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岐阜城の戦い|1600年、関ヶ原前哨戦と血天井
岐阜城の戦いは1600年、関ヶ原の戦いに先立つ東軍の勝利。織田秀信は自害せず降伏した。福島正則・池田輝政の攻撃から、崇福寺の血天井、家臣の自害をめぐる逸話まで、史料と伝承を分けてたどる。
この戦いの要点
関ヶ原本戦より先に落ちた美濃の拠点
八月二十二日の木曽川流域の戦闘を経て、翌二十三日に岐阜城は落城した。九月十五日の関ヶ原本戦とは別の戦いである。
織田秀信は城で自害していない
秀信は降伏して高野山へ入り、慶長十年に没した。自害を思いとどまったという話と、家臣の死を混同しない。
血天井が伝える戦死者の記憶
崇福寺には岐阜城の床板を用いたと伝わる血天井がある。寺に残る伝承と、個々の戦死者の実証は分けて考える。
岐阜城の戦いとは――関ヶ原を前に落ちた信長の城
信長が天下への足場とした岐阜城は、孫の織田秀信の代に、関ヶ原本戦を待たず落城した。慶長五年(1600)八月二十二〜二十三日、木曽川流域から岐阜城へ進んだ東軍が、西軍に属した秀信を破った戦いである。攻め手の中心は福島正則と池田輝政だった(「福島正則」「池田輝政」)。以下、当時の月日は旧暦で記す。
この戦いは、崇福寺に残る「血天井」や、城兵の自害にまつわる逸話でも知られる。ただし、城主の織田秀信は岐阜城で自害していない。落城時に降伏し、その後に高野山へ入った。秀信が死去するのは五年後の慶長十年(1605)であり、城の最期と城主の最期は別の出来事だ。
また、織田信長が斎藤龍興を破った永禄十年(1567)の戦いとも区別したい(「稲葉山城の戦い」)。同じ山城をめぐる攻防でも、1600年には信長の孫が守る側に立ち、豊臣政権で力を得た武将たちが攻めてきた。岐阜城の落城は、関ヶ原の戦いへ向かう美濃の戦局を大きく動かしたのである(「関ヶ原の戦い」)。
織田秀信はなぜ岐阜城で戦ったのか
織田秀信は信長の嫡男・織田信忠の子で、幼名を三法師という(「織田秀信」)。本能寺の変の後、織田家の後継をめぐる清須会議で名が挙がった幼児は、文禄元年(1592)に岐阜城主となった。岐阜県歴史資料館の解説によれば、領知は十三万三千石。周辺の小大名を与力に持つ、美濃の有力な城主だった。
信長の孫だから、岐阜城を途切れず相続してきたというわけではない。本能寺の変後の城には、織田信孝、池田氏、豊臣秀勝らが入り、城主の交代を経て秀信が迎えられた。岐阜市の歴代城主解説をたどると、秀信の入城も豊臣政権下の人事の中に位置づく。織田家の由緒を持つ城と、豊臣大名としての領国が重なっていた。
豊臣秀吉の死後、徳川家康と対立する勢力が挙兵すると、秀信は西軍に属する。東から美濃へ進む東軍に対し、岐阜城は西軍側の拠点となった。岐阜の防衛を考えるとき、山頂の城だけを見ていると戦いの始まりを見失う。敵を城へ近づけないためには、その南方を流れる木曽川の防衛線も守る必要があった。
「信長の天下を取り戻したかった」といった説明は劇的だが、秀信本人の内心を直接確かめた言葉としては扱えない。一方、開戦直前と推定される宝林坊宛ての禁制の写しは残る。寺への乱暴を禁じた文書からは、秀信が自領の寺院を保護する立場にあったことが見える。名門の後継者という肩書きの下には、戦場になる地域を治める領主の仕事もあった。
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八月二十二日――木曽川を越える東軍
岐阜城への直接攻撃に先立ち、八月二十二日、木曽川流域で東西両軍が戦った。岐阜市の整備基本計画は、竹ヶ鼻城や米野の戦いで西軍が敗れたと整理している。笠松町に残る米野の戦い跡の案内では、池田輝政を中心とする東軍が川を渡って米野へ上陸し、西軍を破ったとされる。
川は敵の進軍を妨げる障害になる。だが、渡河を許せば、守る側は川岸の戦場から城へ退かなければならない。秀信側も木曽川方面の戦いに敗れ、岐阜城へ退いた。山城の堅さを頼みとする前に、外側の防衛線を失っていたのである。
この局面を、岐阜城で何週間も籠城した末の敗北として描くのは適切ではない。公的な歴史解説が示す大きな流れは、二十二日の周辺戦闘から二十三日の落城へという短いものだ。川を越える戦いと山城への攻撃を続けて見ると、東軍が岐阜へ迫った速さが分かる。
岐阜城の戦いを「八月二十三日の戦い」と記す説明は、城そのものへの攻撃と落城に焦点を当てている。本記事が二十二日からたどるのは、直前の防衛線の崩壊を含めて経過を見るためだ。二日間という区切りも、山上で丸二日間の攻防が続いたという意味ではない。年表の開始日と落城の日を分けると、資料ごとの日付の書き方も読み違えにくくなる。
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八月二十三日――福島正則・池田輝政の岐阜城攻め
翌二十三日、福島正則や池田輝政らが岐阜城を攻撃した。『日本大百科全書』の「関ヶ原の戦い」は、攻略に加わった武将として黒田長政と浅野幸長も挙げる(「黒田長政」「浅野幸長」)。ここでいう東軍は、家康自身が山麓で指揮を執る軍勢ではない。家康はまだ江戸におり、先行する諸将が美濃で戦っていた。
攻め手の池田輝政には、かつて岐阜城主だった経歴がある。城を知る人物が、今度は敵として戻ってきたわけだ。もっとも、その経歴だけをもとに「秘密の抜け道を使って落とした」などと作戦の細部を補うことはできない。どの道を誰がどう登ったかという話は、城主歴とは別の根拠を要する。
金華山の地形は急峻で、見上げれば容易には攻め落とせない城に思える。しかし、この時の守備側は周辺での敗戦を経ており、複数の東軍部隊の攻撃を受けた。岐阜城はその日のうちに落ち、秀信は降伏する。「難攻不落の城なのになぜ」という疑問には、山の険しさだけでなく、城に至るまでの敗戦を見る必要がある。
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織田秀信は自害したのか――福島正則の制止と降伏
秀信の生涯を整理した平凡社『改訂新版 世界大百科事典』は、落城時に自害しようとした秀信を、攻め手の福島正則がとどめたと記す。秀信は降伏し、剃髪して高野山に入った。岐阜市の歴代城主解説も、降伏・高野山入り・病没という経過を示している。
ここから分かるのは、「自害を思いとどまった」という話と、「自害して死んだ」という説明は同じではない、ということだ。前者は秀信の助命に関わる逸話であり、後者はその後の生存と両立しない。秀信の没年は1605年。落城直後に命を絶った人物として紹介するのは誤りになる。
正則がどんな言葉で説得したのか、秀信がどのような表情で応じたのかまでは、ここで参照する解説から再現できない。二人の会話を創作しなくても、敵将による制止と降伏という結末には重みがある。攻め落とす側の正則が、城主の生存にも関わったのである。
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崇福寺の血天井――誰の血が残ると伝えられるのか
岐阜城の戦いと血天井を結びつける場所は、岐阜市長良にある崇福寺である。岐阜市と岐阜観光コンベンション協会は、岐阜城落城の際に血が染みついたとされる床板を天井に用い、戦死した将兵を供養したものと案内している。本堂を見上げる行為が、戦いで命を失った人々をしのぶことにつながる。
したがって、血天井を「織田秀信が自害した跡」と説明することはできない。寺の案内で供養の対象となるのは戦死した将兵であり、秀信本人ではない。さらに、床板に残るとされる痕跡から、特定の一人の名や死に方まで判明しているわけでもない。
家臣の自害については、「三十八人が切腹した」とする話も、刀剣ワールドなどの人物紹介に載る。ただし、今回参照した自治体・観光協会の解説は、戦死した将兵の供養として説明しており、三十八人全員の氏名や死因を確定してはいない。人数を伴う話は伝承として紹介するにとどめ、城内の犠牲者全員が同じ最期を迎えたとは言い切らない。
崇福寺は信長・信忠父子の菩提寺としても知られる。そのため、寺に残る織田家の記憶は一つの事件だけではない。本能寺の変で亡くなった父子をしのぶ由緒と、1600年の岐阜城で亡くなった将兵を供養する血天井を分けると、寺と戦いの関係が整理できる。血天井は怖い話の舞台である以前に、死者を弔うための場所なのだ。
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落城の翌日、村に出された禁制
城主の降伏で、周辺の暮らしがただちに平穏へ戻ったとは限らない。軍勢が通る地域では、住民や寺社が被害を避けるための保護を求めた。岐阜県歴史資料館が紹介する福島正則・池田輝政連署禁制の写しは、その具体的な手掛かりになる。
これは落城翌日、現在の各務原市にあたる更木村へ出されたものだ。正則と輝政の連名で、軍勢による乱暴や放火などを禁じている。命令があるからといって被害が皆無だったとはいえないが、勝者が地域の秩序を引き受けようとしたことは読み取れる。
秀信が禁制を与えた宝林坊も、東軍の池田輝政から禁制を得ていたという。村や寺にとって切実だったのは、どちらが天下を取るかだけではない。目の前を通る兵から建物と人を守る必要があった。城主や武将の勝敗のそばには、こうした戦争を生き抜くための動きが残っている。
逸話と史料をどう読むか――家康の書状にも食い違いがある
岐阜城の戦いでは、後世の逸話だけでなく、同時代の情報にも注意がいる。最上義光歴史館が公開する小和田哲男の解説は、八月二十七日付の家康から最上義光への書状を取り上げている。家康は岐阜城攻略の知らせを伝えたが、そこには秀信兄弟らが討たれたという趣旨の報告まで含まれる。
ところが、秀信は降伏後も生きていた。城が落ちたという報告と、城主まで死亡したという報告は、同じ精度ではなかったのである。書状は家康が受け取った注進を伝えるもので、本人が岐阜城の現場を見た記録ではない。この食い違いだけで家康の意図的な虚報と決めつけることもできない。
「古い史料に書いてあるから、その細部まですべて事実」とは限らない。書かれた時点、書き手の立場、情報が届く経路を考え、別の記録と照合する必要がある。秀信の自害、家臣三十八人の話、血天井の由来も、まとめて一つの悲劇にすると、それぞれの根拠の違いが消えてしまう。降伏した城主、命を失った将兵、後に弔った人々を分けて見ることで、かえって戦いの実像に近づける。
岐阜城落城から関ヶ原の戦いへ
岐阜城の攻略は、東軍が美濃で得た大きな勝利だった。家康は九月一日に江戸を発ち、十四日には美濃の赤坂へ入る。そして翌十五日、関ヶ原で東西両軍が戦った。岐阜城の戦いは本戦の勝敗を自動的に決めたわけではないが、家康の到着前に先鋒諸将が西軍の拠点を崩したという意味を持つ。
戦後、岐阜城は廃され、家康は南方の平地に加納城を築いた。信長や秀信が拠った山城は、領国支配の中心としての役割を終える。現在の山頂に建つ天守は昭和三十一年(1956)の復興天守であり、秀信が守った建物そのものではない。
岐阜市の整備基本計画は、城の櫓や館の礎石・石垣などが、新たな加納城の建設に使われたと伝える。一方、城を失った岐阜の町は加納藩領にはならず、徳川氏の直轄領となった。翌1601年には大久保長安が美濃国奉行となり、旧城から離れた場所に陣屋を置く。山頂の城を中心にした支配が終わっても、麓の町の営みは続いたのである。
山の上には城跡が、長良の寺には戦死者を弔う伝承が残る。岐阜城の戦いを知るには、城が落ちた日だけでなく、その前の木曽川の戦闘と、その後に生きた人々まで目を向けたい。秀信は生き延びた。一方で、戻らなかった将兵の記憶は、崇福寺の血天井として受け継がれている。
両軍の対比
福島正則・池田輝政ら
織田秀信
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 9. 織田秀信禁制 写岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-20
- 岐阜城の歴代城主岐阜市参照日 2026-10-20
- 織田秀信(改訂新版 世界大百科事典・日本人名大辞典ほか)平凡社・講談社/コトバンク参照日 2026-10-20
- 史跡岐阜城跡整備基本計画 第1・2章(2021年12月、本文35〜38頁ほか)岐阜市参照日 2026-10-20
- 米野の戦い跡笠松町参照日 2026-10-20
- 崇福寺岐阜観光コンベンション協会参照日 2026-10-20
- ナビ番号321 崇福寺岐阜市参照日 2026-10-20
- 織田秀信(家臣38人の自害に関する伝承の紹介)刀剣ワールド参照日 2026-10-20
- 福島正則・池田輝政連署禁制折紙写岐阜県歴史資料館参照日 2026-10-20
- 小和田哲男「関ヶ原合戦と最上義光―義光宛家康書状を読み解く」最上義光歴史館参照日 2026-10-20
- 関ヶ原の戦い(日本大百科全書、岡本良一)小学館/コトバンク参照日 2026-10-20





