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戦国時代〜江戸初期脇坂氏15541626
脇坂安治|七本槍から関ヶ原で寝返った生存の謀将の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 脇坂安治像(想像復元・脇坂家伝来の肖像系譜より)
脇坂安治賤ヶ岳七本槍関ヶ原の戦い
わきざか やすはる

脇坂安治|七本槍から関ヶ原で寝返った生存の謀将

WAKIZAKA YASUHARU · 1554 — 1626 · 享年 73

賤ヶ岳七本槍の最年長として槍を振るいながらも、関ヶ原ではその場で西軍を裏切り東軍へ走った——時代の風向きを読み切って血脈を江戸まで運んだ、変節と生存の謀将

脇坂
生年
天文23年(1554年)
近江国浅井郡脇坂村/田付孫左衛門の子で脇坂安明の嗣子となったとする説あり
没年
寛永3年(1626年)
8月6日(旧暦/西暦1626年9月26日相当)、京にて病没/享年73
出身
近江国浅井郡脇坂村
現・滋賀県長浜市小谷丁野町の脇坂谷
居城
淡路洲本→伊予大洲→(孫の代に)播磨龍野
天正13年に淡路3万石、慶長14年に伊予大洲5万3,500石、龍野入封は寛文12年の3代安政の代
家紋
輪違い紋(脇坂輪違)
WAKIZAKA WACHIGAI

脇坂安治という名は、後世の戦国通の脳裏では、しばしば二つの像のあいだで揺れる。ひとつは賤ヶ岳七本槍の最年長として槍を振るった豊臣家の武功者。もうひとつは、関ヶ原で西軍を裏切り東軍へ走った変節の生き残り。どちらが本当の安治か、と問うこと自体が、おそらく問いの立て方を誤っている。

天文二十三年(一五五四年)、湖北の浅井家臣の子として生まれた安治は、十代終盤で主家を失い、明智光秀に属したとされる時期を経て豊臣秀吉の麾下に入った。賤ヶ岳で名を上げて山城宇治三千石を、天正十三年には淡路洲本三万石を与えられ、瀬戸内の海路を掌握する水軍指揮官として豊臣政権の屋台骨を支えた。文禄・慶長の役では朝鮮の海へ渡り、閑山島で李舜臣の朝鮮水軍に苦杯を喫し、慶長の役では漆川梁の勝利と鳴梁の敗走を交互に経験する。

そして関ヶ原。戦場の真っ只中で旗を翻し、小川祐忠・赤座直保・朽木元綱とともに大谷吉継隊の側面を突いて西軍崩壊の引き金を引いた。戦後は本領・淡路三万石を安堵され、九年後の慶長十四年(一六〇九年)に伊予大洲五万三千五百石へ加増転封。元和元年(一六一五年)に家督を嫡子・安元に譲って京都に閑居し、寛永三年(一六二六年)八月、七十三歳で世を去る。脇坂家は嫡子・安元の代に伊予大洲から信州飯田へ転じ、安治の孫・三代安政の寛文十二年(一六七二年)に播磨龍野へ入封して、以後明治維新まで龍野藩主として続いた。

四度主君を替え、海戦の勝敗を見届け、戦場で旗を翻して生き残った男。その一生を「変節」の一語で片付けるのは惜しい。むしろ、戦国の終わりを冷静に見据えて家を孫の代まで運び切った技量こそが、安治の本領であった、と読める。

01出自ORIGINS

近江脇坂村の少年 — 浅井家臣の子として

浅井家滅亡の混乱を見つめる若き日の安治(AI生成イメージ)
浅井家滅亡の混乱を見つめる若き日の安治 · AI生成イメージ

脇坂安治は、賤ヶ岳七本槍の最年長として槍を振るいながらも、関ヶ原ではその場の風を読んで西軍を裏切り、家を江戸まで残し切った、戦国きっての生存の謀将である。

天文二十三年(一五五四年)、近江国浅井郡脇坂村に生まれた。現在の滋賀県長浜市小谷丁野町の脇坂谷にあたる、湖北の山ふところの集落である。出自については、田付孫左衛門の子として生まれ、母の再嫁により浅井家臣・脇坂安明の嗣子となったとする説が長浜の地元資料やコトバンクに残る。村の名がそのまま家の名となる、ごく素朴な土豪の家である。

少年時代の安治は、湖北の風土の中で槍働きを身につけた。越前の朝倉、北近江の浅井、そして南から押し寄せる織田——三勢力の境目に立つ脇坂村は、戦の音を絶えず聞きながら育つ土地だった。北は小谷山、南は姉川の渓谷。湖からは商船と兵船の音が届き、子どもの遊びは竹槍の振り回しに自然と続いていく。

だが運命は、少年から早々に主家を取り上げる。元亀元年(一五七〇年)の姉川の戦いを経て、天正元年(一五七三年)には小谷城が落ち、浅井長政は自害する。十代終盤の安治は、寄る辺なき身となった。父祖が仕えた家が一夜にして消えた湖北で、若者は次の主人を探さねばならない。この時期の安治には、まだ「七本槍」と呼ばれる輝かしい名も、関ヶ原の裏切り者という汚名もない。あるのはただ、戦国の真ん中で生き残るための、若い嗅覚だけだった。

関ヶ原の決断

戦場の風を読み切り、その場で旗を翻す——七本槍の最年長は、ここでも最も冷徹な判断を下した。

—— 本文より
02流転DRIFT

明智光秀の与力から、羽柴秀吉の家臣へ

中国大返しの行軍に加わり山崎の戦いへ向かう安治(AI生成イメージ)
中国大返しの行軍に加わり山崎の戦いへ向かう安治 · AI生成イメージ

浅井家滅亡後、安治は明智光秀に属したと、コトバンクは伝える。光秀は近江坂本に城を構え、織田家中で急速に頭角を現していた将であり、北近江出身の若武者を抱える理由は十分にあった。だが、与力身分や所領といった細部までは、確かな史料に明示されない。「明智に仕えたとされる」と、ぼかして語るのが歴史家としての作法である。

しかし、安治と光秀の関係は深く長くは続かない。やがて安治は、羽柴秀吉の麾下に入る。きっかけや時期については諸説があるが、中国地方への秀吉軍出陣を機に、子飼いの加藤清正福島正則ら年下の若武者たちと肩を並べる立場となっていった。湖北の山村出身で、すでに浅井・明智と渡り歩いた経歴を持つ安治は、子飼い集団の中ではどう見ても異色の経歴を持つ者であった。

主家を失った浅井の遺臣が、織田家の二大出世頭である光秀と秀吉のあいだを渡り歩いた——この経歴こそ、のちの「変節」の伏線である。

天正十年(一五八二年)六月、本能寺の変が起きる。光秀はかつての与力たちを集めて反信長の旗を立てたが、安治は応じなかった。中国大返しで姫路から駆け戻る秀吉の側にあり、山崎の戦いには秀吉軍として参戦した、と伝わる。具体的にどの隊で動いたのかまでは確証ある記録に乏しいが、少なくとも光秀方には立たなかった。かつての主筋を背に、新しい主君の側へ全身で踏み込む——安治はこの時、二十八歳。生涯で最も大きな主君選択を、すでに済ませていた。

脇坂の家

主君を四度替えながらも、紋だけは一度も替えなかった。

—— 本文より
03七本槍SEVEN SPEARS

賤ヶ岳の槍働き — 七本槍最年長として

賤ヶ岳の戦場で槍を構える三十歳の安治(AI生成イメージ)
賤ヶ岳の戦場で槍を構える三十歳の安治 · AI生成イメージ

天正十一年(一五八三年)四月二十一日、近江賤ヶ岳。秀吉と柴田勝家が織田家の後継を賭けて激突した、天下分け目の大戦である。

この日、安治は数え三十歳。福島正則(二十三)、加藤清正(二十二)、加藤嘉明(二十一)、平野長泰(二十五)、糟屋武則(二十三)、片桐且元(二十八)と並んで武功を挙げた七人の若武者は、のちに「賤ヶ岳七本槍」と呼ばれることになる。

その中で、安治は最年長であった。清正・正則らが秀吉子飼いの「青年武者」だったのに対し、安治はすでに浅井・明智・羽柴と主家を渡り歩いた経歴を持つ。年齢の意味でも、経歴の意味でも、彼は七本槍の中で異質な存在だった。槍を握る手元には、子飼いたちにはない経験の厚みがある。それが、賤ヶ岳の山中で物を言った。

賤ヶ岳の功により、安治はまず山城国宇治で三千石を与えられた。淡路洲本三万石が転がり込むのは、それから二年後の天正十三年(一五八五年)のことである。この時点での安治は、ようやく独立した小領主の身分を手に入れた、というところであった。子飼いの青年武者たちと並んで顕彰された七本槍の中で、湖北の浅井遺臣はようやく自分の田畑を持つに至ったのである。

ただ、三千石は始まりにすぎなかった。秀吉の天下が伸びるにつれ、安治の所領もまた瀬戸内の要衝へと駆け上っていく。賤ヶ岳の槍働きは、湖北の遺臣を「秀吉の家臣」として正式に押し上げた、最初の一段であった。

04淡路AWAJI

淡路洲本三万石 — 瀬戸内の海を任される

淡路洲本城を本拠に瀬戸内の海路を見据える壮年の安治(AI生成イメージ)
淡路洲本城を本拠に瀬戸内の海路を見据える壮年の安治 · AI生成イメージ

天正十三年(一五八五年)、安治は淡路洲本三万石を任された。賤ヶ岳直後の山城宇治三千石から、十倍の加増である。淡路は紀伊水道と播磨灘を扼する瀬戸内の要衝であり、豊臣政権の上方と中国・四国・九州を結ぶ海路の咽元にあたる。秀吉が安治にこの島を預けた意味は重い。湖北の槍働きは、いまや瀬戸内の海を任される身分へ駆け上ったのだ。

同年の紀州征伐では、雑賀衆討伐に従軍した。同年の四国攻めでは長宗我部元親討伐に加わり、海路の補給と兵站を支えた。安治の任務は、もはや槍働きの一武者ではない。瀬戸内の海運を掌握する水軍指揮官への転身が始まっていた。

九州征伐でも水軍として動員され、天正十八年(一五九〇年)の小田原征伐では海路から相模湾を封鎖する役を担う。秀吉政権下において、安治は加藤嘉明九鬼嘉隆らと並ぶ「豊臣水軍」の中核へと位置づけられていった。船を率いる将は、陸の戦よりも風と潮を読む眼を要求される。湖北の槍働きは、ここで一段、技を変えていったのである。

湖北の山村に生まれた男が、いつのまにか海の将になっていた。それも、賤ヶ岳の延長線上というよりは、淡路という地が彼の戦い方を作り変えた、と言うべきだろう。洲本城天守から見下ろす紀淡海峡の潮目こそ、安治の中の「動かしがたい現実を冷静に見る眼」を、最初に鍛えた風景だった。

05朝鮮KOREA

閑山島の苦杯 — 朝鮮の海で李舜臣に敗れる

閑山島の沖で李舜臣の朝鮮水軍を見据える安治(AI生成イメージ)
閑山島の沖で李舜臣の朝鮮水軍を見据える安治 · AI生成イメージ

文禄元年(一五九二年)、秀吉は朝鮮出兵を発令する。安治は加藤嘉明九鬼嘉隆らと並ぶ豊臣水軍の主力として、朝鮮の海へ渡った。三十九歳、男盛りの将であった。

その夏、安治は朝鮮水軍の名将・李舜臣と海上で激突する。七月、巨済島沖の閑山島で行われた海戦である。愛媛県史によれば、このとき安治は加藤嘉明・九鬼嘉隆の到着を待たず、自軍七十三隻のみで単独出動した。亀甲船を擁する李舜臣の朝鮮水軍は、伸びきった脇坂水軍をひと呑みにする。多数の安宅船が撃沈・拿捕され、安治自身は辛うじて生還した。これは日本水軍にとって朝鮮戦役における最大級の敗北として記憶される。

慶長二年(一五九七年)、再び朝鮮の海。安治は藤堂高虎らと再編された水軍に加わり、漆川梁の海戦では日本側が朝鮮水軍を破る側に立つ。だがその直後、鳴梁では再び復帰した李舜臣の前に敗走する。慶長の役の海戦は、勝ったり負けたりの混在であって、「二度とも完敗」と一括りにできない複雑な記録である。

閑山島の苦杯、漆川梁の挽回、鳴梁の敗走。広大な外洋で水軍を運用した経験は、彼の中に「動かしがたい現実を冷静に見る眼」を残した。この眼が、後年の関ヶ原での判断にどこかで影響した可能性もある——と推し量ることは、許される範囲だろう。

06寝返りBETRAYAL

関ヶ原の風 — 戦場で西軍を裏切る

関ヶ原で東軍へ旗を翻す決断の瞬間(AI生成イメージ)
関ヶ原で東軍へ旗を翻す決断の瞬間 · AI生成イメージ

慶長五年(一六〇〇年)九月十五日(旧暦/西暦の一六〇〇年十月二十一日相当)、美濃関ヶ原。徳川家康率いる東軍と、石田三成率いる西軍が、天下を賭けて激突した。

安治はこのとき、当初は西軍として動員されていた。大坂城の毛利輝元のもと、三成らの西軍主力に組み入れられ、関ヶ原の戦場では松尾山の麓、大谷吉継隊の横手に布陣する。岐阜関ヶ原古戦場記念館や関ヶ原観光ガイドの説明と一致する位置である。なお、毛利秀元・吉川広家らが籠もった南宮山は、戦場をはさんだ別方面であり、しばしば混同されるが安治の陣とは関係しない。

だが、関ヶ原の以前から、安治は密かに藤堂高虎を通じて家康と通じていた、と藤堂家側の記録(『高山公実録』など)や近世の家譜系資料は伝える。藤堂高虎は浅井遺臣・水軍指揮官という安治と背景を共有する旧知の将であり、東軍との橋渡し役には適任であった。岐阜関ヶ原古戦場記念館も、安治を「藤堂から調略を受けていた」一人と位置づけている。

正午前、小早川秀秋が松尾山から大谷吉継の陣に殺到した。その瞬間、安治もまた小川祐忠・赤座直保・朽木元綱とともに東軍へ寝返り、横手から大谷隊の側面を突いた。松尾山と松尾山麓の両方向から襲われた大谷吉継の陣は崩壊し、西軍の戦線は一気に瓦解する。

戦場の風を読み切り、その場で旗を翻す——七本槍の最年長は、ここでも最も冷徹な判断を下した。戦後、安治は本領であった淡路洲本三万石をそのまま安堵された。伊予大洲五万三千五百石への加増転封を受けるのは、それから九年後の慶長十四年(一六〇九年)のことである。寝返り組四将のなかで、所領を保ち得たのは安治と朽木のみであった。

07存続SURVIVAL

龍野へ — 脇坂家を江戸まで運ぶ

隠居後、京の屋敷から戦国の終わりを見つめる老安治(AI生成イメージ)
隠居後、京の屋敷から戦国の終わりを見つめる老安治 · AI生成イメージ

関ヶ原の後、安治は本領・淡路洲本三万石を安堵されたまま、豊臣と徳川の二つの政権を見渡す位置にあった。慶長十四年(一六〇九年)、伊予大洲五万三千五百石への加増転封を受け、瀬戸内の南岸へ動く。湖北の遺臣だった男が、ついに五万石を超える大名格へ到達した瞬間であった。

元和元年(一六一五年)、安治は家督を嫡子・安元に譲り、自身は京都に閑居する身となる。同年の大坂の陣では、隠居した安治に代わって安元が徳川方として参陣した。豊臣に槍を取って仕えた七本槍が、その豊臣を滅ぼす戦の側に立つ——時代は完全に折り返していた。

元和三年(一六一七年)、嫡子・安元は伊予大洲から信州飯田へ転封される。脇坂家は播磨ではなく、しばらく信濃の山中に拠点を移すことになった。安治の在世時には、まだ龍野は脇坂家のものではない。世間が安治の名と結びつけて語る「龍野脇坂家」が成立するのは、安治の死から半世紀近く後のことになる。

寛永三年(一六二六年)八月六日(旧暦/西暦の一六二六年九月二十六日相当)、安治は京の屋敷で病没した。享年七十三。同時代の七本槍のなかでは、最も長く生きた一人である。

龍野入封は安治の死後、寛文十二年(一六七二年)のことで、脇坂家三代・安政の代であった。たつの市立龍野歴史文化資料館によれば、安政の代に脇坂家は願譜代の格を得て、近世大名としての位置を確立する。湖北の浅井遺臣として始まり、羽柴の槍・豊臣の水軍指揮官を経て、関ヶ原で旗を翻した男の選択は、孫の代になって龍野藩主家として実を結んだのである。龍野脇坂家は明治維新までの約二百年、播磨の城下町を守り続けた。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-21

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