メインコンテンツへスキップ
戦国時代〜江戸初期真田氏(信濃・滋野氏流)15471611
真田昌幸|徳川を二度退けた表裏比興の謀将の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・真田昌幸像(想像復元)
武田二十四将表裏比興上田合戦
さなだ・まさゆき

真田昌幸|徳川を二度退けた表裏比興の謀将

SANADA MASAYUKI · 1547 — 1611 · 享年 65

武田信玄に「我が眼」とまで称されたと伝えられながら、主家武田の滅亡という奈落を生き抜き、二度までも徳川の大軍を上田城に退けて天下にその名を轟かせた、戦国屈指の知謀の将

武田(のち豊臣)
生年
天文16年
1547年ごろ・諸説あり
没年
慶長16年
1611年・享年65/九度山で病没
出身
信濃小県郡・真田郷
真田氏・父は真田幸隆(幸綱)
役職
上田城主・信濃上田領主
武田家臣→豊臣大名
家紋
六文銭(六連銭)
ROKUMONSEN

真田昌幸

真田昌幸は、信濃の小領主の出でありながら、二度までも徳川の大軍を上田城に退け、天下人・豊臣秀吉から「表裏比興の者」と警戒された、戦国屈指の知将である。

昌幸——通称を源五郎、のちに安房守という——は天文十六年(1547年)ごろ、信濃真田郷に真田幸隆の三男として生まれた。武田信玄の奥近習として育ち、その薫陶を一身に浴びて「我が眼の如し」とまで称されたと伝わる。兄たちが長篠で討死すると真田本家を継ぎ、信濃・上野の最前線を背負う。

やがて主家・武田が滅び、本能寺の変が旧武田領を草刈り場に変えると、昌幸の真価が花開く。北条・徳川・上杉のあいだを巧みに渡り歩いて所領を守り、沼田をめぐっては徳川に背いてこれを撃退し、秀吉の天下では上田城主として一家の安泰を築いた。そして関ヶ原では、犬伏の別れで親子を東西に分かち、第二次上田合戦で徳川秀忠の大軍を足止めし、天下分け目への遅参を招いてみせた。

裏切り者と呼ぶか、乱世を生き抜いた一流の謀将とたたえるか。その評価の振れ幅にこそ、力なき者が知略ひとつで巨大な力に抗った、戦国という時代のもう一つの真実が映し出されている。

01武藤ORIGIN

武田信玄の奥近習 — 「我が眼」と呼ばれた少年

信玄の奥近習として育った若き日の昌幸(AI生成イメージ)
信玄の奥近習として育った若き日の昌幸 · AI生成イメージ

天文十六年(1547年)ごろ、真田昌幸は信濃小県郡の真田郷に生まれた。父は真田幸隆。山深い信濃の小領主にすぎぬ真田氏だが、幸隆は知略をもって武田信玄に仕え、難攻不落とうたわれた砥石城を一日で攻め落とすなど、その武名を甲斐に轟かせた男であった。

昌幸は、その幸隆の三男である。家を継ぐ立場にはなかった彼は、幼くして武田信玄のもとへ人質同然に差し出され、奥近習衆——主君のそば近くに仕える小姓として育てられた。だが、これがかえって幸いした。彼は信玄の薫陶を、誰よりも間近で浴びることになったのである。

利発な昌幸を、信玄はことのほか目にかけた。のちに信玄が昌幸を評して「我が両眼の如し」と語ったと伝えられるほどである。やがて昌幸は武田の親類衆に連なる甲斐の名族・武藤家の養子に入り、武藤喜兵衛尉と名を改めた。真田の三男坊は、こうして武田家中の俊英へと育っていく。

信濃の小領主の子が、甲斐の太守・信玄の「眼」とまで頼られた。 のちに天下人をも翻弄する知謀は、この信玄の膝下で、静かに芽吹いていたのである。
真田幸隆の三男として生まれ、武田信玄の奥近習として薫陶を受け、兄の戦死により真田本家を継いで信濃・上野の最前線を担った

「信濃の小領主の子が、信玄に『我が眼』と称されたと伝わり、天下人を翻弄する智将となった」

02家督HEIR

兄たちの死が継がせた真田の家督

兄の死により真田本家を継いだ昌幸(AI生成イメージ)
兄の死により真田本家を継いだ昌幸 · AI生成イメージ

昌幸が武藤喜兵衛として武田家に仕えるうち、時代は大きく動いた。永禄から元亀へ、信玄は西へ兵を進め、上洛をうかがうほどの勢いを見せる。だが元亀四年(1573年)、その信玄が陣中に没すると、武田家の屋台骨はにわかに軋みはじめた。

跡を継いだ武田勝頼は、父にまさる武勇で領土を広げた。しかし天正三年(1575年)、長篠の戦いで織田・徳川の鉄砲隊の前に大敗を喫する。このいくさで、昌幸の兄である真田信綱・真田昌輝の二人がそろって討死した。真田の家督を継ぐべき兄たちが、一日のうちに失われたのである。

ここに昌幸は、武藤の名を捨てて真田へ戻り、本家の家督を継ぐことになった。のちに安房守を称し、亡き兄に代わって信濃・上野の最前線を担う。武田の勢威に陰りが見えはじめたまさにそのとき、真田家の舵は、知略の人・昌幸の手へとゆだねられた。

長篠の銃声は、真田家の運命をも撃ち抜いた。 だからこそ昌幸は、傾きゆく主家のなかで、おのれの才覚だけを頼りに立たねばならなかった。
第一次上田合戦では寡兵で鳥居元忠らを撃退し、第二次では三万八千の秀忠軍を釘づけにして関ヶ原本戦への到着を阻んだ

「二度までも徳川の大軍を上田城に退け、世継ぎ秀忠の到着を天下分け目に遅らせた」

03漂流DRIFT

主家滅亡の荒波を泳ぐ — 表裏比興の真骨頂

大勢力の狭間を渡り歩く智将・昌幸(AI生成イメージ)
大勢力の狭間を渡り歩く智将・昌幸 · AI生成イメージ

天正十年(1582年)、織田信長の大軍が甲斐へなだれ込み、武田勝頼は天目山に追いつめられて自刃した。仰ぎ見た主家・武田が、あっけなく地上から消えたのである。昌幸はただちに織田方の滝川一益に従い、上野・信濃の小領主として身の安全を図った。

ところが、その三月後である。本能寺の変で信長が斃れると、旧武田領は一夜にして主を失った。北条・徳川・上杉——三つの大勢力が、この空白の地をめぐって争いはじめる。世に言う天正壬午の乱である。昌幸は、この乱世のただ中に投げ出された。

ここからの昌幸の身の処し方が、後世に語り継がれる。一時は上杉に近づき、北条に従い、徳川に転じ、ふたたび上杉に頼る。風向きを読みながら主を替え、そのつど沼田・吾妻の所領を守り、むしろ勢力を太らせていった。のちに豊臣秀吉は、この変幻自在の昌幸を「表裏比興の者」と書き送る。裏切りと笑うか、生き残りの妙と見るか——まさに昌幸の真骨頂であった。

主家を失った小領主に、誰かを頼って生きる道は残されていなかった。 だから昌幸は、おのれの知恵だけを羅針盤に、大勢力の狭間という荒海を泳ぎきってみせたのである。
04上田FIRST UEDA

第一次上田合戦 — 寡兵で徳川を撃退す

上田城に徳川の大軍を迎え撃つ昌幸(AI生成イメージ)
上田城に徳川の大軍を迎え撃つ昌幸 · AI生成イメージ

昌幸が苦心して守りぬいた所領のなかに、上野沼田があった。ところが天正十三年(1585年)、徳川家康は北条との和睦を進めるにあたり、その沼田を北条へ引き渡すよう昌幸に命じる。みずからの血で得た土地を、なぜ他人の都合で手放さねばならぬのか。昌幸はこれを断固として拒んだ。

家康の怒りは大きかった。徳川は鳥居元忠・大久保忠世らに大軍を率いさせ、上田城の昌幸を討たんと信濃へ攻め込む。その数およそ七千。対する真田勢は二千ほどにすぎない。誰もが真田の滅亡を疑わなかった。

だが昌幸は、ここで知将の真価を見せる。徳川勢をあえて城下深くまで誘い込み、入り組んだ町割りと伏兵で混乱させ、神川の流れへと追い落とした。徳川方は数えきれぬ討死を出して敗走する。寡兵が大軍を打ち破る——上田の地に、真田昌幸の名がとどろいた瞬間であった。地の利を知り尽くし、敵の油断を突く。これこそ、昌幸が後世に「戦上手」とうたわれるゆえんである。

05臣従VASSAL

秀吉への臣従と上田城の経営

上田城を本拠に領国を経営する昌幸(AI生成イメージ)
上田城を本拠に領国を経営する昌幸 · AI生成イメージ

徳川を退けたとはいえ、真田一家だけで天下の趨勢に抗えるものではない。昌幸は次なる後ろ盾を、関白へとのぼりつめた豊臣秀吉に求めた。天正十五年(1587年)ごろ上洛して臣従し、秀吉の威光を背に、徳川の与力大名という新たな立場を得る。

秀吉の差配のもと、真田と徳川の手打ちも図られた。昌幸の長男・信幸(のち信之)には、徳川四天王・本多忠勝の娘で家康の養女でもある小松姫が嫁ぐ。かつての宿敵と縁を結ぶことで、昌幸は真田家の安泰を一段と確かなものにした。沼田をめぐる争いも、秀吉の裁定でひとまず決着を見る。

この間、昌幸は本拠・上田城の整備と城下町の経営に力を注いだ。千曲川を望む要害に堅固な縄張りをほどこし、商人や職人を呼び寄せて町を栄えさせる。いくさ上手であると同時に、領国を富ませる為政者でもあった。渡り歩いた末に、昌幸はついに確かな足場を築いた。上田城こそ、流浪の智将が手にした、揺るがぬわが城であった。

06犬伏SECOND UEDA

犬伏の別れと第二次上田合戦

秀忠の大軍を上田城に足止めする昌幸(AI生成イメージ)
秀忠の大軍を上田城に足止めする昌幸 · AI生成イメージ

慶長五年(1600年)、天下は再び割れた。会津の上杉を討たんと東へ向かう途上、下野犬伏の地で、昌幸は石田三成挙兵の報に接する。家康に従い続けるか、三成の西軍に与するか——真田家の存亡を賭けた決断の刻であった。

昌幸は、長男・信幸と次男・信繁を呼び、密かに語り合った。世に言う「犬伏の別れ」である。話し合いの末、昌幸と次男・信繁は西軍へ、長男・信幸は東軍へと、親子は東西に分かれた。いずれが勝っても真田の家名は残る——その深謀がそこにあったと伝えられる。

上田城へ取って返した昌幸は、中山道を西へ急ぐ徳川秀忠の軍勢、実に三万八千を相手どる。わずかな兵で巧みに翻弄し、城の前に幾日も釘づけにした。焦った秀忠はついに上田を捨てて先を急ぐが、関ヶ原の本戦には間に合わない。徳川の世継ぎの大軍を、昌幸はただ一城で空費させたのである。父子が刃を分かち、老いた智将が天下分け目を揺さぶった。第二次上田合戦は、真田昌幸の名を不滅にした、生涯最後の大いくさであった。

07九度山TWILIGHT

九度山の雌伏 — 遺された不屈の名

九度山で雌伏の晩年を送る昌幸(AI生成イメージ)
九度山で雌伏の晩年を送る昌幸 · AI生成イメージ

関ヶ原の本戦は、わずか一日で東軍の勝利に終わった。上田で気を吐いた昌幸も、西軍敗北という大局のなかでは、敗者の側に立たされる。本来であれば、首をはねられても不思議のない立場であった。

だが、東軍に身を投じた長男・信幸と、その舅・本多忠勝が、家康に必死の助命を願い出る。父と弟を見捨てぬ信幸の嘆願が実り、昌幸と次男・信繁は死罪を免れた。そのかわり、二人は紀伊の高野山、ついで九度山へと送られ、世から隔てられた蟄居の身となる。

かつて天下人を手玉に取った智将も、山あいの草庵では、ただ静かに時を過ごすほかなかった。真田紐を商って暮らしを立てたとの伝えも残る。再起の日を待ちわびながら、昌幸は慶長十六年(1611年)、九度山にその生涯を閉じた。享年六十五。だが、その不屈の血は次男・信繁へと受け継がれ、やがて大坂の陣で徳川を震え上がらせることになる。城を奪われ、世から退けられても、昌幸の名は消えなかった。むしろ雌伏の九度山こそが、真田という名を後世の語り草へと押し上げたのである。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-10

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

本記事の内容に誤りや改善点がある場合は、 お問い合わせページ よりご連絡ください。確認のうえ、必要に応じて修正します。