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戦国時代〜安土桃山島津家15701600
島津豊久|伯父義弘を生かした関ヶ原退き口の殿軍の肖像(AI生成イメージ)
AI生成イメージ: 本画像は視覚的補助を目的とした推定復元であり、一次史料の肖像ではありません。 モチーフ参考: 伝・島津豊久像(佐土原・関ヶ原ゆかり)
薩摩日向佐土原
しまづ・とよひさ

島津豊久|伯父義弘を生かした関ヶ原退き口の殿軍

SHIMAZU TOYOHISA · 1570 — 1600 · 享年 31

御本陣を御立ち候。…殿軍をば豊久仕り候 — 関ヶ原退き口の語りに伝わる

島津
生年
元亀元年
1570
没年
慶長5年
1600・享年31
出身
薩摩国串木野
後に日向佐土原へ
役職
中務大輔
佐土原城主
家紋
丸に十字
MARU-NI-JUMONJI

島津豊久

島津豊久は、釣り野伏せの名手・島津家久を父に持ち、関ヶ原本戦の敗北のなか、伯父・島津義弘を薩摩へ生かすために敵中正面突破「島津の退き口」の殿軍を務め、烏頭坂で井伊直政・松平忠吉らの追撃と戦って討死した、佐土原城主である。享年三十一。

元亀元年(一五七〇年)、父・家久が串木野城主だったころ、豊久は薩摩国串木野に生まれた。やがて家久が日向佐土原を任されると、豊久も少年期に父とともに佐土原へ移り住む。天正六年(一五七八年)の耳川、そして天正十二年(一五八四年)の沖田畷。十五歳の又七郎は、父・家久の元で沖田畷の初陣を飾り、寡兵で龍造寺隆信を討ち取る父の戦法を間近に見たと伝わる。父の戦才を最も近く受け継いだ若武者として、豊久の名は早くから島津家中に刻まれていく。

天正十五年(一五八七年)六月、豊臣秀吉の九州征伐で島津家が降伏し、講和直後に父・家久が佐土原で急死すると、豊久は数え十八歳で家督相続へ進み、翌年に豊臣政権から所領安堵を受けて約三万石の佐土原領主となった。父亡き後の島津家中で、薩摩本家の伯父・義久と、武威の人・義弘の双方を仰ぎながら、豊臣政権下で自らの立場を引き受ける。文禄・慶長の役では伯父・義弘の元で朝鮮へ渡海し、慶長三年(一五九八年)の泗川の戦いと同じ朝鮮戦域に在陣していた。帰国の翌慶長四年(一五九九年)の庄内の乱にも出兵し、領内の戦いを経験した。父の戦才と伯父の武威。二つの薩摩流を一身に継ぐ若き武将として、豊久は次の戦場へ向かう。

慶長五年(一六〇〇年)の関ヶ原。義弘・豊久ら上方の島津勢一千五百は、伏見入城を拒まれた成り行きから西軍に組み込まれ、本戦では中央付近に陣を据えていた。小早川秀秋の寝返りを機に西軍は崩壊し、島津勢は東軍の海に取り残される。退路を失った義弘・豊久が選んだのは、徳川家康本陣の脇をかすめる敵中正面突破 — 後世「島津の退き口」と呼ばれる、戦国屈指の覚悟の退却だった。

退き口の終盤、豊久は牧田川を越えた烏頭坂で殿軍として踏みとどまり、井伊直政・松平忠吉らの追撃を食い止めて討死した。享年三十一。伯父・義弘はその死を背に薩摩へ生還する。佐土原の若き中務大輔の死は、戦国の終焉を刻む象徴的な一場面として、後世に長く語り継がれていく。その生涯と退き口の細部については、この先の読み解きで層を分けて見ていく。

01出自ORIGIN

薩摩串木野に生まれて — 戦上手の父・島津家久の子

日向佐土原・島津家久の嫡男として生まれる(AI生成イメージ)
日向佐土原・島津家久の嫡男として生まれる · AI生成イメージ

元亀元年(一五七〇年)、島津豊久は薩摩国串木野で産声をあげた。父はこのとき串木野城主であった島津家久。釣り野伏せの名手として、後に九州に名を轟かせる戦上手である。三人の伯父は、薩摩本家の当主・島津義久、武威の人・島津義弘、そして三男の島津歳久。父・家久は四兄弟の末弟、しかも側室腹の異母弟という立場だった。後ろ盾の薄い末弟の家に、その長男・嫡男として豊久は生まれたのである。

母は樺山善久の娘と伝わる。樺山氏は薩摩島津氏の有力分家で、代々の島津家を支え続けた家柄である。父・家久の婚姻は、末弟の身を島津家中で確たるものにするための縁組でもあった。豊久は、その血脈の交差点に生まれた家久の嫡男だった。幼名は豊寿丸、後に父と同じ「又七郎」を通称として名乗ることになる。

豊久の生まれたころ、島津氏は薩摩・大隅・日向の三州を統一しつつあった。父・家久は祖父・島津貴久の死後、兄たちと共に九州南半を駆け回り、永禄四年(一五六一年)の廻坂の初陣以来、戦場で身を立てていた。豊久が物心ついたとき、父はすでに「戦上手の家久」として島津家中に名を上げていた。

天正六年(一五七八年)の耳川合戦のあと、まもなく父・家久は日向佐土原を任される。豊久も少年期に薩摩串木野から父とともに日向佐土原へ移り住んだ。日向の海と山に囲まれた佐土原の地で、豊久は戦上手の父を仰ぎながら少年期を過ごす。

戦国屈指の戦術家を父に持ち、薩摩本家の三人の兄を伯父に持つ。島津豊久の物語は、その血脈の重みを一身に受けて始まる。
02元服COMING OF AGE

若武者・又七郎 — 父家久の戦場を傍らに

元服した若武者・又七郎(AI生成イメージ)
元服した若武者・又七郎 · AI生成イメージ

日向佐土原に移った豊久は、父・家久の戦場を間近に見ながら育った。天正六年(一五七八年)、島津勢は耳川の戦いで大友宗麟の大軍を釣り野伏せで撃破する。豊久は数え九歳。父・家久が指揮する戦場の風を、初めて遠目に感じ取った年である。

釣り野伏せ。わざと退いて敵を誘い込み、伏せておいた兵で左右から討つ島津伝来の戦法。豊久は父の傍らで、その戦法がどう組み立てられるのかを少しずつ覚えていった。家中の老臣たちは、若き又七郎の覚えの早さに目を細めたと伝わる。祖父・貴久から父・家久へ、そして又七郎・豊久へ。薩摩流の戦のかたちは、こうして父子の間で受け継がれていく。

佐土原の館では、戦場の話だけが豊久を取り囲んでいたわけではない。家中の記録には、豊久が和歌の素養を備え、ふだんは物静かな性格であったとも伝わる。父・家久の戦才を仰ぎながら、豊久は文と武の両方を身につけて育っていった。

元服して又七郎を名乗り、官途は中書、のちに中務大輔(中書)に進む。父と同じ官途であり、佐土原の若き世継ぎとしての立場が固まっていった。十代半ばを迎えた又七郎は、いつでも父の戦場へ踏み出せる若武者として育っていた。

父家久の戦場を傍らに育った又七郎は、釣り野伏せの記憶を血肉として受け継ぎ、やがて自らの初陣へ踏み出していく。
03沖田畷OKITANAWATE

沖田畷の初陣 — 十五歳の又七郎、敵将を討ち取る

沖田畷の初陣・十五歳の又七郎(AI生成イメージ)
沖田畷の初陣・十五歳の又七郎 · AI生成イメージ

天正十二年(一五八四年)三月、肥前島原半島の沖田畷で、島津勢と龍造寺勢の決戦が起きた。総大将は父・島津家久。相手は九州北部に勢力を伸ばす龍造寺隆信、号して肥前の熊である。豊久はこのとき数え十五歳。父・家久の元で、はじめて戦場の最前線に立った。世にいう沖田畷の初陣である。

戦場は、文字どおりの「畷(なわて)」だった。湿地を縫う狭い畦道。家久は得意の釣り野伏せを仕掛け、わずか数千の島津・有馬勢で、二万を超えると伝わる龍造寺の大軍を畷へ誘い込む。先頭で深く食らいついた龍造寺隆信の周りに、伏せていた島津勢が両翼から襲いかかった。父の戦法が、目の前で完成していく光景を、豊久は若き目で見ていた。

この戦で、龍造寺隆信は家久家臣の川上忠堅の手にかかって討死。九州に島津へ単独で抗える大名はいなくなる。一方の豊久も、若武者として戦場の働きを見せ、敵将を一人討ち取ったと薩摩の伝承は伝える。十倍以上ともいわれる大軍を父の采配が打ち砕いていく光景の只中に、十五歳の又七郎はいた。

沖田畷は、家久の戦才を九州全土に轟かせると同時に、嫡男・豊久にとっては「父と共に戦って勝った」原点となる戦場でもあった。龍造寺隆信という大物を父が討った戦場に、自らも立ち会った。そのことの重みは、後の関ヶ原まで豊久を支え続けるはずである。

沖田畷の若武者・又七郎は、父の戦法を身近で受け取り、薩摩流の戦のかたちを未来へ運ぶ器に育っていく。
04家督INHERITANCE

父急死・若き当主 — 佐土原を継ぐ十八歳

父家久の急死を受け佐土原を継ぐ豊久(AI生成イメージ)
父家久の急死を受け佐土原を継ぐ豊久 · AI生成イメージ

沖田畷の勝利から三年後、豊久の運命は一変する。天正十五年(一五八七年)、豊臣秀吉の九州征伐がついに動き、二十万を超える大軍が九州へ押し寄せた。島津勢は各地で押し戻され、最後は薩摩本国まで追い詰められ、五月に当主・島津義久が剃髪して降伏する。

家久は佐土原で豊臣秀長と講和を結んだ。父は薩摩本家の降伏とは別に、佐土原領主として豊臣方と直接和を結ぶ立場に立たされていた。そして、その講和のわずか直後、同年六月五日、家久は佐土原城内で突如世を去る。享年四十一。あまりに時機がよすぎる急死だった。

父の死は、豊久に何の準備も与えなかった。数え十八歳の又七郎は、その日のうちに佐土原の主となる。秀吉政権下に組み込まれた九州で、薩摩本家から半ば独立した佐土原領を、若き嫡男が引き継ぐ形になった。父・家久の戦才と政治的位置を、まるごと一身に背負う重みである。

家督相続後の豊久は、約三万石の豊臣大名として豊臣政権下に組み込まれた。本領安堵の代わりに、島津家は新たな戦場へ駆り出される時代に入っていた。佐土原の若き中務大輔は、父亡き後の島津家中で、薩摩本家の伯父たちと豊臣政権の双方を見つめながら、自分の立ち位置を探さねばならなかった。

父家久の影と、豊臣政権下の島津家中における独自の立場。数え十八歳の豊久は、その二つの重みを同時に受け止め、新たな時代の佐土原領主として歩み出した。
05朝鮮CONTINENTAL CAMPAIGN

朝鮮の役 — 伯父義弘の元で武辺を磨く

文禄・慶長の役・義弘軍の中の豊久(AI生成イメージ)
文禄・慶長の役・義弘軍の中の豊久 · AI生成イメージ

文禄元年(一五九二年)、豊臣秀吉の朝鮮出兵が始まる。島津家からは伯父・島津義弘が薩摩勢を率いて渡海し、豊久も島津家中の一翼として朝鮮の戦野へ足を踏み入れた。父・家久を喪って五年。佐土原領主となった豊久にとって、これは父亡き後の本格的な戦場経験の始まりだった。

朝鮮で豊久が間近に仰いだのは、伯父・島津義弘である。義弘は父・家久と並んで武威の人と謳われた島津四兄弟の次男。後に「鬼島津」と恐れられる、戦場における島津家のもう一人の象徴である。豊久は、父家久の戦才を継ぎつつ、伯父義弘の薫陶を受けるという稀有な経歴を、この朝鮮で重ねていった。

慶長三年(一五九八年)十月、泗川の戦いで島津義弘は寡兵をもって明・朝鮮連合の大軍を撃破する。後世に「島津の三勇」と並び称される鮮やかな勝利である。豊久も慶長の役で同じ朝鮮の戦域に在陣していた。寡兵で大軍を破る薩摩流の戦のかたちを、豊久は朝鮮の野で身近に感じていたといってよい。ただし、豊久本人が泗川本戦に直接参加したかどうかは確証を留保する立場が穏当である。

父・家久から受け継いだ釣り野伏せの記憶と、伯父・義弘の元で重ねた朝鮮の実戦が、豊久の中で一つに溶け合っていった。沖田畷の経験と、慶長の役で見聞きした義弘軍の戦法。寡兵で大軍に挑む薩摩流の戦のかたちは、若き佐土原の中務大輔の血肉となっていった。

慶長三年八月、豊臣秀吉が没する。撤退令が下り、義弘は最後尾の苦しい撤退戦を経て、豊久らを伴って薩摩へ帰国した。

帰国した翌慶長四年(一五九九年)、島津領内で家臣・伊集院忠真が蜂起する。世にいう庄内の乱である。豊久も島津家中の一翼として鎮圧に出兵し、約九か月に及ぶ都城周辺の戦いを経験した。朝鮮の役と庄内の乱。関ヶ原までの最後の数年で、豊久は寡兵で大軍に挑む戦と、領内の戦いの両方を、自らの体で受け止めていた。

父の戦才と伯父の武威。二つの薩摩流を継ぐ若き武将として、豊久は次の関ヶ原へ向かう。
06関ヶ原SEKIGAHARA

関ヶ原本戦 — 西軍に立った島津の一千五百

関ヶ原本戦・島津勢の中央に立つ豊久(AI生成イメージ)
関ヶ原本戦・島津勢の中央に立つ豊久 · AI生成イメージ

慶長五年(一六〇〇年)夏、天下は徳川家康石田三成の対立で大きく揺れていた。伯父・島津義弘は当初、徳川方として伏見城に入る予定で上方へ上っていたが、伏見城将・鳥居元忠に城内入りを拒まれ、行き場を失う。やがて成り行きで西軍の側に組み込まれていった。豊久も伯父に従って上方にあり、ともに西軍の陣に加わる形となった。

島津勢の兵力は、本来動員すべき数からすると圧倒的に少なかった。薩摩本家は西軍参陣に十分な兵を送らず、義弘・豊久ら上方の島津勢はわずか一千五百ほどの寡兵で関ヶ原に立つ。本国の動向と、上方に取り残された島津勢の立場は、最初から大きくちぐはぐだったのである。

九月十五日、関ヶ原本戦。島津勢は西軍の中央付近に陣を据えた。だが島津勢は、西軍の作戦に十全に組み込まれていたとは言い難い。前夜の軍議で義弘の進言が容れられなかったとも伝わり、戦中も島津勢は動かず、敵にも味方にも矛先を向けない位置に踏みとどまっていた。寡兵を温存し、機を待つという、薩摩流の冷静な判断が背景にあったとされる。

正午過ぎ、小早川秀秋の寝返りを機に、西軍は崩れた。大谷吉継が討たれ、宇喜多秀家・石田三成・小西行長らも敗走する。気がつけば、戦場に残った西軍はわずかになり、島津勢一千五百は東軍の海に取り残された。退路を失った島津勢の前には、後方の本多忠勝・松平忠吉・井伊直政の追撃部隊が立ち塞がる位置取りになっていた。

島津勢に残された選択は、降伏か玉砕か、そして第三の道 — 敵中正面突破か。義弘と豊久は、薩摩への帰路を切り拓くために最後の道を選ぶ。
07退き口WITHDRAWAL

烏頭坂の殿軍 — 伯父義弘を薩摩へ生かす死

烏頭坂・殿軍を務める豊久(AI生成イメージ)
烏頭坂・殿軍を務める豊久 · AI生成イメージ

慶長五年(一六〇〇年)九月十五日午後、関ヶ原本戦の崩壊を見届けた島津義弘は、ついに動いた。後ろへ退かず、東軍の真正面へ突撃する。退却ではなく、突撃のかたちを取った敵中突破。世にいう「島津の退き口」である。豊久も伯父に従い、隊列の前後に分かれて出撃した。

島津勢一千五百は、徳川家康本陣の脇をかすめるように南へ駆け抜けた。家康はとっさに本陣を割らず、追撃を後方の井伊直政・松平忠吉・本多忠勝らに委ねる。だがその追撃は執拗だった。並足の徳川勢が、駆ける島津勢に食らいついて離さない。

島津勢が編み出した戦法は、後に「捨て奸(すてがまり)」と呼ばれることになる。数人が踏みとどまって追撃を食い止め、本隊を逃がす。倒れたらまた次の一隊が踏みとどまる。命と引き換えに、義弘を薩摩まで生かす — その覚悟の連鎖が、関ヶ原の南へ続いていった。

牧田川を渡り、烏頭坂と呼ばれる細い坂にかかったとき、豊久は追撃の井伊直政・松平忠吉勢を引き受ける位置に立っていた。本隊が遠ざかる時を稼ぐためである。伯父・義弘を薩摩へ生かすという一点だけが、豊久の全身を動かしていた。井伊勢の追撃は鋭く、烏頭坂で深手を負った豊久は、近隣の白拍子谷あたりで果てたとも伝わる。享年三十一。最期の地の細部は薩摩・大垣双方の伝承で表情を変えるが、退き口の南で殿軍として倒れた骨格は揺るがない。

豊久の死を背に、義弘は伊勢・大坂・堺・薩摩へと長い帰路を生き延びる。佐土原の若き中務大輔は、戦国の最後を画する関ヶ原の南で、伯父を生かすために命を使い切った。烏頭坂の地には、今も豊久の墓と「島津豊久之碑」が立ち、薩摩から遠く離れた美濃の山あいで、若き英雄の死を静かに伝えている。

執筆: 戦国ジャーナル編集部

最終更新: 2026-06-23

本記事は一次史料・研究書にもとづき編集部が事実確認・校閲しています(制作には生成AIの支援を含みます)。詳しくは 編集方針 をご覧ください。

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