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安土桃山宇喜多氏15721655
宇喜多秀家|関ヶ原に散り八丈島に生きた最年少の五大老の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。
宇喜多直家豊臣秀吉豪姫
うきた ひでいえ

宇喜多秀家|関ヶ原に散り八丈島に生きた最年少の五大老

UKITA HIDEIE · 1572 — 1655 · 享年 84

関ヶ原に散り、八丈島で五十年を生きた、豊臣五大老の最年少

宇喜多
生年
元亀3年
1572年/備前・宇喜多直家の子(一説に1573年)
没年
明暦元年(1655年)
11月20日、八丈島で没/享年84(数え)
出身
備前国
父は備前を奪った梟雄・宇喜多直家
居城
岡山城
備前・美作の大大名/配流先は八丈島(1606年〜)
家紋
児文字紋
JI-MON

宇喜多秀家

宇喜多秀家は、備前の梟雄・直家の遺児として豊臣秀吉に猶子として愛され、最年少で五大老に列しながら、関ヶ原に敗れて八丈島へ流され、なお五十年を生き抜いた戦国大名である。

元亀三年(一五七二年)、秀家は備前国に生まれた。父は下克上で備前一国を奪った宇喜多直家。天正九年(一五八一年)に直家が病没すると、秀家は十歳前後で家督を継ぎ、中国攻めを進める羽柴秀吉の後ろ盾を得た。秀吉は秀家を猶子として一字「秀」を与え、養女の豪姫を娶らせる。豊臣と前田に二重に結ばれた縁が、若い秀家を政権の中枢へ引き上げた。

成人した秀家は、四国攻め、九州征伐、小田原征伐と豊臣の天下統一戦に従い、文禄・慶長の役では朝鮮渡海軍の主力を率いた。国もとでは岡山城を近世城郭へ改修し、備前・美作を治める大大名となる。そして慶長三年(一五九八年)、徳川家康らと並んで最年少で五大老に任じられた。二十代の貴公子は、傾きかけた豊臣家を背負う立場に立つ。

慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原で、秀家は西軍最大の一万七千を率いて家康に対峙した。だが小早川秀秋の寝返りで戦線は崩れ、宇喜多隊は壊滅する。前年の宇喜多騒動で家中を割られていたことも、主力の脆さの背景にあった。秀家は伊吹山中へ落ち、薩摩へ逃れた末に捕らえられた。

死罪も覚悟された秀家を救ったのは、舅・前田家と島津家の助命嘆願だった。命を救われた秀家は、慶長十一年(一六〇六年)に八丈島へ流され、絶海の島で五十年の後半生を送ることになる。

明暦元年(一六五五年)、秀家は八丈島で没した。享年八十四、関ヶ原に参じた大名の誰よりも長い生涯だった。宇喜多秀家は、豊臣の栄華の頂から絶海の底へ落ちながら、不屈に半世紀を生き抜いた、最年少の五大老である。 その劇的な生涯に重なる史実と伝承を、ここから読み解いていく。

01幼き家督SUCCESSION

梟雄の遺児 — 直家の死と豊臣の後ろ盾

直家の死と幼き秀家の家督相続
直家の死と幼き秀家の家督相続

元亀三年(一五七二年)、宇喜多秀家は備前国に生まれた。父は下克上で備前一国を奪い取った梟雄・宇喜多直家、幼名は八郎。生年については一五七三年とする辞典もあり、ここは諸説の幅を残して読むのがよい。

天正九年(一五八一年)、父・直家が岡山城で病没する。秀家はまだ十歳前後、数え年の少年だった。梟雄が一代で築いた備前を、幼い嫡子がそのまま背負える時代ではない。宇喜多家は、毛利氏と織田氏がせめぎ合う中国方面の最前線に立たされていた。

この危うい継承を支えたのが、中国攻めを指揮していた羽柴秀吉である。直家は晩年に毛利から織田へ通款しており、秀吉は宇喜多家を織田方の有力な味方として重んじた。秀吉の後ろ盾のもと、幼い秀家は備前・美作の所領を保ったまま家督を継ぐ。

父の死は、戦場の討死でも謀略の果てでもなく、病による継承だった。だからこそ秀家には、奪い取る戦いではなく、受け継いだ大国を守り育てる役目が回ってくる。父・直家が謀略で得た備前は、幼い秀家の代で豊臣大名・宇喜多家へと姿を変えていく。

梟雄の子は、父のような下克上の修羅を歩まない。秀吉という巨大な後ろ盾を得て、別の階段をのぼり始める。宇喜多秀家の物語は、奪う父から受け継ぐ子へと、宇喜多家が世代を越えて姿を変える地点から始まる。

西軍主力として福島隊と激戦も、小早川秀秋の寝返りで壊滅した

「慶長五年、関ヶ原 — 西軍最大一万七千、宇喜多秀家 南天満山に布陣す」

02秀吉の猶子HIDEYOSHI'S WARD

「秀」の偏諱と豪姫 — 豊臣との二重の絆

秀吉の猶子となり豪姫を娶る
秀吉の猶子となり豪姫を娶る

本能寺の変の後、天下取りへ進む羽柴秀吉のもとで、宇喜多秀家は特別な少年として遇された。秀吉は秀家を猶子として近くに置き、自らの一字「秀」を与える。八郎は、ここで秀家と名乗ったとされる。主君から名の一字を受ける偏諱は、格別の親愛と期待のしるしだった。

二人を結ぶ縁はもう一本あった。秀吉は、盟友・前田利家の娘である豪姫を養女として育てており、その豪姫を秀家の正室に据えた。実子に恵まれにくかった秀吉にとって、豪姫はとりわけ愛情を注いだ姫だったと伝わる。前田と豊臣、二つの家との縁が、若い秀家に重ねて結ばれたのである。

偏諱と婚姻。この二重の絆は、秀家を単なる地方大名の跡取りから、豊臣政権の中枢に連なる貴公子へ押し上げた。備前・美作を領する大身でありながら、秀吉の身内同然に育てられた若者は、他の外様大名とは異なる位置にいた。

ただし、この厚遇は秀家自身の器量とは別に、秀吉の政治的計算の産物でもある。中国方面の要である宇喜多家を確実に取り込むこと。前田家との結束を固めること。秀家への寵愛は、若き器量への期待であると同時に、豊臣政権の地盤を固める縁組でもあった。

こうして秀家は、父・直家が謀略で勝ち取った所領に、豊臣の権威という後光を重ねていく。「秀」の一字と豪姫との婚姻は、宇喜多秀家を豊臣政権の身内へと引き上げる、二重の絆だった。

以後五十年、明暦元年(1655年)に八十四歳で没するまで島で生きた

「慶長十一年、八丈島へ — 五大老の貴公子、絶海の流人となる」

03初陣と四国FIRST CAMPAIGNS

紀州・四国の初陣 — 宇喜多勢を率いて讃岐へ

宇喜多勢を率いて讃岐屋島へ上陸する
宇喜多勢を率いて讃岐屋島へ上陸する

天正十三年(一五八五年)、十代半ばの秀家は、豊臣軍の一翼として実戦の場に立つ。同年三月の紀州征伐への従軍が秀家の初陣とみられ、続く四国攻めでは備前・美作の宇喜多勢を率いて海を渡った。少年大名が、自らの軍を背負って戦場へ出る最初の季節である。

四国攻めの総大将は、秀吉の弟・羽柴秀長だった。秀吉自身は病で出馬せず、軍は讃岐・阿波・伊予の三方面から長宗我部元親へ攻めかかる。秀家は蜂須賀正勝黒田孝高・仙石秀久らとともに讃岐の屋島周辺へ上陸し、喜岡城や香西城を攻め、やがて阿波の戦線へ合流した。讃岐方面の有力な指揮官の一人として、共同作戦の一角を担ったのである。

ここは描き方に注意がいる。長宗我部を屈服させたのは三方面同時侵攻の総力であって、秀家が単独で四国を平定したわけではない。少年大名にとって四国攻めは、大軍の中で自軍を動かす経験を積む、貴重な実戦修業の場だった。

初陣の紀州、続く四国。十代の秀家は、まだ華々しい武功を独りで立てる立場にはない。だが豊臣の大軍の中で自らの旗を進める日々は、後の朝鮮渡海や関ヶ原を率いる将としての下地になった。四国攻めは、秀家が宇喜多勢の総帥として戦場を踏む、最初の本格的な軍役だった。

父の謀略の戦ではなく、天下統一へ向かう豊臣の大軍役。その流れの中で、秀家は将としての一歩を刻む。紀州・四国の従軍は、宇喜多秀家が少年大名から豊臣軍団の将へと育っていく、その初陣である。

04備前の大守GREAT DAIMYO

九州・小田原と岡山城 — 備前美作の大大名へ

岡山城の近世化と備前美作の領国経営
岡山城の近世化と備前美作の領国経営

四国攻めの後も、秀家は豊臣の天下統一戦に従い続けた。天正十五年(一五八七年)の九州征伐では、豊臣秀長の指揮下で日向方面に加わり、天正十八年(一五九〇年)の小田原征伐には約八千五百の軍勢を率いて参陣する。天下統一の総仕上げに、宇喜多勢は常に一方の隊として名を連ねた。

その間、秀家は国もとの岡山で大名としての地歩を固めていく。父・直家が中世城郭として整えた石山城を、秀家は石垣と天守を備える近世城郭へと改修した。岡山城の天守は慶長二年(一五九七年)頃に上がったとされ、黒漆の下見板から「烏城」とも呼ばれる。城下では検地や城下町の整備、宇喜多堤と伝わる治水も進んだ。

所領は備前・美作を中心に、史料により約四十七万四千石とも約五十七万四千石とも記される。いずれにせよ秀家は、豊臣大名の中でも指折りの大身であった。父が一代で奪った備前は、秀家の代で近世大名・宇喜多家の領国として形を整えていく。

二十歳前後の若さでこれだけの所領を治める大名は、当時そう多くない。秀吉の身内同然に育ち、豊臣の軍役を着実にこなし、国もとを近世大名へ脱皮させる。秀家は、父が奪った備前を、戦う国から治める国へと組み替えていった。

奪う父・直家と、治める子・秀家。宇喜多家は二代を通じて、下克上の梟雄領から豊臣政権の大大名へと階段をのぼった。九州・小田原の軍役と岡山城の近世化は、宇喜多秀家を豊臣有数の大大名へ押し上げた歳月だった。

05五大老COUNCIL OF FIVE

朝鮮の主力と最年少の大老 — 豊臣政権の重鎮へ

朝鮮渡海の総大将格と最年少の五大老
朝鮮渡海の総大将格と最年少の五大老

天正二十年(一五九二年)に始まる、いわゆる文禄の役で、秀家は前線の中核を担った。渡海軍の総大将格として漢城(ソウル)の統治にあたり、翌文禄二年(一五九三年)の碧蹄館の戦いでは日本側の総帥に据えられる。実際の激戦を指揮したのは先鋒の小早川隆景や立花宗茂らだが、全軍を束ねる総大将の座に若い秀家が置かれたこと自体が、その立場の高さを物語る。

慶長二年(一五九七年)の再征、慶長の役でも、秀家は毛利秀元とともに監軍として渡海し、左軍を率いて南原城を攻略した。二度にわたる朝鮮渡海で、秀家は豊臣軍の最高位の指揮官の一人として重い役目を果たし続けたのである。

そして慶長三年(一五九八年)、秀吉が死を前に定めた五大老に、秀家は名を連ねた。徳川家康前田利家毛利輝元上杉景勝という錚々たる顔ぶれの中で、二十代の秀家はまぎれもない最年少である。古参の小早川隆景が前年に没し、上杉景勝が加わったこの体制で、秀家は最も若く、そして豊臣家への忠誠が最も篤い大老と目された。

家康のような老獪な実力者と肩を並べる二十七歳の大老。それは器量の証であると同時に、秀吉の身内として豊臣政権を支える宿命を負うことでもあった。最年少の五大老という地位は、栄光であると同時に、傾きかけた豊臣家を背負う重い宿命でもあった。

秀吉の死とともに、豊臣政権はゆっくりと均衡を失っていく。その渦の中心近くに、若き秀家は立っていた。朝鮮の主力を率い、最年少で五大老に列したことは、秀家を豊臣家の運命と分かちがたく結びつけた。

06騒動と関ヶ原SEKIGAHARA

宇喜多騒動と西軍主力 — 一万七千、南天満山に散る

南天満山に布陣する西軍最大の宇喜多隊
南天満山に布陣する西軍最大の宇喜多隊

秀吉の死の翌年、慶長四年(一五九九年)、宇喜多家を内側から揺るがす事件が起きた。宇喜多騒動である。家中の主導権をめぐって、戸川達安や花房氏ら譜代の有力家臣が秀家と対立し、家を離れていった。調停には徳川家康大谷吉継が乗り出すほどで、騒動は宇喜多軍団の屋台骨を確実に削った。関ヶ原を前に、西軍最大の大名家は手負いの状態にあったのである。

それでも慶長五年(一六〇〇年)、秀家は石田三成や大谷吉継とともに西軍の中心として挙兵し、家康を非難して秀頼への忠節を促す書状を発した。関ヶ原に布陣した宇喜多隊は約一万七千、西軍最大級の兵力である。秀家は南天満山の麓に陣を敷き、正面の福島正則隊と激しく渡り合った。両家の旗が幾度も前後したと伝わる、関ヶ原屈指の激戦だった。

しかし戦の帰趨を決めたのは、武勇ではなく裏切りだった。松尾山の小早川秀秋が東軍へ寝返り、脇坂らがこれに続くと、西軍の戦線は一気に崩れる。奮戦していた宇喜多隊も支えきれず壊滅した。最大の兵を擁しながら、最大の裏切りに屈したのである。

家臣・明石全登が殿を務める中、秀家は戦場を離れ、伊吹山中へと落ちていった。豊臣への忠義を貫いた最年少の大老は、こうして敗者となる。西軍最大の宇喜多勢が脆くも崩れた背景には、関ヶ原の前年に家中を裂いた宇喜多騒動の傷があった。

奮戦も、忠義も、結果を覆せはしなかった。一万七千の主力は、味方の寝返りの前に散る。関ヶ原の敗北は、宇喜多秀家から大名としての全てを奪い、絶海の島へ続く長い後半生の始まりとなった。

07八丈島五十年EXILE

絶海の流人 — 八丈島に生きた半世紀

八丈島で五十年を生きた流人の晩年
八丈島で五十年を生きた流人の晩年

関ヶ原から落ちた秀家は、伊吹山中に潜んだ後、上方を経て薩摩へ向かった。慶長六年(一六〇一年)、大隅の牛根で島津氏の庇護を受け、しばらく身を隠す。やがて徳川と島津の和議が成り、慶長八年(一六〇三年)に秀家は徳川方へ引き渡された。死罪も覚悟された身を救ったのは、舅・前田利家の家と、庇護した島津家の助命嘆願だったと伝わる。

命は助けられたが、自由は戻らなかった。秀家は駿河の久能に幽閉され、慶長十一年(一六〇六年)四月、二人の息子らとともに八丈島へ流される。八丈島の公式記録に残る、最初の流人だった。剃髪して休福と号した元大老は、ここから絶海の島で長い後半生を送る。

島での暮らしは質素だったが、宇喜多家は絶えなかった。豪姫の縁により、加賀の前田家が白米七十俵と金子三十五両などを、隔年で送り続けたのである。これは隠れて行われた密送ではなく、幕府の許しを得た半ば公認の継続支援で、明治の世まで途切れなかった。海を越えた縁が、流人の一族を支えたのだ。

秀家は、関ヶ原に参じた大名の誰よりも長く生きた。明暦元年(一六五五年)十一月二十日、八丈島で没する。享年八十四、数え年である。栄華の頂から絶海の底へ落ちながら、なお半世紀を生き抜いた。八丈島の五十年は、敗者の余生というより、最年少の大老が見せた静かな不屈の歳月だった。

そして明治二年(一八六九年)、宇喜多家の子孫はついに赦免される。秀家の死から二百年余り、子孫は前田家に引き取られ、ようやく島を離れる道が開かれた。関ヶ原に散った最年少の大老は、八丈島で五十年を生き、前田家との縁とともに子孫を後の世へ残した。