
明智光秀
「敵は本能寺にあり」
- 01美濃から越前へ——光秀の謎多き前半生
- 02義昭・信長への仕官——異例の出世
- 03丹波平定——近江坂本と丹波亀山を拠点に
- 04天正十年六月二日——謀反の実行
- 05山崎の戦い——十三日の天下
- 06なぜ光秀は謀反を起こしたか——動機の諸説
美濃から越前へ——光秀の謎多き前半生

天正十年五月二十八日 愛宕百韻 連歌の会での発句「ときは今 あめが下しる 五月哉」
義昭・信長への仕官——異例の出世

本能寺へ向かう夜道での光秀の言葉「敵は本能寺にあり」
丹波平定——近江坂本と丹波亀山を拠点に

光秀の辞世の句とも伝わる「心しらぬ 人は何とも 言はばいへ 身をも惜しまじ 名をも惜しまじ」
天正十年六月二日——謀反の実行

山崎の戦い——十三日の天下

なぜ光秀は謀反を起こしたか——動機の諸説

- 01
愛宕百韻と「ときは今」の謎

天正十年五月二十八日、謀反の五日前に光秀は愛宕山の威徳院で連歌の会を催した。その席での発句「ときは今 あめが下しる 五月哉」は、土岐(明智氏の出自)の天下取りを示す謎掛けとも解釈され、謀反の予告とも見られてきた。連歌師・里村紹巴も同席しており、光秀の決意を暗示する場として後世に語り継がれている。
- 02
細川藤孝との深い盟友関係

光秀と細川藤孝(幽斎)は、足利義昭に仕えた時代から深い親交を持ち、光秀の娘・玉(後の細川ガラシャ)は藤孝の嫡男・忠興に嫁いでいた。しかし本能寺の変後、藤孝は光秀の要請を拒絶して剃髪・隠居し中立を表明した。娘婿の父にも見捨てられた光秀の孤立は、謀反計画の稚拙さと誤算を象徴するものとして歴史に刻まれている。
- 03
小栗栖の最期——竹槍で命を落とす

山崎の戦いに敗れた光秀は、わずかな供回りとともに坂本城を目指して敗走した。しかし天正十年六月十四日の早朝、伏見小栗栖の竹藪で土民の落ち武者狩りに遭遇し、竹槍で致命傷を負った。光秀は家臣・溝尾茂朝に介錯を命じ、五十四歳(享年諸説あり)で生涯を閉じた。天下人を夢見た謀反人の末路としては、あまりにも呆気ない最期であった。
- 坂本城址滋賀県大津市
光秀が築いた近江の居城跡。琵琶湖畔に位置し、現在は石垣の一部が残る。
- 亀山城跡京都府亀岡市
丹波平定後に光秀が整備した居城。現在の亀岡市の中心部に位置する。
- 本能寺(現在地)京都府京都市中京区
本能寺の変の舞台。現在の本能寺は変後に移転再建されたもの。
- 山崎古戦場京都府乙訓郡大山崎町
天正十年六月十三日に光秀と秀吉が激突した天下分け目の地。天王山が望める。


