
榊原康政|「無」の旗を掲げ天下人を怒らせた徳川四天王
「旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗を掲げて天下人・秀吉を本気で怒らせた、徳川四天王の一人にして上州館林十万石の猛将」
旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗を掲げた男が、天下人・豊臣秀吉を本気で怒らせ、首に賞金までかけられた ―― それが榊原康政だ。三河の名もなき次男坊から、上州館林十万石の太守にまでのぼりつめた、徳川四天王の一人である。天文17年(1548年)、三河国上野郷に生まれ、幼い頃は寺で学問を修めた。十五、六で三河一向一揆に初陣し、家康に見込まれて「康」の一字をもらう。旗本先手役として姉川・三方ヶ原・長篠と、浅井朝倉や武田との死闘を駆け抜け、本多忠勝と並ぶ徳川の双璧へと育った。天正12年(1584年)の小牧・長久手では、秀吉を弾劾する檄文を放って天下人を激怒させ、その武勇と筆才を後に秀吉自身に認めさせている。関東入封では上野館林十万石を得て徳川四天王に列し、関ヶ原では遅参した嫡男・秀忠を「臣らの罪」と身を挺してかばい、父子の仲を取り持った。晩年は高い位をあっさり辞して館林に退き、慶長11年(1606年)に没した。享年59。武勇と筆と忠節、そして無欲を貫いた、徳川草創期を代表する三河武士である。
寺稚児から初陣へ — 賜った「康」の一字

旗にはただ一字、「無」。それだけが大きく染め抜かれていた。この風変わりな旗を掲げた男が、あろうことか天下人・豊臣秀吉を本気で怒らせ、しまいには首に賞金までかけられてしまう。名を榊原康政という。三河の小さな郷に生まれた名もなき次男坊が、のちに上州十万石の太守へと駆け上がり、徳川四天王の一人に数えられた ―― そんな男の物語である。
康政が生まれたのは天文17年(1548年)、三河国上野郷。いまの愛知県豊田市にあたる。父は榊原長政。松平氏に仕える家ではあったが、大身というわけではない。しかも康政は次男坊で、本来なら家を継ぐ番ですらなかった。幼い頃は寺に預けられ、お坊さんのもとで読み書きを習ったという。地味なようだが、これがのちに効いてくる。天下人を相手どる檄文をすらすら書き上げる筆の力は、この寺での勉強に根っこがあったのだ。
永禄6年(1563年)、三河を真っ二つに割る大事件が起きる。三河一向一揆だ。信仰を選んで主君に背く家臣が続出するなか、まだ十五、六の康政は迷わず家康のもとへ駆けつけ、初陣を飾った。その働きを、家康はじっと見ていた。そしてこの若者に、自分の名「家康」から一字を分け与える。少年はこのとき、榊原康政と名乗ることになった。
主君の名を一字もらう。これがどれほどの栄誉か、想像してみてほしい。名門の生まれでもない、寺の稚児あがりの少年が、己の働きひとつで主君の信頼を勝ち取ったのだ。「康」の一字を授かったその瞬間から、康政の人生は徳川の興亡とがっちり結ばれることになった。
無の旗印旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗が、天下人・秀吉を本気で怒らせた。
姉川に上がる武名 — 先手をゆく若武者

家康に見込まれた康政が任されたのは、旗本先手役という役目だった。戦のたびに軍の一番前に立ち、真っ先に敵へ斬り込む。要するに、いちばん危ない持ち場である。その命がけのポジションを、家康は年若い康政にぽんと託した。よほど見込んでいたのだろう。
元亀元年(1570年)、織田信長と徳川家康の連合軍が、浅井・朝倉の軍勢と近江の姉川でぶつかった。姉川の戦いである。ここで康政は、同じく先手役の本多忠勝とともに敵陣へ突っ込み、目覚ましい武功をあげたと伝わる。まだ二十三歳。徳川軍の刃の切っ先となって、若武者は戦場を駆け抜けた。
おもしろいのは、康政と忠勝が同い年だったことだ。二人は若い頃から先手役として肩を並べ、徳川軍の「双璧」として育っていく。猛々しく槍を振るう忠勝と、冷静に戦況を読む康政。タイプはまるで正反対。それでも二人は互いを認め合い、生涯の盟友であり続けた。のちに徳川を背負う若き猛将たちは、まさにこの時代に芽を出していったのである。
いちばん危険な先手役を任され、若くして名を上げる。姉川での働きは、康政がただの小姓あがりではなく、命を懸けて主君の刃となる男だと、はっきり世に示した。本多忠勝と並ぶ徳川の双璧 ―― その評判は、この若き日の疾走から始まっていた。
臣らの罪なり遅参の責めは秀忠さま一人のものではない。補佐した我ら家臣の罪である。
旗に「無」を染め抜く — 三方ヶ原と長篠

徳川にとって最大の試練が、北から迫っていた。戦国最強とうたわれた武田信玄、そしてその跡を継いだ勝頼である。康政はこの巨大な敵との死闘のなかで、武将として鍛え上げられていく。
元亀3年(1572年)、西へ動き出した信玄が徳川領になだれ込んだ。家康は浜松城を出て野戦を挑むが、三方ヶ原で信玄の老練な用兵にまったく歯が立たず、完敗する。多くの将兵が討たれ、家康自身も命からがら城へ逃げ帰った。生涯でも指折りの大敗だ。康政もこの絶望的な戦場を駆け、傷を負いながら主君を守って退いた。最強の敵を前に、徳川はただ生き延びるだけで精一杯だったのである。
この頃からだという。康政が旗印に「無」の一字を掲げるようになったのは。勝ち負けも、生き死にも超えて、ただ無心に主君のために戦う ―― そんな覚悟を、たった一字に込めたのだろう。そしてやがて天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍は、ついに武田勝頼の精鋭を打ち破る。康政もこの決戦に加わり、今度は宿敵・武田を倒す側に立った。三方ヶ原で味わった屈辱を、長篠で晴らしたのだ。
最強の武田に叩きのめされても、また立ち上がり、ついには打ち破る。「無」の一字を染めた旗は、敗北の絶望のなかでも折れなかった康政の胆力そのものだった。勝敗を超えて主君に尽くす ―― この覚悟こそ、生涯を貫く康政の旗印になった。
一枚の檄文 — 秀吉、その首に賞金をかける

本能寺の変で織田信長が倒れると、天下は一気に揺れた。その混乱を駆け抜けて、のし上がってきたのが羽柴秀吉である。そして天正12年(1584年)、家康は信長の遺児・織田信雄をかついで、秀吉と正面からぶつかった。小牧・長久手の戦いだ。
この戦いで康政は、刀ではなく「一枚の文章」で歴史に名を刻む。彼は筆をとり、秀吉をこてんぱんに弾劾する檄文を書き上げた。いわく ―― 秀吉は卑しい身分から信長公の恩を受けておきながら、その遺児をないがしろにし、あろうことか主家を乗っ取ろうとしている、と。康政はこの文を高札にして各地に掲げ、秀吉の不義を天下に向かって堂々と叫んでみせた。武将が筆で天下人を撃ったのである。
これを知った秀吉は、烈火のごとく怒った。一説には、康政の首を取った者には恩賞を出すとまで触れたという。ところが話には続きがある。戦場では康政は長久手で奮戦し、徳川方の勝利に貢献した。そして数年後、家康が秀吉に臣従して両者が顔を合わせたとき、秀吉はかつて自分を罵ったこの男を罰するどころか、その武勇と筆の冴えを大いに褒めたたえたという。敵ながらあっぱれ、と天下人にうならせたわけだ。
刀ではなく一枚の檄文で天下人を本気にさせ、最後にはその秀吉に器量まで認めさせる。小牧・長久手の檄文は、康政が武辺一辺倒の猛将ではなく、筆と知略を備えた将だと天下に轟かせた。「無」の旗を掲げる寡黙な武人 ―― そのふところには、天下人を激怒させるほど鋭い筆が隠されていた。
館林の太守 — 徳川四天王に列す

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐で北条氏が滅び、家康は住み慣れた東海の旧領から関東への国替えを命じられる。家康は新しい本拠を江戸に定め、配下の将を関東の要所へ次々に配していった。このとき康政に与えられたのが、上野国・館林の地である。
館林十万石。徳川家臣団のなかでも飛び抜けた大封だ。家康は、北の上杉や常陸の佐竹に備える北関東の要として、信頼する康政をここに据えた。本多忠勝は上総大多喜で十万石、井伊直政は上野箕輪で十二万石。康政はこの二人と肩を並べ、家康の覇業を支える大名へと駆け上がったのである。三河の名もなき次男坊が、ついに一国一城のあるじになった。
やがて康政は、本多忠勝・井伊直政、そして最古参の宿老・酒井忠次とともに「徳川四天王」と呼ばれるようになる。さらに徳川十六神将の一人にも数えられた。ただし康政は、武勇だけで名を連ねたわけではない。館林にあっては城下を整え、領民を治める政治の腕も発揮している。戦場で刃を振るい、陣中で檄文を書き、領国まで切り盛りする ―― 康政は、文も武もこなす欲張りな将だったのだ。
名もなき郷に生まれた男が、北関東の要を任される十万石の太守になる。館林の城主という地位は、康政が家康にとってどれほど欠かせない柱だったかを、何より雄弁に物語っている。徳川四天王の一角という栄誉は、武勇と筆と統治、その三つを束ねた康政の総合力への評価だった。
中山道に消えた決戦 — 「臣らの罪」

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原が近づいていた。家康は東海道を西へ進む一方、嫡男・徳川秀忠に三万を超える大軍を預け、中山道から美濃をめざさせる。康政は、この秀忠軍の補佐役として従軍した。徳川の次代を担う若き世継ぎを、老練の四天王が支える ―― そういう布陣である。
ところが、ここで思わぬ落とし穴が待っていた。信濃の上田城に拠る、真田昌幸だ。わずかな兵で立てこもる昌幸の巧みな籠城に、秀忠軍はてこずり、貴重な日数をずるずると食いつぶしてしまう。その間に天下の大勢は決した。慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦は、たった一日で東軍の勝利に終わったのだ。秀忠の大軍は、ついに決戦の場に間に合わなかった。徳川の主力が、天下分け目の戦場に姿すら見せられなかったのである。
これを知った家康の怒りは、それはもう凄まじかった。遅れてきた秀忠と、顔を合わせることすら拒もうとしたという。そこで身を挺したのが康政だった。彼は家康の前に進み出て、遅参の責めは秀忠さま一人のものではない、補佐した我ら家臣の罪だ、と必死に父子のあいだを取り持った。この懸命の弁護があって、家康はようやく怒りを収め、秀忠との対面を許したと伝わる。次の将軍となるべき主君を、康政は自分の身を盾にして救ったのだ。
天下分け目に遅れた世継ぎを、わが身を投げ出してかばい抜く。関ヶ原での取り成しは、康政の忠義が口先だけのものではなく、命懸けで主家の未来を守るものだったことを示している。武勇でも筆でもなく、この一途な忠義こそ、康政という男のいちばん深いところにある真価だった。
館林に閉じた生涯 — 「年若くして高位は身に過ぐ」

関ヶ原の勝利で徳川の天下はほぼ固まり、やがて家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。新しい泰平の世が始まろうとしていた。ところが、その新時代のなかで、康政はむしろ静かに身を引いていく。
天下が定まると、政治の中心には本多正信のような知恵者が幅をきかせるようになった。槍働きで成り上がった武功派の将が、だんだん表舞台から遠ざかっていく時代である。康政も、官位の昇進を勧められても固く断ったと伝わる。「まだ若い身で高い位をもらうのは、かえって身に過ぎる」と語ったともいう。天下人を怒らせるほどの気骨を持ちながら、出世にはあっさりしていた。その姿は、旗に掲げた「無」の一字に、どこまでも忠実だった。
第一線を退いた康政は、領国の館林で静かに余生を送る。そして慶長11年(1606年)、その地で病に倒れ、生涯を閉じた。享年59。三河の名もなき郷に生まれ、主君の名を分けてもらい、天下人を相手どり、上州十万石の太守にまでのぼりつめた男の、波乱に満ちた一生だった。その家は榊原家として近世大名に列し、のちに越後高田や姫路を治める名門として続いていく。
天下人を恐れない気概を持ちながら、出世を求めず、最後まで「無」の旗に忠実であり続けた。位を求めなかったその生き方こそ、康政が名将でありながら、どこまでも清廉な武人だったことの証だった。館林に閉じた康政の生涯は、武勇と筆と忠節、そして無欲を貫いた一人の三河武士の、まぎれもない完結だった。
史料の読み解き
榊原康政という男は、一言で言い表すのが難しい。槍一筋の本多忠勝とも違う。知恵袋の本多正信とも違う。武勇に、筆に、忠節に、無欲。およそ一人の人間に同居しそうにない資質が、なぜか全部そろっている。そこに康政のおもしろさがあり、同時に謎もある。ここでは「無」の旗・檄文・関ヶ原という見せ場をはじめ、五つの切り口から、後世の脚色と史実の地金を見分けつつ、康政の素顔に近づいてみたい。
旗印「無」は、けっきょく何を意味したのか
康政を語るとき必ず引き合いに出されるのが、あの「無」の旗だ。だが正直に言えば、この一字が何を意味したのかは、よく分かっていない。
よく語られるのは、勝ち負けや生き死ににとらわれない覚悟、あるいは無欲・無心の境地を示したのだ、という読みである。寺で学問を修めた経歴や、晩年に高位を辞退した生き方を重ねると、この解釈はいかにもしっくりくる。仏教の「無」の思想を、武人の覚悟に重ねたのだ、というわけだ。
一方で、ちょっと立ち止まりたくもなる。旗印の由来や真意をじかに伝える同時代の記録は、実のところ乏しい。とすると、後世が康政の生涯から逆算して「きっとこういう意味だろう」と意味づけた面も否めない。戦国の旗指物といえば、敵を威圧する派手な意匠や縁起のいい文字が好まれた。そのなかであえて「無」を選んだこと自体が異彩なのであって、だからこそ後世の人々が、そこに深い哲学を読み込みたくなったとも考えられる。
どちらにせよ、はっきりしているのは、康政が他の誰とも違う、極限まで削ぎ落とした一字を旗に掲げたという事実だ。「無」の真意を断言することはできない。けれど、その一字を選んだ感性そのものが、出世にあっさりしていた康政の人柄と、見事に響き合っている。意味を確定できないまま、なお人を惹きつける。そこがこの旗のいちばんの魅力なのかもしれない。
檄文は、本当に康政が書いたのか
小牧・長久手で康政が秀吉弾劾の檄文を放ち、天下人を激怒させた ―― この話は、康政を「筆も立つ武将」として際立たせる名場面だ。ただ、檄文の中身や、それが本当に康政自身の筆かどうかについては、少し慎重に見ておきたい。
「康政の檄文」とする伝えは、徳川方の記録を中心に広く知られている。秀吉の主家乗っ取りを鋭く突くその内容は、たしかに学問を修めた康政にふさわしい。秀吉が激怒し、和睦後はむしろその才を褒めたという後日談まで含めて、物語としての出来がいい。武辺の将が筆で天下人を撃つ ―― この構図だけで、もう人の心をつかんでしまう。
だが、こうした檄文や高札の逸話には、後世に主君や家の名誉を高めるなかで尾ひれがついた可能性も、つきまとう。秀吉が「康政の首に賞金をかけた」という派手なくだりなどは、講談ふうの誇張とみるのが穏当だろう。文面の細部をどこまで康政その人に帰せるかも、正直、断定はできない。
それでも、康政が単なる武辺者ではなく、文章をよくする教養人だったという評価そのものは、寺での学問という出自ともきれいに整合する。檄文の一字一句を康政の作と決めつけるより、武と文を兼ねた将という康政像が、この逸話を生み育てたと読むほうが、実像に近い。脚色を割り引いてなお、「筆の立つ猛将」という核は揺るがないのだ。
関ヶ原の遅参と、晩年の身の退き方
関ヶ原で秀忠軍に従い、上田城に阻まれて本戦に遅刻した ―― この一件は、康政の評価を考えるうえで見逃せない。彼はこの失態の当事者でありながら、なぜか忠臣として名を上げているからだ。
秀忠軍が上田で真田昌幸にてこずり、決戦に間に合わなかったのは事実である。問題は、その責めを誰がどう負ったかだ。康政が家康の前で「臣らの罪」と訴え、秀忠を取り成したという筋立ては広く伝わるが、その場のやりとりの細部は史料によって幅がある。家康の怒りの激しさや対面拒否のくだりにも、ドラマチックに語るための誇張がまじっている可能性はある。
それでも、康政が秀忠の補佐役として遅参の現場におり、戦後に世継ぎと家康のあいだを取り持つ立場にいたことは動かない。ここで注目したいのは、この一件のあと、康政が政治の中枢からすっと退いていったことだ。本多正信ら吏僚派が台頭する新時代に、武功派の康政は高位を辞し、館林で余生を送った。これを失意の隠居とみるか、それとも「無」の旗にふさわしい潔い引き際とみるか ―― 評価が分かれるところだろう。
失態の当事者でありながら、その引き際ゆえに、かえって名を惜しまれる。関ヶ原から晩年にかけての康政は、武功派の将が泰平の世でいかに身を処したかを示す、ひとつの見本でもあった。出世を求めなかったその選択に、生涯を貫く「無」の哲学が、最後にもう一度、静かに立ち現れている。
徳川四天王のなかで、康政は何が違ったのか
康政は本多忠勝・井伊直政・酒井忠次と並んで「徳川四天王」に数えられる。だが四人を横に並べてみると、康政の立ち位置はなかなか独特だ。
まず酒井忠次。彼は四人のなかで唯一、家康より一世代上の宿老で、家康の人質時代から付き従った最古参である。立場で言えば、若い三人を束ねる年長者だ。残る三人は家康より年下の猛将組。そのなかで井伊直政は、武田の遺臣を受け継いだ「赤備え」を率い、戦場での華やかさと、外交・政治の手腕で抜きん出ていた。本多忠勝は、生涯無傷を誇るとされた純然たる槍の猛将。徳川随一の武の象徴である。
では康政はどうか。武勇では忠勝に、政治力では直政に、それぞれ譲るところがあったかもしれない。けれど、武も文もそこそこ高い水準でこなし、しかも秀吉を撃つ檄文を書き、関ヶ原では世継ぎを取り成す ―― そういう「バランスの将」だった。とがった一芸ではなく、全体をそつなくまとめる総合力。それが康政の持ち味だ。忠勝・康政がそろって十万石、直政が十二万石という処遇は、家康がこの三人をほぼ並べて評価していたことを物語る。
四天王と一括りにされがちだが、中身は見事にバラバラだ。宿老の忠次、赤備えの直政、無傷の忠勝、そして文武バランスの康政 ―― この個性の違いを知ると、康政という将の輪郭がぐっと立体的になる。突出した一芸がない分、かえって康政は「徳川という組織を回す将」だったと言えるのかもしれない。
武功の将は、泰平の世をどう生きたのか
最後に、康政の晩年をもう少し広い目で眺めてみたい。彼が高位を辞して館林に退いた背景には、一人の人間の心情だけでなく、時代そのものの大きな転換があったからだ。
戦国の世では、戦で手柄を立てる武功派こそが出世の主役だった。ところが天下が定まり泰平の世が近づくと、求められる能力が変わってくる。必要なのは、戦の強さより、検地や訴訟や外交を裁く吏僚の知恵である。家康の側近として台頭した本多正信は、まさにその新しい時代の象徴だった。槍で成り上がった武功派の将たちは、しだいに政治の表舞台から押し出されていく。
康政の引き際も、この大きな潮目のなかに置くと見えてくるものがある。「年若くして高位は身に過ぐ」という辞退の弁を、額面どおりの謙虚と取るか、新時代に居場所を失った武功派のあきらめと取るかで、康政像はずいぶん変わる。一説には、康政が吏僚派の政治に距離を置き、あえて中央から退いたとも語られる。もっとも、こうした晩年の心境を伝える逸話には後世の脚色も混じるため、どこまでが本心かは慎重に見たほうがいい。
それでも、武功一筋で生きた将が、自分の時代の終わりをどう受け止めたか ―― そこに康政の引き際は、ひとつの答えを示している。欲をかいて中央にしがみつくのではなく、潔く身を引く。その選択は、図らずも「無」の旗の哲学と、最後まできれいに重なっていた。時代が変わっても己を曲げなかった ―― そう読むこともできるのだ。
確度のまとめ
| 論点 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 康政は天文17年(1548年)生まれ・慶長11年(1606年)没 | 高 | 系譜・記録が享年59歳でほぼ一致 |
| 十三歳前後で家康に仕え、三河一向一揆の初陣で「康」を賜った | 中〜高 | 偏諱は広く伝わるが、出仕は永禄3年頃・偏諱は一向一揆と年次に幅がある |
| 旗本先手役として姉川・三方ヶ原・長篠を戦った | 高 | 徳川の主要合戦への従軍は史料に一致 |
| 旗印に「無」の一字を掲げた | 中〜高 | 「無」の旗は広く伝わるが、由来・真意を伝える同時代史料は乏しい |
| 小牧・長久手で秀吉弾劾の檄文を放った | 中 | 檄文の逸話は徳川方記録を中心に伝わる。文面の帰属・潤色に注意 |
| 秀吉が康政の首に賞金をかけた | 低〜中 | 講談的な誇張を含む可能性が高く、史実性は確実でない |
| 関東入封で上野館林十万石を与えられた | 高 | 関東入封時の知行は史料に一致 |
| 本多忠勝・井伊直政・酒井忠次と徳川四天王に数えられる | 中〜高 | 四天王の括りは後世の呼称だが、康政が重臣であった点は一致 |
| 関ヶ原で秀忠軍に従い遅参、秀忠を取り成した | 中〜高 | 秀忠軍の遅参は史実。取り成しの詳細・台詞には史料の幅がある |
| 晩年に高位を辞退し館林に退いた | 中 | 無欲を伝える逸話は後世の潤色も含むが、政の中枢から退いた点は整合 |
参戦合戦
榊原康政|「無」の旗を掲げ天下人を怒らせた徳川四天王の逸話
- 01
旗印「無」 — 一字に込めた覚悟

ただ「無」の一字を染め抜いた康政の旗。勝敗を超えた覚悟を一字に込める · AI生成イメージ 榊原康政といえば、まず思い浮かぶのがあの旗だ。家紋や勇ましい文句を競って掲げる戦国の旗のなかで、康政の旗にはただ一字、「無」とだけ染め抜かれていた。なんとも潔い。
では、なぜ「無」だったのか。後世の人々は、あれこれ想像をめぐらせてきた。勝ち負けにも生き死にもとらわれず、無心に主君のために戦う覚悟の表れだ、とも。あるいは禅の境地に通じる無欲・無我の心を示したのだ、とも。寺で学問を修めた康政の経歴を思えば、この一字に仏教の香りを読み取るのも、あながち的外れではないだろう。
もっとも、旗印の由来をはっきり伝える確かな記録は、実は乏しい。「無」に込めた真意は、いまとなっては推し量るしかないのだ。それでも、晩年にあっさり高位を辞退した康政の生き方を重ねてみれば、この一字が彼の人生そのものを貫く哲学だったことは、おのずと見えてくる。欲をかかず、ただ己の務めを果たす。
派手な飾りをぜんぶ捨てて、たった一字に己の生き方を託す。「無」の旗は、どんな雄弁な逸話よりも静かに、そして雄弁に、康政という男の内面を物語っている。
- 02
「臣らの罪なり」 — 秀忠を救った取り成し

家康の前に進み出て、秀忠の遅参を「臣らの罪」と訴える康政 · AI生成イメージ 関ヶ原に遅刻した徳川秀忠をめぐる一件は、康政の忠義をもっともよく伝えるエピソードとして知られている。
天下分け目の決戦に間に合わなかった秀忠に対し、父・家康の怒りは激しかった。顔を合わせることすら拒もうとする家康を前に、家臣たちは息を呑んだ。そのとき、自分から進み出たのが康政だ。遅参の責めは若い秀忠さまにあるのではない、補佐を任されながら導けなかった我ら家臣の罪だ ―― そう頭を下げて訴えたと伝わる。世継ぎの失敗を、老臣が自分の咎として引き受けたのである。
この取り成しがあって、家康はようやく怒りを解き、秀忠との対面に応じたという。細かいところは史料によって食い違うが、康政が父子のあいだを取り持ち、次の将軍を救ったという筋立ては、広く語り継がれてきた。のちに将軍となった秀忠が康政の家を手厚く遇したのも、この恩を忘れなかったからだといわれる。
自分の手柄を誇るのではなく、主君の過ちを進んで背負う。「臣らの罪なり」というこの一言にこそ、康政が「無」の旗に込めた忠節の真髄が表れている。
- 03
本多忠勝との双璧 — 同い年の盟友

同い年の盟友・本多忠勝と並び立つ康政。徳川軍の両翼を担った双璧 · AI生成イメージ 康政の生涯を語るうえで、どうしても外せないのが本多忠勝という相棒だ。二人は同じ天文17年(1548年)の生まれで、若い頃からそろって家康の先手役を務めた、いわば双子のような盟友である。
ところが、性格は驚くほど正反対だったと伝わる。生涯五十数度の合戦で一度も傷を負わなかったという猛将・忠勝が、ひたすら槍働きで名を馳せたのに対し、康政は冷静沈着で、戦の駆け引きを読み、筆もよくした。猪突猛進の忠勝と、思慮深い康政。二人はまるで足りないところを補い合うように、徳川軍の両翼を担った。家康はこの同い年の二人を、車の両輪のごとく頼りにしたのである。
関東入りのときも、忠勝は大多喜で十万石、康政は館林で十万石と、ぴたり同じ石高を与えられている。家康が二人をどれだけ等しく重んじていたか、この処遇からもよくわかる。武の忠勝、知の康政 ―― 徳川草創を支えた双璧は、最後まで並び立つ盟友であり続けた。
正反対でありながら、互いを認め合って徳川の両翼を担い続けた二人。本多忠勝と榊原康政という同い年の双璧があってこそ、徳川の天下取りは前へ進んだのである。
関連人物
所縁の地
- 館林城跡群馬県館林市
天正18年(1590年)の関東入封で榊原康政が十万石を与えられ、城主として整えた居城である。城沼の水を巧みに取り込んだ平城で、康政はここを拠点に北関東の守りを担い、城下町づくりにも力を注いだ。三河の名もなき郷に生まれた康政が、一国一城のあるじへとのぼりつめた地であり、のちに館林藩の中心として栄える土台にもなった。徳川四天王の一人が築いた城として、その名を今に伝えている。
- 善導寺(榊原康政墓所)群馬県館林市
慶長11年(1606年)に館林で世を去った榊原康政が葬られた寺である。康政が城下の整備にあわせて現在地へ移したと伝わる館林藩主・榊原家ゆかりの寺で、その墓所が今も残されている。天下人・秀吉を相手どり、関ヶ原では秀忠を救った四天王の一人が、出世を求めず静かに生涯を閉じた地として、その足跡を伝えている。
- つつじが岡(館林)群馬県館林市
康政が城主として治めた館林の地に広がる景勝地で、古くからつつじの名所として知られる。館林城とその城下は康政が整え、のちの館林藩の繁栄へとつながった。武勇と筆を兼ねた四天王が領国経営の才を発揮した土地であり、康政が単なる猛将ではなく、領民を治める将でもあったことを今に伝えている。





