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堀と塀に囲まれた足利義昭の二条御所を題材とする想像図。建物・配置は復元ではない(AI生成イメージ)
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合戦KASSEN

二条御所の戦い|1573年、織田信長と足利義昭の決裂

二条御所の戦いは1573年春、織田信長と足利義昭が京都と近江で衝突し、和議に至った戦役。細川藤孝・荒木村重の動向、武田信玄・朝倉義景・赤井直正との関係、上京焼き討ちと現在の城跡を史料からたどる。

1573年元亀四年二〜四月(旧暦)山城国京都・近江国勝 和議(織田方優勢)戦国ジャーナル編集部戦いを読む
戦役の年
1573年
元亀4年・改元前
春の衝突
2〜4月
月日は旧暦
春の帰結
和議
京都追放は7月

この戦いの要点

  1. 将軍を守る御所が対立の拠点に

    信長が義昭のために造営した御所をめぐり、1573年春には両者が戦う側に分かれた。

  2. 藤孝と村重は信長を出迎えた

    『信長公記』は3月29日、細川藤孝と荒木村重が逢坂で信長を迎えたと記す。

  3. 上京焼き討ちの後に和議

    4月初めの放火と交渉を経て和議が成立。義昭が京都を追われるのは、7月の槇島城の戦いの後である。

二条御所の戦いとは:1573年春の衝突と和議

将軍を守るために築いた御所へ、今度は信長の軍が迫った。二条御所の戦いは、元亀4年(1573年)春、織田信長と足利義昭が京都と近江で衝突した戦役である。義昭方の近江の拠点が攻め落とされ、信長は京都へ進出した。 4月初めには市街への放火が行われ、その後、両者は和議に至る。

春の戦いで、義昭が京都を追われたわけではない。二条御所をめぐる春の衝突は和議で終わり、京都追放につながる槇島城の戦いは同年7月に起きた。戦国期の月日は特記しない限り旧暦で示す。

この戦役には将軍と信長の決裂だけでなく、両者の間で働いてきた武将の選択も表れている。細川藤孝と荒木村重は、上洛する信長を出迎えた。一方、武田信玄、朝倉義景、丹波の赤井直正らの動きは、京都の外から政局に関わった。誰がその場にいて、誰の援助が期待されていたのか。そこを分けると、戦いの経過が見えやすくなる。

信長と義昭は、なぜ二条御所で対立したのか

1568年、信長は義昭を奉じて上洛し、義昭は室町幕府15代将軍になった。翌1569年正月には三好三人衆らが仮御所を襲う本圀寺の変が起きる。信長が事件後に造営を進めたのが、義昭の二条御所だった。堀や石垣を備えた御所は、将軍の住まいであり、軍事的に守るべき拠点でもあった。

だが、将軍として諸勢力と関係を結ぶ義昭と、畿内で軍事力を行使する信長の協力は揺らいでいく。信長が浅井・朝倉氏や本願寺などと戦うなかで、義昭との対立も武力衝突へ進んだ。『信長公記』巻六は、信長側が人質や誓紙による和談を申し入れたものの、義昭が受け入れなかったと記している。

これは信長側から経緯を説明する叙述であり、そのまま両者の内心を語る材料にはできない。それでも、攻撃の前後に交渉が重なっていたことは分かる。信長が上洛した1568年の時点から、五年後の追放まで一直線に決まっていたわけではなかった。

御所の座敷に座る足利義昭の想像図。人物・室内は史実の復元ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

武田信玄・朝倉義景・赤井直正はどう関わったか

信長は京都の義昭だけを相手にしていたのではない。

武田信玄は遠江・三河方面へ進み、徳川家康と織田方を圧迫していた。近江では浅井氏と朝倉義景が信長に対抗していた。『信長公記』も遠州の武田と江北の浅井・朝倉という複数の戦線を、義昭との衝突の背景に置いている。

丹波の赤井直正もこの情勢を考えるうえで欠かせない。直正は荻野直正とも呼ばれる。野田泰三が講座「丹波学」の資料16頁で示した史料には、元亀4年正月27日、顕如が朝倉義景に送った書状がある。そこでは直正の京都方面への出陣情報に触れながら、丹波の国侍どうしが不和であるとして、その働きに疑いを示していた。

援軍の話が持ち上がることと、実際に軍勢が京都へ到着することは違う。この書状からは、顕如・朝倉・丹波勢の間で情報が交わされていたことが分かる。同時に、互いを十分に信頼し、同じ日程で動けたとは限らないことも読み取れる。武田信玄・朝倉義景・赤井直正を、二条御所に集結した一つの軍として並べるのは適切ではない。

後に「信長包囲網」と呼ばれる諸勢力には、信長を別々の方面から圧迫する力があった。しかし、京都の将軍をただちに救えるかどうかは、また別の問題だった。この連携の難しさを抱えたまま、近江では実際の戦闘が始まる。

2月、石山・今堅田の拠点を織田方が攻める

義昭方は近江の石山と今堅田に拠点を置いた。ここでいう石山は琵琶湖南部の拠点であり、大坂の石山本願寺ではない。信長は柴田勝家、明智光秀、丹羽長秀、蜂屋頼隆らを派遣した。

『信長公記』巻六によると、織田方は2月24日に瀬田を渡って石山を攻め、26日には降参させた。続く29日には今堅田を攻め落としている。将軍のいる御所を直接攻める前に、近江の義昭方拠点が失われたのである。京都の対立は御所の塀の内側だけで決着する争いではなかった。

近江は信長の本国側と京都をつなぐ地域でもあった。この方面で戦える将と城を持つことは、上洛する軍の行動を支えた。『信長公記』は、攻撃後に光秀が坂本へ残り、ほかの諸将が帰陣したことも記す。信長自身の京都入りに先立って、現地の部将が戦線を動かしていた。

細川藤孝・荒木村重が迎えた信長の上洛

3月25日、信長が出馬した。『信長公記』は29日、逢坂で細川藤孝と荒木村重が出迎えたと記す。史料中の名は「細川兵部大輔」「荒木信濃守」である。信長は京都の知恩院に陣を置き、軍勢は京都周辺へ展開した。

京都の寺院の縁に立つ黒い甲冑姿の織田信長の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

藤孝は義昭を支えてきた幕臣だった。その藤孝が信長を迎えたことは、将軍の周囲も一枚岩ではなくなったことを示す。ただし、1573年春に突然信長へ近づいたと見ると、それ以前の働きが抜け落ちる。

熊本大学が2024年に公表した信長の書状

は、1572年8月15日付の藤孝宛てだった。研究チームは、義昭の挙兵前から藤孝が畿内の領主を信長方へまとめていたと読み解いている。御所を攻める軍が迫って初めて、藤孝と信長の関係が生まれたわけではない。

1573年ごろの細川藤孝を、京都への道に立つ姿で描いた想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

摂津で力を伸ばしていた村重も、このときは信長方にいた。後年の有岡城での反乱を知っていると、村重と信長の関係を敵対から見てしまいがちである。だが、1573年春の記録が伝えるのは、京都へ向かう信長を迎える村重の姿だ。のちの決裂とは分けて、その時点の立場を見る必要がある。

藤孝と村重の出迎えは、周辺の有力者がどちら側に立ったかを伝える具体的な場面である。二人を同じ場所に記す史料はあっても、二人が全軍を共同で指揮したという意味にはならない。御所にこもる義昭と、京都へ入る信長。かつて両者を支えた人々の関係も、この対立の中で組み替わっていった。

京都へ向かう山道に立つ荒木村重の想像図(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

上京焼き討ち:軍事的圧力は市街へ向かった

4月初め、信長方は京都の外側に火をかけ、4日には上京を焼いた。御所の守備兵だけでなく、市街に暮らす人々も戦争に巻き込まれた。この放火は『信長公記』だけでなく、信長自身の書状にも残っている。

山﨑布美の研究が掲げる4月6日付の徳川家康宛書状では、信長は2日・3日に洛外を焼き、4日に上京を焼き払ったと述べる。さらに、その夕方から和平の話があり、おおむね同意したと伝えている。書状を受け取る相手は東海で武田勢に対処していた家康だった。京都での戦いと交渉の見通しを、同盟者へ知らせていたのである。

ここで起きたことを、御所の門を破る攻城戦だけで捉えることはできない。周辺への軍勢の展開、市街への放火、和平交渉が重なっていた。信長方の軍事的な優勢が義昭に和議を受け入れさせる圧力となったと考えられる。

荷物を運ぶ京の人々と市街に上がる煙の想像図。特定の街路や避難経路の復元ではない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

4月の和議は、義昭の追放を意味しなかった

4月上旬、朝廷の仲介を経て両者は和議に至った。ただし、一つの日付だけで全過程を表すには注意が要る。『信長公記』は6日に信長の名代による御礼と和談を記す。一方、『兼見卿記』7日条には、織田三郎五郎、佐久間信盛、細川藤孝が御所へ赴き、義昭と対面したことが見える。

この日記記事を検討した山﨑布美は、名代の織田三郎五郎を信長の兄・信広とする。信長が自ら御所へ行くのではなく、代理を立てた形だった。日付に違いはあるが、4月上旬に交渉と対面を経て戦闘が収まったという流れは確認できる。

義昭はここで将軍の地位も京都の拠点も直ちに失ったわけではなかった。一方、信長との関係が上洛当初の協力へそのまま戻ったともいえない。近江の拠点を失い、市街を焼かれた後の和議である。戦いを止める合意と、対立の原因が解消することは同じではなかった。

一時の和議後の御所を題材とする座敷と庭の想像図。実際の室内配置は復元していない(AI生成イメージ)AI 生成イメージ

通説と俗説の射程:信玄の死と包囲網の実態

武田信玄が亡くなったのは、同年4月12日である。義昭の対信長行動も、近江での戦闘も、それ以前に始まっていた。春の和議さえ信玄の死に先行する。したがって、「信玄が死んだので義昭が初めて挙兵した」という順序では説明できない。

信玄の死がその後の情勢に与えた影響と、義昭がいつ訃報を知ったかは分けて考えたい。出来事を年単位で並べるだけでは、その間にある数か月の違いが消える。同じ1573年でも、春の和議、7月の追放、8月の朝倉氏滅亡は別の局面だった。

また、赤井直正の出陣情報を伝える顕如書状は、反信長側の連携の内実を考える手がかりになる。援助への期待と、相手への不信が同じ書状に現れるためだ。包囲網という呼び名の便利さに頼りすぎると、この交渉や足並みの違いが見えなくなる。信長が多方面の圧力を受けた事実と、敵対勢力が統一指揮で動いたという理解は分ける必要がある。

二条御所は現在どこにある? 二条城・二条新御所との違い

義昭の二条御所は、現在の京都市上京区、烏丸・新町・丸太町・下立売の各通りに囲まれる地域を中心とする場所にあった。

京都市の「旧二条城跡」

はその来歴と、室町通下立売の碑を紹介している。 現在の元離宮二条城とは別の城である。

さらに、1582年の本能寺の変で織田信忠が戦った二条新御所とも区別が必要だ。京都市考古資料館の講座資料は、信長が二条家の邸宅を整備し、誠仁親王へ譲った二条御新造を説明している。こちらは烏丸御池周辺にあたり、1573年の義昭の御所とは場所も来歴も異なる。

名称この出来事との関係現在の場所の目安
義昭の二条御所・旧二条城1573年春、信長と対立した義昭の拠点京都御苑の南西側、室町下立売周辺
二条新御所・二条御新造1582年、本能寺の変で信忠が戦った御所烏丸御池周辺
元離宮二条城徳川家の京都の城堀川二条

城の名前だけを拾うと、異なる時代の戦いが混ざりやすい。「1573年・足利義昭」と「1582年・織田信忠」を対にして確かめれば、同じ二条という呼び名でも区別できる。

春の和議から、7月の槇島城へ

和平は長く続かなかった。 7月、義昭は再び信長と対立し、宇治の槇島城へ移る。信長は京都側を制圧した後に宇治へ進み、18日、義昭を降伏させた。その経過は槇島城の戦いで詳しく扱う。

春の二条御所では、将軍と信長が対立しながらも和議を結んだ。 7月には、義昭が京都で政務を続ける足場を失った。

室町幕府滅亡の区切りとされるのは、この後者の結末である。同年に続く一乗谷・小谷城の戦いまでの順序は、戦国年表でもたどれる。

両軍の対比

織田方

織田信長

大将:織田信長
総兵力総兵力は確定しない
出陣近江から京都へ
近江での攻撃柴田勝家・明智光秀・丹羽長秀・蜂屋頼隆
逢坂での出迎え細川藤孝・荒木村重
近江の拠点を攻略し、京都へ軍事的圧力
将軍方

足利義昭

大将:足利義昭
総兵力援軍情報と実兵力を区別
出陣二条御所・近江の拠点
京都の拠点義昭の二条御所
春の帰結和議後も義昭は京都にとどまる
近江の拠点を失い、4月上旬に和議
vs

戦況の経過

近江で武力衝突
元亀4年2月
義昭方の石山・今堅田を織田方が攻める。『信長公記』は26日に石山の降参、29日に今堅田の落城を記す。
信長が京都へ
3月25〜29日
信長が出馬し、29日には逢坂で藤孝・村重が出迎える。京都では知恩院に陣を置いた。
京都市街への放火
4月初め・4日
洛外への放火に続き、4日には上京が焼かれる。信長の家康宛書状にもこの経過が記される。
将軍との和議
4月上旬(6〜7日の記録)
『信長公記』は6日の和談を記し、『兼見卿記』7日条には信長の名代らと義昭の対面が見える。
7月に再び対立
7月
義昭は槇島城へ移り、18日に降伏する。春の和議と、京都を離れる結末は別の局面である。

その後の世界

1573年7月
槇島城の戦いで義昭が降伏し、京都を離れる。京都で将軍が政務を行う体制の終わりとされる。
1582年
本能寺の変では織田信忠が二条新御所で戦う。義昭の御所をめぐる1573年の戦役とは区別する。
現在
京都市上京区の室町下立売に旧二条城跡の碑がある。現在の元離宮二条城とは所在地も来歴も異なる。

参考文献・出典

本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。

  1. 太田牛一『信長公記』巻六(三・四ほか)
    Wikisource(甫喜山景雄刊本の翻刻)参照日 2026-10-31
  2. 旧二条城跡
    京都市参照日 2026-10-31
  3. 武田神社(武田信玄の没日)
    山梨県神社庁参照日 2026-10-31

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-11-01

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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