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黒井城の戦い|1575〜1579年、明智光秀の丹波攻略
黒井城の戦いは、明智光秀が赤井氏の山城を二度攻めた丹波攻略の要所。1576年の敗退と1579年の落城、波多野秀治の離反、赤井の呼び込み軍法の実像を追い、織田信長・武田勝頼・足利義昭との関係をたどる。
この戦いの要点
最初の包囲は光秀の敗退に終わる
1576年正月、光秀に従っていた波多野秀治が赤井・荻野方へ転じ、包囲軍を攻撃した。
呼び込み軍法は後世の呼称
敵を引き付けて退けた経過は確認できるが、最初から共謀した計略だったとまでは断定できない。
直正の死と城の陥落は別年
赤井直正は1578年に病死。翌年、八上城に続いて黒井城が落ち、光秀の丹波攻略が進んだ。
黒井城の戦いとは
山城を囲んだ明智光秀が味方の離反によって退く。黒井城の戦いは、丹波攻略を任された光秀が、一度の敗退を経て同じ城を攻め落とすまでの戦いである。
舞台は現在の兵庫県丹波市にある黒井城だ。第一次は1575年秋から翌1576年正月にかけて、第二次は1579年の攻撃を指す。最初は赤井直正と、途中で光秀方から離れた波多野秀治が勝利した。最後に城を取ったのは光秀だが、そのとき直正はすでに亡くなっていた。
両者の間には和議と再出兵の時期が挟まる。1575〜1579年という期間は、黒井城が4年間ずっと包囲されていたことを意味しない。丹波各地で進んだ攻略と、黒井城をめぐる二度の戦いを分けると、勝敗の変化を追いやすくなる。
| 区分 | 時期 | 城を守る側 | 結末 |
|---|---|---|---|
| 第一次 | 1575年秋〜1576年正月 | 赤井直正。波多野秀治が途中から援護 | 光秀が撤退 |
| 第二次 | 1579年夏 | 赤井忠家・直正の子の悪七郎ら | 8月9日に落城 |
本文の年は西暦、月日は当時の暦で示す。日まで確かめられない出来事は、月や季節の範囲にとどめた。
なぜ織田信長は丹波へ光秀を送ったのか
丹波は京都の西に広がり、複数の国衆がそれぞれの城と所領を持つ地域だった。国衆とは土地に根を下ろして軍事力を持った領主たちのことだ。黒井城の赤井・荻野氏と、八上城の波多野氏は、その有力者だった。
赤井直正は赤井家に生まれ、荻野家に入ったため、文書では荻野悪右衛門などと呼ばれる。赤井家当主の甥・忠家を支えつつ、荻野家の黒井城を拠点とした。同じ赤井姓の人物が続くが、直正と忠家は同一人物でも、単純な父子でもない。

織田信長が足利義昭を奉じて上洛した1568年、丹波の国衆も将軍義昭との関係を結んだ。しかし信長と義昭が対立すると、その関係は一枚岩ではなくなる。直正は義昭方の姿勢を取り、信長に従う国衆とは立場を分けた。
信長は丹波の領主を一括して敵に回したわけではない。亀岡市文化資料館が紹介する1575年6月17日付の朱印状では、国衆に光秀への協力を求めている。同年10月1日付の朱印状では、討伐の対象として荻野悪右衛門が挙がる。誰を味方にし、誰を攻めるのかを、文書によって示していたのである。
直正の勢力は丹波の外にも及んでいた。但馬の竹田城方面へ進出した直正に対し、山名祐豊は信長へ救援を求める。光秀の進攻には丹波の支配を広げる狙いと、山名氏を助ける名目が重なった。
武田勝頼・足利義昭との関係
1575年5月、信長と徳川家康は長篠の戦いで武田勝頼を破った。その年の秋、信長は越前での戦いを進める一方、光秀に丹波攻略を命じている。黒井城の包囲は長篠より後に始まった。
ただし、勝頼は長篠で命を落としたわけでも、武田氏がこの年に滅んだわけでもない。文化庁の黒井城跡解説は、直正が勝頼や本願寺、吉川氏らと連絡を取っていたことを述べている。丹波の抵抗は山城一つの中だけで完結してはいなかった。
義昭との関係も、この広がりの中で捉えたい。京都を追われた義昭は信長に対抗する勢力への働きかけを続けた。兵庫県立歴史博物館は丹波の国衆の動向を、こうした政治的な連携とあわせて説明している。
一方、連絡を取り合ったことと、同じ戦場で指揮したことは違う。勝頼や義昭が黒井城で軍を率いたという根拠は、今回参照した資料にはない。二人はこの戦いの背景を理解する人物であり、城を囲んだ軍や守備隊の指揮官としては扱わない。
第一次黒井城の戦いで光秀が退いた理由
1575年秋、光秀の進攻を受けた直正は但馬から戻り、黒井城で迎え撃つ態勢を取った。文化庁の解説は10月からの包囲を記し、兵庫県立歴史博物館は11月に包囲が整ったとする。開始月の記述には差があるため、ここでは秋に攻撃が進み、11月には包囲されたという幅で捉える。
光秀は周囲に付城を置いた。付城は敵の城を監視し、補給や出入りを妨げるために設ける陣地である。城の正面から一度に攻め上がるだけでなく、周囲に留まって圧力をかける構えだった。

このとき波多野秀治は光秀に協力していた。八上城の波多野氏と黒井城の直正が、最初から一つの軍として光秀を迎えたのではない。光秀の包囲は現地の国衆の協力を得て成立していた。
翌1576年正月、その前提が崩れる。秀治が赤井・荻野方へ転じ、明智勢を攻撃したのだ。兵庫県立歴史博物館の解説では、ほかの丹波国衆にも離反が広がり、光秀は坂本へ逃れたとされる。
城を囲む側は、外から援軍が来る場合にも備えなければならない。まして、協力していた勢力が攻撃に回れば、それまでの包囲を維持する条件そのものが変わる。黒井城の堅さに加え、味方だった国衆の離反が光秀の退却を決めた。

敗退後の和議と丹波攻略の立て直し
光秀が退いた後、信長と赤井・荻野氏の関係には和議の動きがあった。その手掛かりが兵庫県立歴史博物館所蔵の4月13日付信長朱印状である。宛先は直正ではなく信長方の矢野弥三郎だ。
この文書は赤井・荻野氏の赦免を伝えながら、矢野の所領を保証している。敵対した国衆を許しても、先に信長へ従った者の権利を取り上げるわけではない。新たに和解する相手と、従来の協力者の双方を扱う政治だった。
文書には年が記されていない。同館の文書解説では光秀の添状などとの照合から1576年のものと比定している。年が推定であることは残るが、敗戦の直後から再戦までを、絶え間ない攻城戦として描けない理由になる。

光秀には丹波以外の任務もあった。 1576年の天王寺砦の戦いなど、本願寺との戦線にも動員されている。一度退いたからといって、すべての兵と時間を黒井城への再攻に使えたわけではなかった。
一方、1577年には丹波亀山城の築城を進め、攻略の拠点を整える。亀岡市文化資料館は築城に国衆を動員したことも紹介している。城を築く作業と、地域の協力を集める作業は重なっていた。
第二次黒井城の戦いと1579年の落城
1578年3月、赤井直正が病死した。黒井城の最終的な落城より、1年以上前のことである。直正が最後の籠城で討死したという筋書きにすると、ここで年代が合わなくなる。
光秀は波多野氏の八上城への包囲を進めた。 1579年初夏には秀治兄弟が捕らえられ、安土へ送られる。亀岡市文化資料館は『兼見卿記』の6月1日の記事を挙げ、兄弟が亀山城へ連行されたことを紹介している。その後、兄弟は6月上旬に処刑された。
第一次で光秀の包囲を崩した波多野氏は、今度は黒井城を助ける立場を失った。直正も亡くなっている。同じ山城への攻撃でも、1576年とは周囲の条件が変わっていた。

光秀は宇津氏への攻撃を経て、黒井城へ迫った。丹波市の城跡解説では、直正の子・悪七郎と甥・忠家らが守った城は、1579年8月9日に落ちたとされる。この落城は光秀による丹波攻略の大きな区切りとなった。
守備側の人物については資料の記述に違いもある。文化庁の旧来の解説には、直義を直正の長子とする記述が見える。しかし丹波市が2026年に公表した寄託文書の紹介では、直義は二男で、悪七郎とは別人として整理される。ここでは市の城跡案内に従って悪七郎と忠家らとし、直義と悪七郎を同一人物にはしない。
赤井の呼び込み軍法はどこまで史実なのか
「赤井の呼び込み軍法」は、直正が敵を本拠近くへ引き付けて退けた戦い方を指す。「赤井の呼び込み戦法」とも呼ばれるが、兵庫県立歴史博物館は後世の呼称として説明している。当時の作戦命令書に、この名が記されているという意味ではない。
ここで分けたいのは、起きた出来事と、それをどう説明するかである。光秀が黒井城を囲み、秀治の離反を受けて退いた経過は、地域史の史料解説で確認できる。しかし、それだけで直正と秀治が最初から示し合わせていたとまでは言えない。
事前の密約があったと考えるには、その時期と内容を示す別の根拠が要る。今回確認した資料では、そこまで裏付けることはできなかった。巧妙な誘い込みという説明には魅力があるが、包囲が崩れた結果から、すべてを一つの計略へまとめないようにしたい。
また、二度の戦いの兵数や、各部隊の厳密な位置にも、確かな数字を置けるだけの根拠がそろわない。数万人対数千人という比較や、山のどちら側から挟み撃ちにしたかを、断定的な図にはしていない。本文の画像も戦場の配置を復元したものではなく、山城や陣地の様子を伝える想像図である。
八上城の落城に絡めて、光秀の母が人質となって殺されたという話が語られることもある。山上登志美「八上城落城と本能寺の変」は、同時代史料と後世の軍記を比較してこの問題を扱う。この伝承を黒井城での出来事へ移したり、光秀の行動を説明する確定した動機にしたりすることは避けるべきだろう。
黒井城の場所と落城後に残る遺構
黒井城跡は兵庫県丹波市春日町黒井の猪ノ口山にある。山の標高は356メートル。山頂だけでなく、尾根へ広がる曲輪や堀切も城の一部だった。曲輪は建物や兵を置く平らな区画、堀切は尾根を断って通行を妨げる堀をいう。
いま残る石垣を、すべて直正の時代の姿と考えることはできない。兵庫県立歴史博物館の城郭解説と、丹波市教育委員会の2025年版パンフレットは、山上の石垣を光秀の攻略後の整備と結び付けている。城跡には守った側と、その後に治めた側の仕事が重なっている。

落城後には、光秀の家臣斎藤利三が城代として入ったとされる。麓の興禅寺は下館跡とされ、利三の娘・福、のちの春日局の生誕地としても伝えられている。山上の戦いから麓の暮らしへと、同じ場所に別の歴史が続く。
赤井氏も城を失ったことで子孫まで絶えたわけではない。丹波市が紹介する文書では、直正の二男・直義の系統は藤堂家に仕えた。敗れた一族が、城を持たない形で家を続けたことがわかる。
明智光秀にとって黒井城は、丹波攻略がすぐには進まなかった場所であり、再び地域へ根を下ろして攻め直した場所でもあった。最初の敗退を生んだ国衆の離反、和議、亀山の拠点づくり、直正の死と八上城の陥落。二度の勝敗を並べると、城の高さだけでは決まらない戦国の攻城戦が見えてくる。
両軍の対比
明智光秀
赤井・荻野氏
戦況の経過
その後の世界
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 織田信長朱印状について―戦国の丹波・明智光秀の丹波攻め兵庫県立歴史博物館参照日 2026-11-01
- テーマ解説―この古文書からわかること兵庫県立歴史博物館参照日 2026-11-01
- 第5回 明智光秀VS荻野悪右衛門亀岡市文化資料館参照日 2026-11-01
- 第18回 丹波決戦亀岡市文化資料館参照日 2026-11-01
- 黒井城跡丹波市参照日 2026-11-01
- 黒井城跡文化庁・文化遺産オンライン参照日 2026-11-01
- 黒井城兵庫県立歴史博物館参照日 2026-11-01
- 山上登志美「八上城落城と本能寺の変」『甲南国文』64号、59–67頁甲南女子大学国文学会参照日 2026-11-01
- 国指定史跡 黒井城跡(令和7年6月)丹波市教育委員会参照日 2026-11-01
- 秀吉の時代を生き延びた丹波の赤鬼の子孫たち丹波市参照日 2026-11-01






