
島津豊久|伯父義弘を生かした関ヶ原退き口の殿軍
「御本陣を御立ち候。…殿軍をば豊久仕り候 — 関ヶ原退き口の語りに伝わる」
島津豊久
島津豊久は、釣り野伏せの名手・島津家久を父に持ち、関ヶ原本戦の敗北のなか、伯父・島津義弘を薩摩へ生かすために敵中正面突破「島津の退き口」の殿軍を務め、烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らの追撃と戦って討死した、佐土原城主である。享年三十一。
元亀元年(一五七〇年)、父・家久が串木野城主だったころ、豊久は薩摩国串木野に生まれた。やがて家久が日向佐土原を任されると、豊久も少年期に父とともに佐土原へ移り住む。天正六年(一五七八年)の耳川、そして天正十二年(一五八四年)の沖田畷。十五歳の又七郎は、父・家久の元で沖田畷の初陣を飾り、寡兵で龍造寺隆信を討ち取る父の戦法を間近に見たと伝わる。父の戦才を最も近く受け継いだ若武者として、豊久の名は早くから島津家中に刻まれていく。
天正十五年(一五八七年)六月、豊臣秀吉の九州征伐で島津家が降伏し、講和直後に父・家久が佐土原で急死すると、豊久は数え十八歳で家督相続へ進み、翌年に豊臣政権から所領安堵を受けて約三万石の佐土原領主となった。父亡き後の島津家中で、薩摩本家の伯父・義久と、武威の人・義弘の双方を仰ぎながら、豊臣政権下で自らの立場を引き受ける。文禄・慶長の役では伯父・義弘の元で朝鮮へ渡海し、慶長三年(一五九八年)の泗川の戦いと同じ朝鮮戦域に在陣していた。帰国の翌慶長四年(一五九九年)の庄内の乱にも出兵し、領内の戦いを経験した。父の戦才と伯父の武威。二つの薩摩流を一身に継ぐ若き武将として、豊久は次の戦場へ向かう。
慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原。義弘・豊久ら上方の島津勢一千五百は、伏見入城を拒まれた成り行きから西軍に組み込まれ、本戦では中央付近に陣を据えていた。小早川秀秋の寝返りを機に西軍は崩壊し、島津勢は東軍の海に取り残される。退路を失った義弘・豊久が選んだのは、徳川家康本陣の脇をかすめる敵中正面突破 — 後世「島津の退き口」と呼ばれる、戦国屈指の覚悟の退却だった。
退き口の終盤、豊久は牧田川を越えた烏頭坂で殿軍として踏みとどまり、井伊直政・松平忠吉らの追撃を食い止めて討死した。享年三十一。伯父・義弘はその死を背に薩摩へ生還する。佐土原の若き中務大輔の死は、戦国の終焉を刻む象徴的な一場面として、後世に長く語り継がれていく。その生涯と退き口の細部については、この先の読み解きで層を分けて見ていく。
薩摩串木野に生まれて — 戦上手の父・島津家久の子

元亀元年(一五七〇年)、島津豊久は薩摩国串木野で産声をあげた。父はこのとき串木野城主であった島津家久。釣り野伏せの名手として、後に九州に名を轟かせる戦上手である。三人の伯父は、薩摩本家の当主・島津義久、武威の人・島津義弘、そして三男の島津歳久。父・家久は四兄弟の末弟、しかも側室腹の異母弟という立場だった。後ろ盾の薄い末弟の家に、その長男・嫡男として豊久は生まれたのである。
母は樺山善久の娘と伝わる。樺山氏は薩摩島津氏の有力分家で、代々の島津家を支え続けた家柄である。父・家久の婚姻は、末弟の身を島津家中で確たるものにするための縁組でもあった。豊久は、その血脈の交差点に生まれた家久の嫡男だった。幼名は豊寿丸、後に父と同じ「又七郎」を通称として名乗ることになる。
豊久の生まれたころ、島津氏は薩摩・大隅・日向の三州を統一しつつあった。父・家久は祖父・島津貴久の死後、兄たちと共に九州南半を駆け回り、永禄四年(一五六一年)の廻坂の初陣以来、戦場で身を立てていた。豊久が物心ついたとき、父はすでに「戦上手の家久」として島津家中に名を上げていた。
天正六年(一五七八年)の耳川合戦のあと、まもなく父・家久は日向佐土原を任される。豊久も少年期に薩摩串木野から父とともに日向佐土原へ移り住んだ。日向の海と山に囲まれた佐土原の地で、豊久は戦上手の父を仰ぎながら少年期を過ごす。
戦国屈指の戦術家を父に持ち、薩摩本家の三人の兄を伯父に持つ。島津豊久の物語は、その血脈の重みを一身に受けて始まる。若武者・又七郎 — 父家久の戦場を傍らに

日向佐土原に移った豊久は、父・家久の戦場を間近に見ながら育った。天正六年(一五七八年)、島津勢は耳川の戦いで大友宗麟の大軍を釣り野伏せで撃破する。豊久は数え九歳。父・家久が指揮する戦場の風を、初めて遠目に感じ取った年である。
釣り野伏せ。わざと退いて敵を誘い込み、伏せておいた兵で左右から討つ島津伝来の戦法。豊久は父の傍らで、その戦法がどう組み立てられるのかを少しずつ覚えていった。家中の老臣たちは、若き又七郎の覚えの早さに目を細めたと伝わる。祖父・貴久から父・家久へ、そして又七郎・豊久へ。薩摩流の戦のかたちは、こうして父子の間で受け継がれていく。
佐土原の館では、戦場の話だけが豊久を取り囲んでいたわけではない。家中の記録には、豊久が和歌の素養を備え、ふだんは物静かな性格であったとも伝わる。父・家久の戦才を仰ぎながら、豊久は文と武の両方を身につけて育っていった。
元服して又七郎を名乗り、官途は中書、のちに中務大輔(中書)に進む。父と同じ官途であり、佐土原の若き世継ぎとしての立場が固まっていった。十代半ばを迎えた又七郎は、いつでも父の戦場へ踏み出せる若武者として育っていた。
父家久の戦場を傍らに育った又七郎は、釣り野伏せの記憶を血肉として受け継ぎ、やがて自らの初陣へ踏み出していく。沖田畷の初陣 — 十五歳の又七郎、敵将を討ち取る

天正十二年(一五八四年)三月、肥前島原半島の沖田畷で、島津勢と龍造寺勢の決戦が起きた。総大将は父・島津家久。相手は九州北部に勢力を伸ばす龍造寺隆信、号して肥前の熊である。豊久はこのとき数え十五歳。父・家久の元で、はじめて戦場の最前線に立った。世にいう沖田畷の初陣である。
戦場は、文字どおりの「畷(なわて)」だった。湿地を縫う狭い畦道。家久は得意の釣り野伏せを仕掛け、わずか数千の島津・有馬勢で、二万を超えると伝わる龍造寺の大軍を畷へ誘い込む。先頭で深く食らいついた龍造寺隆信の周りに、伏せていた島津勢が両翼から襲いかかった。父の戦法が、目の前で完成していく光景を、豊久は若き目で見ていた。
この戦で、龍造寺隆信は家久家臣の川上忠堅の手にかかって討死。九州に島津へ単独で抗える大名はいなくなる。一方の豊久も、若武者として戦場の働きを見せ、敵将を一人討ち取ったと薩摩の伝承は伝える。十倍以上ともいわれる大軍を父の采配が打ち砕いていく光景の只中に、十五歳の又七郎はいた。
沖田畷は、家久の戦才を九州全土に轟かせると同時に、嫡男・豊久にとっては「父と共に戦って勝った」原点となる戦場でもあった。龍造寺隆信という大物を父が討った戦場に、自らも立ち会った。そのことの重みは、後の関ヶ原まで豊久を支え続けるはずである。
沖田畷の若武者・又七郎は、父の戦法を身近で受け取り、薩摩流の戦のかたちを未来へ運ぶ器に育っていく。父急死・若き当主 — 佐土原を継ぐ十八歳

沖田畷の勝利から三年後、豊久の運命は一変する。天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉の九州征伐がついに動き、二十万を超える大軍が九州へ押し寄せた。島津勢は各地で押し戻され、最後は薩摩本国まで追い詰められ、五月に当主・島津義久が剃髪して降伏する。
家久は佐土原で豊臣秀長と講和を結んだ。父は薩摩本家の降伏とは別に、佐土原領主として豊臣方と直接和を結ぶ立場に立たされていた。そして、その講和のわずか直後、同年六月五日、家久は佐土原城内で突如世を去る。享年四十一。あまりに時機がよすぎる急死だった。
父の死は、豊久に何の準備も与えなかった。数え十八歳の又七郎は、その日のうちに佐土原の主となる。秀吉政権下に組み込まれた九州で、薩摩本家から半ば独立した佐土原領を、若き嫡男が引き継ぐ形になった。父・家久の戦才と政治的位置を、まるごと一身に背負う重みである。
家督相続後の豊久は、約三万石の豊臣大名として豊臣政権下に組み込まれた。本領安堵の代わりに、島津家は新たな戦場へ駆り出される時代に入っていた。佐土原の若き中務大輔は、父亡き後の島津家中で、薩摩本家の伯父たちと豊臣政権の双方を見つめながら、自分の立ち位置を探さねばならなかった。
父家久の影と、豊臣政権下の島津家中における独自の立場。数え十八歳の豊久は、その二つの重みを同時に受け止め、新たな時代の佐土原領主として歩み出した。朝鮮の役 — 伯父義弘の元で武辺を磨く

文禄元年(一五九二年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まる。島津家からは伯父・島津義弘が薩摩勢を率いて渡海し、豊久も島津家中の一翼として朝鮮の戦野へ足を踏み入れた。父・家久を喪って五年。佐土原領主となった豊久にとって、これは父亡き後の本格的な戦場経験の始まりだった。
朝鮮で豊久が間近に仰いだのは、伯父・島津義弘である。義弘は父・家久と並んで武威の人と謳われた島津四兄弟の次男。後に「鬼島津」と恐れられる、戦場における島津家のもう一人の象徴である。豊久は、父家久の戦才を継ぎつつ、伯父義弘の薫陶を受けるという稀有な経歴を、この朝鮮で重ねていった。
慶長三年(一五九八年)十月、泗川の戦いで島津義弘は寡兵をもって明・朝鮮連合の大軍を撃破する。後世に「島津の三勇」と並び称される鮮やかな勝利である。豊久も慶長の役で同じ朝鮮の戦域に在陣していた。寡兵で大軍を破る薩摩流の戦のかたちを、豊久は朝鮮の野で身近に感じていたといってよい。ただし、豊久本人が泗川本戦に直接参加したかどうかは確証を留保する立場が穏当である。
父・家久から受け継いだ釣り野伏せの記憶と、伯父・義弘の元で重ねた朝鮮の実戦が、豊久の中で一つに溶け合っていった。沖田畷の経験と、慶長の役で見聞きした義弘軍の戦法。寡兵で大軍に挑む薩摩流の戦のかたちは、若き佐土原の中務大輔の血肉となっていった。
慶長三年八月、豊臣秀吉が没する。撤退令が下り、義弘は最後尾の苦しい撤退戦を経て、豊久らを伴って薩摩へ帰国した。
帰国した翌慶長四年(一五九九年)、島津領内で家臣・伊集院忠真が蜂起する。世にいう庄内の乱である。豊久も島津家中の一翼として鎮圧に出兵し、約九か月に及ぶ都城周辺の戦いを経験した。朝鮮の役と庄内の乱。関ヶ原までの最後の数年で、豊久は寡兵で大軍に挑む戦と、領内の戦いの両方を、自らの体で受け止めていた。
父の戦才と伯父の武威。二つの薩摩流を継ぐ若き武将として、豊久は次の関ヶ原へ向かう。関ヶ原本戦 — 西軍に立った島津の一千五百

慶長五年(一六〇〇年)夏、天下は徳川家康と石田三成の対立で大きく揺れていた。伯父・島津義弘は当初、徳川方として伏見城に入る予定で上方へ上っていたが、伏見城将・鳥居元忠に城内入りを拒まれ、行き場を失う。やがて成り行きで西軍の側に組み込まれていった。豊久も伯父に従って上方にあり、ともに西軍の陣に加わる形となった。
島津勢の兵力は、本来動員すべき数からすると圧倒的に少なかった。薩摩本家は西軍参陣に十分な兵を送らず、義弘・豊久ら上方の島津勢はわずか一千五百ほどの寡兵で関ヶ原に立つ。本国の動向と、上方に取り残された島津勢の立場は、最初から大きくちぐはぐだったのである。
九月十五日、関ヶ原本戦。島津勢は西軍の中央付近に陣を据えた。だが島津勢は、西軍の作戦に十全に組み込まれていたとは言い難い。前夜の軍議で義弘の進言が容れられなかったとも伝わり、戦中も島津勢は動かず、敵にも味方にも矛先を向けない位置に踏みとどまっていた。寡兵を温存し、機を待つという、薩摩流の冷静な判断が背景にあったとされる。
正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを機に、西軍は崩れた。大谷吉継が討たれ、宇喜多秀家・石田三成・小西行長らも敗走する。気がつけば、戦場に残った西軍はわずかになり、島津勢一千五百は東軍の海に取り残された。退路を失った島津勢の前には、後方の本多忠勝・松平忠吉・井伊直政の追撃部隊が立ち塞がる位置取りになっていた。
島津勢に残された選択は、降伏か玉砕か、そして第三の道 — 敵中正面突破か。義弘と豊久は、薩摩への帰路を切り拓くために最後の道を選ぶ。烏頭坂の殿軍 — 伯父義弘を薩摩へ生かす死

慶長五年(一六〇〇年)九月十五日午後、関ヶ原本戦の崩壊を見届けた島津義弘は、ついに動いた。後ろへ退かず、東軍の真正面へ突撃する。退却ではなく、突撃のかたちを取った敵中突破。世にいう「島津の退き口」である。豊久も伯父に従い、隊列の前後に分かれて出撃した。
島津勢一千五百は、徳川家康本陣の脇をかすめるように南へ駆け抜けた。家康はとっさに本陣を割らず、追撃を後方の井伊直政・松平忠吉・本多忠勝らに委ねる。だがその追撃は執拗だった。並足の徳川勢が、駆ける島津勢に食らいついて離さない。
島津勢が編み出した戦法は、後に「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれることになる。数人が踏みとどまって追撃を食い止め、本隊を逃がす。倒れたらまた次の一隊が踏みとどまる。命と引き換えに、義弘を薩摩まで生かす — その覚悟の連鎖が、関ヶ原の南へ続いていった。
牧田川を渡り、烏頭坂と呼ばれる細い坂にかかったとき、豊久は追撃の井伊直政・松平忠吉勢を引き受ける位置に立っていた。本隊が遠ざかる時を稼ぐためである。伯父・義弘を薩摩へ生かすという一点だけが、豊久の全身を動かしていた。井伊勢の追撃は鋭く、烏頭坂で深手を負った豊久は、近隣の白拍子谷あたりで果てたとも伝わる。享年三十一。最期の地の細部は薩摩・大垣双方の伝承で表情を変えるが、退き口の南で殿軍として倒れた骨格は揺るがない。
豊久の死を背に、義弘は伊勢・大坂・堺・薩摩へと長い帰路を生き延びる。佐土原の若き中務大輔は、戦国の最後を画する関ヶ原の南で、伯父を生かすために命を使い切った。烏頭坂の地には、今も豊久の墓と「島津豊久之碑」が立ち、薩摩から遠く離れた美濃の山あいで、若き英雄の死を静かに伝えている。
史料の読み解き
ここからは、島津豊久にまつわる話を層ごとに分ける。生涯の骨格としては、元亀元年(一五七〇年)の出生、佐土原での少年期、天正十二年(一五八四年)の沖田畷での十五歳の初陣、天正十五年(一五八七年)の父急死と数え十八歳での家督相続、文禄・慶長の役での渡海、慶長四年(一五九九年)の庄内の乱、そして慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原本戦と「島津の退き口」、烏頭坂での殿軍討死が太い。
一方、その周りには「伯父義弘の身代わりに死んだ」「捨て奸という戦法で敵を食い止めた」「兜と陣羽織を交換して義弘に化けた」といった、分かりやすい物語が重なる。物語を捨てる必要はない。だが、何が動かしにくい骨格で、何が後世に整えられた語りなのかは分けたい。豊久が伯父・義弘を薩摩へ生かすために命を使った事実は本物だが、英雄譚の言葉だけで人物像を決めると、史料の確かさと伝承の彩りが混ざってしまう。
「捨て奸」は当時の戦法だったのか
豊久の名と必ず結びつく言葉に「捨て奸(すてがまり)」がある。本隊の退路に少人数の殿軍を順次置き、追撃の敵を食い止めて全員討たれるまで動かない、という戦法だ。関ヶ原の退き口で、島津勢がこれを繰り返したと伝わる。
ただし、「捨て奸」という言葉そのものは、関ヶ原当時の一次史料に整った戦法名として明記されているわけではない。多くは江戸期以降の薩摩藩内の語りや軍記によって整えられてきた呼び名である。慶長五年九月十五日に島津勢が敵中突破中に殿軍を交替で立てた、という退却戦の実態は確度が高い。だが「捨て奸」という体系化された戦法名は、後から薩摩が与えた美しい命名と読むのが穏当である。
それでも、烏頭坂・牧田川沿いに残る豊久の墓・島津塚・血洗いの池などの史跡群は、退き口の道筋に多くの薩摩兵が倒れた事実を、土地の記憶として今に伝えている。「捨て奸」という名前の真偽は留保しつつ、退き口での殿軍連鎖の実態は確度として残る、と分けて読みたい。
義弘の身代わりに死んだのか
「豊久は兜や陣羽織を義弘と交換し、自らが義弘に見せかけて敵を引きつけ、義弘を逃がした」という身代わり伝説は、薩摩の伝承に根強く残る。父代わりの伯父を生かすために自らを差し出した、という筋立ては、物語として整っている。
しかし、兜や羽織の交換という具体的な所作を確証する同時代の一次史料はとぼしい。多くは江戸期以降の軍記や薩摩藩内の語りに見られるもので、豊久の殿軍討死という骨格に、後世が美しい彩りを加えていった伝承と見るのが妥当である。身代わりという「所作」の確度は中程度だが、義弘を生かすために殿軍として死んだ「役割」の確度は高い。
この二つは分けて読みたい。豊久は確かに、退き口のなかで義弘の生還のために命を使った。具体的な兜の交換があったかどうかは別として、その役割こそが豊久を戦国の英雄譚に押し上げた本筋である。「身代わり」の細部を伝説として楽しみつつ、「伯父を生かすための死」という核を確度として押さえる読み方が、誠実である。
関ヶ原で島津勢はなぜ動かなかったのか
関ヶ原本戦のなかで、島津勢一千五百は、ほとんど戦闘らしい戦闘に加わらないまま陣に踏みとどまっていた。なぜ一千五百を温存し続けたのか。ここには諸説がある。
一つは、前夜の軍議で義弘の進言(夜襲案などとも伝わる)が容れられず、西軍中枢への不信が深まっていたという見方。一つは、薩摩本家から十分な兵を送られなかった義弘・豊久が、寡兵の温存を最優先したという見方。さらに、薩摩流の冷静な「機を待つ」戦術が背景にあったという見方もある。
これらは互いに排他的ではない。軍議の不和・寡兵の事情・薩摩流の判断、いずれもが重なって、関ヶ原の島津勢を「動かぬ戦場の一団」にしていったと読むのが穏当である。その結果、戦が西軍の崩壊に傾いたとき、島津勢は東軍の海に取り残される位置にいた。退き口は、その「動かなかった結果」を引き受けた選択でもある。
父・家久の急死は豊久の運命を変えたか
豊久を読むうえで外せないのが、父・島津家久の急死である。天正十五年(一五八七年)六月五日、九州征伐の講和直後、家久は佐土原で四十一歳の若さで世を去った。豊久は十七歳。準備の整わないままに佐土原領主の地位を引き受けることになった。
父・家久の死については、毒殺説と病死説が江戸時代から語られてきた。講和直後の急死というあまりに整いすぎたタイミングが、毒殺説を生む土壌になった。一方で、確かな一次史料による裏付けはなく、当時から病死として受け止められていた形跡もある。死因は現存史料では確定できない、というのが誠実な結論である。
しかし、死因の確度は別として、父の早すぎる死が豊久の運命を大きく規定したことは間違いない。沖田畷で父と共に戦ってから三年。数え十八歳の又七郎は、父の戦才と政治的位置を、何の準備もないまま一身に背負うことになった。佐土原の若き中務大輔として豊臣政権と向き合い、朝鮮の役で伯父・義弘の元へ身を寄せ、関ヶ原で殿軍として散る。豊久の生涯のすべてが、父・家久の急死を起点にして動いている。
島津豊久像を確度で整理する
豊久を読むときに危ういのは、「捨て奸の殿軍」「義弘の身代わり」という英雄譚の言葉だけで人物像を決めることである。伯父を生かすために命を使った行為は本物だが、後世が強めた評価や、確証のない逸話とは分けて見たい。
| 論点 | 読み方 | 確度 |
|---|---|---|
| 出生地は薩摩国串木野(父家久の串木野城主時代の生まれ) | 『本藩人物誌』等の薩摩家中史料による骨格 | 高 |
| 幼名は豊寿丸、通称が又七郎(父家久と同じ通称) | 薩摩島津家中の記録に基づく整理 | 高 |
| 関ヶ原で敵中正面突破「島津の退き口」が行われた事実 | 慶長5年9月15日午後、義弘・豊久ら島津勢が南へ敵中突破した骨格 | 高 |
| 豊久が退き口の殿軍を務め討死した事実 | 牧田川・烏頭坂の追撃戦で討死した骨格 | 高 |
| 享年三十一・元亀元年生まれ | 一般に流布する生没年だが、生年に諸説の余地はある | 高 |
| 父・家久の急死を受け天正十五年に家督相続 | 天正15年6月5日急死後、数え十八歳で佐土原を継いだ骨格 | 高 |
| 沖田畷(天正12年)で十五歳の初陣・敵将を一人討ち取った伝承 | 父家久の元で初陣を飾った骨格・敵将討ち取りは薩摩の伝承 | 中〜高 |
| 慶長4年(1599)庄内の乱への出兵 | 島津領内の鎮圧に出兵した骨格 | 高 |
| 文禄・慶長の役で伯父義弘の元で渡海 | 朝鮮渡海の事実は史料の裏付けあり | 高 |
| 慶長の役で朝鮮戦域に在陣 | 文禄・慶長の役で島津家中の一員として渡海した骨格 | 高 |
| 慶長3年(1598)泗川本戦への豊久本人の直接参加 | 朝鮮戦域在陣は確実、ただし本戦参加の確証は弱い | 中〜低 |
| 関ヶ原で島津勢が本戦中ほとんど動かなかった | 戦場の動かない位置取りの骨格 | 高 |
| その「動かない」理由(軍議の不和・寡兵温存・薩摩流の判断) | 複数の要因の重ね合わせとして読むのが穏当 | 中 |
| 「捨て奸」という戦法名が当時から使われたか | 戦法名の整理は近世以降の薩摩内の語り由来 | 中〜低 |
| 退き口で殿軍の連鎖が機能した戦闘実態 | 道沿いの史跡群が示す土地の記憶として確度あり | 中〜高 |
| 義弘との兜・陣羽織の交換による「身代わり」 | 江戸期以降の薩摩伝承が中心。具体所作の確証は弱い | 中〜低 |
| 義弘を生かすために殿軍として死んだ「役割」 | 退き口の中で果たした位置取りの骨格 | 高 |
| 父家久の死因(毒殺・病死) | 一次史料での確定不能。病死がより穏当 | 低〜中(毒殺説) |
| 母が樺山善久の娘とする説 | 諸説あり一説に流布する系譜だが断定は留保 | 中 |
| 「父家久と同じ官途・中務大輔を継ぐ」 | 父子で中務大輔の官途を持つ家系の骨格 | 高 |
| 佐土原領主としての豊臣政権下での独自性 | 薩摩本家から半ば独立した佐土原領としての位置 | 中〜高 |
| 烏頭坂・血洗いの池・島津塚など史跡群の信憑 | 江戸期以降の伝承を含むが、土地の記憶として連続 | 中 |
結論を短く言えば、豊久は伯父・島津義弘を薩摩へ生かすために命を使い切った、戦国屈指の殿軍の英雄である。そこは小さくしない。関ヶ原本戦の敗北のなか、寡兵の島津勢を敵中正面突破で薩摩へ帰す道を切り拓くために、若き佐土原領主が烏頭坂で踏みとどまった事実は、確かな骨格として残る。
一方で、「捨て奸」という戦法名を当時から体系化された呼称とすること、兜と陣羽織の交換による身代わりを史実として断定すること、父・家久の死を毒殺と決めつけることは、いずれも史料の確かさを越える。島津豊久は、戦国の終焉を画する関ヶ原の南で、伯父を生かすために命を使った若き英雄であり、その鮮やかな伝説と確度を分けて読むほど、人物像はかえって深く立ち上がってくる。
参戦合戦
島津豊久|伯父義弘を生かした関ヶ原退き口の殿軍の逸話
- 01
島津の退き口 — 「捨て奸」と呼ばれた死の戦法

関ヶ原・島津勢の敵中突破 · AI生成イメージ 関ヶ原本戦の敗北直後、島津義弘・豊久が選んだ敵中正面突破。これを薩摩では「島津の退き口」と呼ぶ。そして、その退き口を支えたとされる戦法が、後世に「捨て奸(すてがまり)」と語られる、死を前提とした殿軍の連鎖である。
仕組みは単純で、しかし苛烈である。本隊が退く道筋に、数人ずつの兵が踏みとどまる。追撃の敵を槍で食い止め、倒されるまで離れない。倒れたら、また次の数人が踏みとどまる。これを坂や橋のたびに繰り返す。退却の道沿いに、薩摩兵の死が点々と置かれていく、という戦法である。
ただし、史料の確かさという軸で見ると、「捨て奸」という言葉自体は近世以降の軍記や薩摩藩内の伝承を通じて広まった呼び名であり、慶長五年当時に体系化された戦法名として一次史料に明記されているわけではない。事実の核は、島津勢が殿軍を交替で立てて敵中を駆け抜けたという退却戦の実態である。「捨て奸」は、その実態に薩摩が後から与えた美しい名前と読むのが穏当である。
それでも、関ヶ原の南に残る豊久の墓・島津塚・血洗いの池などの史跡は、退き口の道筋に多くの薩摩兵が倒れた事実を、土地の記憶として今に伝えている。名前の真偽は別として、関ヶ原の南で島津勢が払った命の値段は、戦国の終わりに刻まれた最も濃い一筋の血である。
- 02
兜と羽織の交換 — 義弘身代わり伝説の射程

兜と陣羽織を交換する伝説 · AI生成イメージ 島津豊久の最期にまつわる逸話のうち、最もよく知られるのが「義弘身代わり」の伝説である。退き口の途中、豊久は伯父・義弘と兜や陣羽織を交換し、自らが「義弘」に見せかけて敵を引きつけ、義弘を逃がして自分が討たれた、という筋立てが薩摩の伝承に残る。
この話は心情としては美しい。父・家久を早くに亡くした豊久にとって、伯父・義弘は父代わりの存在でもあった。その伯父を薩摩本国へ生かすために、自らが「義弘」に化けて死ぬ。血脈の物語として、これほど整った筋立てもない。
ただし、史料の確かさで言えば、兜や羽織を実際に交換したという同時代の一次史料はとぼしい。多くは江戸期以降の軍記や薩摩藩内の語りに見られるもので、豊久の殿軍討死という骨格に、後世が美しい彩りを加えていった伝承と見るのが妥当である。身代わりという具体的な所作は伝説の中で語られた像であり、史料の確証を伴うわけではない。
とはいえ、関ヶ原退き口における豊久の役割が、義弘を生かすための殿軍であったこと自体は動かない。直接の身代わりであろうと、別働で踏みとどまった殿軍の一人であろうと、結果として豊久は義弘の生還のために命を使った。「身代わり」という言葉の確度は中程度に置き、「伯父を生かすための死」という核は高い確度で残る、と分けて読むのが誠実である。
- 03
烏頭坂古戦場 — 二人の中務大輔が眠る土地

烏頭坂古戦場・関ヶ原南方の風景 · AI生成イメージ 関ヶ原本戦の地から南へ、牧田川沿いに山あいへ分け入っていくと、岐阜県大垣市上石津町牧田に、烏頭坂と呼ばれる細い坂がある。慶長五年(一六〇〇年)九月十五日午後、島津豊久が殿軍として井伊直政・松平忠吉らの追撃を食い止め、討死したと伝わる土地である。
薩摩から遠く離れた、美濃の山あいの小さな坂。ここで一人の若き中務大輔が果てたという事実は、長い時を経ても土地の記憶として残った。坂のほとりには「島津豊久之碑」が立ち、近隣には豊久の供養塔と伝わる五輪塔のある瑠璃光寺・島津塚や、退き口の薩摩兵がここで刀の血を洗ったと語り継がれる「血洗いの池」などが点在する。鹿児島県日置市吹上町永吉の天昌寺(永吉島津家菩提寺)にも豊久の墓所が伝わり、佐土原・関ヶ原南・永吉の三地に豊久の記憶は分かれて残っている。
佐土原の領主・島津家久と、その嫡男・島津豊久。父子は同じ「中務大輔」の官途を持ち、共に四十一と三十一という若さで戦国の戦野に散った。沖田畷で龍造寺隆信を破った父家久の戦才と、関ヶ原で伯父義弘を生かすために散った子の死は、十六年の歳月を挟んで、戦国の終わりを刻む二つの極点となった。
烏頭坂の地は、薩摩から遠く離れた美濃の山あいで、二人の中務大輔の物語を静かに引き受け、戦国の終焉を風景として記録し続けている。
関連人物
所縁の地
- 佐土原城跡宮崎県宮崎市佐土原町
島津家久・豊久父子の居城。日向の要衝で、本丸・空堀・二の丸(鶴松館として復元)が残る。父家久が天正15年(1587年)に急死した城であり、豊久が数え十八歳で家督を継いで関ヶ原まで領主を務めた拠点でもある。続日本100名城に選定。
- 烏頭坂古戦場岐阜県大垣市上石津町牧田
慶長5年(1600年)9月15日、関ヶ原本戦の敗北後に島津勢が南へ敵中突破した「島津の退き口」の終盤、豊久が殿軍として井伊直政・松平忠吉らの追撃と戦って討死したと伝わる坂。豊久の墓・供養塔と「島津豊久之碑」が立ち、近隣に血洗いの池・島津塚が点在する。
- 関ヶ原古戦場岐阜県不破郡関ヶ原町
天下分け目の決戦地。豊久は西軍の一翼として伯父・義弘とともに陣を据え、本戦敗北後の敵中突破の起点となった土地である。古戦場一帯には島津義弘陣跡・島津豊久陣跡をはじめとする諸将の陣跡が整備され、退き口の経路を歩いて辿ることができる。
- 瑠璃光寺・島津塚岐阜県大垣市上石津町上多良
島津豊久の供養塔と伝わる五輪塔が立つ寺。烏頭坂で討たれた後、白拍子谷で果てたとも伝わる豊久を、地元住民が長く弔ってきた。薩摩から遠く離れた美濃の地で、敵中突破の殿軍として散った若き中務大輔の墓所として参拝者が訪れる。鹿児島県日置市吹上町永吉の天昌寺(永吉島津家菩提寺)に豊久の墓所が別途あることでも知られ、佐土原・関ヶ原・永吉の三地に豊久の記憶は分かれて伝わる。





