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戦国時代〜江戸初期三河榊原氏15481606
榊原康政|「無」の旗を掲げ天下人を怒らせた徳川四天王の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・榊原康政像(江戸期の資料に基づく想像復元)
三河榊原氏徳川四天王徳川十六神将
さかきばら・やすまさ

榊原康政|「無」の旗を掲げ天下人を怒らせた徳川四天王

SAKAKIBARA YASUMASA · 1548 — 1606 · 享年 59

旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗を掲げて天下人・秀吉を本気で怒らせた、徳川四天王の一人にして上州館林十万石の猛将

榊原家
生年
天文17年
1548年/三河国上野郷
没年
慶長11年
1606年・享年59歳・館林にて
本拠
上野・館林城
上州十万石/徳川四天王
官途
式部大輔
従五位下・旗印は「無」の一字
家紋
源氏車(榊原車)
GENJI-GURUMA

旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗を掲げた男が、天下人・豊臣秀吉を本気で怒らせ、首に賞金までかけられた ―― それが榊原康政だ。三河の名もなき次男坊から、上州館林十万石の太守にまでのぼりつめた、徳川四天王の一人である。天文17年(1548年)、三河国上野郷に生まれ、幼い頃は寺で学問を修めた。十五、六で三河一向一揆に初陣し、家康に見込まれて「康」の一字をもらう。旗本先手役として姉川・三方ヶ原・長篠と、浅井朝倉や武田との死闘を駆け抜け、本多忠勝と並ぶ徳川の双璧へと育った。天正12年(1584年)の小牧・長久手では、秀吉を弾劾する檄文を放って天下人を激怒させ、その武勇と筆才を後に秀吉自身に認めさせている。関東入封では上野館林十万石を得て徳川四天王に列し、関ヶ原では遅参した嫡男・秀忠を「臣らの罪」と身を挺してかばい、父子の仲を取り持った。晩年は高い位をあっさり辞して館林に退き、慶長11年(1606年)に没した。享年59。武勇と筆と忠節、そして無欲を貫いた、徳川草創期を代表する三河武士である。

01出自ORIGIN

寺稚児から初陣へ — 賜った「康」の一字

三河上野郷に生まれ、寺で学問を修めた少年期の康政。のちに家康から「康」の一字を賜る(AI生成イメージ)
三河上野郷に生まれ、寺で学問を修めた少年期の康政。のちに家康から「康」の一字を賜る · AI生成イメージ

旗にはただ一字、「無」。それだけが大きく染め抜かれていた。この風変わりな旗を掲げた男が、あろうことか天下人・豊臣秀吉を本気で怒らせ、しまいには首に賞金までかけられてしまう。名を榊原康政という。三河の小さな郷に生まれた名もなき次男坊が、のちに上州十万石の太守へと駆け上がり、徳川四天王の一人に数えられた ―― そんな男の物語である。

康政が生まれたのは天文17年(1548年)、三河国上野郷。いまの愛知県豊田市にあたる。父は榊原長政。松平氏に仕える家ではあったが、大身というわけではない。しかも康政は次男坊で、本来なら家を継ぐ番ですらなかった。幼い頃は寺に預けられ、お坊さんのもとで読み書きを習ったという。地味なようだが、これがのちに効いてくる。天下人を相手どる檄文をすらすら書き上げる筆の力は、この寺での勉強に根っこがあったのだ。

永禄6年(1563年)、三河を真っ二つに割る大事件が起きる。三河一向一揆だ。信仰を選んで主君に背く家臣が続出するなか、まだ十五、六の康政は迷わず家康のもとへ駆けつけ、初陣を飾った。その働きを、家康はじっと見ていた。そしてこの若者に、自分の名「家康」から一字を分け与える。少年はこのとき、榊原康政と名乗ることになった。

主君の名を一字もらう。これがどれほどの栄誉か、想像してみてほしい。名門の生まれでもない、寺の稚児あがりの少年が、己の働きひとつで主君の信頼を勝ち取ったのだ。「康」の一字を授かったその瞬間から、康政の人生は徳川の興亡とがっちり結ばれることになった。

無の旗印

旗にはただ一字、「無」。この風変わりな旗が、天下人・秀吉を本気で怒らせた。

—— 本記事「天下人を怒らせた筆」より
02旗本先手役VANGUARD

姉川に上がる武名 — 先手をゆく若武者

姉川の戦いで先手役として敵陣へ突進する若き康政。本多忠勝と並ぶ徳川の双璧(AI生成イメージ)
姉川の戦いで先手役として敵陣へ突進する若き康政。本多忠勝と並ぶ徳川の双璧 · AI生成イメージ

家康に見込まれた康政が任されたのは、旗本先手役という役目だった。戦のたびに軍の一番前に立ち、真っ先に敵へ斬り込む。要するに、いちばん危ない持ち場である。その命がけのポジションを、家康は年若い康政にぽんと託した。よほど見込んでいたのだろう。

元亀元年(1570年)、織田信長徳川家康の連合軍が、浅井・朝倉の軍勢と近江の姉川でぶつかった。姉川の戦いである。ここで康政は、同じく先手役の本多忠勝とともに敵陣へ突っ込み、目覚ましい武功をあげたと伝わる。まだ二十三歳。徳川軍の刃の切っ先となって、若武者は戦場を駆け抜けた。

おもしろいのは、康政と忠勝が同い年だったことだ。二人は若い頃から先手役として肩を並べ、徳川軍の「双璧」として育っていく。猛々しく槍を振るう忠勝と、冷静に戦況を読む康政。タイプはまるで正反対。それでも二人は互いを認め合い、生涯の盟友であり続けた。のちに徳川を背負う若き猛将たちは、まさにこの時代に芽を出していったのである。

いちばん危険な先手役を任され、若くして名を上げる。姉川での働きは、康政がただの小姓あがりではなく、命を懸けて主君の刃となる男だと、はっきり世に示した。本多忠勝と並ぶ徳川の双璧 ―― その評判は、この若き日の疾走から始まっていた。

臣らの罪なり

遅参の責めは秀忠さま一人のものではない。補佐した我ら家臣の罪である。

—— 関ヶ原・秀忠取り成しの逸話より
03武田との死闘CRUCIBLE

旗に「無」を染め抜く — 三方ヶ原と長篠

「無」の一字を染め抜いた旗を掲げ、武田勢と渡り合う康政(AI生成イメージ)
「無」の一字を染め抜いた旗を掲げ、武田勢と渡り合う康政 · AI生成イメージ

徳川にとって最大の試練が、北から迫っていた。戦国最強とうたわれた武田信玄、そしてその跡を継いだ勝頼である。康政はこの巨大な敵との死闘のなかで、武将として鍛え上げられていく。

元亀3年(1572年)、西へ動き出した信玄が徳川領になだれ込んだ。家康は浜松城を出て野戦を挑むが、三方ヶ原で信玄の老練な用兵にまったく歯が立たず、完敗する。多くの将兵が討たれ、家康自身も命からがら城へ逃げ帰った。生涯でも指折りの大敗だ。康政もこの絶望的な戦場を駆け、傷を負いながら主君を守って退いた。最強の敵を前に、徳川はただ生き延びるだけで精一杯だったのである。

この頃からだという。康政が旗印に「無」の一字を掲げるようになったのは。勝ち負けも、生き死にも超えて、ただ無心に主君のために戦う ―― そんな覚悟を、たった一字に込めたのだろう。そしてやがて天正3年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川連合軍は、ついに武田勝頼の精鋭を打ち破る。康政もこの決戦に加わり、今度は宿敵・武田を倒す側に立った。三方ヶ原で味わった屈辱を、長篠で晴らしたのだ。

最強の武田に叩きのめされても、また立ち上がり、ついには打ち破る。「無」の一字を染めた旗は、敗北の絶望のなかでも折れなかった康政の胆力そのものだった。勝敗を超えて主君に尽くす ―― この覚悟こそ、生涯を貫く康政の旗印になった。

04天下人を怒らせた筆THE PEN

一枚の檄文 — 秀吉、その首に賞金をかける

小牧・長久手の陣中で秀吉を弾劾する檄文をしたためる康政。筆で天下人を撃つ(AI生成イメージ)
小牧・長久手の陣中で秀吉を弾劾する檄文をしたためる康政。筆で天下人を撃つ · AI生成イメージ

本能寺の変織田信長が倒れると、天下は一気に揺れた。その混乱を駆け抜けて、のし上がってきたのが羽柴秀吉である。そして天正12年(1584年)、家康は信長の遺児・織田信雄をかついで、秀吉と正面からぶつかった。小牧・長久手の戦いだ。

この戦いで康政は、刀ではなく「一枚の文章」で歴史に名を刻む。彼は筆をとり、秀吉をこてんぱんに弾劾する檄文を書き上げた。いわく ―― 秀吉は卑しい身分から信長公の恩を受けておきながら、その遺児をないがしろにし、あろうことか主家を乗っ取ろうとしている、と。康政はこの文を高札にして各地に掲げ、秀吉の不義を天下に向かって堂々と叫んでみせた。武将が筆で天下人を撃ったのである。

これを知った秀吉は、烈火のごとく怒った。一説には、康政の首を取った者には恩賞を出すとまで触れたという。ところが話には続きがある。戦場では康政は長久手で奮戦し、徳川方の勝利に貢献した。そして数年後、家康が秀吉に臣従して両者が顔を合わせたとき、秀吉はかつて自分を罵ったこの男を罰するどころか、その武勇と筆の冴えを大いに褒めたたえたという。敵ながらあっぱれ、と天下人にうならせたわけだ。

刀ではなく一枚の檄文で天下人を本気にさせ、最後にはその秀吉に器量まで認めさせる。小牧・長久手の檄文は、康政が武辺一辺倒の猛将ではなく、筆と知略を備えた将だと天下に轟かせた。「無」の旗を掲げる寡黙な武人 ―― そのふところには、天下人を激怒させるほど鋭い筆が隠されていた。

05上州十万石THE LORD

館林の太守 — 徳川四天王に列す

上野・館林十万石の城主となった康政。北関東の要を任される徳川四天王の一人(AI生成イメージ)
上野・館林十万石の城主となった康政。北関東の要を任される徳川四天王の一人 · AI生成イメージ

天正18年(1590年)、秀吉の小田原征伐で北条氏が滅び、家康は住み慣れた東海の旧領から関東への国替えを命じられる。家康は新しい本拠を江戸に定め、配下の将を関東の要所へ次々に配していった。このとき康政に与えられたのが、上野国・館林の地である。

館林十万石。徳川家臣団のなかでも飛び抜けた大封だ。家康は、北の上杉や常陸の佐竹に備える北関東の要として、信頼する康政をここに据えた。本多忠勝は上総大多喜で十万石、井伊直政は上野箕輪で十二万石。康政はこの二人と肩を並べ、家康の覇業を支える大名へと駆け上がったのである。三河の名もなき次男坊が、ついに一国一城のあるじになった。

やがて康政は、本多忠勝・井伊直政、そして最古参の宿老・酒井忠次とともに「徳川四天王」と呼ばれるようになる。さらに徳川十六神将の一人にも数えられた。ただし康政は、武勇だけで名を連ねたわけではない。館林にあっては城下を整え、領民を治める政治の腕も発揮している。戦場で刃を振るい、陣中で檄文を書き、領国まで切り盛りする ―― 康政は、文も武もこなす欲張りな将だったのだ。

名もなき郷に生まれた男が、北関東の要を任される十万石の太守になる。館林の城主という地位は、康政が家康にとってどれほど欠かせない柱だったかを、何より雄弁に物語っている。徳川四天王の一角という栄誉は、武勇と筆と統治、その三つを束ねた康政の総合力への評価だった。

06秀忠をかばうLOYALTY

中山道に消えた決戦 — 「臣らの罪」

遅参した秀忠をかばい、家康に必死で取り成す康政。身を盾に次代を守る(AI生成イメージ)
遅参した秀忠をかばい、家康に必死で取り成す康政。身を盾に次代を守る · AI生成イメージ

慶長5年(1600年)、天下分け目の関ヶ原が近づいていた。家康は東海道を西へ進む一方、嫡男・徳川秀忠に三万を超える大軍を預け、中山道から美濃をめざさせる。康政は、この秀忠軍の補佐役として従軍した。徳川の次代を担う若き世継ぎを、老練の四天王が支える ―― そういう布陣である。

ところが、ここで思わぬ落とし穴が待っていた。信濃の上田城に拠る、真田昌幸だ。わずかな兵で立てこもる昌幸の巧みな籠城に、秀忠軍はてこずり、貴重な日数をずるずると食いつぶしてしまう。その間に天下の大勢は決した。慶長5年9月15日、関ヶ原の本戦は、たった一日で東軍の勝利に終わったのだ。秀忠の大軍は、ついに決戦の場に間に合わなかった。徳川の主力が、天下分け目の戦場に姿すら見せられなかったのである。

これを知った家康の怒りは、それはもう凄まじかった。遅れてきた秀忠と、顔を合わせることすら拒もうとしたという。そこで身を挺したのが康政だった。彼は家康の前に進み出て、遅参の責めは秀忠さま一人のものではない、補佐した我ら家臣の罪だ、と必死に父子のあいだを取り持った。この懸命の弁護があって、家康はようやく怒りを収め、秀忠との対面を許したと伝わる。次の将軍となるべき主君を、康政は自分の身を盾にして救ったのだ。

天下分け目に遅れた世継ぎを、わが身を投げ出してかばい抜く。関ヶ原での取り成しは、康政の忠義が口先だけのものではなく、命懸けで主家の未来を守るものだったことを示している。武勇でも筆でもなく、この一途な忠義こそ、康政という男のいちばん深いところにある真価だった。

07位を求めずTHE END

館林に閉じた生涯 — 「年若くして高位は身に過ぐ」

昇進を辞して館林に没した康政。「無」の旗に忠実だった晩年(AI生成イメージ)
昇進を辞して館林に没した康政。「無」の旗に忠実だった晩年 · AI生成イメージ

関ヶ原の勝利で徳川の天下はほぼ固まり、やがて家康は征夷大将軍となって江戸に幕府を開く。新しい泰平の世が始まろうとしていた。ところが、その新時代のなかで、康政はむしろ静かに身を引いていく。

天下が定まると、政治の中心には本多正信のような知恵者が幅をきかせるようになった。槍働きで成り上がった武功派の将が、だんだん表舞台から遠ざかっていく時代である。康政も、官位の昇進を勧められても固く断ったと伝わる。「まだ若い身で高い位をもらうのは、かえって身に過ぎる」と語ったともいう。天下人を怒らせるほどの気骨を持ちながら、出世にはあっさりしていた。その姿は、旗に掲げた「無」の一字に、どこまでも忠実だった。

第一線を退いた康政は、領国の館林で静かに余生を送る。そして慶長11年(1606年)、その地で病に倒れ、生涯を閉じた。享年59。三河の名もなき郷に生まれ、主君の名を分けてもらい、天下人を相手どり、上州十万石の太守にまでのぼりつめた男の、波乱に満ちた一生だった。その家は榊原家として近世大名に列し、のちに越後高田や姫路を治める名門として続いていく。

天下人を恐れない気概を持ちながら、出世を求めず、最後まで「無」の旗に忠実であり続けた。位を求めなかったその生き方こそ、康政が名将でありながら、どこまでも清廉な武人だったことの証だった。館林に閉じた康政の生涯は、武勇と筆と忠節、そして無欲を貫いた一人の三河武士の、まぎれもない完結だった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-18

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