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川筋と土塁に囲まれた野田・福島の戦場を描いた想像図(AI生成イメージ)
AI生成イメージ

合戦KASSEN

野田・福島の戦い|1570年、信長と本願寺の開戦

野田・福島の戦いは1570年、現在の大阪市福島区周辺で起きた。場所と経過、織田信長に抗した三好方と本願寺、雑賀衆の鉄砲、浅井長政らの近江出兵が信長の撤退に及ぼした影響を史料からたどる。

1570年1570年8月〜9月(旧暦)摂津国・野田、福島周辺戦国ジャーナル編集部戦いを読む
元亀元年
1570年
8月〜9月・旧暦
野田・福島
摂津
現在の大阪市福島区周辺
信長が撤退
9月23日
『信長公記』による・旧暦

この戦いの要点

  1. 三好方の包囲から本願寺との戦争へ

    信長が野田・福島を攻めるなか、本願寺が織田方の砦を攻撃。石山合戦が始まった。

  2. 浅井長政らは近江から圧力をかけた

    浅井・朝倉勢の坂本方面への進出が京都を脅かし、信長の撤退判断につながった。

  3. 雑賀衆の人数と個人の参戦は分けて読む

    『信長公記』の紀伊勢の人数を雑賀衆だけの実数にしたり、孫市個人の指揮と結びつけたりはできない。

野田・福島の戦いとは

城を囲んでいた信長が城を落とさずに引き返した。野田・福島の戦いは元亀元年(1570年)8月から9月にかけて、摂津国で起きた戦いである。戦場は現在の大阪市福島区周辺に当たる。

織田信長と将軍足利義昭が三好方を攻める途中、本願寺顕如の本願寺も織田方との交戦に踏み出した。

信長は9月23日に撤退する。その判断には、現地での本願寺の攻撃に加え、近江へ進出した浅井・朝倉勢が京都を脅かしたことが関わっていた。大阪の包囲戦と近江の戦闘が重なり、信長は攻め続けることができなくなった。ここから、本願寺との長い戦争である石山合戦が始まる。

以下の月日は旧暦で、日ごとの経過は主に『信長公記』巻三の「野田福島御陣之事」「志賀御陣之事」による。本文の画像は人物や戦場を描いた想像図であり、当時の景観を確定する復元図ではない。

戦いの場所は現在の大阪市福島区周辺

野田・福島は大坂本願寺に近い摂津の地域だった。現在の場所を知る手がかりになるのが、大阪市福島区玉川四丁目の野田城跡の碑である。

大阪市の案内は、玉川駅付近のこの場所を紹介する一方、城の跡形は残らず、字名から城跡の位置を推定していると説明する。

したがって、碑の立つ一点を城の中心や城域全体と断定することはできない。福島城についても、今回確認した資料だけで正確な範囲を描くのは難しい。現在の道路や河川に、当時の城壁や陣地をそのまま重ねない方がよい。

場所戦いの中での役割現在の場所を考える際の注意
野田・福島三好方が立てこもり、織田方が包囲した地域大阪市福島区周辺。城域の全体は確定していない
天王寺・天満が森・海老江『信長公記』に現れる信長の陣所陣所は戦況に応じて移った。現在の地名だけでは陣の範囲まで分からない
楼の岸・川口織田方が砦を設け、本願寺が攻撃した場所正確な輪郭や砦同士の距離は、ここでは示さない
坂本・宇佐山方面浅井・朝倉勢と織田方が戦った近江の戦域現在の滋賀県大津市側。野田・福島とは別の戦場

この地域では、陸上の道だけでなく水上の交通が意味を持った。大阪市の圓満寺の伝来史料の解説は、野田を西国への交通の要所であり、門徒集団である中島衆の重要な拠点と位置づけている。城の攻防は寺内町や川筋の人の動きとも近い場所で進んだのである。

『信長公記』にも城の近くの川や堀を埋める作業、堤での交戦、撤退時の渡船の問題が出てくる。川は守りを助けるが、渡れなければ味方の移動も止める。野田・福島の場所をつかむには、天守のある城を思い浮かべるより、川と堀に区切られた地域での包囲戦を考える方が、史料の記述に近づける。

川筋の船着き場と物資運搬、対岸の土塁を描いた想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

織田信長と足利義昭は、三好方をどう攻めたか

1570年6月、信長は姉川の戦いで浅井・朝倉方と戦った。だが、近江の戦いだけに集中できる状況ではなかった。摂津の野田・福島には三好方が立てこもり、信長は8月20日に南方への出兵を始める。

『信長公記』によれば、8月26日には先陣を野田・福島の周辺に展開し、信長自身は天王寺に陣を置いた。同書は籠城側に三好氏の諸将だけでなく、細川氏や斎藤龍興らの名も挙げる。三好方という呼び方の内側には、複数の勢力が集まっていた。

将軍義昭も現地へ出ている。 9月3日に摂津の中島へ進み、12日には信長とともに海老江に陣を置いた。のちに義昭が信長と対立することはよく知られるが、この野田・福島の戦いでは、義昭と信長は同じ側にいた。後年の対立を、そのまま1570年の陣営図へ持ち込むことはできない。

包囲は敵城の外で待つだけのものではなかった。 9月8日には楼の岸と川口に砦を設け、10日には城の近くの川や堀を埋めさせたという。さらに土手を築き、櫓を上げ、鉄砲を撃ち込んだ。城際へ近づく工事と射撃を組み合わせ、守る側の余地を狭めていく攻め方だった。

同書は、野田・福島の側から和平の申し入れがあったものの、信長は認めなかったと記す。少なくとも織田方の記録では、攻め手は攻略の見込みを持っていた。この局面で本願寺が動き、包囲する側も別の攻撃に備えることになる。

海老江の陣で川向こうを見渡す織田信長の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

本願寺はなぜ参戦したのか

本願寺から見れば、近くの野田・福島に向けた攻勢は、寺の周辺へ織田方の軍勢や砦が増える動きでもあった。『信長公記』の筆者は、野田・福島が落ちれば大坂も滅びると本願寺が考えたのだろうか、という趣旨を記す。ただし、これは筆者による推測を含む説明であり、顕如本人の発言を写したものではない。

そのうえで同書が具体的に伝えるのが、9月13日夜の攻撃である。大坂から楼の岸と川口の砦へ鉄砲が撃ちかけられた。翌14日には天満が森の方面でも交戦し、堤をめぐる戦いで佐々成政が負傷したことなどが記される。

ここで戦争の相手が増えた。信長は三好方の城を囲みながら、本願寺方の攻撃にも対応する立場になったのである。砦を置くことには周辺を押さえる利点があったが、その砦を守る兵も必要だった。

西本願寺の歴史解説も、信長との開戦を1570年に置く。 野田・福島の戦いは本願寺との戦争の全期間を指す呼び名ではない。この秋の局地戦から、1580年の和議に至る約10年の抗争へと続いていった。

大坂本願寺の堂内で思案する若い顕如の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

雑賀衆の鉄砲と「二万」「三千挺」の数字

野田・福島の戦いには紀伊から来た集団も関わった。『信長公記』は9月12日の経過の中で、根来・雑賀・湯川・紀伊国奥郡衆を列挙し、人数を約二万、鉄砲を三千挺と伝える。鉄砲については、そうした数があるという伝聞の形で書かれている。

この数字を「雑賀衆二万人」「雑賀孫市の鉄砲三千挺」と言い換えるのは正確ではない。史料が挙げているのは複数の地域集団であり、雑賀だけの人数ではないからだ。また、記載された数を実際の出動者名簿の集計と同じように扱うこともできない。人数の多寡だけで勝敗を説明せず、鉄砲を備えた紀伊勢の活動を伝える記述として読む。

雑賀衆も一人の大名の家臣団のように単純化しにくい。

丁諾舟の研究は、雑賀の地域集団と、その中で軍事活動を担った人々の範囲を区別して論じている。石山合戦を通じた活動にも複数の契約や関係があり、雑賀の名が出れば全員が常に同じ立場だった、と決めつけることはできない。

一方、本願寺と雑賀衆の結びつきは、この後の戦争を理解するうえで欠かせない。西本願寺の通史も雑賀衆ら門徒とともに抗戦したことを記している。地域の利害、門徒としての関係、鉄砲を使う軍事力が重なっていた。

では、雑賀孫市(孫一)本人は野田・福島で指揮を執ったのか。今回確認した『信長公記』の当該箇所から、孫市個人の参戦や射撃を特定することはできない。雑賀衆の活動が記されることと、特定の人物の武功が確認できることは分けて考えたい。

川岸の土塁で鉄砲と道具を扱う、紀伊の鉄砲衆を描いた想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

浅井長政の近江出兵が、野田・福島の戦いに及ぼした影響

浅井長政は野田・福島の城内で信長を迎え撃った武将として扱うべきではない。 この時期に注目すべきなのは、朝倉義景らとともに近江の坂本方面へ進んだ動きである。

『信長公記』の「志賀御陣之事」は浅井・朝倉勢の坂本口への進出と、織田方の森可成らの戦死を伝える。宇佐山城では防戦が続き、戦いは京都の近くへ広がった。

大津市の地域史にも、宇佐山城と浅井・朝倉軍との防衛戦が記されている。 戦場は大阪ではなく、琵琶湖の南西側にあった。

『信長公記』によれば、浅井・朝倉勢は大津方面から逢坂を越え、醍醐・山科にも迫る。その知らせが摂津の信長に届いたのは9月22日だった。野田・福島を攻め続けている間に、京都へ敵が入るおそれが生じたのである。

これが、浅井長政と野田・福島の戦いを結ぶ具体的な関係だった。長政らが近江で起こした軍事行動は、離れた摂津での信長の選択にも影響した。同じ城の周囲に全軍が集まらなくても、別の戦場から包囲戦を中断させる圧力はかけられた。

近江の陣で周囲を見渡す浅井長政の想像図。野田・福島での参戦を示すものではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

9月23日、信長は城攻めをやめて京都へ退く

信長は9月23日、野田・福島から兵を引いた。『信長公記』によれば、和田惟政と柴田勝家が殿、つまり退く軍の後方を守る役を務めた。進路は中島から江口を経るものだった。

撤退にも川が立ちはだかった。江口では渡船が隠され、軍勢は自由に渡れなかったという。同書は、信長が川の上下を見たのち渡河を命じ、兵が歩いて越えられたと伝える。渡り終えたことを強く印象づける叙述だが、渡河地点や水深を現代の地図上で細かく再現できる記述ではない。

信長は京都へ戻り、翌24日には近江の敵に向かったとされる。三好方の城を落としたうえでの移動ではなかった。野田・福島の攻略を断念して、京都に迫る危機への対応を優先したのである。

この結果、三好方は包囲をしのぎ、本願寺もこの局面で織田方を退かせた。ただし、信長の軍事力がここで失われたわけでも、本願寺との和平がこの日に成立したわけでもない。戦争は続き、信長と浅井・朝倉勢の対陣は志賀の陣へ移る。

川の浅瀬を渡って退く織田方の軍勢を描いた想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

通説と俗説の射程。「信長包囲網」で説明できる範囲

三好方、本願寺、浅井・朝倉勢が同じ時期に信長を圧迫した。この情勢を「信長包囲網」と呼ぶと、信長が複数の敵に向き合ったことはつかみやすい。ただし、その言葉だけで各軍の指揮系統や参戦の事情まで説明できるわけではない。

とくに、この戦いで義昭は信長とともに陣を置いていた。義昭が最初から全ての反信長勢力を動かし、野田・福島で信長を罠にかけた、とする説明は、ここで見た経過とは合わない。本願寺の参戦と浅井・朝倉勢の進出が重なった事実と、それらが一つの命令で始まったという主張は別である。

また、信長の撤退を「雑賀の鉄砲だけで敗れた」「浅井長政だけが退かせた」と一つの原因に絞るのも難しい。現地では城を攻め、本願寺の攻撃を受け、離れた京都には危機が迫っていた。複数の戦場を抱えた信長が、何を先に守るかという問題として読む必要がある。

本願寺との戦争は、この撤退で終わらなかった

野田・福島から信長が退いても、本願寺との対立は残った。戦争は大坂周辺の陸戦や補給をめぐる戦いへと続く。後年の木津川口の戦いでは、本願寺へ物資を届ける海上の道が大きな争点になった。

西本願寺の通史は1580年の和議と顕如の大坂退去を記す。 1570年の野田・福島の戦いを知ると、この約10年の抗争の始まりが見える。三好方を攻めるために集まった軍が、本願寺との新たな戦争に入り、近江の動きによって引き返す。信長の戦いが、一つの城や一つの相手だけでは完結しなかった局面である。

なお、大坂冬の陣は1614年の徳川方と豊臣方の戦争であり、ここで扱った1570年の戦いとは時代も当事者も異なる。前後の出来事は戦国年表でもたどれる。

両軍の対比

織田・将軍方

織田信長・足利義昭

大将:織田信長・足利義昭
総兵力総兵力は確定できない
出陣天王寺・天満が森・海老江など
野田・福島を攻略しきれず撤退
三好方・本願寺方

三好三人衆ら/本願寺顕如

大将:三好三人衆ら/本願寺顕如
総兵力総兵力は確定できない
出陣野田・福島/大坂本願寺
織田方の包囲をしのぐ。本願寺との戦争は継続
vs

戦況の経過

信長が南方へ出兵
8月20日(旧暦)
『信長公記』は横山、京都、枚方を経る進軍を記す。
野田・福島を包囲
8月26日(旧暦)
織田方の先陣が周辺に展開し、信長は天王寺に陣を置く。
楼の岸・川口に砦
9月8日(旧暦)
本願寺のある大坂を警戒する位置に、織田方が砦を築く。
信長と義昭が海老江へ
9月12日(旧暦)
両者が同じ陣所へ進み、野田・福島への攻撃を強める。
本願寺が織田方を攻撃
9月13日夜(旧暦)
『信長公記』によれば、大坂から楼の岸・川口の砦へ鉄砲を撃ちかけた。
近江から京都へ危機が迫る
9月中旬〜22日(旧暦)
浅井・朝倉勢が坂本方面へ進み、戦闘で森可成らが戦死。京都に迫る動きの知らせが信長に届く。
信長が野田・福島から撤退
9月23日(旧暦)
和田惟政・柴田勝家を殿に置き、中島から江口を経て京都へ帰る。

その後の世界

1570年9月
信長は京都に戻り、近江の浅井・朝倉勢に向かう。戦局は志賀の陣へ移る。
1570〜1580年
本願寺と信長の戦争は約10年続き、雑賀衆なども関わる。
1580年
本願寺と信長の和議が成立。顕如は大坂を退去し、紀伊の鷺森へ移った。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 7.野田城跡
    大阪市参照日 2026-10-27
  2. 圓満寺真宗関係史料 一括(4点)
    大阪市参照日 2026-10-27
  3. 本願寺の歴史
    西本願寺参照日 2026-10-27
  4. 滋賀学区の歴史
    大津市参照日 2026-10-27
  5. 大坂冬の陣・夏の陣
    国立公文書館参照日 2026-10-27

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-28

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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