とだ・しげまさ
富田重政名人越後と呼ばれ、前田三代の軍を支えた剣豪

- 生年
- 1564年説1554年説もあり、確定しない
- 没年
- 寛永2年1625年・享年には異説
- 主家
- 前田三代利家・利長・利常に奉公
- 知行
- 1万3千石余細かな石高は資料により異なる
富田重政は、富田流の継承者であり、前田利家・利長・利常に仕えた武士である。 名人越後という呼び名に加え、一万三千石余の知行を得た剣術家として知られる。 ただし、その経歴は剣を教える仕事だけでは収まらない。 城への救援、攻城戦、輸送隊の指揮、大坂への出陣と、前田家の軍事行動に長く関わっていた。
重政の姿を知るには、剣術の系譜と合戦の記録、金沢に残る文化財を行き来するのがよい。 それぞれの資料が語る事柄は同じではない。 戦場で何を担い、後世には何が語られ、いま何が残っているのか。 その違いを確かめると、名人という評判の向こうに、一人の家臣の生涯が見えてくる。
剣を学び、その家を継ぐ

富田重政は、一万三千石余を領する前田家の家臣となった剣術家である。通称の越後守と剣の評判が結びつき、「名人越後」の名で知られる。しかし、その生涯をたどると、稽古場だけで名を成した人物ではなかったことが分かる。城を救う戦いに加わり、軍の荷を守り、老境にも大坂へ出陣している。
出発点は越前の山崎家だった。金沢市の石造物解説では、朝倉家に仕えた山崎家から、富田家へ婿入りしたとされる。養父であり剣の師でもあったのが、富田景政である。重政は景政から富田流を学び、やがてその伝統を引き継いだ。『日本大百科全書』の「富田流」も、山崎与六郎が景政の婿となり、重政を名乗ったという道筋を記している。
ここで受け継いだものは、剣の技だけではない。婿養子として家に入る以上、重政は富田という家名も背負う。剣術家としての力量と、武家の当主としての立場が、一人の身に重なることになった。後年の働きを読むときも、この二つを切り離すと姿を見失いやすい。
生年には差がある。金沢市と石川県立図書館の人物情報は永禄七年(1564年)を採る一方、辞典に見える没年齢からは天文二十三年(1554年)となる。若いころの出来事に年齢を添える際には注意が要るが、景政の教えを受け、前田家で軍務を重ねたという経歴の骨格は変わらない。
重政の剣名を支えた富田流は、越前に伝わった中条流の系統に位置づけられる。名のある流儀を受け継いだことは、前田家に奉公する重政の一面だった。もう一面は、戦場で同僚とともに役目を果たす武士である。早くも天正十二年(1584年)、その名が末森救援の記録に現れる。
包囲された城へ、利家の軍が進む

天正十二年(1584年)、能登の末森城が佐々成政の軍に包囲された。城を守る奥村永福らにとって、援軍が届くかどうかが生死にかかわる。前田利家は金沢から救援へ向かい、利長も合流した。重政はこの前田方の軍にいた。
『石川県史』は、救援の途中で攻撃目標をめぐる意見があったことを記す。敵の本営を突こうとする案に対し、利家が優先したのは末森城への到達だった。攻め手を打ち破ることと、籠城する味方を救うことは、同じように見えて進む先が違う。県史の叙述は、救援軍の行動が城を目標に定められていく様子を伝えている。
利家と利長の本隊が城の後方へ進むと、佐々方は鉄砲を集めて防いだ。そこで戦った者として、県史は篠原一孝らとともに富田六左衛門重政の名を挙げる。城内の兵も呼応して外へ出て戦い、利家は城に入ることができた。救援は、外の軍が道を開き、内の兵がそれに応じたことで実を結んだ。
この場面の重政は、一人で敵を引き受ける剣豪として描かれてはいない。名を連ねる複数の家臣とともに、城へ迫る軍の一員として戦っている。末森で残ったのは、危機にある味方へ届くために働いた武士の名だった。剣術の伝承からいったん離れ、合戦の経過のなかに重政を置くと、その奉公の具体像が見えてくる。
前田家の城を救う戦いを経た重政は、その後、利家の軍とともに北陸の外へ出る。次に県史が戦功を記す舞台は、豊臣秀吉による小田原戦役の八王子城だった。
北陸の軍が関東の山城に迫る

天正十八年(1590年)、前田利家・利長の軍は、秀吉の小田原攻めに加わった。北条氏直を当主とする北条方に対し、前田軍は上杉景勝らと連携して進む。『石川県史』は、松井田、松山、鉢形を経て、八王子へ至る攻撃の経過を記している。
八王子城は北条氏照の城だったが、氏照本人は小田原にいた。現地では横地吉信、中山家範、狩野一庵らが、それぞれの持ち場を守っていたという。城主の名と、実際に城内で指揮した武士の名を分けておくと、この戦いの相手が具体的になる。現地で重政と対峙したのは、城に残った守備の軍だった。
県史の叙述では、攻撃側は複数の口から城へ迫った。上杉勢と前田勢は進む方向を分け、前田方では山崎長徳、長連龍、奥村永福らが攻撃を進める。守備側も各所で抵抗し、中山家範は最後まで戦ったとされる。山城の一か所を破ればすべてが終わるという戦いではなく、いくつもの守備地点をめぐる攻防だった。
この戦いについて、県史は村井長次、篠原一孝らと並べ、重政を戦功のあった家臣として挙げている。一方、重政がどの門へ最初に入り、誰と刃を交えたかまでは、その記述から決められない。ここで確かめられるのは、前田軍の攻城戦に加わり、その働きが後の編纂史に記されたことだ。
同じ県史には、前田方にも大きな損害が出たことが記される。重政の戦功だけを取り出すと、勝利へ一直線に進んだように見えるが、その周囲では同僚や兵が倒れていた。攻め手の名誉と、攻城戦の損害は、ともにこの戦いの一部である。
敵が狙ったのは、本隊の後ろの荷だった

慶長五年(1600年)、前田利長の軍は北陸で戦った。小松城の丹羽長重、大聖寺城の山口宗永らとの対立である。関ヶ原という一つの地名に目が向きがちな年だが、重政の働きが記される場所は加賀だった。
『石川県史』によれば、利長の軍は小松をめぐる対立のなかで南へ進んだ。旧暦八月一日、木場潟の東を通る前田軍に対し、丹羽方の兵が動く。攻撃側は本隊が通り過ぎたあとを見定め、後続する輜重隊を狙った。輜重とは、軍の食糧や道具などを運ぶ荷のことである。
その輜重隊の指揮官が重政だった。県史は、横山長知、山崎長徳らの援助を得て攻撃を退けたと記す。剣の名人という呼び名からは想像しにくい役目かもしれないが、ここで重政が守っていたのは軍を動かし続けるための荷だった。兵が先へ進んでも、後ろの輸送が破られれば、その先の行動が難しくなる。
攻撃をしのいだ後、前田方には敵を追おうとする動きがあった。しかし県史では、利長がそれを止め、軍はさらに先へ進んだとされる。目の前の敵を追い払うことと、予定した進軍を続けることは別の判断だった。重政の防戦は、軍全体の進路のなかで位置づけられている。
この八月一日の衝突を、帰路に起きた浅井畷の戦いとひとまとめにすると、重政の役目が曖昧になる。県史がここで示すのは、南へ進む途中の輸送隊への攻撃である。いつ、どちらへ移動していた軍の、どの部分を指揮したのか。それを確かめることで、剣術家の軍歴がひとつ具体的になる。
末森では城へ届く軍のなかにいた。八王子では城を攻める軍にいた。そして北陸では、荷を運ぶ部隊を率いている。重政の奉公には、前へ出て戦う場面と、軍の移動を支える場面の両方があった。一対一の剣技だけでは、この仕事の広さを説明できない。
三代の主君に仕えた富田家

重政の奉公は、利家一代で終わらなかった。利長、さらに利常へと前田家の当主が替わっても、その軍務を担っている。金沢市の墓所解説も、利家から三代に仕えた家臣として重政を紹介する。ひとつの合戦の勝利だけでなく、主君が替わった後にも続く働きが、その経歴を形づくった。
剣術家としては、景政から受け継いだ富田流の名がある。家臣としては、一万三千石余の知行がある。この二つが並ぶため、重政はしばしば大きな禄を得た剣豪として語られる。しかし軍歴に目を戻すと、彼は剣術を教えるだけの立場には収まらない。末森、八王子、北陸の戦役に名を残し、さらに大坂へ向かう武士だった。
『石川県史』は、金沢城内に屋敷を置いた重臣を挙げるくだりで、重政の住まいにも触れている。越後第の地に富田重政がいた、という記述である。村井長頼らの屋敷とともに、藩政初期の城内の使われ方を説明する材料になっている。
同書はその後、重臣の屋敷が城下の要所へ配置されていく変化を論じる。重政の越後第も、城と家臣の住まいの関係を考える手掛かりになる。剣を振るう身体から少し視野を広げると、屋敷を持ち、家を率い、主家の軍に参加する重臣としての姿が浮かぶ。
名人という呼び名は、重政の剣の評判を伝える。一方、軍の荷を守った記録や城内の屋敷は、前田家における実際の立場を伝える。それぞれが違う面を照らしており、どちらか一方で他方を説明し尽くすことはできない。重政はその両方を持ったまま、利常の時代の大きな戦役を迎える。
真田丸の苦戦から、翌年の岡山口へ

慶長十九年(1614年)、前田利常は大坂へ出陣した。『石川県史』がその軍に加わった将として挙げるなかに、重政の名もある。若年のころから前田家の戦いを重ねてきた武士が、今度は徳川方の大軍の一部として、大坂城へ向かったのである。
冬の陣では、前田勢は真田信繁、後世に幸村の名で知られる武将が守る真田丸の攻防に巻き込まれた。県史は、先を争った部隊が敵陣へ近づき、射撃を受けて退くことも難しくなる様子を記す。後続の兵が前へ出るほど、先頭の兵は引き返せなくなる。軍の人数が多いことが、そのまま自由に動けることにはつながらなかった。
この場面で県史に登場するのが、重政の配下とされる小幡景憲である。傷を受けた味方を背負って退いたという叙述がある。ただし、それを重政本人の武勇談へ置き換えることはできない。重政の隊に関わる記録と、本人の行動の記録は分けて読む必要がある。
冬の陣はいったん和議となったが、翌慶長二十年(1615年)には再び戦いが起こる。夏の陣の県史の記事では、本多政重、横山長知、長連龍、山崎長徳らと並んで、重政の隊も前田軍の攻撃に参加している。冬の苦戦を経た軍が、再び大坂方と向き合った。
岡山口では大野治房が大坂方の陣を構え、大野治長らは後軍にいた。前田勢はこの方面で戦い、城へ向かって進んだと県史は記す。重政も、この攻撃を担った隊の一つを率いていた。
大坂の戦いは、名人であっても大軍の動きから離れて戦えないことを示している。退却路の詰まり、部隊ごとの進退、負傷者の救助。県史に残るのは、華やかな剣の勝負よりも、軍がぶつかることで起きた混乱だった。そのなかに、末森以来の古参である重政と、その隊の足跡がある。
刀の評判と、石に残った富田家

寛永二年(1625年)、重政は世を去った。没年は辞典と金沢の文化財解説で一致するが、享年には六十二歳と七十二歳の差がある。最期の年齢を一つに決めることはできない。それでも、前田家の三代にまたがる奉公を終えた人物をしのぶ場所は、金沢に残っている。
慈雲寺の富田家石廟群である。金沢市は、重政やその家族の石廟を文化財として紹介している。剣術の伝承を知らずに訪れても、屋根を備えた石の造りが目を引く。土台の上に名だけを刻んだ墓標とは異なる姿が、富田家の記憶を今に伝えている。
市の解説によれば、石材は越前の笏谷石で、緑色の凝灰岩である。石廟の形や彩色の痕跡も、調査の対象となっている。重政個人の顔や声は分からなくても、家族が残した墓の材料や加工は観察できる。人物の伝記が、目で確かめられる物に接する場所だ。
富田の剣は、重政一代で記憶から消えたわけではない。辞典や墓所解説は、子の重康にも触れている。ただし、息子たちの名や通称には混同しやすい箇所があり、一つの逸話を父と子のどちらの話とするかも、出典ごとに確認しなければならない。名人の家という評判が続いたからこそ、個人ごとの経歴を丁寧に分ける必要がある。
重政の生涯を振り返ると、流儀を継ぐこと、主君に仕えること、軍を率いることが並んでいる。末森の救援も、北陸の輸送隊も、大坂の陣も、前田家の家臣として果たした仕事だった。剣豪という名は、その働きを知る入口になるが、軍務のすべてを言い表すものではない。
慈雲寺の石廟の前では、剣の巧拙を比べる話から少し離れられる。そこに残っているのは、ある時代に地位を得て、家を営み、家族とともに記憶された武士の痕跡である。名人越後の評判と、この石の遺構。その両方から、富田重政という人物をたどることができる。
史料の読み解き
重政について分かることは、資料の種類によって厚みが違う。 剣術の辞典は流儀の継承を説明し、県史は前田軍の動きを追い、文化財の解説は墓の形や材質を扱う。 これらを一つの物語にまとめるとき、すべてが同じ強さの証拠であるかのようには扱えない。 伝記の面白さは、空白を想像で埋めることより、別々の記録がどこでつながるかを見つけることにある。
「名人」と大きな知行を、どう結びつけるか
重政の紹介で目を引くのが、一万三千石余という数字だ。 剣術家の経歴として読むと、剣を教えるだけでそれほどの禄を得たのか、と驚くかもしれない。 しかし、ここで問うべきなのは、どの仕事に対してどれだけの評価が与えられたと確認できるかである。
今回参照した資料は、剣術指導の報酬だけを他の奉公から切り離して示してはいない。 一方で、県史には末森と八王子の戦功、北陸での輜重隊指揮、大坂両陣への参加が記される。 つまり重政には、軍を率いる家臣としての経歴がある。 大きな知行を説明する際にも、その軍務を外したまま剣の技量だけへ還元することはできない。
数字そのものにも表記差がある。 『日本大百科全書』は一万三千石余、金沢市の石造物マップは一万三千七百石、石廟群の解説ページは一万三千六百石とする。 これらの違いが、知行の時期や集計範囲によるのか、伝記の伝わり方によるのかは、今回の確認だけでは決められなかった。 そのため本稿では、本文の基本表現を一万三千石余とした。 細かな数字を選んで印象を強めるより、確認できる幅を示した方が、重政の地位を誤って伝えずに済む。
他流の剣術家と石高を並べ、重政を最強と決めることにも慎重でありたい。 禄の数字だけでは、奉公した時期、主家での立場、軍役、家の継承条件がそろわないからだ。 重政の力量を考えるなら、まず本人について残る仕事を読むべきだろう。 剣を継いだことと、軍の一部を任されたことは、どちらもそのための材料になる。
輜重隊の記録は、剣豪像の何を変えるか
慶長五年の北陸戦役は、重政を見る角度を変える。 『石川県史』の記述では、敵は前田軍の本隊が通った後に、輸送の列を狙っている。 重政はそこで守る側の指揮を執り、横山長知や山崎長徳らの助けを受けて攻撃を退けた。 記録の中心にあるのは、一人で勝ち抜く剣士ではなく、複数の部隊が支え合う行動である。
輸送の役目を後方の安全な仕事と決めつけることも、この場面には合わない。 前を行く本隊と荷を運ぶ隊が離れれば、その間を敵が狙うことがある。 荷を守る者には、進軍に遅れず、敵の攻撃を受け止め、味方の援助とつながる必要が生じる。 県史が描く重政の働きは、この連携のなかに置かれている。
もっとも、これだけで重政を兵站の専門家と呼ぶのも行き過ぎだ。 確認できるのは、この戦役のこの局面で輜重隊を指揮したという記述であって、生涯を通じた職掌のすべてではない。 戦功の列挙を見て剣一辺倒の人物にすることも、一度の輸送隊指揮から専門職の人物にすることも、記録を狭い型へ押し込めてしまう。
末森では救援、八王子では攻城、北陸では輸送隊の防御という違いを残して読む方が、重政の仕事は具体的になる。 大坂冬の陣のように、隊の進退がうまくいかず損害を受ける戦いもあった。 勝った場面だけを連ねるより、軍のなかで何が求められ、どこに困難があったかを追う方が、長い奉公の実際へ近づける。
県史が描く勝利と、読者が想像しやすい剣の勝負
『石川県史』第二編は昭和三年(1928年)の編纂物であり、重政が生きた時代そのものの記録ではない。 古い文書や覚書を引用しながら、前田家の歴史を一つの流れとして記述している。 編者による説明と、出典を明示した引用とは、分けて読む必要がある。
例えば末森の記述は、利家の救援の決断、諸将の役割、城兵の呼応を結びつけている。 重政はそのなかに名を記される一人だ。 これを短く要約するとき、名人という評判を先に知っている読者は、重政が一人で包囲を破った場面を思い浮かべやすい。 しかし、そのような単独の活躍まで県史が書いているわけではない。
八王子城の戦功についても、誰がどの曲輪を攻めたかという軍全体の説明と、戦功のある家臣の名前の列挙がある。 両者を機械的につなぎ、列挙された重政が特定の守将を討った、とすることはできない。 大坂の陣で記される全軍の戦果を、重政個人が挙げた数へ読み替えることも同様である。 古い軍記や編纂史の数字には、その集計の範囲を確かめる作業が欠かせない。
一方、細部まで分からないからといって、軍歴の記述をすべて無意味とする必要もない。 重政がどの主君の軍で、どの戦役に現れ、何を担ったと記されるかは検討できる。 本稿では、その範囲を文章の主語に合わせた。 重政本人の行動、重政の隊の行動、前田軍全体の行動を分けるだけでも、剣豪の評判が史料の空白を埋めてしまうのを防げる。
十年違う生年を、そのまま残す理由
永禄七年(1564年)生まれと天文二十三年(1554年)生まれでは、生涯の各場面で十年の差が生じる。 末森の戦いを若者の初々しい働きとして描くか、すでに経験を積んだ武士の働きとして描くかも変わりうる。 生年の選択は、小さなプロフィールの違いだけでは済まない。
金沢市の石造物マップは、重政を1564年生まれ、1625年に六十二歳で没した人物としている。 石川県立図書館の人物情報も同じ生年を採る。 これに対し、『日本大百科全書』は没年を同じ1625年としながら、享年を七十二歳とする。 数え年で逆算すれば、1554年になる。
本稿では、複数の公的な紹介で採られる1564年説を先に示し、別説の存在も併記した。 本文中の若年期や晩年の場面に、どちらか一方から算出した年齢を繰り返し添えることはしていない。 また、創作画像の見た目を年齢の証拠にはできない。 肖像も各場面の挿絵も、当時の容貌を伝える史料とは別のものである。
生年が一つに定まらなくても、重政の生涯について語れることはある。 末森から大坂までの軍歴、富田流の継承、前田家への奉公、慈雲寺の石廟は、それぞれ別の根拠で検討できる。 年齢の空白を残すことは、人物の輪郭をすべて曖昧にすることではない。 分かる部分と決められない部分を分けておくことで、新たな史料が見つかったときにも、どこを読み直せばよいかが明らかになる。
確度のまとめ
| 主張 | 確度 | 根拠・読み筋 |
|---|---|---|
| 前田家の家臣で、富田流の継承者として知られる | 高 | 自治体の人物・文化財解説と剣術の辞典が一致し、県史に軍歴がある |
| 末森救援・八王子城攻め・大坂両陣に加わった | 中〜高 | 県史に名が記され、末森は市の墓所解説にも見える。個別の立ち回りまでは確定しない |
| 1600年の北陸戦役で輜重隊を指揮した | 中 | 県史の具体的な記述による。8月1日の衝突と、後の帰路の戦いを区別する |
| 一万三千石余を領した | 高 | 複数の解説がこの規模を示す。百石単位以下の数値は資料差がある |
| 1564年生まれである | 中 | 金沢市・石川県立図書館の採用説。辞典の没年齢は1554年説につながる |
| 1625年に没し、慈雲寺に富田家の石廟が残る | 高 | 辞典・墓所解説と現存文化財が対応する |
| 蝋燭を掲げて陣中の騒ぎを鎮めた | 低 | 宝泉寺が紹介する伝承。今回の確認範囲では同時代の裏付けに至らない |
| 大きな知行は剣術指導だけへの報酬だった | 確認できない | 軍務を含む奉公から、剣術指導分だけを切り分ける根拠がない |
参戦合戦
富田重政の逸話
- 逸話 01
蝋燭の明かりで兵を落ち着かせたという話

宝泉寺が紹介する蝋燭の逸話に着想を得た想像図 · AI生成イメージ 金沢の宝泉寺は、大坂の陣で重政が軍中の騒ぎを鎮めたという逸話を紹介している。夜の発砲で兵が動揺した際、重政は蝋燭を持って姿を見せ、落ち着かせたというものだ。暗い陣中で指揮官の居場所が分かるという、目に浮かびやすい場面になっている。
ただし、これは同寺が伝える人物像として受け取るべき話である。今回確認した県史の大坂両陣の該当箇所だけでは、この行動の細部を裏付けられない。本人が発した言葉を再現したり、名人だから恐怖を感じなかったと心中を決めたりすることもできない。
逸話が重政に与えている役割は、敵を多く倒す剣客よりも、味方の動揺を収める年長の将に近い。史実として確かめられる軍歴と同一視はできないが、後世の人が重政にどのような落ち着きや指揮力を見たかを考える材料にはなる。
宝泉寺は重政と摩利支天信仰との縁も伝えている。寺院の由緒には、その土地で守られてきた記憶がある。一方で、紹介文の年号や人物名には照合が必要な箇所もあるため、伝承の魅力と出来事の確証は分けておきたい。
- 逸話 02
「富田」の名だけで同じ家とは決められない

家の記録を読み分ける作業を表した巻物と文箱の創作静物 · AI生成イメージ 前田家の記録には、重政以外にも富田を名乗る武士が現れる。同じ名字を見つけると親族と思いたくなるが、そこで立ち止まる必要がある。金沢市図書館のレファレンス回答は、富田高定について調べたうえで、富田景周につながる家とは別の家だとする『越登賀三州志』の記述を紹介している。
同じ回答は、重政の長男・重家にも触れている。『金沢古蹟志』によれば、重家は主計を称し、弟の宗高も同じ通称を用いたという。名字が一致しても別家の場合があり、逆に一つの家のなかでも同じ通称が複数の人物に使われる。名を拾うだけでは、出来事の主役を誤りかねない。
ここで確認できるのは、図書館が原資料に当たり、どのように回答したかという範囲である。回答が挙げた原書の全内容まで確認したことにはならない。それでも、重政の武勇談へ別人の経歴を寄せ集めないための、大切な手掛かりになる。
名人の名がよく知られているほど、富田という名字の逸話が重政へ集まりやすくなる。誰の子で、どの主君に仕え、いつの記録に現れるのか。短い人物紹介でも、この三点をそろえてから重政の話かどうかを判断したい。
- 逸話 03
石の屋根が伝える、家臣への待遇

富田家の墓所への関心を促す寺院境内の情景。実際の石廟の復元ではない · AI生成イメージ 慈雲寺の富田家石廟群は、名人の墓があるというだけの史跡ではない。金沢市の文化財解説は、石廟を造るという行為そのものに注目している。野田山の前田家墓所でも、藩祖ゆかりの限られた人に用いられる形式であり、富田家の石廟は特別な家臣待遇を考える資料になるという。
解説は、屋根の形、笏谷石の使用、貝殻を原料とする胡粉の下地と彩色にも触れる。いま見える石の色だけが、造られた当初の姿とは限らない。形と材料に加えて、表面に残る痕跡からも、墓のかつての姿が調べられている。
ここから、重政が前田家で一定の地位を得たことを考えることはできる。しかし、剣が誰より強かったからこの墓になった、と理由を一つに絞ることはできない。家の格式や家族の供養のあり方も含む遺構だからである。
剣豪の評判は言葉で受け継がれる。石廟は寸法を測り、材質を調べ、他の墓と比較できる。伝承とは違う方法で富田家の位置を探れることが、この文化財の面白さだ。現地で見るときも、由来を読むだけでなく、屋根や石材へ目を向けると発見がある。
関連人物
参考文献・出典
本文の事実確認で参照した史料、研究書、公的機関の公開情報です。
- 石川県史 第二編(1928年)末森・八王子・北陸戦役・大坂両陣・金沢城の各節石川県/国立国会図書館参照日 2026-10-03
- 日本大百科全書『富田流』渡邉一郎執筆小学館/コトバンク参照日 2026-10-03
- 卯辰山山麓地区石造物マップ(2013年3月)16 富田重政墓金沢市・金沢文化財ボランティアうめばちの会参照日 2026-10-03
- 慈雲寺冨田家石廟群 附燈籠二基金沢市参照日 2026-10-03
- 剣豪『名人越後』富田重政と摩利支天山 宝泉寺宝泉寺参照日 2026-10-03
- 富田高定・富田重家について(玉川-000590)金沢市図書館/国立国会図書館レファレンス協同データベース参照日 2026-10-03
- SHOSHO 人物情報『富田重政』石川県立図書館参照日 2026-10-03














