蜂須賀家政は、蜂須賀小六こと正勝の子として豊臣秀吉に仕え、徳島城と城下町の基礎を築いた大名である。 1585年に阿波17万石余を得たが、関ヶ原の戦いでは本人は出陣せず、子の至鎮が東軍に加わった。家政は徳島藩祖、至鎮は初代藩主として区別される。
家政を知る手掛かりは、徳島に残る城跡だけではない。利休の茶釜の手紙、家康からの見舞状、隠居後の礼状にも、その交友が残る。阿波踊りの築城伝承や蜂須賀家の家紋は、確認できる史実と後世の語りを分けながら見ていこう。
蜂須賀小六の子、秀吉の戦場へ

蜂須賀家政は、父・小六が築いた秀吉との縁を受け継ぎ、海を渡った阿波に徳島の城と町を築いた大名である。生まれは永禄元年(1558年)の尾張国。父は蜂須賀正勝で、「蜂須賀小六」の名でよく知られる。家政と小六を同じ人物だと思っていると、関ヶ原での行動も徳島城の由来も、世代を一つ取り違えてしまう。
父の正勝は、秀吉の軍事行動を支え、敵方との交渉にも携わった。その子である家政は、父に従った元亀元年(1570年)の姉川の戦いを初陣とする経歴が伝わる。天正年間には秀吉のもとで戦い、天正10年(1582年)の山崎の戦い、翌年の賤ヶ岳の戦いにも参加した。
山崎では明智光秀、賤ヶ岳では柴田勝家と、秀吉の前に立つ相手が変わった。織田信長の死後、織田家の有力武将同士が覇権を争うなかで、家政は秀吉方の戦歴を重ねていったのである。父の名前が知られていたからといって、息子の役割まで交渉だけに収まったわけではない。
やがて蜂須賀家の奉公は、戦場で兵を率いる仕事から、一国規模の領地を預かる仕事へ広がっていく。転機となったのが、天正13年(1585年)の四国攻めだった。尾張に生まれた家政が、徳島の歴史と深く結び付くのは、この戦いの後である。
四国攻めで得た阿波17万石余

豊臣秀吉は四国へ大軍を送り、長宗我部元親を服属させた。家政もこの「四国征伐」に参加し、戦後、阿波17万石余を与えられる。国文学研究資料館の蜂須賀家文書の解説では、領地は17万5700石。播磨の龍野から、海を隔てた阿波へと本拠が移った。
この戦後処理には、父・正勝の交渉も関わっていた。元親が正勝へ送った書状には、秀吉の赦免を得るための取りなしに対する礼が記されている。戦った側と敗れた側が、以後は秀吉の政権のもとで関係を結び直す。阿波入国の背景には、軍事的な勝利に加えて、そうした交渉の積み重ねがあった。
新しい領主となった家政は、当初、一宮城を拠点としたとされる。阿波では検地領地の田畑を測量し、収穫高(石高)を確定する土地調査。豊臣秀吉による太閤検地が代表例で、近世社会の土台となった。が進み、土地や年貢を新たな支配のもとに組み直していく。以前から山間部などで力を持っていた土豪には、この変化に抵抗する者もいた。領地を与える命令が、そのまま地域の安定を保証したわけではない。
各地を押さえるため、蜂須賀家は要所に支城を置き、重臣たちに守らせた。これが阿波九城と呼ばれる支配の仕組みにつながる。本城にいる当主と、離れた土地を預かる家臣を結ばなければ、広い領国を治めることはできない。家政の入国は、領民にとっても、家臣にとっても、それまでの土地との関わり方が変わる出来事だった。
その中心となる新しい城地に、猪山が選ばれた。現在、徳島の城山と呼ばれる山である。
秀吉の命を受け、川と山を城にする

徳島城の場所を決めるうえでは、秀吉の意向が大きく働いた。天正13年(1585年)8月4日付の朱印状写には、家政の居城を猪山に築かせる指示が残る。徳島市立徳島城博物館が紹介するこの文書は、毛利博物館に伝わるものだ。徳島城の築城は、秀吉の四国支配の一環だったのである。
家政は、山と周囲の川を利用して築城を進めた。助任川や寺島川を取り込めば、水は城を囲む守りになる。また、川を通って人や物が届くため、山上の守備と麓での政務を一体に考えられる。山に立てこもるための場所と、領国を動かすための拠点が重なったのである。
工事には小早川隆景や長宗我部元親、比叡山の僧らも、秀吉の命を受けて協力した。前年まで四国で争っていた相手も、新しい城を整える側に加わった。家政個人の財力や家臣団だけでなく、豊臣政権が動かす人と技術によって城づくりが進んだことが分かる。
徳島城は翌天正14年(1586年)に完成したと説明される。ただし、江戸時代の絵図に見える建物すべてが、この時点で揃ったわけではない。後の藩主たちが修築を重ね、城の姿を変えていった。今日の城跡では、本丸東部に天正期の石積みが残るとされ、家政の時代にさかのぼる仕事を地形と石垣からたどれる。
同じ天正14年、父の正勝が没した。父とともに秀吉へ仕えた家政は、その後、阿波を治める当主として長い年月を過ごす。城ができた次に必要なのは、そこで暮らす人と、町を営む商売だった。
屋敷地を与え、徳島へ人を招く

家政は、城下で商売をする者に屋敷地を与え、人々の移住を促した。阿波の各地に加え、蜂須賀家の出身地である尾張、旧領の播磨、商業の盛んな堺からも商人が集まった。新しい領主について来た者もいれば、新しい町での取引に活路を見いだす者もいた。城を築くだけでは生まれない商業の場を、移住してきた人々が育てていく。
城下の配置には、家臣の身分や役割も反映された。家老や中老などの有力家臣は、城に近く、橋を押さえる場所に屋敷を構える。足軽の住む組屋敷は、富田・佐古・助任などに置かれた。眉山の麓には寺院を集めた寺町ができ、武家・町人・寺院の暮らす区域が形を取っていった。
この移住を具体的に伝える人物が、魚屋立安として知られる渡辺道通である。道通は千利休の甥で、父の与兵衛が正勝に仕えていた。家政は商売の知識だけでなく、蜂須賀家と以前から結ばれていた人の縁も、徳島へ引き寄せたのである。
利休が道通へ送った茶釜の手紙には、家政との関係が残る。茶の湯を好む大名、道具を用意する利休、阿波へ届ける商人。文化の交流は、物を運び、町で商売をする人々の働きとつながっていた。
町は一度の命令で完成したわけではない。内町や新町、福島、助任といった区域が発展し、新町が繁栄を見せるのは寛永年間のことになる。家政の築城と移住の奨励から、子や孫の代にも徳島の市街は広がっていった。今日の町名を手掛かりにすると、築城から続く都市の成り立ちが見えてくる。
朝鮮の陣中へ届いた家康の見舞状

阿波の領主になっても、家政が秀吉への軍役を免れることはなかった。天正18年(1590年)の小田原攻めでは韮山城攻めに参加し、その後の朝鮮出兵にも従った。城下町を営む大名であると同時に、遠く離れた戦場へ兵を率いて行く武将でもあった。
朝鮮で病気になった家政へ、徳川家康が見舞いの書状を送っている。徳島城博物館の解説によると、家康は秀吉が医師の一鴎軒を現地へ派遣することを知らせた。その医師は、渡海している諸将の様子を確かめる役目も帯びていたという。
病を案じる言葉と、政権の動きを知らせる情報が、一通の手紙に同居している。家政と家康の間に、関ヶ原以前から連絡があったことを示す具体的な資料だ。しかし、この見舞状だけで、将来の合戦に備えた密約まであったとはいえない。当時の二人は、どちらも秀吉の政権を支える大名だった。
出兵の負担を引き受けながら領国を維持する日々は、慶長3年(1598年)の秀吉の死によって大きく変わる。父の代から奉公してきた主君がいなくなり、豊臣家を誰が支えるのかが争いになった。家政が阿波を得た理由である秀吉への奉公と、その阿波を次代へ残すための判断が、同じ方向を向くとは限らなくなる。
慶長5年(1600年)、家康と石田三成らの対立が軍事衝突へ進んだ。ここで蜂須賀父子は、同じ戦場に並ぶことにはならなかった。
戦場へ向かわなかった父と、東軍の息子

関ヶ原の戦いで東軍に加わったのは、家政の子・蜂須賀至鎮である。家政本人は関ヶ原の戦場で東西いずれかの軍を率いた人物として扱えない。この父子の違いを押さえると、蜂須賀家が戦後も阿波を保った経過が理解しやすくなる。
家政については、西軍側の大坂警固との関わりが記される一方、本人は出陣しなかったと説明される。また、豊臣秀頼へ領地を返上し、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を至鎮へ譲って隠居したとされる。徳島城博物館は、家政が和泉国牧野にあった魚屋立安の屋敷で剃髪したことを紹介している。茶道具や徳島への移住で結ばれた商人の名が、ここでも現れる。
剃髪後の号は蓬庵。人物辞典には高野山へ退いたとの記述もあり、家政は領国を預かる現役の大名という立場から身を引いた。対して至鎮は家康方に従い、東軍の側で戦争を迎えた。隠居した父と、東軍に属する子という二つの動きを、同じ「蜂須賀家の参戦」で一括りにはできない。
東軍の勝利後、至鎮の領国として阿波は認められた。秀吉が与えた土地が、天下の主が変わった後も蜂須賀家のもとに残ったのである。徳島城も城下町も、ここで別の大名へ引き渡されることにはならなかった。
この結果から、父子は初めから両陣営に分かれて家を守る計画だった、と語りたくなる。だが、その取り決めを裏付ける史料は、今回確認した資料には見当たらない。家政の判断の細部を推測で埋めなくても、至鎮の東軍参加が戦後の蜂須賀家を支えたことは確かめられる。
大坂の陣を経て、子と孫を支えた晩年

関ヶ原の後、家政は至鎮を支える後見の立場に回った。徳島県立博物館は、至鎮を徳島藩の初代藩主として数えている。その父として阿波支配の基礎を築いた家政は、藩祖と呼ばれる。代数を分けておくと、後の加増や合戦の功績も、誰の時代の出来事かが明確になる。
慶長19年(1614年)の冬、続く翌年の夏、徳川方と豊臣方は大坂で戦った。蜂須賀家は徳川方に立ち、至鎮と家臣たちが戦功を挙げる。父子がかつて仕えた秀吉の家と、今度は敵味方になる戦争だった。この「大坂の陣」における蜂須賀軍の働きを、家政が直接すべて指揮した功績として描くことはできない。
国文学研究資料館の解説では、元和元年(1615年)、至鎮の代に淡路7万石が加わった。阿波に加え淡路を領し、蜂須賀家の領地は25万石余となる。家政の阿波入国時の17万石余と、この段階の領地を混ぜると、三十年にわたる変化が消えてしまう。
至鎮は元和6年(1620年)に没し、家政はさらに孫・忠英の代を見届けた。父の正勝に従って出陣した若者が、今度は子と孫を支える立場になったのである。ただし、藩の内部が常に穏やかだったわけではない。晩年には有力家臣の権限をめぐる争いが起こり、その解決は次の時代へ持ち越された。
家政の没日は、寛永15年12月30日。西暦に換算すると1639年に入り、享年は数え81とされる。阿波へ渡ってから半世紀以上、家政は城下の発展と政権の交代を見届けた。その生涯は、父の名を継ぐところから始まり、子孫が治める徳島を残して終わった。
史料の読み解き
関ヶ原の戦いで、家政は東軍か西軍か
関ヶ原の戦いにおける家政本人の立場は、東軍・西軍の二択だけでは説明しにくい。西軍側の大坂警固との関わりがある一方、本人は出陣せず、領地返上と隠居に進んだとされる。戦後の阿波を継いだ至鎮は東軍である。
| 人物・対象 | 関ヶ原前後の動き | 区別しておきたい点 |
|---|---|---|
| 蜂須賀家政 | 西軍側の警固との関わりが記されるが、本人は不出陣。領地を返上し隠居したとされる | 関ヶ原本戦で西軍を率いたとはいえない |
| 蜂須賀至鎮 | 家康方の東軍に加わる | 父と同じ陣営・同じ行動としてまとめない |
| 阿波の領地 | 戦後、至鎮の領国として認められる | 家政本人の武功による所領安堵ではない |
『世界大百科事典』は、家政の軍勢による大坂の警固と本人の不出陣を記す。『日本大百科全書』は、領地返上や剃髪、高野山へ退いたことを説明する。国文学研究資料館の史料群概要も、秀頼への所領返上と、東軍についた至鎮への戦後の領地確認を述べている。それぞれが重視する動きは異なるが、父の隠居と子の東軍参加を分ける点は共通する。
この経過を「中立を守った」の一言に置き換えると、西軍側との関わりが抜け落ちる。逆に「西軍の武将だった」とだけ書けば、家政が石田三成らと関ヶ原の本戦を戦ったように見えてしまう。家政の行動と至鎮の行動を別々に追うことが、混乱を避ける近道である。
父子で東西に分かれれば、どちらが勝っても家を残せる。結果だけを見れば、そうした説明は成り立ちそうに見える。しかし、事前の相談や役割分担を示す史料を確認できない以上、計画的な策と断定はできない。家康の見舞状も、以前からの交友を示す資料であって、関ヶ原での行動を約束した契約ではない。
蜂須賀小六・正勝・家政・至鎮の違い
一般に蜂須賀小六と呼ばれるのは、家政の父・正勝である。秀吉の家臣として知られる父と、徳島の領主として長く生きた息子を、まず分けておきたい。さらに関ヶ原や大坂の陣では、家政の子・至鎮が重要になる。
| 人物 | 家政との関係 | この人物に結び付く主な出来事 |
|---|---|---|
| 蜂須賀正勝(小六) | 父 | 秀吉への奉公、四国攻め後の元親との交渉。1586年没 |
| 蜂須賀家政(蓬庵) | 本人 | 阿波入国、徳島城・城下町の建設、関ヶ原期の隠居 |
| 蜂須賀至鎮 | 子 | 関ヶ原で東軍、大坂の陣での戦功、淡路加増 |
| 蜂須賀忠英 | 孫 | 至鎮の後を継いだ藩主。家政の後見を受ける |
正勝は関ヶ原の十四年前に亡くなっているため、「蜂須賀小六は関ヶ原でどちらについたか」という問いを、父の正勝への質問として読むなら、参戦していないのが答えになる。秀吉との古くからの関係を、そのまま1600年の軍事行動へ延長することはできない。
ただし、小六という呼び名が常に父だけを指すわけでもない。人物辞典には家政の幼名も小六とあり、利休の書状の「蜂小六殿」も、徳島城博物館は家政と説明する。名前の一語だけで判断せず、手紙の年代と相手を確かめたい。父の正勝が残した人脈と、家政本人が続けた交友を分けて読むと、蜂須賀家の世代交代が見えやすくなる。
大坂の陣で働いたのは家政か、至鎮か
蜂須賀家が徳川方として戦った大坂の陣では、至鎮と家臣たちの戦功を中心に据える必要がある。大阪府立中之島図書館の調査は、『大日本史料』などを案内し、慶長19年12月24日に家康が至鎮や稲田・山田・樋口・森ら蜂須賀家臣の功を賞したことを紹介している。同じ調査では、翌年1月に秀忠が至鎮を召し、冬の陣の働きを賞した記録も示される。
ここで名前が挙がる当主は至鎮である。家政は存命で、子を支える存在だったが、蜂須賀軍の戦功をすべて家政一人へ集めてはいけない。関ヶ原で父子の行動を分けたのと同じように、大坂の陣でも、隠居した父・当主の子・実戦を担った家臣を区別する必要がある。
戦後の元和元年(1615年)には淡路7万石が加わり、阿波と合わせて25万石余となった。家政の阿波入国は1585年であり、淡路加増とは三十年の隔たりがある。秀吉の四国攻めで阿波を得た段階と、徳川政権下で淡路が加わった段階は、主君も当主も異なる。
この三十年間を通して見ると、蜂須賀家の存続を一度の巧みな選択だけで説明することは難しい。豊臣政権での奉公、至鎮の東軍参加、その後の軍役が続いて、阿波・淡路の領主という地位が形づくられたのである。
徳島城はいつできたのか――城と町の違い
徳島城博物館の築城解説に従えば、築城の指示は1585年、完成は1586年である。一方、阿波踊りの築城起源説には、天正15年(1587年)の完成祝いとして語るものもある。城の成立を調べるときは、伝承に付いた年と、城郭史の説明を混ぜないことが大切だ。
城山の上と麓では、城の役目も異なる。山上の曲輪が守りを固め、山麓の御殿では政務や暮らしが営まれた。徳島県立博物館は、東二の丸に天守があったことを徳島城の特徴として紹介している。ただし、後世の城郭配置を、そのまま家政の築城直後の姿と考えることはできない。
町もまた、一年で完成したわけではなかった。城主が屋敷地を与えて移住を促しても、人が定着し、商売が続き、町の区域が広がるには時間がかかる。三好昭一郎の城下町研究や徳島城博物館の町人誘致の解説は、その長い形成過程を考える手掛かりになる。
家政の功績は、後世の徳島にあったものをすべて一人で造ったことではない。政治の中心となる城を置き、家臣や町人が暮らす場所を整え、阿波の内外から人を呼び込んだ点にある。その後の商人や職人の活動も含めてこそ、城下町が続いた理由を説明できる。
家政と阿波踊り――築城祝いは伝承として読む
阿波踊りの起源には、徳島城の完成祝い、盆踊り、風流踊りなどを挙げる説明がある。家政が酒を振る舞い、人々が踊り出したという築城の物語は親しまれているが、それを裏付ける同時代史料が示されているわけではない。「家政が阿波踊りを始めた」と、発案者を一人に決めるのは慎重であるべきだ。
阿波銀行掲載の歴史研究は、城下の町人たちが盆踊りを盛り上げた経緯と、藩による規制に目を向ける。町人の踊りと藩の関係は、領主が祭りを奨励し続けるという単純なものではなかった。踊り方や町の賑わいには、時代ごとの取締りや町人側の工夫も関わっている。
築城起源説を伝承と区別しても、家政と阿波踊りの結び付きが消えるわけではない。家政が築いた町が、後に踊りの舞台となり、地域の歴史を語る際に両者が結ばれたのである。城の始まりを説明する物語と、踊りが育った過程を並べることで、徳島の文化をより長い時間で捉えられる。
蜂須賀家政の家紋は抱き柏か、左万字か
家政本人の定紋を調べるなら、まず抱き柏に注目したい。徳島県立図書館の文献調査は、高田豊輝編『阿波近世用語辞典』を根拠に、家政の定紋を抱き柏とし、三つ巴も用いたと紹介している。同じ回答では、至鎮まで抱き柏を定紋とし、丸に左万字を定紋にしたのは忠英と説明される。
蜂須賀家の代表的な家紋として、左万字を挙げること自体は間違いではない。ただし、家の歴史全体で知られる紋と、家政の代の定紋は、同じ問いではない。本記事の人物欄は、家政に焦点を合わせて抱き柏とした。
また、家紋は定紋一つだけで説明しきれるものでもない。図書館の回答は、家紋辞典などに載る桐や抱き柏の替紋も紹介している。後代の道具に左万字が見えるからといって、家政の全装備に同じ紋が付いていたと逆算はできない。本記事の想像肖像も、家紋や甲冑の実物を考証復元した図ではない。
子孫はどう続いたのか――至鎮・忠英から近代へ
家政の後は子の至鎮、その後は孫の忠英へと家が継がれた。徳島県立博物館の数え方では至鎮が初代藩主、忠英が二代藩主であり、家政はその前に阿波支配を始めた藩祖に当たる。家政を初代藩主に含めて数える紹介と混ぜると、以後の代数もずれてしまう。
蜂須賀家は阿波・淡路を治める大名家として幕末まで続いた。国文学研究資料館の史料群概要によると、明治維新を迎えた藩主は十四代の茂韶で、明治2年(1869年)に藩知事となり、明治17年(1884年)には侯爵に列せられた。関ヶ原で家が残った後にも、江戸時代の藩政、維新後の制度変更という別々の転機があった。
近年の公的な記録では、あま市の『広報あま』2025年9月号28頁が、蜂須賀家第十九代当主として蜂須賀正子の来訪を紹介している。記事には、蜂須賀家の菩提寺である蓮華寺を訪れたことが記される。これは2025年に公表された活動の記録であり、現在の子孫全員を網羅する系図ではない。
当主の代数、徳島藩主の代数、家政から数えた親子の世代は、それぞれ数える対象が違う。「十九代」という数字だけから、家政の十九世孫だと読み替えることはできない。子孫をたどる際も、まず誰を起点とした、どの家の継承なのかを確認したい。
長い隠居生活にも残った、領国支配の課題
家政は、関ヶ原で隠居してからも長く生きた。その間に至鎮が没し、孫の忠英が藩主となる。隠居したという一語から、以後の政務や家中の問題に関わらなかったと考えるのは適切ではない。人物辞典は、家政が子と孫を後見したことを記している。
晩年の寛永10年(1633年)には、益田豊後をめぐる事件が始まった。徳島県立博物館の山川浩實は、海部の支配をめぐる問題を、有力家老の益田豊後と行政を担う長谷川越前らの対立から説明している。木材の密売や重い負担、領民の逃散などが問題とされた事件である。
家政が各地の要所に重臣を置いた仕組みは、広い阿波を治めるうえで役立った。その一方で、地方に力を持つ家臣を藩主がどこまで統制できるかという課題も残した。この事件の決着は家政の没後に及ぶため、家政が問題を解決したとまとめることはできない。
城と町を築いた功績に目を向けるときも、統治に伴った摩擦を外してはならない。領主の命令を実行する家臣、年貢や労役を負う人々、それぞれの立場があった。家政から子孫へ受け渡されたのは領地だけでなく、こうした領国運営の課題でもあった。
家政の年表――没年1638年と1639年の違い
- 1558年
- 尾張に生まれる。父は蜂須賀正勝
- 1570年
- 姉川の戦いを初陣とする経歴が伝わる
- 1582〜1583年
- 山崎・賤ヶ岳の戦いに参加
- 1585年
- 四国攻めの後、阿波17万石余を得る
- 1586年
- 徳島城が完成したとされる。父正勝が没する
- 1590年
- 小田原攻めに参加し、韮山城を攻める
- 1600年
- 関ヶ原期に隠居。至鎮が東軍に参加
- 1615年
- 至鎮の代に淡路7万石が加わる
- 1620年
- 至鎮が没し、忠英が継ぐ
- 寛永15年12月30日
- 家政が没する。西暦換算では1639年、数え81
| 年 | 出来事 |
|---|---|
| 1558年 | 尾張に生まれる。父は蜂須賀正勝 |
| 1570年 | 姉川の戦いを初陣とする経歴が伝わる |
| 1582〜1583年 | 山崎・賤ヶ岳の戦いに参加 |
| 1585年 | 四国攻めの後、阿波17万石余を得る |
| 1586年 | 徳島城が完成したとされる。父正勝が没する |
| 1590年 | 小田原攻めに参加し、韮山城を攻める |
| 1600年 | 関ヶ原期に隠居。至鎮が東軍に参加 |
| 1615年 | 至鎮の代に淡路7万石が加わる |
| 1620年 | 至鎮が没し、忠英が継ぐ |
| 寛永15年12月30日 | 家政が没する。西暦換算では1639年、数え81 |
家政の没年には、1638年と1639年の両表記がある。寛永15年を西暦の年に対応させると1638年になるが、旧暦12月30日を換算すると翌1639年に入るためだ。異なる没日の説があるというより、暦の表し方の違いである。
本記事の生没年欄には西暦換算の1639年を使い、没日は寛永15年12月30日と明記した。享年81は数え年による。朝鮮出兵中の病気を伝える見舞状は残るが、それを数十年後の死因へ結び付ける根拠はない。死去時の具体的な病名は、確認した資料からは特定できない。
史実と伝承の確度
| 主張 | 確度 | 根拠と限界 |
|---|---|---|
| 正勝の子として秀吉に仕え、1585年に阿波を得た | 高 | 人物辞典、史料群概要、大学・博物館の解説を照合 |
| 秀吉が猪山への築城を命じた | 高 | 1585年8月4日付朱印状写を紹介する徳島城博物館の解説 |
| 家政本人は関ヶ原の本戦に出ず、至鎮は東軍だった | 高 | 人物辞典、国文学研究資料館、慶應義塾の解説 |
| 領地返上・剃髪・高野山への移動の細かな順序 | 中 | 概略は諸資料にあるが、月日や順序まで一律には確定しない |
| 父子が事前に相談して東西へ分かれた | 低 | 計画を直接示す史料を今回の調査では確認できない |
| 至鎮の代に淡路7万石が加わった | 高 | 国文学研究資料館の史料群概要 |
| 家政の定紋は抱き柏とされる | 中 | 徳島県立図書館の文献回答による。家紋使用の全時期を網羅した認定ではない |
| 家政が阿波踊りを創始した | 低 | 築城起源の伝承。盆踊りや風流との関係も論じられる |
| 家政が利休に茶釜を依頼した | 高 | 魚屋立安宛の利休書状に基づく博物館解説 |
徳島城の石垣、商人を迎えた町、子と孫が継いだ領国。家政の仕事は、戦場の一場面だけには収まらない。父・小六の時代から受け継いだ縁を阿波へ運び、政権が変わるなかで次代へ渡した。その歩みを家族や城下の人々とともにたどると、徳島藩祖と呼ばれる理由が具体的に見えてくる。
参戦合戦
蜂須賀家政の逸話
- 逸話 01
雲雀の贈り物に礼を返す蓬庵

贈り物への礼状を書く老年の家政の想像場面 · AI生成イメージ 慶應義塾のセンチュリー赤尾コレクションには、家政が「蓬庵」と署名した礼状がある。贈られた品は、雲雀の塩辛を入れた容器一つと、塩漬けの雲雀五十羽。城や戦の命令からは離れた、食べ物のやり取りを伝える手紙だ。
年代は明記されておらず、解説は筆跡などから六十〜七十代の書と推測する。宛先の人物も確定していないため、誰と何年に食卓を囲んだかまで話を広げることはできない。分かるのは、隠居後の家政にも贈答を通じた付き合いがあり、それに礼を返していたことだ。
豪快な酒宴や好物の逸話を足さなくても、数量まで記された贈り物は生活を身近に感じさせる。阿波の領主として知られる家政の筆が、誰かの心遣いに答えるためにも使われていた。
- 逸話 02
利休の手紙に現れる「蜂小六殿」

茶の湯に親しむ家政の想像場面。釜は書状中の実物の復元ではない · AI生成イメージ 天正14年(1586年)、千利休は魚屋立安に茶釜の手配について知らせた。家政から頼まれた釜が見つかり、阿波へ届けてほしいという内容である。城下町を築く時期の家政と利休が、道具を介してつながっていたことが分かる。
徳島城博物館の解説では、手紙にある「蜂小六殿」は家政を指す。小六と聞いて父の正勝だけを思い浮かべると、書状の相手を取り違えてしまう。同じ呼び名が誰を示すかは、手紙の時期と内容に即して読む必要がある。
届け役の立安は、利休の甥である渡辺道通。蜂須賀家と商人、茶人の交友が、一通の書状のなかで結び付く。釜そのものの形や家政が茶を飲む姿は、この手紙から復元できない。挿絵は交流を伝えるための想像場面である。
- 逸話 03
阿波踊りを始めたのは家政なのか

城下の盆踊りを描いた想像場面。家政の築城祝賀を史実として再現したものではない · AI生成イメージ 徳島城ができた祝いに人々が踊り、それが阿波踊りの始まりになった。家政と徳島を結ぶ、よく知られた伝承である。城と祭りを一つの出来事で説明できるため、由来として覚えやすい話でもある。
ただし、徳島県の解説は、築城の祝いに結び付ける説だけでなく、盆踊りや風流踊りに由来を求める説も紹介している。阿波銀行が掲載する歴史研究は、築城起源の話を俗説とし、城下の町人たちが盛り上げた盆踊りの歴史を重視する。家政が命じて現在の踊りを創始した、とは確定できない。
家政が城と町の成り立ちに関わったことと、町の人々が踊りを育てたことは、つながりながらも別の歴史である。築城伝承は伝承として紹介し、踊り手たちが長い年月をかけて変えてきた芸能の歩みも見失わないようにしたい。
関連人物
- 蜂須賀正勝
- 蜂須賀至鎮
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 天下分け目の天王山大山崎町参照日 2026-10-18
- 図説福井県史 近世の幕開け福井県参照日 2026-10-18
- 蜂須賀家政(世界大百科事典、日本大百科全書、日本人名大辞典ほか)コトバンク(平凡社、小学館、講談社ほか)参照日 2026-09-20
- 阿波国徳島蜂須賀家文書 史料群概要国文学研究資料館参照日 2026-09-20
- 常設展示 藩政のもとで徳島県立博物館参照日 2026-09-20
- 蜂須賀家政筆書状(AW-CEN-002337-0000)慶應義塾(センチュリー赤尾コレクション)参照日 2026-09-20
- とくしまヒストリー第2回 城下町誕生秘話 徳島築城徳島市立徳島城博物館参照日 2026-09-20
- とくしまヒストリー第3回 城下町誕生秘話 町人の誘致徳島市立徳島城博物館参照日 2026-09-20
- 千利休書状(魚屋立安宛、天正14年)徳島市立徳島城博物館参照日 2026-09-20
- 徳川家康書状(蜂須賀家政への見舞状)徳島市立徳島城博物館参照日 2026-09-20
- 長宗我部元親書状(蜂須賀正勝宛)徳島市立徳島城博物館参照日 2026-09-20
- 徳島城下町の成立について(郷土研究発表会紀要第15号)阿波学会・徳島県立図書館(三好昭一郎)参照日 2026-09-20
- 阿波おどりの起源徳島県参照日 2026-09-20
- 蜂須賀家の御家騒動(博物館ニュース62号)徳島県立博物館(山川浩實)参照日 2026-09-20
- 徳島県の歴史徳島県参照日 2026-09-20
- 阿波の大名蜂須賀家の火消が描かれた図(博物館ニュース126号)徳島県立博物館(大橋俊雄)参照日 2026-09-20
- 蜂須賀家の家紋は、何か。(徳郷20190308)徳島県立図書館・レファレンス協同データベース参照日 2026-10-18
- 大坂冬の陣で幕府から感状を賜った者の名前と所属する家大阪府立中之島図書館・レファレンス協同データベース参照日 2026-10-18
- 阿波踊りの歴史 序阿波銀行参照日 2026-10-18
- 広報あま2025年9月号 28頁 蜂須賀家第19代当主 蜂須賀正子様来日あま市参照日 2026-10-18
















