安土桃山黒田家15461604
黒田官兵衛の肖像
福岡市博物館蔵
軍師豊臣キリシタン大名
くろだ・かんべえ

黒田官兵衛

KURODA KANBEI · 1546 — 1604 · 享年 59

我が才、生まれた時代を誤れり

黒田
生年
天文15年
1546
没年
慶長9年
1604
出身
播磨姫路
兵庫県
石高
52万石
豊前中津
家紋
藤巴
FUJI-DOMOE
CONTENTS · 七章
  1. 01小寺家の家老の子として
  2. 02信長との邂逅と播磨平定
  3. 03有岡城の幽閉 — 一年間の地獄
  4. 04本能寺後の「中国大返し」
  5. 05九州征伐と豊前中津12万石
  6. 06関ヶ原 — 九州での独自戦
  7. 07晩年と「如水」
01
少年期
BOYHOOD

小寺家の家老の子として

青山合戦・初陣の官兵衛
青山合戦・初陣の官兵衛
天文十五年(1546年)十一月、黒田官兵衛は播磨国姫路に生まれた。父は小寺家の家老・黒田職隆。母を早くに亡くした官兵衛は、少年期から書を好み、軍記物に親しんだという。十六歳で初陣を飾り、青山の合戦では敵将の首を獲るという武勲も挙げている。二十一歳で家督を継ぎ、姫路城代となった彼は、東から急速に勢力を伸ばしてくる織田信長の存在にいち早く着目する。
官兵衛、信長への進言

「天下を獲る器は、織田殿の他にあるまじく候。」

02
信長との邂逅
MEETING NOBUNAGA

信長との邂逅と播磨平定

長浜城・秀吉との邂逅
長浜城・秀吉との邂逅
天正三年(1575年)、官兵衛は長浜の羽柴秀吉のもとに赴き、織田信長への臣従を取り次ぐ。中国地方の毛利氏に従うべきか、新興の織田氏に賭けるか——播磨の小領主たちの議論を、官兵衛は織田支持で押し切った。以後、彼は秀吉の懐刀として、播磨平定戦に身を投じることになる。
本能寺の報を聞いた秀吉への一言

「ご運の開け候。」

03
有岡幽閉
ARIOKA

有岡城の幽閉 — 一年間の地獄

有岡城・地下牢の一年
有岡城・地下牢の一年
天正六年(1578年)、信長に反旗を翻した荒木村重を説得すべく、官兵衛は単身有岡城に乗り込む。だが村重は彼を捕らえ、一年もの間、地下牢に幽閉した。湿った石の床の上で、官兵衛は片足の自由を永遠に失った。それでも彼は信仰を捨てず、織田家への忠義を貫いたと伝わる。

「我が才、生まれた時代を誤れり。」

—— 晩年の述懐
04
中国大返し
GREAT RETURN

本能寺後の「中国大返し」

中国大返し・夜行軍
中国大返し・夜行軍
天正十年(1582年)六月、本能寺の報を備中高松城で受けた秀吉。動揺する秀吉に、官兵衛が放った一言が時代を動かした——「ご運の開け候」。直後、秀吉軍は約二百キロを十日で踏破、山崎で光秀を討つ。世にいう中国大返しである。この功績で官兵衛の評価は決定的に高まった。
05
九州征伐
KYUSHU

九州征伐と豊前中津12万石

九州征伐・島津討伐
九州征伐・島津討伐
天正十五年(1587年)の九州征伐では、官兵衛は秀吉軍の参謀として島津氏討伐に貢献。戦後、豊前国中津12万石を与えられ、中津城を築城する。築城の名手としても知られ、後の福岡城・名護屋城の縄張りにも関与した。
06
関ヶ原
SEKIGAHARA

関ヶ原 — 九州での独自戦

石垣原の戦い
石垣原の戦い
慶長五年(1600年)の関ヶ原時、官兵衛は隠居の身ながら九州で独自の軍を起こす。東軍として豊後石垣原で大友義統を破り、九州統一を目指したが、本戦が一日で終わったため、彼の野望は達成されなかった。「家康に天下を渡すつもりはなかった」と後世評される。
07
晩年
LATE YEARS

晩年と「如水」

晩年の如水円清
晩年の如水円清
関ヶ原後は法体となり「如水円清」と号した。慶長九年(1604年)三月、京都伏見で病没、享年五十九。「水の如く生きよ」との教えは、嫡男・長政に受け継がれ、のちの福岡藩黒田家五十二万石の礎となった。