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戦国時代上杉氏15551623
上杉景勝|御館の乱を制し米沢藩祖となった五大老の沈勇の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
上杉謙信長尾政景仙桃院
うえすぎ かげかつ

上杉景勝|御館の乱を制し米沢藩祖となった五大老の沈勇

UESUGI KAGEKATSU · 1555 — 1623 · 享年 69

御館の乱を制し直江状で家康と対峙、米沢三十万石を守って上杉家を後世に伝えた沈黙の名将

上杉
生年
弘治元年11月27日
1556年1月8日(新暦換算)/上田長尾家・長尾政景の子として越後魚沼に生まれる
没年
元和9年3月20日
新暦1623年4月19日/米沢城にて病没/享年69(数え)/満67
出身
越後国魚沼郡上田庄
坂戸城(現・新潟県南魚沼市)
居城
春日山城→会津若松城→米沢城
御館の乱で春日山入城/慶長3年会津120万石/慶長6年米沢30万石
家紋
竹に飛雀(上杉笹)
TAKE-NI-TOBI-SUZUME

上杉景勝

上杉景勝は、謙信の武勇や兼続の知略の影に隠れ、「兼続に任せきり」と軽んじられがちな沈黙の当主でありながら、御館の乱から関ヶ原、米沢減封までの激動を耐え抜き、上杉家という大名家そのものを後世へ存続させた最大の功労者である。

彼の始まりは、越後魚沼郡上田庄の坂戸城だった。長尾政景の子として生まれ、母・仙桃院を通じて上杉謙信につながり、父の死後に春日山へ入る。やがて長尾顕景から景勝へ名を改め、謙信の養子として上杉家の中枢へ立つ。だが、同じ春日山にはもう一人の養子・上杉景虎がいた。

謙信急逝の後、景勝は御館の乱を制して家督を確定する。そこから新発田重家の乱を鎮め、豊臣政権では五大老格の会津百二十万石へ進んだ。ところが、秀吉の死で情勢は反転する。直江状、会津征伐、関ヶ原、長谷堂城の撤退、そして米沢三十万石への大減封。景勝の生涯は、勝ち上がる物語である以上に、落とされても家を残す物語である。

米沢移封後、景勝は約六千人の家臣団を抱え、直江兼続を執政に据えて治水・新田開発・産業振興を進めた。慶長九年(一六〇四年)には嫡男・定勝が生まれ、継承の道も開ける。さらに大坂冬の陣では鴫野方面を制圧し、老将として前線に立った。

その最期は静かである。元和九年(一六二三年)三月二十日、景勝は米沢城本丸で病没した。新暦換算では一六二三年四月十九日、享年六十九(数え)、満六十七である。戦死でも自害でもなく、病名は定かでない。派手な最期ではなく、家督を定勝へつなぎ、米沢藩三十万石を残して閉じた生涯だった。

だから景勝を、謙信と兼続の間に挟まった無口な人物で済ませると、いちばん大事なものを落とす。彼が残したのは、勝利の数ではない。御館の乱で家督を取り、関ヶ原後に謝罪して家門を残し、米沢で家臣団を抱え続けた判断である。史料の読み分けは、この先の読み解きで確かめる。

01出自と養子BIRTH

上田長尾家から越後上杉家へ — 顕景から景勝へ

越後魚沼坂戸城・上田長尾家の生誕地
越後魚沼坂戸城・上田長尾家の生誕地

弘治元年(1555年)十一月二十七日、上杉景勝は越後国魚沼郡上田庄坂戸城(現・新潟県南魚沼市)に生まれた。新暦換算では一五五六年一月八日である。父は上田長尾家当主・長尾政景、母は長尾為景の娘で上杉謙信の姉にあたる仙桃院。幼名は卯松、長じて喜平次と称したこの少年は、越後の在地領主の血と、上杉家へ届く母方の縁をあわせ持っていた。

永禄七年(一五六四年)七月五日、父・政景が上田荘の野尻池で水死すると、十歳の喜平次は伯父・上杉謙信のもとへ移る。坂戸城の若君は春日山城へ入り、母方の上田衆に支えられながら、上杉家中枢の空気を吸って育った。ここで景勝の人生は、上田長尾家の跡取りから、越後上杉家の後継候補へ大きく動き出す。

実名はまず長尾顕景と名乗った。だが天正三年(一五七五年)正月、謙信は顕景を新たに景勝と改名させる。この一字はただの名替えではない。春日山の家中に向けて、謙信がこの青年をどう見ているかを示す、静かな合図でもあった。上田衆を背負う若者は、謙信の家を継ぎ得る存在として前へ押し出されたのである。

しかし、春日山にはもう一人の養子・上杉景虎がいた。北条氏康の子・三郎として生まれ、越相同盟の後に上杉へ入った景虎は、春日山城下の御館に居を構える。景勝と景虎。二人の養子がそれぞれに支持基盤を持つまま、謙信の生前に正規の家督指名は定まらなかった。上田長尾家の喜平次が景勝となった時、越後上杉家はすでに次の嵐を腹に抱えていた。

直江状イメージを踏まえた後世的要約(原本欠失・写本のみ)

当家は義を以て立つる家にて、義のためには命をも顧みず ─ 直江状にこめられた景勝・兼続の意思として後世に要約された一節。

—— 慶長5年(1600年)写本系統より
02御館の乱OTATE

御館の乱 — 景虎を破り上杉家の正統を確定

御館の乱・春日山城と景虎の鮫尾城
御館の乱・春日山城と景虎の鮫尾城

天正六年(一五七八年)三月十三日、上杉謙信が春日山城内で急逝した。妻帯せず実子を持たなかった謙信の死は、越後上杉家を一気に揺らす。春日山の空気が凍る中、景勝は本丸と金蔵を押さえ、上田衆を中心に支持勢力を結集した。先に中枢を握ることが、家督争いの第一手だった。

これに対し、上杉景虎は春日山城下の御館に拠った。景虎は北条氏康の子・三郎であり、永禄十二年の越相同盟成立後に上杉へ養子入りした人物である。御館は関東管領上杉憲政の隠居館でもあり、景虎方には北条との縁、関東管領家の名跡、越後国人衆の思惑が重なった。越後は、景勝方と景虎方に割れる。

戦いはただの兄弟争いでは終わらない。同年閏七月以降、上越国境では武田勝頼の動きが絡み、景勝は勝頼の妹・菊姫を正室に迎える道を開く。甲越和与によって、景虎方の背後にあった力の流れは変わった。春日山の内戦は、越後だけでなく、北条・武田を巻き込む大きな政治戦へ広がったのである。

やがて同年十月までに景虎方の御館は孤立する。翌天正七年(一五七九年)三月二十四日、景虎は春日山北方の鮫尾城(現・新潟県妙高市)で自刃した。関東管領上杉憲政も、この乱の混乱の中で景勝方に討たれたと伝わる。勝った景勝も、明るい凱旋だけを得たわけではない。家中の傷と論功行賞の不満を抱えたまま、上杉家の当主となった。御館の乱は、景勝が上杉家を継いだ勝利であり、同時に次の内乱を生む重い出発点だった。

米沢藩士に伝わる後世の口碑

家中六千人、これを養うが米沢三十万石の戦である ─ 米沢減封後の景勝の心境を江戸期が伝えた口碑。

—— 後世の口碑
03新発田の乱SHIBATA

新発田重家の乱と織田の北陸侵攻 — 内憂外患の試練

新発田城落城と北陸戦線
新発田城落城と北陸戦線

御館の乱を制した景勝に、すぐ平穏は来なかった。天正八年(一五八〇年)から天正十五年(一五八七年)にかけて、越後上杉家は内と外から締めつけられる。御館の乱の論功行賞に不満を抱いた新発田城主・新発田重家は、天正九年(一五八一年)に景勝への離反を表明した。北越後の有力国人衆を糾合し、上杉家に叛旗を翻したのである。

重家は織田信長と通謀し、上杉家への圧力分散を狙った。信長は同年から柴田勝家・佐々成政らに北陸侵攻を命じ、越中・能登方面から越後を窺う。天正十年(一五八二年)三月には武田勝頼が天目山に敗死し、四月以降は信長方の魚津城攻めが進む。六月初頭、魚津城は落城した。景勝は、北越後の反乱と北陸の織田勢に挟まれた。

ところが同月二日、本能寺の変で信長が斃れる。織田方の圧力は一気に瓦解し、景勝は北陸戦線を膠着・撤収させる余地を得た。さらに天正壬午の乱では、徳川家康・北条氏直との勢力角逐の中、上杉勢が北信濃へ進出し、川中島・海津城を確保する。滅びかねない包囲の中で、景勝は一つずつ戦線をほどいていった。

新発田重家との戦いは長期化した。直江兼続・藤田信吉ら景勝麾下の諸将は、新発田領内の支城を段階的に攻略する。天正十五年(一五八七年)十月二十五日、新発田城は落城し、重家は滅亡した。内乱はようやく終わる。御館の乱で家督を得た景勝は、新発田の乱を越えて初めて、越後一国支配の足場を固めた。

04五大老・会津AIZU

豊臣政権下で五大老 — 会津百二十万石への移封

会津若松城・五大老就任
会津若松城・五大老就任

新発田の乱を平定する前後から、景勝は豊臣秀吉への臣従を進めていた。天正十四年(一五八六年)六月、景勝は上洛して秀吉に拝謁し、正式に豊臣大名としての地位を得る。越後の内戦をくぐった当主は、ここで中央政権の舞台へ入った。

上洛後、景勝は段階的に官位を進めた。左近衛権少将・参議・権中納言を経て、文禄期(一五九〇年代前半)には従三位・権中納言に叙任される。以後、米沢中納言、会津中納言の名で呼ばれるようになった。天正十六年(一五八八年)には豊臣姓を賜与され、文禄・慶長の役にも一部関与しつつ、奥羽仕置以降は越後・佐渡・出羽庄内・信濃川中島四郡を含む約九十一万石の領主として、豊臣政権の中核に位置取る。

慶長三年(一五九八年)正月十日、秀吉は景勝に会津移封を命じた。同年三月、景勝は会津若松城に入部する。新領国は陸奥国の会津・信夫・伊達などの諸郡、出羽国置賜・庄内、佐渡を含む広域大領国で、表高はおおむね百二十万石と称された。蒲生秀行の旧領を中心に、上杉旧領の庄内・佐渡を加えた配置である。奥羽から越後・北陸を結ぶ北方要石を、景勝は担うことになった。

同時期、景勝は徳川家康前田利家毛利輝元・宇喜多秀家とともに五大老の一人に数えられる地位を占めた。幼少の秀頼を補佐する政治体制の一翼である。だが慶長三年八月十八日、秀吉が伏見城で没すると、政権の均衡は崩れ始める。五大老の中で最年長の徳川家康が私的婚姻・知行宛行を推し進め、緊張は急速に高まった。会津百二十万石は栄光の到達点であると同時に、豊臣政権崩壊の前線へ置かれた危険な配置だった。

05直江状・関ヶ原SEKIGAHARA

直江状と関ヶ原 — 家康への対峙と長谷堂の撤退

直江状・長谷堂城撤退と米沢減封
直江状・長谷堂城撤退と米沢減封

秀吉没後、徳川家康の専横が顕在化する中、景勝は会津で軍備の整備を進めた。慶長五年(一六〇〇年)春、家康は景勝に謀叛の備えの嫌疑をかけ、上洛して弁明することを要求する。これに対する直江兼続返書が、四月十四日付の直江状として伝わる。景勝は会津を動かず、兼続は上杉家の面目を背負って強い言葉を返した。

六月十六日、家康は会津征伐の名目で大坂を発し、東へ向かった。すると七月十七日、石田三成・大谷吉継らが家康打倒の挙兵に踏み切る。家康は反転し、九月十五日の関ヶ原本戦へ向かう。景勝は会津で東軍の南下に備えたまま、戦国末期最大の政局の渦中に立った。会津から動かないこと自体が、家康への対峙になったのである。

九月以降、出羽方面では最上義光との戦いが動く。直江兼続が指揮する上杉軍は、最上方の長谷堂城を包囲した。だが関ヶ原本戦の西軍敗報が届くと、戦の意味は変わる。兼続は規律ある殿軍を編成し、米沢方面へ撤退した。長谷堂城の戦いは、華やかな勝利ではなく、敗勢の中で軍を崩さず引く戦だった。

慶長六年(一六〇一年)七月、景勝は兼続を伴って上洛し、家康に謝罪した。同年八月二十四日、上杉家は会津百二十万石から出羽米沢三十万石への大幅減封を命じられる。新領国の表高三十万石は、出羽置賜十八万石余と陸奥信夫・伊達十二万石を合わせた数字である。景勝は勝者になれなかった。だが、ここで家を残す道を選んだことが、上杉家の未来をつないだ。

06米沢・大坂YONEZAWA

米沢藩政と大坂の陣 — 沈黙の名将の晩年

米沢城・鴫野の戦いと景勝の晩年
米沢城・鴫野の戦いと景勝の晩年

慶長六年(一六〇一年)八月の米沢三十万石への減封決定を受けて、景勝は同年中に出羽米沢へ移った。会津百二十万石から三十万石へ。数字だけ見れば大転落である。しかも家臣団は約六千人をほぼそのまま抱えての出発だった。藩財政は当初から逼迫し、米沢での景勝は、戦場よりも重い日々の統治に向き合う。

景勝は直江兼続を執政の中心に据えた。松川(最上川上流)の治水と新田開発、城下町米沢の整然とした町割、漆・蝋・紅花などの産業振興。派手な勝利ではないが、家を残すには避けて通れない仕事である。三十万石で六千人を養う現実こそ、米沢藩政の出発点だった。

慶長九年(一六〇四年)十一月二日、四十九歳の景勝に、側室・桂岩院(四辻公遠の娘)との間で長男・玉丸、のちの上杉定勝が生まれた。正室・菊姫(武田信玄の娘・大儀院)との間に子はなく、菊姫は同年二月十六日に伏見で没していた。庶子ではあるが定勝は嫡子として遇され、米沢藩二代藩主の地位を継ぐ道が開ける。家を残す景勝の戦いは、ここでようやく継嗣という形を得た。

慶長十九年(一六一四年)十一月、大坂冬の陣が起こると、景勝は徳川方として出陣した。同月二十六日の鴫野の戦いで、大坂方の鴫野・今福両拠点を急襲し、鴫野方面を確保して大坂方の木村重成・後藤基次(又兵衛)らを退却に追い込む。佐竹義宣が今福方面で苦戦すると援軍を送り、東軍の冬の陣初期の戦果を支えた。元和元年(一六一五年)の夏の陣にも参陣し、戦後は米沢藩主として藩政整備に専心する。

元和九年(一六二三年)三月二十日、景勝は米沢城本丸で病没した。新暦換算では一六二三年四月十九日、享年六十九(数え)、満年齢では六十七である。戦死でも切腹でも暗殺でもない。病名は定かでないまま、家督は嫡男・定勝へ継がれた。沈黙の当主が最後に残したものは、勝ち名乗りではなく、米沢三十万石で続く上杉家そのものだった。