
明智光秀|本能寺の変を起こした知将
「敵は本能寺にあり(頼山陽『日本外史』を通じて広まった後世の成句)」
明智光秀
明智光秀は、前半生を霧に包まれた素性の武将でありながら、信長政権中枢へ上り、本能寺の一夜で戦国史上もっとも議論される人物となった武将である。
光秀を謀反人とだけ見ると、実像はかなりこぼれる。越前朝倉氏、足利義昭、織田信長をめぐる上洛政局の中で登場し、近江坂本城を築いて京都・琵琶湖を押さえた。さらに丹波平定後は亀山城を拠点に畿内北西部を統治した。連歌・茶の湯・朝廷儀礼に通じ、信長政権の軍事と実務の両方を担った人物である。
しかし、その頂点は本能寺で反転する。天正10年(1582年)六月二日、光秀が本能寺を襲撃し、信長を自害に追い込んだ。この実行そのものは揺るがない。だが、なぜ決起したのかを決定づける史料はない。四国政策や将来への不安が背景にあった可能性は語られるものの、朝廷・足利義昭・羽柴秀吉らが光秀へ謀反を命じたとする黒幕説には、決定的な裏づけがない。本能寺の変は、実行の輪郭が濃いほど、動機の影が濃くなる事件である。
怨恨説も完全に消えるわけではない。とはいえ、江戸期軍記や講談で膨らんだ侮辱・折檻の物語を、そのまま動機の中核に置くのは危うい。光秀は長宗我部元親との取次に関わったとされ、信長の四国政策転換は光秀周辺に打撃を与えた可能性がある。また、秀吉救援を命じられた時点で、丹波・近江・畿内の配置が変わり、自身の将来に不安を覚えた可能性もある。本能寺の変は、実行そのものは揺るがないのに、動機だけが今も定まらない事件である。
最期もまた、伝説と史料を分ける必要がある。光秀は山崎の戦いで秀吉に敗れ、近江坂本へ敗走する途中で落命した、という整理が最も史料に近い。本能寺の変は六月二日、山崎の戦いは六月十三日で、滅亡まで約十一日である。三日天下は実際の日数ではなく、政権が極端に短かったことを示す俗称である。
山崎での敗北と敗走中の死は動かない。小栗栖で落ち武者狩りに遭った筋は伝わるが、竹槍や介錯の細部までは固めにくい。よく検索される天海説は、後世に人気を得た俗説とみてよい。南光坊天海は徳川家康に仕えた高僧で、光秀生存説と結びつける物語は後世に広まった。しかし、山崎敗北後の光秀の死を伝える近接史料、天海の経歴、年齢差、同時代の連続記録を合わせると、光秀=天海とする根拠は乏しい。
美濃から越前へ——光秀の謎多き前半生

明智光秀の物語は、戦国の霧の向こうから始まる。美濃の土岐氏に連なる明智氏。その名門の影を背負いながら、若き十兵衛の足跡は、はっきりした道筋を残さない。霧に包まれた出発点こそ、光秀という人物の最初の劇性である。
美濃から離れた光秀は、越前朝倉氏のもとへ身を寄せた。国を失った者のように、しかし消えたわけではない。都を見つめる越前の空気の中で、光秀は足利義昭の上洛構想へ近づいていく。ここで流浪の武士は、やがて畿内政治へ踏み込む入口を得た。
だが光秀の前半生は、英雄の誕生譚としてまっすぐには開けない。名前、家、土地、主君。それらは霧の中で揺れ、後年の本能寺を知る読者ほど、その空白へ意味を探したくなる。光秀の若年期は、分からなさそのものが物語を引き寄せる。
やがて義昭をめぐる政局が動き、信長の上洛が近づく。そこで光秀は、ただの流浪者ではなく、都の言葉と武家の作法を知る人物として姿を濃くしていく。美濃から越前へ、そして京都へ。細い糸のような歩みが、戦国中央の舞台へつながった。
前半生の霧は晴れきらない。それでも、その霧の中から現れた光秀は、義昭と信長の時代を結ぶ場所へ立つ。出自の謎を抱えたまま、光秀は畿内政権の実務へ歩み出した。
天正十年五月二十八日 愛宕百韻 連歌の会での発句「ときは今 あめが下しる 五月哉」
義昭・信長への仕官——異例の出世

永禄十一年(1568年)、足利義昭を奉じた織田信長が上洛する。ここで光秀は、一気に都の表舞台へ出た。義昭の幕臣としての顔と、信長家臣としての顔。二つの立場を重ねた異例の実務家が、京都の政治に入り込む。
京都では、刀だけでは道は開けない。朝廷儀礼、公家との応対、寺社交渉、幕府旧臣との申次。光秀はその細かな筋道をさばき、信長政権が都で動くための手足になった。光秀の出世は、武功だけでなく都を動かす言葉の力に支えられていた。
元亀二年(1571年)前後、光秀は近江志賀郡を拠点に坂本城を築く。琵琶湖の水運を押さえ、京都の背後を守る要地である。坂本城主となった光秀は、信長から畿内の急所を任される存在へ変わった。
同じころ、比叡山焼き討ちを含む京都周辺の軍事行動にも光秀は関わった。公家や寺社と折衝する手で、時には軍勢も動かす。都の礼法と戦場の命令が一人の中で重なったところに、光秀の特異さがある。
こうして義昭と信長のあいだで立ち上がった光秀は、畿内政権の歯車ではなく、歯車を噛み合わせる側へ進んだ。坂本城と京都実務は、光秀が信長政権中枢へ入ったことを示す大きな節目である。
頼山陽『日本外史』を通じて広まった後世の成句「敵は本能寺にあり」
丹波平定——近江坂本と丹波亀山を拠点に

天正三年(1575年)から、光秀の丹波攻略は本格化する。近江坂本で京都の背後を固めた男は、今度は丹波の山と城へ向かった。そこには八上城の波多野秀治、黒井城の赤井直正らが立ちはだかる。丹波平定は、光秀の力を試す長い戦いになった。
丹波国人は、簡単に屈する相手ではない。天正四年(1576年)、光秀は黒井城攻めで苦杯をなめる。勝利だけで進む英雄譚ではなかった。山城、国人、在地の利害が絡み、戦場は粘り強い抵抗の場となる。
それでも光秀は退かなかった。調略、包囲、城郭整備を組み合わせ、丹波の支配を少しずつ押し広げる。敗北を抱えたまま次の手を打つところに、軍事と行政をつなぐ光秀の強さがあった。丹波で光秀が示したのは、一撃の武勇ではなく、土地を組み伏せる持久力である。
天正七年(1579年)、八上城が降伏し、丹波平定は大きく進む。さらに天正八年(1580年)、光秀は丹波支配を任され、亀山城を拠点にした。坂本と亀山。二つの城は、京都をめぐる光秀の位置をいっそう重くした。
ただし丹波の支配は、やわらかな善政だけで語れるものではない。国人や寺社にとっては、厳しい征服の現実でもあった。丹波平定は、光秀を信長政権の実務家から、畿内北西部を預かる支配者へ押し上げた。
光秀の辞世の句とも伝わる「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」
天正十年六月二日——謀反の実行

天正十年(1582年)五月末、光秀は備中高松城を包囲する羽柴秀吉への援軍を命じられる。丹波亀山城から出陣した軍勢は、中国方面へ向かうはずだった。亀山出陣は、見た目には信長の命令に従う行軍である。
ところが六月一日夜、軍勢は京都へ向きを変えた。夜の道を進む兵たちの先にあったのは、本能寺に滞在する織田信長である。なぜその刃が向いたのか。答えは語られないまま、事件だけが一気に動く。
六月二日未明、光秀軍は本能寺を急襲した。信長は少数の供回りとともに戦い、やがて自害する。さらに同日、嫡男信忠も二条御新造で自害した。織田政権の中枢は、京都の夜明け前に深く断ち切られた。
後に「敵は本能寺にあり」という成句で語られる場面は、あまりにも劇的である。だが、この章で重いのは号令の響きではない。主君を討つ軍勢が実際に京都へ入り、信長と信忠の命がそこで尽きたことである。
変後、光秀は京都を押さえ、安土城や近江方面の掌握を急いだ。細川藤孝・忠興、筒井順慶らへ協力を求める。だが反応は鈍く、秀吉の早い反転も迫ってくる。本能寺の変は、動機の謎を残したまま、信長の時代を一夜で終わらせた事件である。
山崎の戦い——わずか十一日の天下

本能寺の変から約十一日後、天正十年六月十三日。光秀は山崎で羽柴秀吉と向き合った。秀吉は毛利氏と講和し、中国地方から急速に戻る。中国大返しの勢いは、光秀が築こうとした時間を削っていった。
秀吉のもとには、池田恒興、高山右近、中川清秀らが加わる。一方の光秀は、細川藤孝・忠興、筒井順慶らの参陣を得られない。味方を広げられないまま、京都周辺の支配も固まりきらない。山崎の空気は、決戦前から光秀に重かった。
戦いが始まると、光秀の軍勢は秀吉方の圧力を受ける。ここでの勝敗は、一つの山だけで決まったわけではない。軍勢差、機動、味方形成の失敗が、光秀を追い詰めていく。山崎は、決起した者が支えを得られなかった戦いである。
敗れた光秀は、勝竜寺城へ退き、さらに近江坂本城を目指して落ち延びる。しかし道は遠かった。小栗栖で落命した最期は、天下へ伸ばした手が夜道で途切れるような重さを持つ。
「三日天下」と呼ばれるその政権は、文字どおり三日ではなく、実際には約十一日で崩れた。光秀の天下は、信長を倒した衝撃に比べてあまりに短く、山崎の敗北で静かに閉じた。
本能寺の影——問いだけが残る

光秀は、ただ刀を振るうだけの武将ではなかった。連歌に通じ、愛宕百韻を催し、朝廷儀礼や公家・寺社交渉にも関わる。都の作法を知る文化人の家臣として、信長政権の細い糸を結び直す役を担っていた。
その人物が、天正十年の一夜に本能寺の人となる。五月二十八日の愛宕百韻から、六月二日未明の急襲へ。文芸と儀礼を動かした手が、主君を討つ軍勢を京都へ向けたのである。この落差が、光秀を戦国史の中心に引き戻し続ける。
本能寺のあと、光秀は京都と近江を押さえ、諸将へ協力を求めた。だが細川や筒井の反応は鈍く、秀吉の反転は速い。決起の衝撃は大きかったが、それを政権へ変える時間はあまりにも短かった。
残ったのは、なぜという問いである。勝者も敗者も、後の読者も、その夜へ説明を求め続けた。ここでは答えを一つに決めない。答えられない問いが、光秀の影をいっそう濃くしている。
だから光秀は、単なる謀反人にも、悲劇の忠臣にも収まらない。信長政権を支えた実務家であり、丹波を預かった支配者であり、本能寺で時代を断ち切った人物である。光秀の名は、行動の確かさと動機の見えなさがぶつかる場所に残り続ける。
史料の読み解き
前半生はどこまで分かるか
光秀の出自は、美濃国の土岐氏一族・明智氏とする説明が広く流布している。ただし、同時代史料で幼少期から青年期を追えるわけではない。生年は享禄元年(1528年)頃とする説、永正十三年(1516年)説などが並び、父名も明智光綱・光隆などで揺れる。越前称念寺に寓居した説、近江佐目出身説なども、後世の系譜・地誌・寺社伝承が混じる。ここを断定すると、読者には分かりやすいが、史実精度は落ちる。
同時代史料で確実に言えることは、義昭と信長の上洛期以後、光秀が急速に政治の表面へ出てくることである。足利義昭の申次、信長政権の京都実務、近江坂本城主化、丹波攻略は比較的追いやすい。初期の光秀は、義昭の幕臣的立場と信長家臣としての立場を重ねた二重の取次役として読む余地がある。江戸期軍記・俗説は、この空白の前半生に「名門の没落」「流浪」「信長への屈辱」という物語を足し、本能寺への伏線として読み替えた。現代研究の修正点は、前半生の空白を無理に埋めず、むしろ上洛政局で必要とされた実務能力に注目するところにある。確度で言えば、美濃土岐氏系という大枠は中、父名・出生地・若年期逸話は低、義昭・信長の二重の取次役は中〜高、永禄末年以後の政治活動は中〜高である。
本能寺の変を史料で読む
本能寺の変そのものは、同時代に近い『信長公記』、公家の日記、秀吉方が早く整えた『惟任退治記』などで大枠を確認できる。確実なのは、光秀軍が六月二日未明に本能寺を包囲し、信長が少数の供回りとともに戦ったのち自害したこと、同日に嫡男信忠も二条御新造で自害したこと、光秀が京都・近江の掌握を急いだことまでである。これは高確度でよい。
しかし、動機の部分に入ると史料の地面は急に弱くなる。「敵は本能寺にあり」は、頼山陽『日本外史』などを通じて広まった後世の成句で、当日の号令として確実視できない。実発言としては低く置くべきである。信長が光秀を激しく折檻した、家康饗応役を罷免され恥をかいた、母を波多野氏に殺されたため恨んだ、といった話も、江戸期軍記・俗説の層が厚い。特に母人質殺害説は有名だが、同時代史料で支えにくい。
現代研究は、四国政策説を一つの有力な補助線として見る。光秀周辺は長宗我部元親との交渉に関わり、信長が対四国方針を硬化させ、三男信孝・丹羽長秀らの四国出陣が予定される中で、光秀の外交的立場が揺らいだ可能性がある。ただし、四国政策だけで本能寺の変を説明しきる文書はない。将来不安説、野望説、足利義昭や朝廷の関与説も、それぞれ一部の状況証拠を持つが、光秀へ命令した黒幕の決定的史料は確認されていない。確度で言えば、複合要因説は中、四国政策を主要背景の一つと見る説は中、黒幕が光秀を操ったという断定は低である。
黒幕説と四国政策説の扱い
本能寺の変は結果が大きすぎるため、「光秀一人の判断では不可能だったはずだ」という発想から黒幕説が生まれやすい。朝廷黒幕説は、信長と朝廷の緊張、正親町天皇の譲位問題、京都支配をめぐる不安を背景に読む。足利義昭黒幕説は、信長に追放された将軍が毛利氏の庇護下で反信長工作を続けていたことを根拠にする。羽柴秀吉黒幕説は、変後に最も利益を得た秀吉の行動の速さを疑う。どれも推理としては刺激的だが、決定的な命令書や事前密約文書がない点は共通している。
四国政策説は、黒幕説とは少し性格が違う。これは「誰かが光秀に命じた」というより、光秀の政治的立場が長宗我部外交と結びついていた可能性を問う説である。信長が長宗我部元親に対する方針を硬化させ、四国出兵が予定されると、元親との取次に関わった光秀や斎藤利三らの面目・利害が揺らいだ可能性がある。石谷家文書などは、その周辺関係を考える材料になる。ただし、これも「四国政策が原因で謀反を決めた」と直接書く史料ではない。
怨恨説も同じく、完全否定ではなく層を分ける必要がある。信長の苛烈な命令や家臣統制が光秀に心理的圧力を与えた可能性はある。けれども、酒席で殴られた、家康饗応を外されて恥をかいた、母を見殺しにされた、といった有名場面は後世軍記で増幅されたものが多い。確度で言えば、信長政権内の緊張と光秀の不安は中、四国政策が背景要因だった可能性も中、朝廷・義昭・秀吉の直接黒幕説は低〜中、江戸期軍記的な屈辱場面を主因とする説明は低である。
したがって、本能寺の動機は「謎」と言って終わらせるより、「何が高く、何が中で、何が低いか」を明示する方が読者の役に立つ。高いのは実行事実、低いのは単独黒幕や劇的な屈辱逸話、中間にあるのが四国政策・将来不安・政権内再編である。光秀が複数の圧力を受けたうえで、信長の警護が薄い一瞬を政治的好機と判断した、という複合的な説明が現在もっとも無理が少ない。
江戸期軍記・俗説を分ける
光秀像を難しくしているのは、江戸期以後の物語が非常に強いことだ。『明智軍記』は光秀の家系・前半生・人物像を豊かに語るが、江戸期成立の後世軍記であり、同時代一次史料とは峻別しなければならない。『絵本太功記』などの太閤記物、頼山陽『日本外史』、講談・歌舞伎は、光秀を悲劇的な謀反人として描き、「敵は本能寺にあり」「怨恨による決起」「三日天下」という記憶を定着させた。
俗説をすべて捨てればよいわけではない。俗説は、後世の人びとが光秀をどう理解したかを示す史料である。ただし、事件そのものの原因を確定する材料としては段階を下げる必要がある。たとえば愛宕百韻の「ときは今 あめが下しる 五月哉」は、謀反直前の発句として高確度で重要だが、これを「土岐が天下を取る」という暗号として全員が理解したとまで言うと低確度になる。天海説も、敗者光秀を救済したい後世の想像力としては興味深いが、史実としては低い。
「三日天下」も同じで、俗称としては強いが、日付を読むと実態は六月二日の本能寺から六月十三日の山崎敗北まで約十一日である。三日という数字は、短命政権を印象づける後世の言葉として定着した。天王山を取った一手で勝敗が決まったという説明も、後世の分かりやすい戦記的整理を含む。光秀が京都を掌握し、安土方面へ手を伸ばし、諸将へ書状を送ったことは史実の政治行動として読むべきだが、それが持続的な政権にならなかったことも同じく重要である。つまり「天下を取った」というより、信長政権の空白を急いで埋めようとしたが、細川・筒井らの不参加と秀吉の反転で崩れた、という方が史料に近い。
丹波・坂本の吏僚としての光秀
本能寺の変だけを見ると、光秀は謀反の一場面に閉じ込められる。だが、坂本城と丹波亀山城を見れば、別の光秀像が見える。坂本城は琵琶湖水運と京都防衛を結ぶ要地であり、信長が光秀に近江志賀郡を任せたことは、京都周辺の行政・軍事を任せる信頼の表れだった。丹波攻略では八上城・黒井城など国人勢力と長く戦い、平定後は亀山城を整備して城下町形成や支配秩序づくりに関わった。
この「有能な吏僚・文化人」という再評価は、現代研究の重要な修正点である。光秀は連歌に通じ、愛宕百韻を催し、朝廷儀礼や公家・寺社交渉にも関わった。だからといって、光秀を近代的な善政家として美化しすぎるのも危うい。丹波平定は征服戦であり、国人や寺社にとっては厳しい軍事圧力でもあった。信長が仕官初期から光秀を危険人物と見ていたという説明も低く置くべきである。確度で言えば、丹波平定と坂本・亀山の拠点化は高、実務官僚・文化人としての評価は中〜高、領民から一様に慕われた名君像は中〜低である。
確度で読む光秀像
明智光秀を読むときの結論は、単純な善悪よりも確度の整理にある。確度で言えば、前半生の詳細は低、本能寺襲撃と信長・信忠の死は高、動機の一つを確定することは低、四国政策・将来不安を背景に置くことは中、山崎敗北と敗走中の死は高、天海説は低である。この整理を置くと、「謀反人か名君か」という二択から離れられる。
光秀は、信長政権の中心で畿内行政と軍事を担った実務家であり、連歌・儀礼に通じた文化人であり、最後には主君を討った反逆者でもある。江戸期軍記はその矛盾を悲劇や怨恨の物語へ整え、現代研究は同時代史料に戻って複合要因として読み直している。戦国ジャーナルでは、伝説の魅力を残しつつ、同時代史料で言えること、江戸期軍記・俗説、現代研究の修正点を分けて読む。そこにこそ、光秀という人物を「本能寺の犯人」以上に理解する入口がある。
断定できない部分を断定しないことも、光秀記事の独自価値である。
参戦合戦
明智光秀|本能寺の変を起こした知将の逸話
- 01
愛宕百韻と「ときは今」の謎

愛宕山・愛宕百韻の会 · AI生成イメージ 天正十年(1582年)五月二十八日、光秀は愛宕山で連歌百韻を催し、発句「ときは今 あめが下しる 五月哉」を詠んだと伝わる。『愛宕百韻』として残るこの句は、光秀をめぐる逸話の中でもとくに有名である。謀反直前の発句という位置が、読者の想像力を強く引き寄せる。
この句は、「とき」を土岐氏に、「あめが下しる」を天下支配に掛けた謀反の暗号だと読まれてきた。だが、同時代の連歌は掛詞や季節表現を多用する文芸であり、句だけを取り出して謀反予告と断定するのは危うい。劇的に読めることと、暗号として証明できることは別である。
江戸期軍記や近代以降の物語は、この発句を本能寺への伏線として扱った。百韻全体を見ても、出席者が政治的密談を明文化したわけではない。連歌会の数日後に軍勢が本能寺へ向かった事実は重いが、そこから全員が謀反を察していたと読むのは飛躍である。
現代研究では、愛宕参詣と連歌会の開催自体は高確度、句に政治的含意が読める可能性は中、出席者全員が謀反計画を共有した暗号だったという説明は低と整理するのが穏当である。むしろ重要なのは、光秀が里村紹巴ら連歌師と交わる教養人であり、軍事行動の直前にも儀礼と文芸を動かす人物だった点である。
- 02
細川藤孝との深い盟友関係

細川藤孝・幽斎 · AI生成イメージ 光秀と細川藤孝(幽斎)は、足利義昭政権期から近い関係にあった。天正六年(1578年)には、光秀の娘・玉(のちの細川ガラシャ)が藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいる。この婚姻関係と本能寺後の細川家の非協力は、光秀の孤立を考えるうえで高確度の論点である。
変後、光秀は藤孝・忠興父子に協力を求めた。ところが藤孝は剃髪して積極的加担を避け、忠興も光秀方へ出兵しなかった。親しい関係ほど、政局の中では重い沈黙になる。
玉が丹後味土野へ移された話は、細川家側の伝承・家譜と結びつき、細部には検討の余地がある。江戸期軍記では、盟友に見捨てられた光秀という悲劇として語られやすい。だが現代研究では、細川家の判断を、信長後の政局を読む生存戦略として見る。
忠興にとっては、妻の父を支援する情と、家を残す政治判断が衝突した局面でもあった。確度で言えば、婚姻関係と細川父子の不参加は高、玉幽閉の細部は中、細川家が事前に謀反を知っていたという説明は低である。光秀の失敗は、決起そのものよりも、決起後の味方形成で露呈したと読める。
- 03
小栗栖の最期——竹槍で命を落とす

小栗栖・光秀の最期 · AI生成イメージ 山崎の戦いに敗れた光秀は、勝竜寺城から近江坂本城を目指して落ち延びた。だが六月十三日夜から十四日未明にかけて、命を落としたとされる。『惟任退治記』など早い時期の記録は、敗走中に山城国小栗栖付近で討たれた筋を伝える。山崎敗北後まもなく死んだことは高確度である。
ただし、竹藪で土民の落ち武者狩りに遭い、竹槍で深手を負って家臣に介錯されたという細部は、後世の語りで像が整った部分を含む。小栗栖の地名は強い伝承を持つが、刺した人物名や介錯場面、首級の扱いまで一つに確定するのは難しい。
坂本城では一族・家臣がその後に滅び、光秀政権の継続性も断たれた。さらに、光秀が生き延びて徳川家康の側近・南光坊天海になったという天海説は、年齢・経歴・同時代記録の連続性から見て根拠が薄い俗説である。敗者を救い直す物語ほど、史料の足場は厳しく見る必要がある。
確度で言えば、山崎敗北と敗走中の死は高、小栗栖での落ち武者狩りは中〜高、竹槍・介錯の細部は中、天海説は低である。三日天下は史実の期間では約十一日だが、権力の短さを示す俗称として定着した。小栗栖の最期は、短命政権の終わりと光秀伝説の始まりが重なる場所である。
関連人物
所縁の地
- 坂本城址滋賀県大津市下阪本
光秀が元亀二年(1571年)から築いた近江の居城跡で、琵琶湖の水運を取り込む水城として知られた。本能寺の変後の天正十年(1582年)に焼失し、現在は石垣の一部や坂本城址公園が残り、光秀像が湖面に映える。坂本は、京都と湖上交通を結ぶ光秀の政治拠点である。
- 亀山城跡(亀岡城跡)京都府亀岡市古世町
光秀が丹波平定後に大改修した居城跡で、本能寺の変の出陣点となった。江戸期は亀山藩主の居城として再整備され、明治期に廃城。現在は宗教法人大本(おおもと)の本部敷地内に石垣・天守台が残る。本能寺へ向かう軍勢は、ここから動き出した。
- 本能寺(現在地)京都府京都市中京区寺町通御池下ル
本能寺の変の舞台となった寺院だが、その後秀吉の都市計画により天正十七年(1589年)に現在地(寺町通)へ移転再建されたもの。元の本能寺跡地は中京区元本能寺南町に石碑のみが残り、変の歴史を伝えている。
- 山崎古戦場京都府乙訓郡大山崎町
天正十年(1582年)六月十三日、光秀と秀吉が激突した天下分け目の地で、決戦の鍵となった天王山(標高270m)が望める。山頂には宝積寺・旗立松などの史跡が残り、戦場跡を辿る歴史散策コースが整備されている。



















