
稲葉山城の戦い|1567年信長の美濃攻略と岐阜への移転
美濃国稲葉山城
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稲葉山城の戦いは、1567年に織田信長が斎藤龍興の本拠を奪った美濃攻略の決着。西美濃三人衆の離反、城下への進出と包囲、龍興の退去から岐阜への移転までを追い、落城の日付や秀吉の逸話を史料と照らして読む。
この戦いの要点
城を支える重臣の離反
西美濃三人衆が織田方へ転じた。『信長公記』は、人質の到着を待たず信長が城下へ進んだと記す。
城下への進出と包囲
『信長公記』が伝える経過は、瑞龍寺山への進出、城下への放火、柵を設けた包囲、龍興の降参である。
美濃攻略から岐阜の経営へ
信長は岐阜へ本拠を移し、住民の帰住や市場の保護を進めた。翌1568年には足利義昭を奉じて上洛する。
稲葉山城を失うまで
山上の城を守る斎藤龍興にとって、麓へ迫る織田軍とともに脅威となったのは、美濃の支配を支えてきた重臣たちが信長へ転じることだった。 永禄十年(1567年)、織田信長は稲葉山城を攻略し、龍興の本拠を奪う。 信長は小牧山からこの城へ移り、井口の地は岐阜と呼ばれるようになった。 翌年の上洛へつながる転換である。
ただし、城を取るまでの経過には、よく知られた秀吉の出世物語と、そのまま重ならない部分がある。 太田牛一の『信長公記』が描くのは、重臣の内応を受けた信長の進軍と、城下への攻撃、そして包囲である。 城壁を乗り越えた一人の英雄に目を向ける前に、誰が城を支え、誰がその支えを失わせたのかを押さえておきたい。
斎藤家の継承と小牧山の信長
稲葉山城は、斎藤道三が美濃で勢力を伸ばした拠点だった。 道三は尾張の織田信秀と争ったのちに和睦し、娘を信秀の子である信長へ嫁がせた。 ところが弘治二年(1556年)、道三は子の義龍と戦って敗死する。 信長と斎藤家の関係は、婚姻だけで安定するものではなかった。
永禄四年(1561年)に義龍が病没すると、子の斎藤龍興が家督を継ぐ。 信長は龍興の代に美濃への侵攻を強めた。 父の急死に続いて外から攻撃を受けるなか、龍興は有力な家臣たちをまとめ、領内を守らなければならなかった。 山上の城に籠もるだけでは、美濃の支配は保てない。
信長も本拠を動かした。 永禄六年(1563年)に小牧山城を築き、清須から移ると、山麓に城下町を整備している。 小牧市の発掘調査では、武家屋敷を区切る堀や排水溝などが確認された。 稲葉山城を落とす四年前、信長は兵を出す場所だけでなく、家臣や住民が暮らす拠点をつくり替えていた。

竹中重治の占拠と三人衆の離反
龍興の本拠は、信長による攻略の前にも揺らいでいた。 永禄七年(1564年)、竹中重治と安藤守就が稲葉山城を一時奪取する。 竹中半兵衛の名で知られる重治の城取りは、1567年の信長による攻略とは別の事件である。 この二つを続けて一度の奇襲のように読むと、城主と攻め手の関係を取り違える。
半兵衛が何人で入り、どのような手順で城を奪ったかは、伝承によって細部が異なる。 主君を諫めるためだったという説明も、本人の心中まで確定できるものではない。 それでも、龍興の家臣である者たちが本拠を奪ったという骨格は、斎藤家の内部に対立があったことを示す。 城の険しさと、家中がまとまっているかどうかは別の問題だった。
1567年の攻略では、稲葉一鉄、氏家卜全、安藤守就という三人の有力家臣が織田方へ転じる。 いわゆる西美濃三人衆である。 『信長公記』は八月一日、三人が申し合わせて信長に味方すると伝え、人質を受け取るよう求めたと記している。 内応は噂の段階を越え、帰順を保証する手続きへ進んでいた。
だが、同書が次に記す信長の動きは、その手続きの完了を待つものではない。 村井民部丞と嶋田所之助が人質を受け取りに向かったあと、信長は人質が到着する前に兵を出した。 三人衆が城外から支える側に立たなければ、龍興は領内の有力な支援を失う。 信長は、その変化が起こる局面で城下へ踏み込んだのである。
瑞龍寺山から城下へ
『信長公記』によれば、信長は井口の山続きにある瑞龍寺山へ駆け上がった。 城側が敵か味方かと見極めようとするうちに、町へ火が放たれたという。 同書は、その日の風が強かったことも付け加える。 ただし、町のどこまで燃えたか、家々が何軒失われたかは記していない。
山城は、山頂の建物だけで成り立つものではない。 麓の町や周辺の道が敵に押さえられれば、城と外部の行き来は難しくなる。 信長の城下への進出には、山上にいる龍興を外から切り離す意味があったと考えられる。 これは攻撃の順序から読み取れる作用であり、城中の食料や守兵の状態まで判明しているわけではない。
翌日、信長は普請の分担を決め、四方に柵を巡らせて城を囲ませたと同書は続ける。 放火の勢いだけで勝敗を決めたのではなく、包囲のための作業を進めていたのである。 この段階になって三人衆が参上したと記されており、帰順の申し入れ、人質の受け取り、三人衆の参上を、同時の出来事に縮めることはできない。

牛一はこうした経過を、信長の行動の速さを示す話としてまとめている。 そこには信長を評価する書き手の視線がある。 描写が鮮やかだからこそ、一つの記録が語る経過と、複数の資料で独立に確かめられる事柄とを分けて読む必要がある。 各部隊の配置や兵数を、この記述だけで詳しく描き直すことはできない。
龍興の降参と長島への退去
『信長公記』は八月十五日、龍興が降参して舟で長島へ退いたと記す。 城を支える重臣の離反に続き、城下への攻撃と包囲が進み、龍興は稲葉山城を手放した。 岐阜市の城主解説でも、龍興が1567年に城を脱出し、伊勢長島へ移ったことが確認できる。 美濃を治める本拠を失った点で、この敗北は決定的だった。
ただし、龍興がこの城で戦死したわけではない。 その後も各地を転々とし、やがて越前の朝倉義景を頼り、1573年に命を落とす。 稲葉山城の陥落は、美濃の支配者としての龍興には大きな終止符となったが、信長への抵抗がすべて終わった日ではなかった。 城を明け渡したあとの生存まで含めて、敗者の経過を追うことができる。

この戦いを龍興の「無能」だけで説明すると、有力な家臣の離反も信長の軍事行動も、若い当主の性格に吸収されてしまう。 残る記録から追えるのは、継承後の家中の対立と、領内へ圧力をかける信長、帰順を選んだ三人衆の動きである。 個人の評判より先に、その組み合わせが本拠の喪失へどうつながったかを見たい。

通説と俗説の射程
稲葉山城の戦いを語る際、まず留保したいのが日付である。 本記事は1567年の攻略として整理し、八月一日から十五日までの決定局面を『信長公記』に沿って示した。 同じ節には四月上旬の出兵もあるが、ここでは三人衆が帰順を申し入れた八月一日を起点としている。 ただし、同書の当該段落は年を直接記していない。 1567年という年次は、小牧山からの移転や岐阜の歴史を扱う資料と合わせて判断している。
月にも表記の差がある。 岐阜市の「天下第一の門」の案内は1567年九月としているが、その短い説明には暦の基準や論拠が示されていない。 したがって、この表記だけで『信長公記』の八月を訂正したり、単なる新旧暦の違いと断定したりはできない。 ここで使う八月の日付は旧暦の記述に基づく採用値であり、独立した複数の記録で確定した日ではない。
もう一つは、豊臣秀吉の出世をめぐる逸話である。 美濃攻略には、木下藤吉郎が墨俣に一夜で砦を築いたという話が重なる。 大垣市の解説も、1566年の築城を伝承として紹介している。 現在の墨俣一夜城は天守の形をした歴史資料館であり、当時の砦をそのまま再建した建物ではない。
稲葉山城にも、秀吉らが少人数で山を登り、城内へ入ったという後世の物語がある。 月岡芳年の浮世絵「月百姿 稲葉山の月」は、この潜入の場面を題材にしていると所蔵機関が解説する。 しかし、『信長公記』の「いなは山御取候事」には、その一隊の行動は記されていない。 同書が書かないことだけを理由に、秀吉の不参加まで証明することはできないが、奇襲を落城の決め手と断定する根拠にはできない。 少なくとも本記事の戦況は、同書が記す内応と包囲を軸に組み立てている。
| 論点 | 資料から確認できる範囲 | 断定を控える部分 |
|---|---|---|
| 攻略年 | 1567年の城の獲得と本拠移転 | 『信長公記』当該節だけで年次が確定するという説明 |
| 開城までの経過 | 同書は八月一日の内応申し入れと十五日の降参を記す | 月日の異なる表記を、説明なしに一つへ統合すること |
| 三人衆の働き | 信長への帰順と龍興の支援基盤の縮小 | 密談の台詞や、交渉を一人の手柄とする説明 |
| 秀吉の逸話 | 墨俣築城などが出世物語として伝わる | 一夜で現在のような天守を築いたという像 |
| 戦いの規模 | 城下への攻撃と包囲 | 出所の確かでない両軍の総兵数や損害数 |
岐阜への移転と城下の復興
城を得た信長は、小牧山から稲葉山へ本拠を移す。 井口を岐阜と改めたことは『信長公記』にも記され、岐阜市の保存活用計画は、この時期の知行宛行状に「天下布武」の朱印が使われることを示している。 ただし、印の四文字だけから、のちの政策や全国への戦争計画がこの日にすべて決まったとまでは読めない。
新しい本拠では、町と暮らしを立て直す仕事が始まった。 円徳寺には永禄十年九月、北加納の百姓に帰住を求めた制札が伝わる。 同年十月には、加納の楽市場に従来の特権を保証する制札も出された。 攻撃によって奪った土地に、人が戻り、商いが続く条件を整えようとしていたのである。
ここで信長が市場を無から発明した、と理解するのは正確ではない。 岐阜県の文化財解説は、1567年の制札を、旧来からの楽市場の特権を保証したものと説明する。 営業税の免除を追加する制札は1568年であり、翌年の措置まで一括して落城直後の政策にしてしまうと、統治の手順が見えなくなる。

永禄十一年(1568年)、信長は足利義昭を奉じて京都へ向かう。 信長上洛へ進む前に、彼は美濃の本拠を奪い、その地で領主としての仕事を始めていた。 稲葉山城で起きた支配者の交代は、山上の勝敗で終わらず、岐阜という拠点から畿内へ軍を進めるための条件を変えたのである。
両軍の対比
織田信長
斎藤龍興
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 稲葉山城の戦いが描かれた浮世絵(「月百姿 稲葉山の月」の解説)刀剣ワールド桑名・多度 別館参照日 2026-09-21
- 信長公記 首巻「いなは山御取候事」(1881年刊本の新字翻刻)太田牛一著、甫喜山景雄刊/Wikisource参照日 2026-09-21
- 史跡岐阜城跡保存活用計画 第2章第5節(37〜38頁)岐阜市参照日 2026-09-21
- 史跡小牧山概要版小牧市参照日 2026-09-21
- 岐阜城の歴代城主岐阜市参照日 2026-09-21
- 楽市楽座制札 附織田信長百姓帰住制札岐阜県参照日 2026-09-21
- 墨俣一夜城大垣市参照日 2026-09-21
- ナビ番号421 天下第一の門岐阜市参照日 2026-09-21





