あかい・なおまさ
赤井直正丹波の赤鬼の生涯・死因・子孫と荻野直正の名
- 生没年
- 1529–1578
- 出身
- 丹波国氷上郡
- 家
- 国衆

- 生年
- 享禄2年1529年とされる
- 没年
- 天正6年1578年・病死
- 本拠
- 黒井城丹波国氷上郡
- 名乗り
- 荻野直正通称は悪右衛門
赤井直正は、丹波国の黒井城を本拠にした戦国武将で、荻野直正ともいう。「丹波の赤鬼」の名で知られ、1575〜1576年の黒井城の戦いでは波多野秀治の離反・援護によって明智光秀を退けた。
最期は1578年の病死であり、翌1579年の黒井城落城で討たれたのではない。子孫は城を失った後も続き、二男の直義の系統は藤堂家に仕えた。俳優の赤井英和は、直正の弟・幸家の子孫として紹介されている。
以下の日付は、特記しない限り当時の旧暦で記す。人物・場面画像はAIによる創作イメージで、実在の肖像や装備、城の姿を確定復元したものではない。
二つの家を結んだ、丹波の武将

明智光秀の軍を退けた黒井城の主は、荻野直正を名乗っていた。いま「丹波の赤鬼」として知られる赤井直正と同じ人物である。赤井という生家の名と、荻野という名乗り。二つの家とのつながりが、のちの直正の力を支えていく。
直正は享禄2年(1529年)、丹波の赤井時家の二男として生まれたとされる。赤井氏の本拠は氷上郡の後屋城だった。現在の兵庫県丹波市氷上町にあたる地域で、近隣の領主たちと競いながら勢力を築いていた家である。
家を継ぐ立場にあったのは兄の家清だった。直正は少年のころに近隣の荻野家へ入り、荻野姓を名乗るようになる。養子入りは家と家を結ぶ関係でもあった。生家を離れた直正が、のちに赤井一族を支える立場へ戻ってくることになる。
丹波には、国全体を一人で思いどおりに動かせる領主がいたわけではない。各地の城を拠点に土地と人を握る国衆が並び、京都の政争とも関わりながら争っていた。直正の生涯も、まずはその地域のつながりの中から始まる。大名同士の合戦だけを追っていては見えにくい、村々と城を背負った武士の歴史である。
やがて直正は黒井城を得る。養子として入った家で城主の座につき、兄の家とも力を合わせる道が開けた。荻野家の武将であり、赤井一族の有力者でもある。その両方の立場を持つ人物へ成長していった。
山城を手にし、幼い甥を支える

天文23年(1554年)、直正は黒井城主となった。前の城主だった荻野秋清を殺して城を得たとされ、その交代には一族内部の争いがあった。後世には年賀の席での事件として語られるが、まず押さえたいのは、この時期に直正が黒井城を本拠としたことである。
黒井城は、丹波の山間にそびえる猪ノ口山を中心とした山城だ。山頂だけでなく、尾根に沿って守りを広げられる地形を持つ。城の周囲に生活の場があり、その土地を支える人々がいる。城主となることは、山上の建物を手にするだけでは済まなかった。
直正は兄の赤井家清とともに、丹波へ力を伸ばす三好方と向き合った。ところが弘治3年(1557年)、家清が死去する。赤井家には幼い忠家が残された。直正はその甥を後見し、一族の軍事と政治を支えるようになる。
ここで直正を、兄に代わって赤井家のすべてを相続した人物と考えると関係が見えにくくなる。忠家の家と、荻野姓を名乗る直正の家は並んで存在した。直正は赤井・荻野の両家を結び、幼い当主を支えながら連合を率いた。 黒井城はその力を示す拠点になっていく。
一人の武勇だけで城や領地は保てない。甥の立場を支え、生家と養家の関係を保つことも直正の仕事だった。後年、信長の文書に赤井と荻野が別々に登場するのは、この二つの家を一つに潰してしまえないからである。
内藤宗勝を破り、奥丹波に力を伸ばす

永禄8年(1565年)、直正らは丹波へ勢力を伸ばしていた内藤宗勝と戦い、これを破った。宗勝は松永久秀の弟としても知られる武将で、三好方の力を背景にしていた。黒井城を軸に抵抗する直正にとって、丹波の主導権に関わる大きな戦いだった。
宗勝はこの戦いで命を落とす。直正の勢力は、氷上郡から天田郡・何鹿郡へと広がった。現在の兵庫県と京都府にまたがる奥丹波の地域である。山城を守る一領主から、周囲の国衆の動きを左右する有力者へ。直正の名が重みを増した。
ただし、奥丹波に力が及ぶことと、丹波一国を統一することは同じではない。八上城を本拠とする波多野氏をはじめ、ほかにも力を持つ家があった。直正が戦い続けたのは、支配の境目や従属関係が動く土地だった。ある城での勝利が、そのまま全域の安定をもたらすわけではなかったのである。
永禄11年(1568年)、織田信長が足利義昭を奉じて京都へ入ると、丹波の領主たちも新しい政局と向き合う。京都から離れた山間の城であっても、将軍と信長の関係から無縁ではいられない。直正も、のちに信長と敵対し続けることになる以前には、織田方との関係を結んでいた。
やがて義昭と信長の対立が深まる。一方、丹波の北側では但馬の山名氏との争いが続いた。直正が守るべき範囲は広がったが、その分だけ関わる相手も増えた。黒井城の主は、丹波の戦いを京都や但馬の情勢と切り離せない立場になっていた。
但馬の争いが、織田軍との戦いへつながる

直正は北へも兵を進めた。但馬の山名祐豊との争いでは、山名方の攻撃を受けるだけでなく、竹田城をめぐる攻防にも関わった。丹波と但馬の境を越えた争いは、山名氏が信長の助けを求めることで、織田方との関係にも響いてくる。
天正3年(1575年)、信長は光秀を丹波へ向かわせた。同年の信長朱印状には、地域の武士へ光秀への協力を求めたことが残る。さらに10月の文書では、荻野悪右衛門の討伐が目的として示された。直正は、信長が名指しで攻撃対象とする国衆となったのである。
直正は黒井城へ戻り、迎え撃つ側に回る。城の守りを固めるとともに、武田氏、毛利方、石山本願寺など、信長と対立する勢力との連絡を進めた。遠方の相手が、そのまま黒井城に援軍として到着するわけではない。それでも、信長が別の地域で戦いを抱えていることは、丹波の守りと関わっていた。
石山合戦は、そのつながりを考えるうえで欠かせない。同じ光秀が丹波でも本願寺との戦いでも動いている。直正と本願寺の連絡は、この広い戦争の中に置くと理解しやすい。直正自身が大坂の城内で戦ったという意味ではない。
ここでは役割の違いも見えてくる。丹波攻略を命じたのは織田信長であり、軍を率いて黒井城へ迫ったのは明智光秀だった。直正が直面したのは、その二人に支えられた織田方の軍事行動である。山城の守りと城外の連携が、いよいよ試されることになった。
波多野秀治の離反で、包囲の形勢が変わった

天正3年(1575年)11月、光秀の軍勢は黒井城を囲んだ。攻める側には織田家の兵だけでなく、光秀に協力する丹波の国衆もいた。八上城の波多野秀治も、この段階では光秀方に立っていた。城内の直正は、周囲の領主まで敵に回る状況で持ちこたえた。
年が明けた天正4年(1576年)正月、包囲する側で大きな変化が起こる。波多野氏が光秀から離反し、荻野方へ転じたのである。光秀は背後からも攻撃される形となり、ほかの丹波勢の離反も重なった。城を囲む軍のまとまりが崩れた。
光秀は退却を余儀なくされた。直正は黒井城を守り抜き、織田方による丹波攻略はいったんつまずく。山城の抵抗と、城外で起きた波多野氏の離反。その二つが重なって、攻め手を押し返した。 これが直正の生涯を代表する戦いである。
後世、この勝利は「赤井の呼び込み軍法」として語られるようになった。光秀を奥へ引き込み、一挙に挟み撃ちにしたという鮮やかな物語だ。ただし、離反が起きて光秀が敗れたことと、初めから全員で示し合わせた作戦だったことは分けておきたい。戦いの経過を越える細部は、逸話として後で確かめる。
勝った後も、争いが消えたわけではない。赤井・荻野を許すという信長の朱印状からは、一時的な和解へ向かう動きがうかがえる。それでも直正と反織田勢力との連絡は続き、光秀も再進攻に向けて丹波で足場を築いていった。黒井城の勝利は、大きな戦争の途中にあった。
黒井城が落ちる前年、直正は世を去った

光秀は、最初の敗北の後も丹波攻略を続けた。天正5年(1577年)には亀山での築城が進み、地域の武士を動員する拠点が整えられていく。黒井城を一度守れたからといって、次の攻撃も同じ条件で迎えられるわけではなかった。
その一方、織田方は丹波だけに兵を向けていたのでもない。本願寺やほかの敵との戦いが並行し、光秀も各地を動いた。直正らが抵抗した時間は、信長の勢力が近畿から西へ広がっていく時間でもあった。丹波の国衆は、その広がりに抗い続けていた。
だが、直正は戦いの決着を見なかった。天正6年(1578年)3月に病死する。地域の案内では3月9日、享年50と伝えられる。享禄2年生まれとする通説による数え年であり、満50歳という意味ではない。
死因を「首切り疔」とする話も残っている。ただし、病名の伝承から現代の医学的な診断まで決めることはできない。直正が病で世を去ったことを生涯の骨格とし、病の詳しい説明は伝承として扱う。黒井城の落城時に光秀に討たれた、という最期ではなかった。
直正が亡くなっても、城と一族は残った。甥の忠家ら赤井・荻野勢は、引き続き織田方に抗する。直正の死は1578年、黒井城の落城は1579年。 この一年の違いを押さえると、本人の生涯と、死後の一族の運命を混同せずにたどることができる。
黒井城は落ちても、子孫の歴史は続いた

天正7年(1579年)、丹波の抵抗は大きな転機を迎える。八上城が降り、波多野秀治らは処刑された。同年8月には黒井城も落ちる。直正を失った赤井・荻野勢は、本拠を保ち続けることができなかった。
黒井城では、光秀の重臣斎藤利三が戦後の統治に関わった。直正が力を広げた城に、織田方の支配が入ったのである。同じ場所に残る歴史でも、直正の時代と利三の時代では城を取り巻く政治が異なる。
しかし、落城を一族全員の死と重ねてはいけない。直正の子たちには、その後の歩みがあった。丹波市が2026年に紹介した調査では、悪七郎、二男の直義、弥七郎の三人が取り上げられている。子孫に伝わった文書が、城を失った後の足取りを伝えている。
とくに直義は、のちに藤堂高虎に仕え、その子孫も藤堂家に仕えた。土地を治める城主の家から、別の大名のもとで生きる家へ。父と同じ場所に城を取り戻すことだけが、家を残す道ではなかった。
直正の名は、いまも黒井城と結びついている。光秀を退けた武将として、丹波の赤鬼として語られる一方、子孫の文書からは違う歴史が見えてくる。勝ち戦の記憶と、敗戦後を生きた家の記録。その両方が残ったからこそ、直正の生涯は落城の一場面で途切れず、後の世へつながっている。
史料の読み解き
赤井直正の生涯を読むとき、光秀を退けた勝利だけで人物像を閉じてしまうのは惜しい。荻野姓を名乗りながら赤井家を支え、信長と戦いながら和解の動きも持ち、本人の死後には子孫が別の家に仕えた。文書の呼び名と、城の持ち主と、家が続く道を分けて見ると、赤鬼という一言の向こうに具体的な歩みが現れる。
赤井直正と荻野直正は同一人物――家系図で見る立場
荻野直正は、赤井直正の別人でも、名前の誤りでもない。赤井家に生まれ、荻野家に入った直正が用いた名乗りである。兵庫県立歴史博物館の文書解説は、直正が兄・家清の死後に甥・忠家を支えたことを説明する。
| 人物 | 直正との関係 | 読むときの要点 |
|---|---|---|
| 赤井時家 | 父 | 直正は二男とされる |
| 赤井家清 | 兄 | 赤井家当主。直正とともに三好方に対抗した |
| 赤井忠家 | 甥・家清の子 | 家清の死後、直正が後見した相手 |
| 荻野直正 | 本人 | 赤井家出身だが、荻野家に入り黒井城主となった |
| 赤井幸家 | 弟 | 赤井英和が子孫として紹介されるのはこちらの系統 |
家系図を一本の当主の線だけで描くと、家清の次に直正、その次に忠家が並んでいるように見えかねない。実際には、赤井家の忠家と荻野家の直正が並び、直正が有力者として両家をまとめる関係だった。この違いは、城や所領を誰が持つかを考えるときにも効いてくる。
「直正の家臣」を探す場合にも、この構造を踏まえたい。赤井一族の人名や、近隣で協力した国衆をすべて直正の直属家臣として並べると、家同士の関係が消えてしまう。忠家を支えたことは、忠家の家がなくなったことを意味しない。地域の連合を率いる力と、家督家の主としての地位、およびそれに伴う家督相続権。戦国大名にとって家督相続は権力の正統性を支える重要な要素であった。を相続する資格は、同じものではなかった。
父の時家、兄の家清、甥の忠家をまず区別する。それだけでも、同じ赤井姓が続く説明はかなり読みやすくなる。なお、博物館の解説には直正の祖父にも忠家という名が出る。甥と同名だが、世代の異なる人物である。
波多野秀治との関係――主従より、戦況の変化を見る
波多野秀治は八上城を本拠とした丹波の有力者だった。黒井城の直正とともに光秀へ抵抗したため、最初から一体の軍勢として戦ったようにも見える。しかし、1575年の包囲が始まった段階では、波多野氏は光秀に協力していた。
翌1576年正月の離反によって、包囲の形勢が変わる。城内の直正を攻めていた光秀は、背後の味方を失い、攻撃まで受けることになった。城の堅さだけでは説明できない勝利である。丹波の国衆がどちらに立つかによって、城を囲む軍勢の力そのものが変わった。
この関係を、直正が秀治の家臣だったから援護された、と単純に整理することはできない。ここで確認できるのは、立場を変えた波多野氏が荻野方を助け、光秀を退ける側に回ったという経過である。二人の間の指揮命令や密約の細部まで、勝敗だけから逆算はできない。
その後、光秀は亀山を拠点として丹波攻略を続け、1579年には八上城を落とした。亀岡市文化資料館の解説は、築城を支えた国衆の動員にも触れている。戦う相手が地域の協力を固め直していった点まで見ると、最初の勝利と最後の落城の間に、何が変わったかを考えられる。
明智光秀と織田信長――攻城戦の相手と、命令を出す相手
直正にとって光秀は、黒井城を攻める軍の指揮官だった。信長は、その丹波攻略を命じる側にいた。「信長と戦った」という表現は戦役全体では成り立つが、信長本人が黒井城の前で直正と向き合ったという意味にはならない。
亀岡市文化資料館が紹介する1575年の朱印状には、丹波の武士へ光秀への協力を求める動きが見える。10月の文書では、荻野悪右衛門を討つために光秀を送る趣旨が示される。中央の命令と、地域の協力と、現地の軍事行動がつながっていたことを示す資料である。
一方、兵庫県立歴史博物館の織田信長朱印状・資料ID14432では、赤井・荻野の赦免が話題になる。宛先は直正ではなく矢野弥三郎で、赦免にかかわらず矢野の所領を従来どおり保証する内容だ。戦う二人の間で交わした誓約書ではない。
この書状には年がなく、博物館は天正4年(1576年)かと推定している。光秀が退却した後に一時的な和議が進んだ可能性を考える材料になるが、「1576年4月13日に直正と信長が会って和睦した」とは読めない。文書が誰に何を伝えるものなのかを確かめると、言える範囲がはっきりする。
直正を生涯変わらぬ反信長の武将として描くより、対立と交渉の両方を見たほうが、その立場は具体的になる。自分の城と一族を守るため、敵対する相手とも関係を調整する余地があった。戦国の外交は、後世の味方・敵の色分けだけでは追い切れない。
死因は病死――「首切り疔」の伝承はどこまで分かるか
直正の死因は、病死として説明される。没年は天正6年(1578年)で、黒井城の最終的な落城より前だ。兵庫県立歴史博物館の文書解説と、丹波市教育委員会の黒井城案内は、この時間関係で一致する。
丹波市教育委員会のパンフレット
には、3月9日の病死とともに、首切り疔を患ったという説が紹介されている。ただし本文では一説とする一方、同じ資料の年表では病名を断定する書き方になっている。ここでは慎重な本文の説明に合わせ、「首切り疔と伝わる」とする。
伝えられた病名があるからといって、現代の病名や病原体を特定できるわけではない。診察記録や病状の経過が十分に確認できないまま、がんや特定の感染症、あるいは毒殺に言い換えることは避けたい。病死という骨格と、病名の細部の確かさは分けておく必要がある。
また、貂の皮の由来話には直正の討死が描かれるが、これは別の種類の資料だ。家宝の由来を語る物語を、そのまま没年・死因の根拠に使うと、生涯全体の時間が合わなくなる。直正は1578年に死に、波多野氏の没落と黒井城落城は1579年に起きた。この順番が、伝承を読む際の支えになる。
子孫はどうなったか――直義の系統と、2026年の再調査
直正の子孫は、黒井城の落城後も続いた。確かめやすいのは、二男・直義から続く系統である。丹波市が2026年10月に公表した展示案内は、直義の子孫が代々藤堂家に仕えたことを示し、その家から寄託された文書を紹介している。
市の調査を伝える2026年9月12日の丹波新聞では、長男の悪七郎、二男の直義、三男の弥七郎の落城後の動向が取り上げられた。悪七郎は落城後も生存し、のちに秀吉に仕えた後、謀反を疑われて切腹したと家の文書に記されているという。直義が荻野金左衛門と名を変えていた事情も、再読の対象になった。
この点は、古い案内に見られる「長男が早世したため、直正の死後は幼い直義が城主となった」という説明と食い違う。少なくとも、長男は父より先に死んでいた、と無条件に書くことはできない。城の後継者を説明する古い筋をそのまま受け継ぐより、新しい調査で何が見直されたかを示すほうが正確である。
ただし、今回の調査が扱う家の記録は、直正の時代から年月を経てまとめられたものだ。新聞は、直義の子・直綱が1677年と1692年に口伝を記した資料を紹介する。子孫の手元に残る文書は大切な手がかりだが、書かれたすべてを同時代の目撃記録とみなすわけにはいかない。家の記憶を、ほかの史料と照合することで人物の歩みを確かめていく。
父は黒井城を守り、子孫はその城を持たずに家を保った。直義の藤堂家仕官をたどると、戦国の敗者がどのように近世の武家へつながったかが見えてくる。子孫を知ることは、現在の有名人を探すことだけではなく、落城の先にも続いた生活と奉公を知ることでもある。
赤井英和は直正の子孫なのか
俳優・赤井英和は、直正の弟である赤井幸家の子孫として紹介されている。丹波新聞の2020年の黒井城まつり報道は、2016年のNHK「ファミリーヒストリー」でその系譜が紹介されたことを伝えている。
したがって、直義を経て続く直正の子孫と、幸家の系統は区別する必要がある。同じ赤井一族に連なることと、直正本人を祖先とすることは、家系図では違う関係になる。赤井英和を「赤井直正の直系子孫」と言い切るより、「直正の弟・幸家の子孫と紹介される」と書くのが、この報道に即している。
黒井城を読む――残る石垣と直正の時代は同じか
黒井城跡は、標高356メートルの猪ノ口山を中心に広がる。山頂と尾根、周囲の盆地の位置関係は、直正の拠点を考える手がかりになる。ただし、いま見える城跡のすべてを直正が築いたものと考えるのは早い。
兵庫県立歴史博物館の城郭解説は、山上の石垣を光秀の丹波攻略後の整備に伴うものと見る。城下から見える側に石垣を築く特徴も紹介しており、防御に加えて城の姿を見せる役割が考えられる。直正が守った山城に、その後の支配者が手を加えた歴史が重なっているのである。
山上の城と、麓の居館の関係にも目を向けたい。麓の興禅寺には城主の居館をしのばせる景観が残り、斎藤利三や娘の春日局の歴史へもつながる。同じ黒井城でも、直正の抵抗を知る視点と、落城後の統治を知る視点では、注目する場所が変わる。
なお、家紋を調べる場合にも、現在の催しで使う意匠や創作画を、直正本人が用いた証拠として扱うことはできない。本記事では、今回確認できた史料の範囲で直正個人の使用紋を特定せず、家紋欄に推定の紋を載せていない。
生涯の年表――本人の死と黒井城落城を分ける
- 1529年
- 直正が生まれたとされる
- 父・赤井時家
- 1554年
- 黒井城主となる
- 荻野秋清・黒井城
- 1557年
- 兄・家清が死去し、甥を支える
- 赤井家清・忠家
- 1565年
- 内藤宗勝を破る
- 三好方との抗争
- 1575年
- 光秀が丹波へ進攻、黒井城を囲む
- 織田信長・明智光秀
- 1576年
- 波多野氏が離反し、光秀が退却
- 波多野秀治
- 1578年
- 直正が病死する
- 黒井城落城の前年
- 1579年
- 八上城に続いて黒井城が落ちる
- 直正没後の丹波攻略
| 年 | 出来事 | 関係する人物・場所 |
|---|---|---|
| 1529年 | 直正が生まれたとされる | 父・赤井時家 |
| 1554年 | 黒井城主となる | 荻野秋清・黒井城 |
| 1557年 | 兄・家清が死去し、甥を支える | 赤井家清・忠家 |
| 1565年 | 内藤宗勝を破る | 三好方との抗争 |
| 1575年 | 光秀が丹波へ進攻、黒井城を囲む | 織田信長・明智光秀 |
| 1576年 | 波多野氏が離反し、光秀が退却 | 波多野秀治 |
| 1578年 | 直正が病死する | 黒井城落城の前年 |
| 1579年 | 八上城に続いて黒井城が落ちる | 直正没後の丹波攻略 |
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠と限界 |
|---|---|---|
| 赤井直正と荻野直正は同一人物 | 高 | 信長関係文書を扱う県博物館・亀岡市文化資料館の説明が一致 |
| 光秀を退けた戦いで波多野氏の離反が起きた | 高 | 丹波攻略の史料解説と地域史の案内で経過を確認できる |
| 信長と一時和解する動きがあった | 高 | 赦免に触れる朱印状が残る。ただし推定年と和議の細部は区別する |
| 1578年に病死し、1579年に黒井城が落ちた | 高 | 本人の死と城の落城を別年として複数の解説で確認できる |
| 1529年生まれ、3月9日没という細部 | 中 | 地域の案内が伝える通説。生年からの年齢は数え年で扱う |
| 直義の子孫が藤堂家に仕えた | 高 | 丹波市が子孫の寄託資料とともに紹介する |
| 悪七郎の切腹や直義の改名の事情 | 中 | 2026年の再調査で紹介。後世の家伝を含む資料の性質に留意する |
| 首切り疔という死因の細部 | 伝承 | 病死の説明と区別し、現代の病名へ置き換えない |
| 呼び込み軍法のすべてが当初からの計画だった | 未確認 | 勝利の経過だけでは事前の密約まで証明できない |
| 貂の皮の贈与・脇坂安治による討死 | 伝承 | 龍野歴史文化資料館が後世の創作の可能性を指摘する |
直正の強さは、黒井城での一戦だけに閉じてはいない。甥を支え、周囲の国衆と組み、遠方とも連絡を取った。その働きをたどると、丹波の赤鬼は、武勇と家の存続をともに背負った領主として見えてくる。
赤井直正の逸話
- 逸話 01
「悪右衛門」と「丹波の赤鬼」は、同じ種類の呼び名か

武将としての直正の創作イメージ。赤い装備は呼称の史実的根拠ではない · AI生成イメージ 「丹波の赤鬼」という呼び名からは、赤い甲冑で敵を圧倒する猛将の姿が浮かぶ。だが、その連想をそのまま実際の装備へ結びつけることはできない。赤い甲冑を着けていたためにそう呼ばれた、と確定できる根拠は、今回確認した史料にはなかった。
一方、「荻野悪右衛門」は信長の討伐に関わる文書にも見える呼称だ。こちらは後世の紹介文だけに登場するものではない。人名を探すときにも、赤井直正だけでなく、荻野・悪右衛門という名を押さえることで同時代の文書へ近づける。
丹波市の黒井城案内は、後世の軍学書『甲陽軍鑑』にも丹波の赤井悪右衛門が取り上げられることを紹介している。こうした記憶の積み重ねが、強い武将という像を支えてきた。ただし、軍学書に名が載ることと、現代のあだ名の由来まで解明できることは別である。
直正を知る入口として「赤鬼」は分かりやすい。そこからもう一歩進み、文書ではどの名で呼ばれ、誰と争い、誰を支えたかを見ると、勇猛さだけでは収まらない人物像が見えてくる。
- 逸話 02
呼び込み軍法――勝利の経過と、鮮やかな作戦の物語

山城の周囲を見定める直正の創作イメージ。密約の場面ではない · AI生成イメージ 光秀を城の奥へ誘い込み、合図とともに波多野勢が背後を襲う。「呼び込み軍法」は、黒井城の勝利を一つの巧みな計略として説明する物語である。城を守った直正の知略を印象づけるため、戦いの紹介でもよく語られる。
確認できる経過は、波多野氏が当初光秀方にあり、途中で離反したこと、そして光秀が敗れて退却したことだ。そこから、最初の従属もすべて直正と示し合わせた演技だったと結論づけるには、もう一段の裏づけが必要になる。
兵庫県立歴史博物館の解説も、呼び込み軍法という名は後世のものとして説明する。結果から振り返れば、城内と背後から攻められた光秀の苦境は明らかだ。それでも、戦前に誰がどこまで決めていたかは同じようには分からない。
計略の細部を確定できなくても、直正の勝利が小さくなるわけではない。包囲に持ちこたえ、周囲の情勢が動いたときに城を守り通した。その出来事をまず評価し、後世の語りがそこへ何を付け加えたかを読むと、逸話の面白さも残せる。
- 逸話 03
脇坂安治へ渡った「貂の皮」――馬印に付された由来

貂の皮の伝承を題材にした静物イメージ。実際の所蔵品の写真ではない · AI生成イメージ 脇坂安治と直正を結ぶ話に、「貂の皮」がある。脇坂家の馬印にまつわる由来書では、黒井城へ来た安治の武勇を直正が認め、家宝を託したという筋で語られる。敵でありながら相手の器を見抜く、という武将物語になっている。
ただし、龍野歴史文化資料館は、この話の内容が当時の安治の立場に合わず、馬印の価値を高めるための後世の創作である可能性を指摘する。由来書には直正が安治に討たれたという展開もあるが、病死とする生涯の説明へ混ぜることはできない。
伝来する品があることは、その品に付された物語のすべてが事実である証明にはならない。どのような品を家の誇りとして守り、どのような由来を語ったかという、後世の脇坂家の記憶を知る材料として読むことができる。
ここでは直正の実際の最期と、貂の皮の由来話を分けておきたい。贈り物を交わした場面や会話を史実として描かなくても、強敵に認められたという物語が、武家の家宝に重みを与えたことは読み取れる。
関連人物
- 赤井時家
- 荻野悪七郎
- 赤井直義
- 赤井弥七郎
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 織田信長朱印状について兵庫県立歴史博物館参照日 2026-10-31
- 織田信長朱印状(資料ID14432、天正4年ヵ4月13日)兵庫県立歴史博物館参照日 2026-10-31
- 第5回 明智光秀VS荻野悪右衛門亀岡市文化資料館参照日 2026-10-31
- 第18回 丹波決戦亀岡市文化資料館参照日 2026-10-31
- 国指定史跡 黒井城跡(2頁、神奈川大学公開PDF)丹波市教育委員会参照日 2026-10-31
- 赤井(荻野)直正〜赤井悪右衛門〜丹波市観光協会参照日 2026-10-31
- ひょうごのお城 黒井城兵庫県立歴史博物館参照日 2026-10-31
- 貂の皮たつの市立龍野歴史文化資料館参照日 2026-10-31
- 令和8年度秋季ミニ企画展「秀吉の時代を生き延びた丹波の赤鬼の子孫たち」丹波市社会教育・文化財課参照日 2026-10-31
- 黒井城落城後の足跡明らかに 「丹波の赤鬼」の子3兄弟(2026年9月12日)丹波新聞参照日 2026-10-31
- 赤井英和さん「エイエイオー」 光秀と激戦、城主の弟の子孫(2020年11月14日)丹波新聞参照日 2026-10-31








