いこま・かずまさ
生駒一正関ヶ原を越え、讃岐を継いだ二代目

- 生年
- 弘治元年1555年・美濃に生まれる
- 没年
- 慶長15年1610年・数え56歳
- 父
- 生駒親正讃岐生駒家の初代
- 本拠
- 高松城1602年に丸亀から移る
- 家紋
- 波引車
父は西軍、子は東軍。 関ヶ原で別々の側に立ちながら、生駒家は讃岐に残った。 その継承を担ったのが、生駒親正の子・一正である。
一正は岐阜城攻めと関ヶ原で徳川家康に従い、慶長6年(1601)に讃岐17万石余を受け継いだ。 翌年には丸亀から高松へ移り、寺社領の安堵や寄進を行いながら、徳川政権のもとで領主としての地位を保った。 城主としては父と子の間に置かれる人物だが、その仕事は「二代目」という呼び名だけでは見えてこない。
父の在任中に出した文書。 決戦前に家康から受けた感状。 寺の鐘や名刀に残った名前。 それぞれの足跡をたどると、天下の大勢が変わるなかで、一つの領国を引き継いだ武将の生涯が浮かぶ。
父の出世とともに、海のある国へ

生駒一正が受け継いだのは、父が築き始めたばかりの領国だった。 弘治元年(1555)、一正は生駒親正の子として美濃に生まれた。 のちに織田信長、豊臣秀吉へと奉公先を移す。 生駒家にとって、織田・豊臣の勢力拡大に加わることは、自分たちの地位と領地を得る道でもあった。
父の親正は秀吉のもとで地位を高め、天正15年(1587)に讃岐を与えられた。 一正は数え33歳。 幼い跡取りとして新天地へ連れられたのではなく、すでに成人した武将として父の領国づくりに関わる年齢だった。 美濃から讃岐へ。 生駒家は瀬戸内海に面した一国を治め、海辺の城と城下町を整える立場になった。
翌天正16年(1588)、親正は高松で築城を始める。 海に近い場所に本拠を置く事業は、城を一つ建てるだけでは終わらない。 家臣を住まわせ、寺社との関係を定め、町の暮らしを支える人々を集める必要があった。 一正の生涯をたどるときにも、合戦の前後に続くこうした仕事を見落とすことはできない。
父の領地は、やがて子が治める土地でもあった。 親正が初代、一正が二代目とされる讃岐生駒家の歴史には、父子がともに活動した期間がある。 家督を渡した日を境に、それまで父だけが行っていた政治を子が一から始めたわけではない。 一正の名前は、正式な相続より前から讃岐の土地に関わる文書に現れる。
信長や秀吉に仕えた時期は、一正の経歴を説明する入口となる。 ただ、その奉公先の名だけでは、彼が讃岐で何をした人物なのかはわからない。 地方に残った寄進状や知行の宛行状へ目を移すと、天下人の家臣という大きなくくりの内側に、領地を扱う一正の仕事が見えてくる。
父の在任中に残した、一正の名の文書

高松の築城が始まった天正16年、一正も讃岐で文書を発給していた。 7月18日付の寄進状は、榎井村の土地と金毘羅の寺社領との関係を伝える。 榎井は現在の香川県琴平町にあたる地域である。 高松城のある海辺から離れた内陸にも、一正の領国運営の足跡が残った。
寺社への寄進は、領主の信仰心を語る材料になる一方、土地を誰に認めるかという政治上の行為でもある。 ある土地の収益を寺社に与えれば、その寺社の活動や維持を支えることになる。 一正の名で寄進状が出されていることは、彼が父のそばで待つだけの後継者ではなかったことを示す。 家督相続前から、領内の相手に対して一定の権利を認める仕事を担っていた。
文禄5年(1596)8月6日には、塩入村の96石余を山崎治左衛門へ宛てた知行宛行状がある。 知行とは、家臣が領主から与えられる土地や収益の権利をいう。 ここでは寺社への寄進とは異なり、家臣に対して領内の収益を割り当てている。 寄進状と宛行状を並べると、一正が寺社と家臣の双方に関わっていたことがわかる。
この時点で、讃岐生駒家の当主はなお親正だった。 父が領国を代表する一方で、成人した子も自分の名で文書を出す。 家の継承は、一度の儀式だけで完了するものではなかった。 一正は相続の日より先に、讃岐で土地を配分し、相手にそれを認める経験を重ねていたのである。
こうした文書の相手は、戦国大名の伝記で大きく扱われる人物ばかりではない。 それでも、村名、石高、宛先が残っているため、領主の働きを具体的に追う手がかりになる。 大きな戦功の名を並べるのとは違う形で、一正は讃岐に自分の名前を刻んだ。 やがて天下を二分する戦争が起きたとき、その讃岐そのものの行方が問われることになる。
讃岐の築城と、海の向こうの戦争

慶長2年(1597)、生駒家は讃岐の西で新たな城を築き始めた。 場所は丸亀の亀山。 親正と一正による丸亀城の築城は、高松とは別に西讃の拠点を整える事業だった。 高松と丸亀という二つの城は、その後の一正と正俊の動きを理解するうえでも欠かせない。
ところが同じ年、一正の活動は讃岐だけには収まらなかった。 秀吉による朝鮮への再侵攻、慶長の役にも出征している。 生駒家の側から見れば主君の命令による軍役だったが、海を渡った先では、朝鮮の人々の暮らしを破壊する侵略戦争であった。 領国づくりを進める大名家は、同時に国外の戦争へ兵を出す役割を負っていた。
徳島県立図書館が公開する阿波水軍の研究では、一正は蜂須賀家政、脇坂安治と同じ第七軍に置かれ、南原城への攻撃に加わったとされる。 南原は朝鮮半島南部の内陸にある。 一正の渡海を語る際には、出発の海だけでなく、上陸後に続いた陸上での軍事行動も視野に入れる必要がある。 船で渡ったことと、水軍の将として海戦を指揮したことは同じではない。
秀吉の大名として求められた出征と、讃岐の領主家として進める築城。 一正の周囲では、この二つが同じ時期に動いていた。 もちろん、本人が朝鮮で行動しながら丸亀の工事現場を直接見て回ることはできない。 親子の築城事業という呼び方の背後にも、家臣や現地の人々によって続けられる仕事があった。
一正の朝鮮出兵は、その後の関ヶ原とは異なる主従関係のもとで行われた。 この段階で奉公の相手は秀吉であり、讃岐の領有も豊臣政権のもとで成立していた。 秀吉の死後、その家臣たちの間から大きな対立が生まれる。 生駒家も対立の外に立つことはできず、父と子は異なる陣営に属することになった。
関ヶ原より先に、家康から届いた感状

慶長5年(1600)6月、一正は子の正俊とともに徳川家康に従って関東へ向かった。 目的は上杉景勝に対する出兵だった。 この行動の時点で、一正と正俊は家康の軍事行動に加わっていた。 その後に戦いの向きが西へ変わっても、一正は家康方から離れなかった。
西方では石田三成らが挙兵し、美濃の岐阜城では織田秀信が西軍に属した。 秀信は織田信長の孫にあたる。 かつて信長に仕えた一正は、この年、その孫の居城を攻める側に回った。 織田家、豊臣家といった古い奉公先だけでは、慶長5年の敵味方を説明できない。
8月23日、一正は岐阜城攻めに加わった。 秀信は東軍の攻撃を受けて降伏し、岐阜城は落ちる。 関ヶ原の本戦より約三週間前のことである。 一正が東軍として戦ったことを示す足跡は、9月15日の決戦だけにあるのではない。
8月25日には、家康が一正に感状を与えた。 感状は合戦での働きを認める文書であり、この出来事は『生駒家宝簡集』を出典とする『香川県史年表』に記されている。 一正の働きは、決戦前にすでに家康の側で認められていた。 岐阜城での参戦と、その直後の感状を組み合わせることで、一正が東軍に属した事実は具体的な日付を持つ。
一方、讃岐に残る父の親正は西軍側に立っていた。 一正が秀信の城を攻めたころ、生駒家という一つの家のなかで、軍事行動の向きは割れていたのである。 一正と父が互いに向かって槍を交えたということではない。 それでも、どちらの陣営が勝つかによって家の処遇が変わりうる状況に、父子がそれぞれ置かれたことは確かだった。
岐阜城の落城で戦争が終わったわけではない。 一正たち東軍の前には、西軍との決戦が残っていた。 岐阜で得た軍功は、戦後に生駒家の領地が残ったという結果からさかのぼって語られる美談とは別に、決戦前の一正の行動として押さえておきたい。
父は西軍、子は東軍。その先に残った家

9月15日、一正は関ヶ原の戦いに東軍として参加した。 家康方の先鋒で戦った武将として、人名辞典や県史年表にその名が挙がる。 岐阜城攻めから続く一正の行動は、東軍への帰属を戦場で示すものだった。 戦いは東軍の勝利に終わり、家康が戦後の大名の処遇を決める立場を固めた。
西軍の側では、石田三成が関ヶ原で軍を指揮し、宇喜多秀家が副大将として大軍を率いた。 毛利輝元は戦役全体の総大将に位置づけられるが、関ヶ原の現場にいたわけではない。 一正はこの西軍と敵対する陣営に属した。 三成、秀家、輝元との関係は、それぞれが担った役割の違いを含めて捉える必要がある。
父の親正側は、丹後の田辺城を攻める西軍へ兵を送っていた。 一正が関ヶ原で東軍に加わったことと、親正の側が西軍へ派兵したことは、同じ家の活動でありながら向きが逆だった。 親正は敗戦後に高野山へ退き、のちに許される。 讃岐の生駒領は没収されず、一正が継ぐことになった。
ここに、生駒父子が語られるときの大きな特徴がある。 勝った側にも負けた側にも家の人間がいたが、戦後には領地と家が残った。 結果だけを見れば、父子の分かれた行動は生駒家の存続につながっている。 ただし、それが最初から仕組まれた役割分担だったかどうかは、別に考えなければならない。
一正の立場を具体的に支えたものとして見えるのは、家康への従軍、岐阜城攻めでの働き、関ヶ原での東軍参戦である。 家が残ったという結果の前に、一正が東軍で行った仕事があった。 父子の機略だけで決着を説明してしまうと、彼自身がどの陣営で何をしたのかが、かえって見えにくくなる。
この戦争で一正が得たのは、父から独立して新たな国へ移る道ではなかった。 父が築いた讃岐の領国を、そのまま次の時代へ受け渡す役割だった。 豊臣政権のもとで領地を得た生駒家は、徳川家康の力が強まるなかでも讃岐に残る。 一正は、その継ぎ目を担う当主となったのである。
丸亀を離れ、高松で領国を引き受ける

慶長6年(1601)、一正は家督を継ぎ、讃岐17万石余の領主となった。 関ヶ原で勝ったからといって、ここで大きな新領地を得たと捉えるべきではない。 戦後の処分で領地を失う大名が出るなか、生駒家の讃岐が安堵され、父から子へ引き継がれたのである。 一正にとっての大きな到達点は、この継承を実現したことにあった。
翌慶長7年(1602)、一正は丸亀から高松へ移る。 丸亀城には城代を置き、自身は高松を本拠とした。 丸亀での拠点づくりが無意味になったわけではない。 一正の居所と、領内の城を誰が預かるかという体制が、当主の交代に伴って組み直されたのである。
丸亀の町づくりにも、生駒父子の時代の仕事が残る。 慶長6年には宇多津から人々を移し、城下の形成を進めた。 城郭の工事と城下町の育成は、切り離せない。 城の周りに人が住み、商いや日々の用を担うようになって、領内の拠点としての町が成り立っていく。
一正は家督を継ぐ前後にも、寺社に対して領地の安堵や寄進を行った。 慶長6年1月には屋島寺領25石余を認め、4月には白峯寺へ青海村の50石を寄進している。 高松や丸亀の城だけでなく、領内各地の寺社にも領主の文書が届いた。 父の代に成立した関係を保ち、自らの名で土地の権利を認め直すことも、新しい当主の仕事となった。
金毘羅の門前では、他国から来た者への住宅の手配を命じる一正の判物も伝えられる。 人を集めるためには、来た人が暮らせる場所が必要だった。 寺社の領地を定めることと、門前に住む人の居場所を整えること。 残された文書は、一正の統治を石高の大きさだけでは捉えきれないことを教える。
慶長8年(1603)には父の親正が死去した。 一正は、父とともに仕事を担う時期を終え、自身の名で領国を維持していく。 その先にあったのは讃岐だけで完結する政治ではなかった。 領内を治める一方、徳川の将軍に対しても奉公を重ねることになる。
二代目の九年、その先を息子へ

一正が当主として讃岐を治めた期間は、1601年から1610年までだった。 その間、徳川家康に続いて秀忠が将軍となり、大名の奉公先も新たな幕府へと定まっていく。 一正は父から受け継いだ領国を持ちながら、この徳川政権との関係を深めた。 関ヶ原で家康に従ったことは、その後の奉公の入口でもあった。
慶長13年(1608)9月、一正の妻子は江戸に住むようになる。 翌慶長14年(1609)5月23日には、将軍秀忠が一正を半役としたことが県史年表に記される。 半役は領国に課される役負担に関わるもので、ここでは国役の軽減を指す。 讃岐の百姓すべての年貢が半額になった、という意味ではない。
領主にとって、讃岐での政治と江戸への奉公は別々に存在するものではなかった。 妻子の居住、役の負担、将軍との関係が、領国の経営と結びついていた。 一正は織田・豊臣に仕えた武将でありながら、晩年には徳川家の将軍のもとで大名としての立場を保つ。 家康、秀忠との関係は、代々仕えた譜代の家臣というのとは異なる歩みだった。
慶長15年(1610)閏2月、一正は参勤先の駿府から、築城工事を急ぐ名古屋へ赴いた。 城の普請もまた、大名が徳川政権に対して負う奉公の一つだった。 しかし同年3月18日、一正は死去する。 享年56。弘治元年の誕生から数えた年齢であり、月日は当時の暦による。
跡を継いだのは正俊だった。 一正とともに家康へ従った子が、今度は讃岐の当主となる。 丸亀から高松への町人の移住は正俊の代にも行われ、高松の丸亀町の歩みにつながっていく。 一正が高松へ居所を移したことと、正俊の代の町人移住は、続き合う出来事であっても同じ事業として一人にまとめるべきではない。
生駒家の讃岐支配は、その後も続いた。 寛永17年(1640)、高俊の代の生駒騒動によって領地を失うのは、一正の死から三十年後のことである。 一正の生涯は、その結末から評価をさかのぼるより、父から子へ何を渡せたかで見るほうが輪郭を得る。 関ヶ原を越えて讃岐を守り、高松を本拠として次代へ渡した。 それが、生駒家の二代目として一正が果たした仕事だった。
史料の読み解き
一正の生涯には、わかりやすい結末がある。 父は敗れた西軍側にいたが、東軍で戦った一正が讃岐を継いだ。 ただ、その結末から父子の考えを逆算すると、残された史料よりも整った物語ができてしまう。 ここでは、確認できる行動と、その行動を説明する解釈を分けて考えたい。
父子の分裂は、あらかじめ決めた策だったのか
東西に分かれて家を残したという形は、戦国の家の存続策として説明しやすい。 どちらが勝っても一方が生き残る、と読めば、父子の行動には一貫した計算があるように見える。 しかし、結果が存続につながったことは、最初から存続のために相談していたことの証明にはならない。
一正については、家康への従軍、岐阜城攻めへの参加、その後の感状、関ヶ原での東軍参戦をたどれる。 親正側については、西軍への派兵や戦後の高野山退去を伝える記録がある。 今回確認した資料から確かに描けるのは、この行動の違いと戦後の処遇までである。 父子の密約を示す書状や、相談の言葉そのものは確認していない。
また、親正側が田辺城攻めへ兵を出したことを、親正本人が現地で戦ったと書き換えてはならない。 由利本荘市の解説は、派遣された家臣として大塚三正の名を挙げる。 当主の陣営への帰属、家臣の派兵、当主自身の出陣はそれぞれ別の出来事である。 一正の父を説明するときにも、この区別は必要になる。
親子の感情まで推測しなくても、家の立場が割れたことの重さは伝わる。 一正が東軍で戦い、親正が戦後に許され、領地が一正へ引き継がれた。 その間を、確認できない会話で埋めずに残しておくことが、父子の選択を考える余地にもなる。
一正は「初代」か「二代目」か
高松市の歴代城主では、親正を生駒家の一代、一正を二代と数える。 一方、『デジタル版 日本人名大辞典+Plus』は一正を高松藩主生駒家の初代と表す。 これは、一正の前に親正が讃岐を治めていた事実について争っているのではない。 城主の歴代と藩主の代数で、数え始める地点を変えた表記として読むことができる。
この記事では、親正から始まる讃岐生駒家の継承を描くために、一正を二代目とした。 大切なのは数字だけをそろえることではなく、1587年の親正の讃岐領有と、1601年の一正の家督相続を区別することにある。 さらに1588年の寄進状、1596年の知行宛行状を加えると、相続より前にも一正の活動があったことがわかる。
領主の代数は便利な整理だが、父と子の仕事が重なった期間を消してしまうこともある。 一正の文書を読む意義は、その重なりを取り戻す点にある。 相続の日だけを見ていては、後継者がそれ以前に担っていた領内の仕事は見えてこない。
城を訪ねるときに分けておきたい時代
丸亀城は、親正と一正が慶長2年に築き始めた城である。 ただし、現在目にする天守や高い石垣を、そのまま生駒父子の作品として眺めることはできない。 丸亀市の解説が示すように、城は生駒氏の後の再築や整備を経ている。 城の始まりと、今残る建造物の成立は別の年代に属する。
高松の町についても、領主の移住と町人の移住を分けたい。 一正が高松へ移ったのは1602年であり、正俊の代には丸亀の町人が高松へ移されている。 父子三代の仕事をすべて一正に集めれば、功績は大きく見える。 しかし、そのようにしてできた人物像は、誰が何を継ぎ、何を加えたのかを失ってしまう。
一正は城下町を無から一人で完成させた人物ではない。 父の仕事を受け取り、自身の居所と統治の体制を定め、子が続ける町づくりへ渡した領主だった。 城や町の歴史を複数の時代の積み重ねとして見ると、その中で一正が占めた位置も具体的になる。
地方の文書は、武将の別の顔を伝える
一正には、誰もが知る決めぜりふや辞世が確認できるわけではない。 その代わり、村の土地を与える文書、寺社に権利を認める文書、戦いの働きを認めた感状がある。 文書の宛先や目的は異なるが、どれも相手のいる行為を伝えている。
『香川県史年表』は、こうした出来事を日付順に探すうえで役立つ。 ただし、年表のすべての項目が同じ種類の史料に基づくわけではない。 家の歴史を後からまとめた記録も、寺社に伝わる文書も、出典として並んでいる。 公的機関が公開しているからといって、掲載された一文一文が同時代の原文書そのものになるわけではない。
この記事の文書に関する記述も、専門辞典や県史年表を通じた確認を含む。 感状や寄進状の原本を直接調査したという意味ではない。 生駒光忠の銘は所蔵機関の目録、弘憲寺の建立年は寺の説明と地域資料、父子の陣営は複数の概説と年表を照合している。 主張ごとに、どの資料が何を支えているかは違うのである。
国分寺の鐘のように、動機の説明が残らなくても行動を追える記録はある。 人柄を一言で決めることを急がず、その行動を具体的に読む。 そうすると一正は、関ヶ原で家を救った子という一場面から、寺社や家臣、将軍との関係のなかで領国を治めた人物へと広がって見える。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 1555年に生まれ、1610年に没した親正の子 | 高 | 高松市の歴代城主、人名辞典、県史年表が基本経歴を支える |
| 家督相続前から領内の寄進や知行宛行に関わった | 高 | 金刀比羅宮文書・山崎家文書を紹介する『日本歴史地名大系』による間接確認 |
| 岐阜城攻めに参加し、家康から感状を受けた | 高 | 県史年表の8月23日・25日条。感状の原本・全文は未閲覧 |
| 関ヶ原で一正は東軍、親正側は西軍に属した | 高 | 城主紹介、人名辞典、県史年表などで大枠が一致する |
| 父子が事前に相談し、家を残すため東西に分かれた | 未確認 | 結果から動機を逆算した説明。密約を示す資料は今回未確認 |
| 慶長の役で蜂須賀家政・脇坂安治と同じ軍に属した | 中 | 徳島県立図書館公開の研究に基づく。出征自体は人名辞典でも確認 |
| 国分寺の鐘を召し上げ、翌月に返した | 中〜高 | 国分寺文書を典拠とする県史年表。理由や交渉過程は不明 |
| 弘憲寺は1609年に建立された | 留保あり | 寺の説明と県史年表に基づく一方、1603年の移転を記す地域資料もある |
| 生駒光忠は一正が所持した刀である | 高 | 永青文庫の作品目録と展覧会解説。実戦使用や贈答経路は別途確認が必要 |
参戦合戦
生駒一正の逸話
- 逸話 01
名刀「生駒光忠」に残った讃岐守の名

刀の伝来をイメージした鞘入りの刀 · AI生成イメージ 一正の名は、城や寺社の記録だけでなく、一振りの刀にも残っている。 永青文庫が所蔵する国宝の刀「生駒光忠」は、鎌倉時代の刀工・光忠の作である。 2023年早春展の出品目録には、金象嵌銘の一部として「生駒讃岐守所持」と記載されている。 生駒讃岐守とは一正のことで、展覧会の取材報告でもその所有が紹介された。
刀の名称や銘は、後世の鑑賞の場に過去の所有者の名を運ぶ。 生駒光忠という呼び名から一正にたどり着いた人にとって、讃岐領主の経歴は、刀の来歴を知るための手がかりになる。 逆に一正の伝記から見るなら、この刀は彼の名が現代まで伝わるもう一つの経路である。 土地に残る文書とは違い、所蔵先が変わっても所有者の名をとどめてきた品なのである。
ただし、所持したことと、どの戦場で使ったかは別の話だ。 岐阜城や関ヶ原でこの刀を振るったという具体的な場面は、今回確認した目録や解説からはわからない。 誰から誰へ贈られたかという細かな伝来も、名前だけで補うことはできない。 ここでは、実物の銘と所蔵機関の目録が伝える所有の記憶を、一正の足跡として受け取っておきたい。
- 逸話 02
国分寺の鐘を召し上げ、翌月に返した

梵鐘の返還にちなむ寺の情景 · AI生成イメージ 慶長14年(1609)2月2日、一正は国分寺の梵鐘を召し上げた。 『香川県史年表』は国分寺文書を典拠としてこの出来事を挙げ、代わりに荒田一町を寄進したと記す。 さらに翌3月14日には、鐘を国分寺へ返したことが載っている。 召し上げ、土地の寄進、返還という動きが、日付を伴って続いている。
寺の鐘は、金属でできた大きな道具であると同時に、寺院の日常や信仰の場に属するものでもある。 それを領主が動かそうとすれば、寺との関係が生じる。 この出来事で注目したいのは、鐘を取ったという一場面だけではない。 代わりの土地が与えられ、短い間に鐘自体も戻されたという経過である。
なぜ召し上げ、なぜ返したのか。 その理由を、一正の心境や不思議な出来事で説明したくなるかもしれない。 しかし、今回確認した年表の記述から、動機や返還に至る交渉の全容まではわからない。 夢告や祟りに結びつける話を、文書で確認できる日付と同じ確かさで語ることは避ける必要がある。
一正は寺社に寄進を行う領主である一方、その寺の財物を召し上げる権力も持っていた。 寄進の記録だけを拾えば見えにくい領主と寺の関係が、この鐘の往復には現れている。 美談にも暴君の証拠にも急いで仕立てず、何が動き、何が戻ったのかをたどる。 小さな記録から人物を見るときの、よい入口となる逸話である。
- 逸話 03
父を弔う弘憲寺と、建立年の読み方

父の追善にちなむ寺院風景 · AI生成イメージ 高松の弘憲寺は、生駒親正を弔う一正の仕事を伝える寺である。 寺の解説では、親正の七回忌にあたる慶長14年(1609)に一正が建立したとされる。 寺名は親正の法名にちなみ、『香川県史年表』もこの年に弘憲寺への50石の寄進を載せる。 関ヶ原では別の陣営に属した父子が、追善の寺という形で再び結びつく。
もっとも、寺の来歴には別の年も出てくる。 丸亀市公開の地域計画資料では、法勲寺が高松へ移された時期を慶長8年(1603)とする。 1603年は親正が亡くなった年でもある。 移転、寺号の変更、堂宇の整備、寺領の寄進などをどの段階で捉えるかによって、説明が異なる可能性はあるが、その工程を今回の資料だけで確定することはできない。
したがって、一正が父の追善に関わったことと、寺が一つの年にすべて完成したこととは分けて読む必要がある。 ここでは1609年の建立を弘憲寺の説明として紹介し、1603年の移転を記す資料もあることを残しておく。 二つの日付をどちらかに無理にそろえるより、何を指す年なのかを確認するほうが、寺の歴史にも忠実である。
弘憲寺の案内には、生駒家の波引車紋も見える。 父の名をとどめる寺と、家のしるし。 一正の晩年を考えるとき、江戸への奉公だけではなく、讃岐で父の記憶を継ごうとした仕事も視野に入ってくる。 家督を受け継ぐことには、領地や家臣を引き受けるだけでなく、亡くなった先代を弔う営みも含まれていた。
関連人物
- 生駒親正
- 生駒正俊
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 玉藻公園・歴代城主高松市参照日 2026-10-04
- デジタル版 日本人名大辞典+Plus「生駒一正」講談社/コトバンク参照日 2026-10-04
- 香川県史年表・1600年以降(114〜116頁)香川県立図書館参照日 2026-10-04
- 丸亀城の歴史丸亀市参照日 2026-10-04
- 生駒氏の治政時代由利本荘市参照日 2026-10-04
- 日本歴史地名大系「塩入村」(香川県)平凡社/コトバンク参照日 2026-10-04
- 日本歴史地名大系「榎井村」平凡社/コトバンク参照日 2026-10-04
- 日本歴史地名大系「金毘羅村」平凡社/コトバンク参照日 2026-10-04
- 森甚一郎「阿波水軍と朝鮮の役」徳島県立図書館参照日 2026-10-04
- 9.織田秀信禁制 写岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-04
- 関ケ原講演会「毛利一族〜不戦の代償〜」紹介岐阜関ケ原古戦場記念館参照日 2026-10-04
- 大谷吉継コース(石田三成・宇喜多秀家の陣跡解説)岐阜関ケ原古戦場記念館参照日 2026-10-04
- こころのはなし・2008年10月15日 第131回弘憲寺参照日 2026-10-04
- 弘憲寺の名宝弘憲寺参照日 2026-10-04
- 2023年早春展出品リスト(1頁・作品番号1 生駒光忠)永青文庫参照日 2026-10-04
- 揃い踏み 細川の名刀たち ― 永青文庫の国宝登場 ―インターネットミュージアム参照日 2026-10-04
- 文化財学習会資料・生駒氏関連略年表(PDF4頁)高松市参照日 2026-10-04
- 第2次 法の郷まちづくり計画(5頁・法勲寺の移転)丸亀市公開参照日 2026-10-04















