龍興の降参と退去
八月十五日と記す
同書は龍興が降参し、舟で長島へ退いたと記す。落城月には九月の表記もあり、確定日としては扱わない。
岐阜へ本拠を移す
1567年
信長が小牧山から移り、井口を岐阜と改める。以後の新領地経営へつながった。

その後の世界

1567年九月
北加納の百姓に帰住を求める制札が出される。戦乱で荒れた地域の復興を進めた。
1567年十月
加納の楽市場に従来の特権を保証する。市場の営業税免除を追加する制札は翌年のもの。
1568年
信長が足利義昭を奉じて京都へ進軍。岐阜を本拠とする勢力が畿内政治へ進出する。
1573年
稲葉山城を退いたあとも信長に抗した龍興が、越前で命を落とす。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 国史跡 岐阜城跡の概要と関連計画
    岐阜市参照日 2026-10-11
  2. 稲葉山城の戦いが描かれた浮世絵(「月百姿 稲葉山の月」の解説)
    刀剣ワールド桑名・多度 別館参照日 2026-10-11
  3. 信長公記 首巻「いなは山御取候事」(1881年刊本の新字翻刻)
    太田牛一著、甫喜山景雄刊/Wikisource参照日 2026-10-11
  4. 史跡小牧山概要版
    小牧市参照日 2026-10-11
  5. 岐阜城の歴代城主
    岐阜市参照日 2026-10-11
  6. 墨俣一夜城
    大垣市参照日 2026-10-11
  7. ナビ番号421 天下第一の門
    岐阜市参照日 2026-10-11

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-11

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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