戦国時代明智氏1582
明智光秀の肖像
本能寺の変三日天下山崎の戦い
あけち・みつひで

明智光秀

AKECHI MITSUHIDE · — 1582

敵は本能寺にあり

明智
生年
享禄元年頃
1528
没年
天正10年
1582
出身
美濃
岐阜県
居城
坂本城
近江
家紋
桔梗紋
KIKYO
CONTENTS · 七章
  1. 01美濃から越前へ——光秀の謎多き前半生
  2. 02義昭・信長への仕官——異例の出世
  3. 03丹波平定——近江坂本と丹波亀山を拠点に
  4. 04天正十年六月二日——謀反の実行
  5. 05山崎の戦い——十三日の天下
  6. 06なぜ光秀は謀反を起こしたか——動機の諸説
01
出自と流浪
ORIGINS

美濃から越前へ——光秀の謎多き前半生

越前・朝倉氏の館
越前・朝倉氏の館
明智光秀の出自は謎に包まれている。美濃国の土岐氏庶流・明智氏の出身とされるが、生年は享禄元年(1528年)説など諸説あり確定していない。幼少期から書学・連歌・武芸に通じ、教養豊かな青年として育ったと伝わる。美濃を追われ諸国を流浪した光秀は、やがて越前の朝倉義景のもとに身を寄せた。越前では将軍・足利義昭と出会い、義昭の上洛計画に協力するかたちで歴史の表舞台に登場する。この前半生の空白が、後世の「光秀は何者か」という謎と謀反動機をめぐる論争の源泉となっている。
天正十年五月二十八日 愛宕百韻 連歌の会での発句

「ときは今 あめが下しる 五月哉」

—— 愛宕百韻
02
信長への仕官
SERVICE

義昭・信長への仕官——異例の出世

坂本城・信長への仕官
坂本城・信長への仕官
永禄十一年(1568年)、光秀は足利義昭を奉じた織田信長の上洛軍に加わり、信長の直臣として召し抱えられた。信長家臣団の中で、光秀は当初から異例の厚遇を受けた。連歌や茶の湯などの文化的素養、外交交渉能力、そして卓越した行政手腕が信長に高く評価されたためである。元亀元年(1570年)には近江志賀郡を拝領し、坂本城を築いた。光秀は幕府と信長政権を繋ぐ橋渡し役として活躍し、元亀・天正期の内政・儀礼を一手に担った。信長が義昭を追放した後も光秀は信長政権の中枢にあり続け、天正三年(1575年)には惟任の姓を賜り惟任日向守と名乗った。
本能寺へ向かう夜道での光秀の言葉

「敵は本能寺にあり」

03
丹波平定
TAMBA

丹波平定——近江坂本と丹波亀山を拠点に

丹波亀山城址
丹波亀山城址
天正三年(1575年)から始まった丹波攻略は、光秀にとって最大の軍事的試練であった。丹波の国人・波多野氏・赤井氏らは頑強に抵抗し、一度は撤退を余儀なくされる場面もあった。しかし光秀は調略と包囲戦を組み合わせた粘り強い作戦で徐々に丹波国人を降伏させていった。天正七年(1579年)に丹波平定が完成すると、信長から近江・丹波二国を与えられ、亀山城の大改修にも着手した。丹波支配では检地・法令整備など行政手腕も発揮し、領民からの評価も高かったとされる。この時期が光秀の権勢と信頼のピークであったが、四国政策をめぐる信長との摩擦がこの頃から生じたとも伝わる。
光秀の辞世の句とも伝わる

「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」

—— 諸伝承
04
本能寺の変
HONNOJI

天正十年六月二日——謀反の実行

本能寺の変・信長最期
本能寺の変・信長最期
天正十年(1582年)五月末、光秀は備中高松城を包囲中の羽柴秀吉への援軍を命じられ、亀山城から出陣した。しかし六月一日の夜、光秀は軍を京都へ転進させ、夜明け前に本能寺を包囲した。「敵は本能寺にあり」という言葉とともに、光秀軍は一万三千の兵で信長の宿所を急襲した。信長はわずかな供回りとともに奮戦したが衆寡敵せず、炎の中で自刃した。翌日には二条御新造の信長嫡男・信忠も討ち取られ、織田政権の中枢は一夜にして瓦解した。光秀はただちに京都を掌握し、近畿の諸将に書状を送って服従を求めた。しかし細川藤孝・筒井順慶ら重要な盟友は光秀の要請に応じなかった。
05
三日天下
THREE DAYS

山崎の戦い——十三日の天下

山崎の戦い・天王山
山崎の戦い・天王山
本能寺の変から十一日後の天正十年六月十三日、山崎(現在の京都府大山崎町)で光秀と秀吉の決戦が行われた。備中高松城を電光石火で撤収し「中国大返し」を成し遂げた羽柴秀吉は、約三万の兵を率いて天王山の麓に布陣した。光秀軍は一万余に過ぎず、細川・筒井両家が参陣を拒否したことで戦力差は歴然としていた。天王山の高地を秀吉軍に占領された光秀軍は敗走し、光秀は坂本城を目指して落ち延びた。しかし翌日未明、伏見の小栗栖(現・京都市伏見区)で落ち武者狩りの竹槍に刺され重傷を負い、ついに落命したと伝わる。変から十三日間の「三日天下」は、「三日天下」という言葉をこの世に残した。
06
謀反の動機
MOTIVE

なぜ光秀は謀反を起こしたか——動機の諸説

本能寺・謀反の夜
本能寺・謀反の夜
明智光秀が謀反を起こした動機は、四百年以上経た現在も歴史学の最大の謎の一つである。主な学説として、信長から幾度も受けた侮辱や折檻に対する個人的な怨恨を動機とする「怨恨説」がかつては通説的地位を占めた。これに対して近年有力視されるのが「四国政策説」である。光秀は長宗我部元親と親密な関係にあったが、信長が土佐一国への封じ込め政策へ転換したため、光秀の外交的立場が失墜したという見方である。また、将軍義昭や関白近衛前久・正親町天皇など朝廷側が光秀を唆したとする「朝廷黒幕説」も根強い。さらに信長の専制的支配への抵抗という「天下布武批判説」、秀吉への援軍が光秀に不利な戦況変化をもたらすと判断したという機会主義的解釈なども存在する。いずれも一定の根拠を持ちながら決定的証拠に欠け、光秀の動機は今も「謎」のまま歴史に刻まれている。