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戦国時代〜江戸初期本多氏(三河・平八郎家)15481610
本多忠勝|無傷を謳われた徳川四天王の猛将の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・本多忠勝像(想像復元)
徳川四天王蜻蛉切小牧長久手
ほんだ・ただかつ

本多忠勝|無傷を謳われた徳川四天王の猛将

HONDA TADAKATSU · 1548 — 1610 · 享年 63

「家康に過ぎたるものが二つあり」と敵にまで謳われ、名槍・蜻蛉切を手に生涯五十七度ともいわれる合戦をかすり傷ひとつ負わなかったと伝わる、徳川四天王に数えられた戦国屈指の猛将

徳川
生年
天文17年
1548年・三河国額田郡蔵前
没年
慶長15年
1610年・享年63/桑名で病没
出身
三河国・本多平八郎家
父は本多忠高・叔父に本多忠真
役職
上総大多喜→伊勢桑名10万石
徳川四天王・中務大輔
家紋
本多立葵(丸に立ち葵)
TACHI-AOI

本多忠勝

本多忠勝は、父を早くに失った三河武士の子でありながら、名槍・蜻蛉切を手に生涯五十七度ともいわれる合戦をかすり傷ひとつ負わなかったと伝わり、敵にまで「家康に過ぎたるもの」と謳われた、徳川四天王の一人に数えられる猛将である。

忠勝——通称を平八郎、のちに中務大輔という——は天文十七年(1548年)、三河国額田郡蔵前に生まれた。十三歳で初陣をかざり、以後は徳川家康の腹心として、武田・北条・豊臣との数々の合戦を最前線で戦いぬいた。鹿の角をかたどった兜をいただき、肩に大数珠をかけたその武者姿は、戦場で一目それと知れる、生きた軍旗であった。

その戦歴は、徳川の危機のたびに最前線を担うものであった。元亀三年(1572年)の一言坂では殿軍をつとめて武田勢を食い止め、天正十二年(1584年)の小牧・長久手では、わずか五百の手勢で羽柴秀吉の大軍に立ちはだかった。やがて上総大多喜、ついで伊勢桑名に十万石を領する大名となり、戦乱の世を槍ひとつで駆けぬけた末に、みずから切り拓いた泰平の世にその生涯を閉じた。

武勇のかぎりを尽くした猛将でありながら、その武はただの蛮勇ではなかった。敵さえも惚れ込ませ、戦死者を弔う数珠を背負い、敵方の命を縁で救う——その奥行きにこそ、戦国の武人・本多忠勝の真の姿が映し出されている。

01三河ORIGIN

父を失った三河武士の子 — 平八郎の出立

三河で槍を鍛える少年期の平八郎(AI生成イメージ)
三河で槍を鍛える少年期の平八郎 · AI生成イメージ

天文十七年(1548年)、本多忠勝は三河国額田郡蔵前に生まれた。本多氏は松平家——のちの徳川家——に古くから仕えた三河の譜代である。だが忠勝の門出は、けっして恵まれたものではなかった。

父・本多忠高は、忠勝がまだ二歳のころ、主家の合戦で討死してしまう。幼い平八郎は、叔父・本多忠真の手で育てられた。父の顔も知らぬまま、忠勝は槍をとる武士として、三河の地で鍛えられていく。

やがて彼が仕えることになる主君は、同じ三河に生まれた松平元康——のちの徳川家康である。家康はこのころ、今川家への人質暮らしから抜け出せずにいた。主従はともに、不遇の少年期を三河で過ごした。だからこそ、のちに結ばれる二人の絆は、並のものではなかった。

父なき三河武士の子に、頼れるものは己の槍だけであった。 その一筋の槍が、やがて天下に「徳川に過ぎたるもの」と謳われる日まで、平八郎の戦いは続いていく。
元亀3年・一言坂の殿軍で武田勢を食い止めた忠勝を、敵である武田方の小杉左近が書き残したと伝わる賛辞

「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」

02初陣FIRST BATTLE

大高城の初陣 — 十三歳、敵中に槍をふるう

大高城で初陣を飾る十三歳の忠勝(AI生成イメージ)
大高城で初陣を飾る十三歳の忠勝 · AI生成イメージ

永禄三年(1560年)、忠勝は十三歳で初陣をかざる。織田信長今川義元を討ち取った桶狭間の合戦——その前夜、主君・家康(当時は元康)が敢行した大高城への兵糧入れに、平八郎も従ったのである。

この初陣のころの忠勝には、早くも血気盛んな逸話が残る。のちのある城攻めでのこと、叔父・忠真が手柄の機会をゆずろうとすると、忠勝はこれを潔しとせず、「みずからの槍で敵を討つ」と言い放って敵中へ駆け込み、初の首級をあげたと伝わる。血気にはやる少年の覇気が、早くもにじみ出ていた。

桶狭間で今川義元が討たれると、家康は今川の軛を脱して独立を果たす。三河の若き主君のもとで、忠勝もまた、譜代の武人として頭角をあらわしはじめた。永禄六年(1563年)の三河一向一揆では、多くの家臣が一揆方へ走るなか、忠勝は信仰よりも主君への忠義をとり、家康のもとにとどまって戦った。

十三の歳から、忠勝の生涯は槍とともにあった。 そして主君への忠義もまた、この初陣のころから、生涯ぶれることがなかったのである。
天正12年・小牧長久手で龍泉寺川に踏みとどまり、敵中で馬に水を飲ませる豪胆さを見せて秀吉を感嘆させたと伝わる

「わずか五百の手勢で数万の秀吉軍に立ちはだかり、天下人に『討つな』と言わしめた」

03一言坂RENOWN

一言坂の殿軍 — 「家康に過ぎたるもの」

一言坂で殿軍をつとめ武田勢を食い止める忠勝(AI生成イメージ)
一言坂で殿軍をつとめ武田勢を食い止める忠勝 · AI生成イメージ

元亀三年(1572年)、甲斐の武田信玄が大軍を率いて西上を開始した。徳川領は、戦国最強とうたわれた武田の騎馬隊の前に立たされる。遠江の一言坂で、徳川勢は武田の追撃を受け、危機におちいった。

この絶体絶命の場で殿軍——退却する味方の最後尾を守る、もっとも危険な役目——を引き受けたのが、二十五歳の本多忠勝であった。彼は鹿の角をかたどった兜をかぶり、名槍・蜻蛉切をふるって武田勢を食い止め、味方を無事に退かせてみせた。

その奮戦ぶりは、敵である武田方の将をも唸らせた。武田の小杉左近が「家康に過ぎたるものが二つあり、唐の頭に本多平八」と書き残したと伝わる。唐渡りの兜の毛と、本多平八郎——この二つこそ、分不相応なほど立派な家康の宝だ、という意味である。敵将にすら、これほどの賛辞を捧げさせた武人であった。本多平八郎の名は、この一言坂を境に、天下の武辺者たちのあいだへ轟きわたっていく。

その年の暮れ、徳川は三方ヶ原で武田信玄に大敗を喫する。だが忠勝は、この苦い敗戦のなかでも奮戦し、敗走する主君・家康をかばって戦場を離脱した。

04蜻蛉切DRAGONFLY

蜻蛉切と鹿角の兜 — 戦場を彩る武の象徴

蜻蛉切と鹿角の兜をまとった忠勝の武者姿(AI生成イメージ)
蜻蛉切と鹿角の兜をまとった忠勝の武者姿 · AI生成イメージ

本多忠勝といえば、まず思い浮かぶのが、その出で立ちである。鹿の角を大きく左右に張った兜をいただき、肩から大きな数珠を斜めにかけ、手には長大な槍・蜻蛉切をたずさえる。戦場で一目でそれと分かる、忘れがたい武者姿であった。

愛槍・蜻蛉切は、天下に三つとうたわれた名槍のひとつである。穂先に止まった蜻蛉が、そのまま真っ二つに切れたという——その鋭さの伝説から、この名がついたと語り継がれてきた。柄の長さは尋常でなく、忠勝はこの大槍を自在にあやつって戦場を駆けた。

肩にかけた大数珠には、戦で命を落とした者たちを弔う想いがこめられていたという。猛々しく敵を屠る一方で、その魂を悼む心も忘れない。剛勇と祈りを一身にまとった姿が、本多忠勝という武人の奥行きをかたちづくっていた。

天正三年(1575年)の長篠の戦いをはじめ、忠勝はこの装束で数々の合戦を駆け抜けた。鹿角の兜と蜻蛉切は、ただの飾りではない。敵に「あれが本多平八郎だ」と知らしめ、味方を奮い立たせる、生きた軍旗そのものであった。

05長久手KOMAKI

小牧・長久手 — 秀吉の大軍に立ちはだかる

龍泉寺川で秀吉の大軍に立ちはだかる忠勝(AI生成イメージ)
龍泉寺川で秀吉の大軍に立ちはだかる忠勝 · AI生成イメージ

天正十年(1582年)、本能寺で織田信長が斃れると、天下は羽柴秀吉のもとへと傾いていく。天正十二年(1584年)、その秀吉と、信長の遺児を奉じた徳川家康とが激突した。小牧・長久手の戦いである。

この戦いのさなか、忠勝はその名を決定づける一幕を演じる。秀吉の大軍が家康の本隊へ迫ろうとしたとき、忠勝はわずか五百ほどの手勢を率い、龍泉寺川のほとりに踏みとどまって秀吉の進路に立ちはだかった。数万の敵を前に、一歩も退かぬ構えである。

しかも忠勝は、敵中に悠然と馬を進め、川端で馬に水を飲ませてみせたとさえ伝わる。あまりの豪胆さに、秀吉は「あれを討ち取ってはならぬ、惜しい武者だ」と将兵を制したという。敵の総大将にここまで惚れ込ませた——それが本多忠勝であった。たった五百で数万を釘づけにし、天下人に「討つな」と言わしめる。武勇とは、ただ強いだけではない。敵さえも味方にしてしまう、人を魅する力のことでもあった。

06四天王TENNO

徳川四天王 — 大多喜十万石の大名へ

徳川四天王として主家を支える壮年の忠勝(AI生成イメージ)
徳川四天王として主家を支える壮年の忠勝 · AI生成イメージ

秀吉との和睦ののち、家康は次第に天下の重みを増していく。忠勝もまた、酒井忠次・榊原康政・井伊直政とともに、家康を支える「徳川四天王」の一人として、武と政の両面で主家を支えた。武辺一辺倒の荒武者ではなく、軍勢を束ね、領国を治める将としての器も備えていたのである。

天正十八年(1590年)、秀吉の小田原征伐ののち、家康は関東への移封を命じられた。このとき忠勝は、上総大多喜に十万石を与えられる。三河の一武人が、ついに十万石を領する大名へとのぼりつめた瞬間であった。大多喜では城と城下町を整え、領主としての手腕も発揮していく。

関ヶ原の合戦(1600年)では、忠勝は軍監として東軍をまとめ、戦後の処理にも深く関わった。みずから槍をとって暴れまわる年齢はすぎても、その存在は徳川の重石でありつづけた。戦場の鬼神は、いつしか天下を支える柱石となっていた。武勇で名を上げた男が、その名にふさわしい器量を、生涯をかけて証明してみせたのである。

07桑名TWILIGHT

桑名の黄昏 — 泰平の世に槍を置く

桑名で晩年を過ごす為政者としての忠勝(AI生成イメージ)
桑名で晩年を過ごす為政者としての忠勝 · AI生成イメージ

慶長六年(1601年)、関ヶ原の功により、忠勝は伊勢桑名へ十万石で移された。桑名藩の初代藩主である。彼はここで城を築き、東海道の宿場として桑名の町を整え、為政者としての最後の仕事に心血を注いだ。

だが、時代は大きく変わりつつあった。天下は徳川のもとに定まり、いくさで手柄を立てる世は終わろうとしていた。槍ひとすじに生きてきた忠勝のような武人にとって、泰平の世はどこかさみしいものであったかもしれない。晩年は眼を患い、政務の表舞台から少しずつ退いていった。

慶長十五年(1610年)、忠勝は桑名で静かに世を去る。享年六十三。生涯に五十七度の合戦に出ながら、ついにかすり傷ひとつ負わなかったと語り継がれる、戦国無双の武人の最期であった。家督は嫡男・本多忠政が継ぎ、本多家は江戸の世を大名として生き抜いていく。戦乱の世を槍ひとつで駆けぬけた男が、みずから切り拓いた泰平の世に、その生涯を閉じた。本多忠勝の武名は、戦国という時代の終わりとともに、語り草となって後世へと受け継がれていった。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-15

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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