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戦国時代〜江戸初期赤座氏1606
武将列伝戦国時代〜江戸初期豊臣

あかざ・なおやす

赤座直保関ヶ原で失領した今庄の領主

? – 1606AKAZA NAOYASU
赤座直保の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。モチーフ参考: AIによる想像図
  • 越前
  • 今庄
  • 関ヶ原の戦い
生年
不詳享年も確定できない
没年
慶長11年1606年
本拠
越前今庄南条郡の在地領主
晩年
松任城代加賀・前田家のもとへ

赤座直保は、越前今庄付近を領した戦国武将で、吉家とも呼ばれる。 織田・豊臣の政権下で活動し、関ヶ原の戦いのあとに領地を失った。 小早川秀秋に呼応して東軍へ転じたのに改易された、という通説で知られている。

その結末から人生を逆算すると、直保は判断を誤った武将の一人に見える。 けれども、関ヶ原の十一年前、大桐村の灰焼きの営業を認めた赤座吉家の文書には、戦場とは違う仕事が残っている。 村の仕事を許し、負担を徴収し、有力な武将のもとへ配置される。 ここでは、越前の領主としての足跡から、松任城代となった晩年までをたどる。

01越前の領主ECHIZEN

今庄から始まる赤座の足跡

今庄付近の山間の道をイメージしたAI想像図(AI生成イメージ)
今庄付近の山間の道をイメージしたAI想像図 · AI生成イメージ

赤座直保の名を聞いて、関ヶ原の寝返りを思い浮かべる人は多い。 しかし、その一日へ向かう道をさかのぼると、越前の村や土地にかかわる別の姿が現れる。 直保は吉家とも呼ばれ、久兵衛の通称でも記録に登場する武将である。 活動の足場となったのは、越前南条郡の今庄付近だった。

今庄という地名は、関ヶ原の戦後処分で突然現れるわけではない。 『福井県史』は、豊臣政権末期の赤座久兵衛を、古くから今庄近郊に土地を持つ領主として位置づける。 大きな政権の交代があっても、赤座の活動はこの地域に結びついていた。 織田時代には所領の確認を受け、豊臣時代には村の営業を認める側に立つ。 全国の政治と村の日々の仕事をつなぐところに、直保の居場所があった。

生まれた年はわからない。 幼少期を飾る確かな物語も、ここで紹介できるだけの裏付けはない。 それでも、土地に関する記録を年代順に並べれば、赤座氏が越前の支配体制に組み込まれていく過程を追うことができる。 人物の出発点を、想像した少年時代に求める必要はない。 土地を誰が認め、村の仕事を誰が許し、どの大名のもとに配置されたのか。 その問いからたどると、関ヶ原の陣立てだけでは見えなかった領主の仕事が浮かんでくる。

02織田政権下LAND GRANTS

信長の領地再編と府中三人衆

土地に関する文書を受け取る領主の姿を描いたAI想像図(AI生成イメージ)
土地に関する文書を受け取る領主の姿を描いたAI想像図 · AI生成イメージ

織田信長が越前の支配を組み直すと、赤座氏の土地もその枠内で扱われた。 天正三年(1575)十一月二十五日、信長が赤座小法師へ出した知行の文書を『福井県史』が紹介している。 新たに与える土地の内容を定める際に、かつての越前の支配者、桂田長俊の書き出した内容が参照されたという。 政権が変わったあとにも、以前の土地の記録が使われていたのである。

翌天正四年(1576)五月には、赤座吉家の名が見える。 信長が認めた土地を吉家が領有することについて、前田利家・佐々成政・不破光治の三人が連名で文書を出した。 この三人が、越前の府中三人衆と呼ばれる武将たちである。 赤座は三人衆の一人ではなく、その支配のもとで土地を確認された領主だった。 信長の意向が地域の武将を通じて具体的な所領の扱いへ届く、その過程に吉家の名が残った。

天下人に仕えるという言葉だけでは、土地を守る仕組みまでは見えてこない。 信長の決定があり、府中でそれを実行する三人衆がおり、現地に所領を持つ赤座がいた。 吉家の歩みは、そうした複数の段階を持つ支配の中で進んでいた。 のちに加賀の前田家とかかわる赤座にとって、前田の名は関ヶ原後に初めて現れたわけでもなかった。 ただし、この時点の利家との接点を、そのまま生涯一貫した直臣関係と読むことはできない。

03村の仕事VILLAGE ECONOMY

灰を焼く村に残った吉家の名

灰焼きの仕事と山村の暮らしをイメージしたAI想像図(AI生成イメージ)
灰焼きの仕事と山村の暮らしをイメージしたAI想像図 · AI生成イメージ

豊臣秀吉の時代になると、吉家は越前の村の営業にかかわる文書に姿を見せる。 天正十七年(1589)十月二日、南条郡大桐村に灰焼きの独占的な営業を認めた。 『福井県史』とその年表が、村に伝わる文書をもとに紹介する事績である。 合戦の戦功とは異なる、領主としての権限が具体的に見える一件だった。

山の木々は、村の人々が暮らすための材料でもあった。 大桐村で作られた灰は、紺灰と呼ばれる染色に用いる品だったと県史は説明している。 京都の紺屋へ売られたとも伝えられ、山での仕事と町での染物づくりを結びつけていた。 吉家はこの営業を認める一方で、はい山手と呼ぶ負担を村から徴収した。 許可と徴収の両方を扱うことが、領主の仕事だった。

この記録から、直ちに吉家を産業振興の名君と呼ぶことはできない。 しかし、彼の支配が田畑の年貢だけでは説明しきれないことはわかる。 どの村が山の資源を使い、何を作り、その仕事にどのような負担を課すのか。 そこに領主の判断が入り、文書として残された。 後世の関ヶ原の物語では脇役となる赤座が、この文書では営業を認める当事者なのである。

秀吉のもとでは、小田原攻めで軍功を挙げたとも伝わる。 戦場へ出る武将であると同時に、越前に戻れば村の仕事を扱う領主でもあった。 関ヶ原へ向かう前の吉家の足元には、こうした日常の支配があった。

04豊臣政権末期CHANGING COMMAND

堀尾吉晴の寄力に組み込まれる

豊臣政権末期の領主と文書のやり取りを描いたAI想像図(AI生成イメージ)
豊臣政権末期の領主と文書のやり取りを描いたAI想像図 · AI生成イメージ

秀吉が亡くなったあと、越前でも大名の配置が動いた。 慶長四年(1599)、小早川秀秋は越前を離れて筑前・筑後へ戻り、青木一矩が北庄に入った。 さらに同年十月、堀尾吉晴(県史では可晴)が五万石をもって府中の留守居となる。 『福井県史』が紹介するこの配置の記録に、赤座久兵衛の名がある。

久兵衛だけが単独で吉晴に付けられたのではない。 江原小五郎、乙部左門、友松忠右衛門、野村勝次郎らとともに、吉晴の寄力として配置された。 寄力とは、有力な武将のもとに付属させる編成である。 土地を持つ武将が、地域を取りまとめる役のもとへ組み込まれていた。 赤座の活動を理解するには、天下人との主従だけでなく、この地域ごとの配置にも目を向ける必要がある。

ここで、府中という場所が再び現れる。 織田時代には三人衆が赤座吉家の土地を認め、豊臣政権末期には堀尾吉晴のもとへ赤座久兵衛が付けられた。 同じ越前の中でも、所領を持つ武将を束ねる側は変わっていく。 赤座は土地に根を下ろしながら、上に立つ権力の組み替えを経験していた。

翌年、その配置だけでは説明できない東西の分裂が起きる。 関ヶ原の際、県史は堀尾氏を東軍側、赤座直保を西軍側として扱っている。 前年の寄力関係が、そのまま翌年の陣営を決めたわけではなかった。 地域の領主をまとめていた仕組みと、戦争でどちらに属するかという選択の間に、食い違いが生じたのである。

05関ヶ原SEKIGAHARA

東軍へ転じたと伝わる武将の失領

関ヶ原の戦いを想起させる陣地のAI想像図。特定の布陣の復元ではない(AI生成イメージ)
関ヶ原の戦いを想起させる陣地のAI想像図。特定の布陣の復元ではない · AI生成イメージ

慶長五年(1600)、赤座直保は西軍に属した。 関ヶ原で小早川秀秋の動きに呼応し、大谷吉継の部隊を攻めた武将の一人として知られている。 脇坂安治、小川祐忠、朽木元綱とともに語られることの多い場面である。 戦場で西軍から東軍へ転じたという話が、直保の名を後世に残した。

ところが、合戦後に直保を待っていたのは所領の安堵ではなかった。 赤座は越前の領地を失った。 『福井県史』も、関ヶ原後に除封となった西軍側の領主の一人として、その名を挙げている。 除封、あるいは改易とは、それまでの領地を取り上げられる処分である。 村の営業を認め、土地の支配にかかわってきた立場を、直保は維持できなかった。

東軍を助けたとされる人物が、なぜ処分されたのか。 その意外さから、直保の話は勝ち馬に乗ったのに報われなかった武将の物語として語られてきた。 ただ、戦場での寝返りと戦後の領地の保障は、同じ出来事ではない。 軍勢が向きを変えたという説明だけでは、その前に誰と何を約束し、戦後にどう扱われたかまではわからない。

直保の決断の瞬間や、徳川家康から受けた言葉を、ここで再現することはできない。 たどれるのは、西軍に属したこと、東軍に転じたと伝わること、そして越前の所領を失ったという結果である。 関ヶ原は直保の人生の終わりではなかったが、今庄の領主として歩んだ時代には大きな区切りを付けた。

06加賀への道MATTO

前田家のもとで松任城代となる

松任での晩年をイメージした赤座直保のAI想像図(AI生成イメージ)
松任での晩年をイメージした赤座直保のAI想像図 · AI生成イメージ

越前の領地を失ったあとも、赤座の名は北陸の歴史から消えなかった。 直保は前田利長に仕え、加賀の松任城を預かる立場になったとされる。 城郭の事典は、関ヶ原後に前田領となった松任城の城代として、赤座吉家を挙げている。 今庄から松任へと、活動の中心が移っていった。

松任城は、関ヶ原以前には丹羽氏の支配にあった。 戦後に丹羽長重が領地を失い、前田利長がこの地を得る。 赤座が移った先もまた、関ヶ原後の領地再編によって支配者が替わった場所だった。 自らの所領を失った武将が、別の領主のもとで城を預かる。 大名として土地を領する地位と、家臣として城代を務める地位は違う。 松任での役目を得たことは、今庄の領地が戻ったことを意味しない。

それでも、家を存続させるうえでは大きな転機だった。 戦後の処分によって赤座氏がただちに断絶したわけではなく、前田家のもとで次の世代へ続いていく。 金沢市の墓所解説は、直保の子の孝治が利長に仕えたことも伝えている。 父の晩年と子の奉公を分けて見れば、関ヶ原の失敗だけでは語れない家の歩みが見えてくる。

織田時代、吉家の土地を認めた府中三人衆には前田利家がいた。 今度はその子の利長のもとで、赤座家が生きる道を得る。 かつての接点が採用の直接の理由だったかはわからない。 それでも、越前と加賀をまたぐ赤座の足跡には、二代の前田氏との関係が刻まれている。

07最期と家の存続FAMILY AFTERLIFE

慶長十一年の死と金沢に残る墓

水死の伝承にちなむ増水した川のAI想像図。事故現場の再現ではない(AI生成イメージ)
水死の伝承にちなむ増水した川のAI想像図。事故現場の再現ではない · AI生成イメージ

慶長十一年(1606)、赤座直保は没した。 越中国の大門川の洪水で溺死したという最期が伝えられている。 関ヶ原で領地を失ってから六年後のことだった。 生年が確定できないため、何歳の死だったかはわからない。

この水死を、関ヶ原の寝返りに対する報いとして語る筋書きも作りやすい。 だが、合戦での行動と六年後の事故を結びつけても、直保の死の理由が説明されたことにはならない。 晩年には松任という新しい持ち場があり、赤座家は前田氏のもとに残った。 最期の一場面だけで、その数年間を消してしまうべきではない。

直保、すなわち吉家の墓は、金沢の棟岳寺に伝わる。 この寺は、赤座氏とともに越前と加賀を結ぶ場所である。 寺伝によれば、明応元年(1492)に越前の新道村で創建され、慶長八年(1603)に金沢へ移った。 現在の小立野の地に落ち着くのは、直保の没後となる慶安二年(1649)である。 寺の移転をたどると、いま残る墓所と、直保が生きた当時の場所を区別して考えることもできる。

赤座の家は、のちに永原を名乗る。 金沢市の解説は、前田利常の時代の改姓として伝えている。 越前の所領は失われたが、家の奉公と記憶までが途切れたのではなかった。 関ヶ原での寝返りをめぐる評判の陰で、土地を離れ、仕える先を変え、家を次へつないだ歩みが続いていた。

02
READING

史料の読み解き

赤座直保の履歴には、文書を通じて確かめられる仕事と、後世によく知られる合戦の物語がある。 両者を同じ強さで語ると、関ヶ原での一場面だけが人物像を決めてしまう。 まず、何が記録され、何がその記録からの解釈なのかを分けてみたい。

吉家・久兵衛・直保という名前を追う

赤座の名は、資料ごとに同じ形で現れるわけではない。 『福井県史』の織田時代の記述には吉家、豊臣政権末期の配置には久兵衛、関ヶ原後の処分には直保が登場する。 通称と実名の使い分けがあり、城郭事典や墓所の案内では吉家の名が使われている。 現代の検索では直保だけを探すと、松任や金沢に残る記述を見落としかねない。

ただし、別名を知ることと、同姓の記録を無条件につなぐことは違う。 たとえば天正三年の文書は赤座小法師宛である。 県史がこれを越前の所領関係の中で紹介していることは確認できるが、その呼び名から直保の年齢まで算出することはできない。 小法師という名を幼少の証拠と決めつけ、生年を逆算するのも危うい。

家の資料には、その家の由緒を示すために先祖の名が並ぶ。 同じ地域に同姓の武将が複数いれば、後から人物を同定するには親子関係や土地、年代の照合が必要になる。 岐阜県歴史資料館の『赤座氏遺書』を直保の父の履歴としてそのまま移すことができないのも、このためである。 知られていない生年や父の名は、物語を補えば埋められる空欄ではない。

灰焼きの許可から、どこまで言えるか

大桐村の記録は、直保の領主としての働きを考えるうえで具体的である。 県史は前川三左衛門家に保管された文書を示し、天正十七年の赤座吉家による営業の承認を説明している。 同じ事績が県史年表にも載っているが、これは別々の証言が二つあるという意味ではない。 一つの文書の内容を、通史と年表の二つの形式で紹介しているのである。

この許可から言えるのは、吉家が村の灰焼きの営業を認める権限を行使したことだ。 村の所得がどれだけ増えたか、他村との競争がどう変わったか、村人がその支配をどう評価したかまではわからない。 負担の徴収も伴う以上、許可の一面だけを切り取って、慈悲深い政策と評価することもできない。 一方、合戦で目立った武功が少ないから、領主として仕事をしていなかったとする見方も、この文書とは合わない。

染色に使う灰という品目にも注意したい。 山で火を使って作るものだからといって、炭焼きと同じ仕事に置き換えると、生産物が変わってしまう。 県史の説明は紺灰であり、京都の紺屋とのつながりは伝承として記している。 吉家が京都への販売網を自ら建設したとか、染色の新技術を導入したとまでは書かれていない。 記録にある小さな仕事を、その大きさのまま読む方が、実際の領主像に近づける。

寄力は「ずっと同じ主君に仕えた」と同じか

直保の経歴は、朝倉、織田、豊臣、前田という家名の列で紹介されることがある。 しかし、どの政権の支配下にいたか、誰の軍事的な指揮下に付けられたか、誰の直臣だったかは、区別する必要がある。 一つの家名の列だけでは、関係の種類と、それがいつ成立したのかが省かれてしまう。

織田時代の赤座吉家の場合、信長が認めた所領を、府中三人衆が現地で確定する役割を担っていた。 県史は三人衆を柴田勝家の寄力とする一方、その支配の独自性にも触れている。 その三人衆が扱った赤座の土地を、ただちに前田利家個人から与えられた家臣領と読み替えることはできない。 連署した人物の一人だけを取り出すと、地域支配の仕組みが見えなくなる。

豊臣政権末期には、小早川秀秋の寄力だったとする説明も知られる。 『歴史街道』はこの関係を推定を含む書き方で紹介している。 これに対し、慶長四年十月の堀尾吉晴のもとへの配置は、県史が具体的な記録を挙げて説明する。 両方を一本の確定した辞令の履歴のように並べるより、根拠の違いを残して読む方がよい。

こうして見れば、関ヶ原で小早川に従ったという話を、過去の主従関係だけで説明し切ることもできなくなる。 前年に地域で付けられた先は堀尾であり、その堀尾氏と赤座は翌年には東西に分かれた。 配置の記録は判断の背景を考える材料になるが、直保が何を理由に陣営を選んだかという答えまでは与えてくれない。

寝返りの通説と、改易の理由を分ける

関ヶ原での赤座隊は、六百人とする説明が広く知られる。 小早川秀秋の寝返りに呼応し、大谷吉継の側を攻撃したという筋書きである。 本記事でもこの通説を紹介するが、六百という数を同時代の点呼記録として扱ったり、攻撃の時刻や順番を分単位で再現したりはしない。 今回確認できた解説だけでは、そこまで細かな戦闘経過を確定できないためである。

より慎重であるべきなのは、改易の理由だ。 事前に東軍へ意思を伝えていなかったので、功績を認められなかったという説明がよくなされる。 鷹橋忍の『歴史街道』の記事も、その可能性を示している。 ただし、記事自体が推測として述べており、家康がそう裁定した文書を示しているわけではない。

「事前の約束が確認できない」と「事前の約束をしなかったため処分された」の間には、段階がある。 前者は確認できる史料についての説明であり、後者は処分の原因を特定する説明である。 前者から後者へ進むには、判断した側の記録など、さらに別の根拠が必要になる。 家康が裏切り者を嫌ったという心理描写を足しても、その不足は補えない。

また、同じく東軍へ転じたとされる武将たちの処遇を比較する場合にも、各人の戦前の所領や交渉を個別に確認しなければならない。 複数の人物が同じ場面に登場することと、同じ条件で恩賞を求めたことは別である。 赤座の改易を説明するために、他の人物の石高や交渉を単純化すると、比較の土台そのものが揺らいでしまう。

確実に押さえたいのは、東軍への転換の物語があっても、直保の越前領有は戦後に認められなかったという結果である。 そこから理由を問うことはできる。 しかし、理由が一つに決まったように語るには、現在示せる根拠では足りない。

二万石と七千石を引き算しない

関ヶ原前の赤座領は今庄二万石と紹介される。 石高は規模をつかむ手掛かりになるが、今回参照した県史は、戦後処分を説明する表の数値をそのまま信頼できないと注意している。 表が依拠するのは後世の『廃絶録』であり、領主名と処遇を追う用途と、正確な石高を確定する用途を分けて考える必要がある。 本記事でも二万石は通説の数値として示した。

戦後の七千石については、さらに父子の区別が加わる。 直保本人に与えたとする解説がある一方、市の墓所解説は子の孝治の知行としている。 この二つの数字を並べ、赤座は一万三千石を減らされたと計算しても、史料にない一続きの減封を作ってしまう。 越前の領主としての地位を失うことと、加賀の前田家で知行を得ることは、支配の枠組みそのものが違う。

松任城代という役目も、石高と同一ではない。 城を預かる立場に置かれたことから、その城と周辺のすべてを独立した領地として所有したとは言えない。 直保の晩年は、大名としての復活よりも、前田家における奉公の場を得たこととして捉える方が適切である。 家の存続を考えるには、数字の大小だけでなく、誰に仕え、どの役目を担い、誰が次へ継いだかを見る必要がある。

水死を「報い」の物語にしない

直保の死は、慶長十一年の大門川での水死として紹介される。 没年は金沢の墓所解説にも見えるが、洪水時の詳しい行動は今回確認した資料からは確かめられない。 領内を救おうと自ら見回った、家臣の制止を振り切った、馬ごと流されたといった場面を追加すれば、文章は劇的になる。 その分だけ、根拠のない行動も増える。

とりわけ、関ヶ原で敵に回した大谷吉継の死と、直保の水死を因果関係で結ぶ語りには注意が必要である。 両者の間に六年という時間があり、直保はその間に仕える先と役目を変えていた。 事故を合戦の道徳的な結末にすると、そこで営まれた生活や家の再建が、物語にとって不要な期間として消えてしまう。

墓所や寺の移転、子の奉公をたどると、見える終わり方は違う。 越前の所領を失った人と家が、加賀で新しい支配関係の中に位置を得ていく。 寝返りを称賛する必要も、後世の評判をすべて否定する必要もない。 ただ、関ヶ原での評価だけで一生を閉じないことが、残された領主の記録と家の記憶を読むための出発点になる。

確度のまとめ

主張確度根拠と留保
1576年、府中三人衆が赤座吉家の所領を確認した高県史が具体的な文書を挙げる。原本の全文は本記事では未実見
1589年、大桐村の灰焼き営業を認めた高村に伝わる文書を県史が紹介。年表は同じ文書に基づく
1599年、赤座久兵衛が堀尾吉晴の寄力に配置された高県史が配置の記録と人物名を示す
西軍側の赤座直保が関ヶ原後に改易された高県史の戦後処分の説明で確認できる
六百人で小早川に呼応し大谷隊を攻撃した中広く知られる通説。人数・戦闘順序を同時代史料で確定したものではない
事前に東軍へ通報しなかったため改易された低処分理由を説明する推測。裁定の根拠史料は未確認
赤座吉家が前田領の松任城代となった中城郭事典と人物解説が記す。知行額の帰属は別問題
1606年に没した高人物解説と自治体の墓所解説で一致
洪水の大門川で溺死した中後世の人物解説に伝わる。事故当日の細部は採らない
直保本人が七千石を与えられた保留父に帰す解説と、子の孝治に帰す市の解説がある
水死や改姓は寝返りへの報い・羞恥による低本記事で確認した根拠からは導けない

※「高」は本記事で示した根拠の範囲で確認しやすい事項を指し、史料の原本をすべて直接調査したという意味ではない。

03
BATTLES

参戦合戦

04
EPISODES

赤座直保の逸話

  1. 逸話 01

    「本能寺で死んだ赤座」を父と決めてよいか

    家の記録を調べる場面のAI想像図。実在史料の複製ではない(AI生成イメージ)
    家の記録を調べる場面のAI想像図。実在史料の複製ではない · AI生成イメージ

    直保の出自を調べると、信長・信忠の時代に生きた別の赤座の名に出会う。 岐阜県歴史資料館が紹介する『赤座氏遺書』には、赤座七郎右衛門という人物が登場する。 斎藤道三を経て織田信忠に仕え、二条御所で討ち死にしたとする家の伝えである。 本能寺の変にかかわる人物ではあるが、戦死の場所は信長のいた本能寺とは区別されている。

    この遺書は享保二年(1717)の資料で、戦死した人物から子孫へ続く由緒を記す。 ところが、公開されている解説は七郎右衛門を直保の父とはしていない。 同じ姓で、同じ織田政権にかかわっていても、それだけで親子の線は引けないのである。 赤座氏の記録を集めることと、その記録をすべて直保の家族の履歴にすることは違う。

    家系図の空白は、埋まっている方が読みやすく見える。 それでも、別人の事績を入れてしまえば、その後の説明まで誤った親子関係に引かれてしまう。 本記事で父を特定しないのは、出自に関心がないからではない。 同姓の人物を結びつけるための根拠が、まだ足りないためである。

  2. 逸話 02

    七千石を与えられたのは父か、子か

    知行と家の記録をイメージした文書・筆記具のAI想像図(AI生成イメージ)
    知行と家の記録をイメージした文書・筆記具のAI想像図 · AI生成イメージ

    改易後の直保は、前田利長から七千石を与えられたと紹介されることがある。 『歴史街道』の解説もそのように記す。 一方、金沢市文化財保護課の墓所解説では、七千石を受けたのは子の孝治である。 数字は同じでも、奉公と知行を誰に結びつけるかが異なっている。

    この違いを無視して、直保の所領を二万石から七千石へ減ったとだけ説明すると、二つの問題が隠れてしまう。 第一に、越前での改易と、前田家での新たな奉公は別の出来事である。 第二に、父の城代としての役目と、子の知行を分けて確かめる必要がある。 家の略歴では、複数の世代の経歴が短い文章に圧縮されることがあるからだ。

    赤座吉家が松任城代として記されることは、城郭事典でも確認できる。 しかし、その役目が確認できるからといって、七千石の名義まで同時に確定するわけではない。 本記事では、赤座家が前田氏のもとで続いたことを押さえつつ、父本人の確定した俸禄として七千石をプロフィールに載せない。 数字を残すことより、誰の数字なのかを曖昧にしないことを選んだ。

  3. 逸話 03

    棟岳寺は直保が建てた寺ではない

    赤座家を伝える寺の静けさをイメージしたAI想像図。棟岳寺の実景ではない(AI生成イメージ)
    赤座家を伝える寺の静けさをイメージしたAI想像図。棟岳寺の実景ではない · AI生成イメージ

    赤座吉家の墓があるからといって、棟岳寺を吉家が創建した寺と考えると、時代が合わなくなる。 曹洞宗石川県宗務所の寺院紹介は、創建を明応元年(1492)とする。 赤座長秋が父母の供養のため、越前南条郡の新道村に建てたという由緒である。 寺号も両親の戒名から一字ずつ採ったと伝えている。

    直保の晩年とかかわるのは、創建よりも金沢への移転である。 寺伝の移転年は慶長八年(1603)で、関ヶ原後に当たる。 さらに慶安二年(1649)、前田利常から新たに土地を与えられ、現在地へ移った。 越前での創建、金沢への移転、現在地への移転は、三つの異なる段階なのである。

    この区別を付けると、墓所を訪ねる際の見方も変わる。 現在の場所が、そのまま直保の晩年の風景を保存しているわけではない。 家と寺が移りながら、赤座の記憶を金沢に伝えてきた場所として見ることができる。 なお、改姓を寝返りへの恥や罪悪感と結びつける話は、ここで確認した寺伝や市の解説からは裏付けられない。

05
RELATED PEOPLE

関連人物

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 福井県史年表(1581〜1600年)
    福井県文書館参照日 2026-10-03
  2. 赤座氏遺書(享保2年、赤座家文書2363)
    岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-03
  3. 『日本の城がわかる事典』松任城
    講談社(コトバンク掲載)参照日 2026-10-03
  4. 金沢市文化財保護課「赤座吉家の墓(棟岳寺)」公開データ転載
    かなざわ百万石ねっと(原資料・金沢市)参照日 2026-10-03
  5. 宝林山 棟岳寺
    曹洞宗石川県宗務所参照日 2026-10-03

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-10-03

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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